井伊の赤備えは本当に赤一色だったのか???
 旧武田家家臣、小幡勘兵衛は関ヶ原、大阪冬の陣のおり、井伊直孝の陣に属した。甲陽軍鑑にある井伊家についての記述はかなり信用がおけるものと思われる。井伊家の赤備えについて以下のように述べている。
 信玄の家老で弓矢の誉れが高い山県の兄、飯富兵部の備えは赤備えと聞く。その後、浅利、このごろは上野の先衆、小幡が赤備えであるときく。少しも他の色はなく、具足、指し物は言うに及ばす、鞍、鎧まで赤いという。そのようにせよと家康公は井伊兵部に仰せ付けた。ただし、山県三郎兵衛衆のなかに、
広瀬美濃、三科肥前の猛者がいた。彼ら二人は、味方にも敵にも良く知られている指し物である。よって、いままでの指し物を使うことを許すとある。広瀬は白幌はり、三科は金のわぬけであった
 家康の御意による、赤備えの中の両人の別色指し物は、たいそう光っていたのではないだろうか?また、
長坂十左衛門、柏原総左衛門のように信玄公より許可された旗指し物を井伊家の時代まで利用した人物は結構いる。

 

長坂十左衛門


 土屋衆とも言われるが、山県衆かと思われる。元亀二年 (1571) 三州吉田の城攻めで功を上げる。金の制札の指物で名高い豪の者。慶長十二年の井伊家文限帳では三百七十石の知行をとどめるのみで他に確とした事跡は見あたらない。このような時代、武辺者によくある独身主義で、死後子もなく名跡を立てる縁者もいなかったようである。その金の指物には信玄公以来の「其徐如林、不動如山」という信玄の好んだ孫子の語句に「天下無双長坂十左衛門」と記してあったという。

 大坂軍記によると、「長坂十左衛門、金の制札の指物にて下知致し候は、向こうの小堤よりこなたにて、槍合わせ候らわば・・・」と、その勇猛な戦いふりが記されている。

 旗指物についてはこちら


参考  井伊軍誌、景憲記、甲陽軍鑑