■ 福原の夢3
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「福原の夢1」で福原についての概略を団長が紹介しました。
「福原の夢2・3」では2003年12月に行われた楠・荒田町遺跡の現地説明会へ行った時に歩いた周辺の史跡を中心に平家関連史跡を紹介します。

※位置について別ウィンドウで案内図を用意しました。必要に応じてクリックしてください。

福原の中心

 『平家物語』(覚一本)巻7「福原落」では、福原の都市のありさまを次のように描写しています。

「故入道相国の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿・松陰殿・馬場殿・二階の桟敷殿・雪見の御所・萱の御所、人々の館共、五条大納言邦綱卿の承つて造進せられし里内裏、鴦の瓦・玉の石畳」

この記述は『平家物語』の諸本によっても相違があり、それぞれの御所や邸宅が実際に存在したのかはどうかは確証がありません。しかし、清盛が後半生をかけた都市「福原」に、平家一門をはじめとする多くの邸宅が軒を並べていた様子を想像することはできます。
 都市・福原の中心となったのは、いうまでもなく清盛の邸宅でした。それでは、この清盛邸はどこにあったのでしょうか。清盛の邸宅について知ることができるものとして、次の史料があります。

(1)爰近年占摂州平野之勝地、爰遁世退老之幽居(『山槐記』治承4年3月5日条)
(2)左兵衛頼□宿所給、<去禅門亭四五町>(『山槐記』治承3年6月22日条)
(3)以御車令渡湯屋給、<禅門居去一町許>(『山槐記』治承3年6月22日条)
(4)本皇居、<禅門家、雪御所北也>(『山槐記』治承4年11月22日条)

 これらの史料からわかることは、清盛の邸宅は摂津国平野付近の景色の良い所にあった。「左兵衛頼□」すなわち頼盛の邸宅と清盛邸は4〜5町(約430〜550メートル)離れていた。清盛の邸宅から1町(約109メートル)隔たった所に「湯屋」があったことなどです。
 「平野」というのは近世の八部郡奥平野村(現・兵庫区五宮町・神田町・上祇園町・下祇園町・上三条町・下三条町・馬場町・矢部町・梅元町・楠谷町・湊山町・雪御所町・菊水町1〜2丁目・湊川町1丁目・平野町)であり、清盛邸はそこにあったことになります。頼盛の邸宅は荒田八幡神社(現・兵庫区荒田町)のあたりであるとされており、荒田はちょうど平野の西南方にあたります。そしてまた平野から北西方向には「湯ノ口」といった小字名があり、「湯屋」があったのではとされています。
 これらのことから考えて、清盛の邸宅は、五宮町・上祇園町・上三条町・湊山町のいずれかにあったのではないでしょうか。

雪見御所跡、湯屋

雪見御所旧跡碑  湯屋跡あたりにある温泉
雪見御所旧跡碑  湯屋跡あたりにある温泉

 石井川と天王谷川の合流点の雪御所町の湊山小学校校庭には「雪見御所旧跡」の記念碑が建っており、一般にはここが清盛の邸宅と考えられています。しかし、先に挙げた(4)の史料からすると、本皇居は清盛の家で、それは雪御所の北にあったということになります。
 雪見御所跡の碑が建つ湊山小学校から天王谷川に沿って250メートルほど行くと、天王温泉・湊山温泉があります。この付近の小字名は「湯ノ口」という小字名が残り、清盛時代にあった湯屋もこの辺りであったのではといわれています。上の写真は、天王温泉の玄関です。玄関先には小祠がまつられ、その横には由来をしるした石碑が建っています。今度訪ねたら、きっと温泉につかろうと思います。

祇園遺跡

祇園遺跡

 平家一門の福原の中心は、『兵庫県史』によると「湊川の上流、現在の平野から荒田町へかけての高台と、氷室町から夢野あたりの山裾の緩斜面にあった」と考えられています。その福原の中心地で、12世紀後半の石組みの池跡が発掘調査によって見つかっています。
 石組みの池跡が見つかったのは祇園遺跡(兵庫区上祇園町周辺)で、道路拡張計画にともなう調査が断続して行われています。平成5年の調査では、福原京関連の遺跡として庭園の池、導水路・排水路、石垣などの園池遺構が検出されました。道路拡張計画にともなう調査だけに、調査範囲は狭く、園池は一部が調査されただけで、その全容はわかっていませんが、12世紀の後半におさまる時期にかけて、池が最初に作られた時から2度の大きな作り替えをしていることなどがわかっています。残念ながら建物跡は見つかっていませんが、この園池を持つ建物が存在したはずです。
 現在は、園池遺構を見ることはできませんが、交差点のあたりに、祇園遺跡をしめす案内版があります。

熊野神社、祇園神社

  

 上の左写真は、清盛が福原遷都にあたり王城鎮護のため紀州熊野権現を勧請して祀ったという由緒を持つ熊野神社(兵庫区熊野町)です。
 右写真は、清和天皇創建と伝える祇園神社(兵庫区上祇園町)です。急な石段がきついですが、祇園神社の境内からは、福原を一望することができます。ちょうど眼下が有馬道が通り、天王温泉・湊川温泉のあるあたりを右下にみることができます(「福原の夢1」のトップ写真が祇園神社境内からの遠望です)。

 わたしは見落としてしまったのですが、氷室町の氷室神社も、清盛が福原遷都にあたり王城鎮護のため創祀されたと伝えられています。氷室神社のある夢野町は、後白河法皇の御所となった平教盛の邸宅があったとされています。また一ノ谷の合戦では、平教経が陣をしいたのも夢野だといいます。

【参考文献】
『兵庫県史』(1975)
元木泰雄「福原遷都の周辺」『兵庫のしおり』(4号 2003)
高橋昌明「福原の平氏邸宅について」(「緊急シンポジウム平家と福原京の時代」配布資料)
「祇園遺跡現地説明会資料」(神戸市教育委員会 1994)
神戸史談会編『源平と神戸〜福原遷都から800年』(神戸新聞出版センター、1981)
『福原京とその時代』(1996 神戸市教育委員会 企画展図録)
歴史資料ネットワーク編『歴史のなかの神戸と福原』(神戸新聞総合出版センター 1999)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』
『兵庫県の地名』(平凡社)

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