赤備え旗指物!

 赤備え武将 (マイナー系からメジャー系まで) の旗指物を調べてみました。先日石和の合戦 (川中島合戦絵巻) で、「旗指物は人を区別したりアピールするのに必要不可欠である」とつくづく感じました。上杉軍、見分けがつきませんでしたよ〜。

山県三郎兵衛尉昌景 (武田家)

 「味方が原の物見」には、「さて、真っ先に見えたるは、赤字に正八幡大武神と描いたる旗、赤字に白く桔梗の紋付きたる旗、銀の双股大根、一段幡連の馬印を押し立て、雑兵に至るまで皆茜色の陣羽織を一着なし鶴翼に備え、その勢三千余人、これ甲陽名代の赤備え、山県三郎兵衛昌景なり・・・」とある。また、見聞雑録では、「掛川の城より石川伯耆守、人数を出し拒まんとすれば、山県が桔梗白の旗押し立て、五町、七町ずつ間を置き、小菅、石黒、三科、広瀬、古畑・・・」とあり、戦国の世に知られた、武田軍の代表的な旗指物であった。

長坂十左衛門 (武田山県隊→井伊家)

 土屋衆とも言われるが、山県衆かと思われる。元亀二年 (1571) 三州吉田の城攻めで功を上げる。金の制札の指物で名高い豪の者。慶長七年の井伊家分限帳では、三百七十石の知行をとどめるのみで、他に確とした事跡は見あたらない。このような時代、武辺者によくある独身主義で、死後子もなく名跡を立てる縁者もいなかったようである。その金の指物には信玄公以来の「其徐如林、不動如山」という信玄の好んだ孫子の語句に「天下無双長坂十左衛門」と記してあったという。

 関ヶ原では、甲州武士の小幡孫次郎が井伊家に仕えていたと言うこともあり、弟の勘兵衛景憲も陣借りしていた。十左衛門と勘兵衛は、お互い首証人に成ったとの話もある。

小幡上総介信貞 (武田家→北条家→真田家、旗本)

 小幡家の先祖が上州小幡に住んでいたとき、奥州征伐の源義家が立ち寄った。そのとき、天から白絹が降りてきて、庭の前の竹にかかった。義家はこれを源氏の白旗とし、地名をも小幡とすることにした。小幡姓の由来はここにある。また、白絹が掛かったのが竹であり、竹の笹の葉をを軍旗にしたとの言い伝えがある。信貞の頃の軍旗は、七五三軍配である。

辻弥兵衛 (武田山県隊→旗本)

 甲陽軍艦に「さるほどに辻弥兵衛、指物はあかねの吹抜にて、山県同心の中にて、若手には辻弥兵衛、和田加介の両人なり」とその勇猛さを歌われている。また、公事訴訟の項でも記したが、頭の回転も良く、信玄公からも目をかけられていた。

 この指物とは別に、東京国立博物館に所蔵されている、辻一楽の金の制札が存在している。万世家譜によると、「金の制札の指物、信玄より弥兵衛に賜る。神君上覧遊ばされ、直ちに相用い、芦田御陣相勤め申し候」とある。制札の文字は信玄公自ら筆を執ったと言われ、「良く戦うものは死せず」という、臆病者ほど戦場では速く亡くなり、勇猛な人間ほど長生きすると言っている。

広瀬郷左衛門将房 (美濃守) (武田山県隊→井伊家)

 詳細は別項で述べていますので、指物の想像図だけ載せておきます。詳細な説明はこちらへどうぞ!。一度、広瀬の甲冑を拝見させていただいたことがあるのですが、家紋が鎧の胴に入り、一目で広瀬也と分かりそうでした。右のイラスト参照 (紺糸威二枚胴朱具足とでも言いましょうか???)→

広瀬左馬助将義 (将房の養子) (井伊家旗奉行)

 将房の養子で、井伊家親族中野助太夫の三男で、関ヶ原少し前に広瀬家の養子になった。祥寿公記によると、関ヶ原の前哨戦、岐阜城攻めの一番槍を認められて白幌を父より譲られたとある。広瀬家の養子に入るのに、左馬助は条件を付けた。「父美濃の白幌をお譲り願いたい!」と。しかし美濃は、「欲しければ、それなりの結果を出せ」と条件を付けた。このときの戦いは、井伊家の石原主善 (元北条家) が井伊家の旗を投げ込み、一番乗りを果たした。しかし、城内に一番に乗り込んだのは、左馬助であることを、戸塚左太夫が見ていたため、父将房は白幌を譲ったものと考えられる。

 左馬助は、大坂夏の陣で戦死した。旗奉行を孕石備前守泰時 (もと山県衆) とともに勤めていたが、木村隊の猛攻に井伊家の旗が倒れそうになるのを二人して支え合い、共に討ち死にした。福富覚書に「広瀬左馬助討ち死に致され、首もなく、刀脇差、幌張りの指物も御座なく候。具足にて見知り申し候ゆえ、死骸の際へ寄り、涙を流しまかりあり候」とあり、乱戦でのすごさを伺い知れる。

三科伝右衛門形幸 (なりひで、肥前守) (武田山県隊→井伊家)

 山県隊の本の采配。松山陣でも働き、長篠では負傷。後に足軽大将に昇進。後に井伊家に仕え甲州侍の代表格。武田家の山県衆としてその名を知られる。広瀬美濃とともに家康にもその名を知られ、広瀬美濃、三科肥前 (金の輪貫) の旗指物は、敵にも知れ渡っているものであると、家康からも評価され、井伊家でも特認された。武田家滅亡後、徳川家に仕え井伊直政付きになる。直政の一騎駆けをよくいさめ、甲州武士数人と換言書を提出したりしている。
 石川数正が徳川家を出奔し、徳川家の戦略が筒抜けになることを恐れた家康は、直政に広瀬や三科より山県昌景の兵法戦術を学ばせたという。三科家は井伊家では跡継ぎが無く断絶扱いになったが (長男が早く無くなった)、新規召し抱えとして岡山池田家に仕えていた次男、掘弥太郎が家を再興したが、江戸期は余り栄えていない。
三科の甲冑

柏原総左衛門 (武田原隼人衆→井伊家)

 武田家原衆で、1590 年に上州箕輪で井伊家に召し抱えられた。上下白、中黒の小幡であり、白抜きで「かしはら」と二行で仮名書きであった。本軍旗は信玄以来の特認で、井伊家の赤備えの中でも特に目立っていたそうである。1602 年には 800 石。

 長久手の合戦の折りに戦死した、森長可を討ち取ったのは総左衛門との説もあり、事実、長可の兜は柏原家に伝来した。

山下又右衛門 (武田家→徳川家→井伊家)

 先祖山下内記は、武田勝頼配下であった。武田家滅亡後は、井伊直政の取りなしによって本領安堵、徳川の旗本になる。内記病没後、又右衛門幼少のため家督が相続できず、甲斐に引きこもった。大坂夏の陣のおりに、甲斐から上京し、井伊直孝に謁して戦場の共をした。大坂の陣後は、200 石を領した。山下の甲冑

孕石源右衛門泰時の陣羽織 (武田家→井伊家旗奉行)

 後に備前守と改称する。駿河出身。永禄十三年 (1570) 駿河花沢城の合戦で一番槍、元亀二年 (1571) 三州吉田城攻めでも勇名を馳せる。泰時は梅毒を患い、歩行困難になっていたが、三方が原の合戦では家人に背負われて戦場に出て、這い出して行き一番槍を遂げた (武功雑記)。このときの証人は昌景であった。信玄が "秘蔵の家人" として山県景に付けた。武田家滅亡後、井伊直政に仕えて千石。旗奉行。彦根城築城にも功有り。

 しかし大坂の陣で討ち死。写本軍事録によると「五月七日、直孝御旗本の先陣として、天王寺の東北にて、大坂七手組の敵に向いて相戦い、軍危うかりしがば、孕石、広瀬に向かいて、"われ歳七十五、また恥をそそぐべき時なし、討死せんと思うなり。とく引き退かれよ"と言えども、広瀬 "士の恥は同じこと、孕石を捨て殺し逃げたりといわれんことおしけれ"とて、二人とも旗竿に手をかけ討死しけり」とある (広瀬左馬の欄参考)。

 右の陣羽織の「」は、臨機応変のの字である。戦場では戦慣れが必要で、その時々に合った対応をせねばならない。孕石は、戦場での駆け引きにはかなりの自信を持っていたと思われる。

 備前は井伊家における有数の軍法家であった。嫡家はその後二代続いて断絶。傍流が維新まで続く。彦根蓮華寺に墓有り。

 まだまだ続く予定です。次はユニークな旗指物バージョン!そのまえに石和のレポもやらないとな〜。
参考 高橋賢一「旗指物」、中村達夫「井伊軍志」、笠間良彦「日本合戦図典」