■ 福原の夢1
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祇園神社境内より眺望

祇園神社境内より眺望

 「福原京」はあったのでしょうか。清盛の強行した「福原遷都」とは何だったのでしょうか。そんなことを考えながら、山の手の祇園神社の境内から、福原と呼ばれた地域を眺望すると、『平家物語』に描かれた福原の邸宅群が鮮やかによみがえってくるようです。

福原

 摂津国八部郡の地名。現在の兵庫県神戸市兵庫区の北半分から中央区の西端付近に当たる。治承4年(1180)の安徳天皇と平清盛によるいわゆる「福原遷都」によって著名であるが、福原が正式の首都となった事実はなく、従ってこれを「遷都」の語で呼ぶのは正しくない。
 平安後期のこの地には、平清盛の領する荘園(福原荘)があった。清盛は仁安3年(1168)に出家し、福原の山荘に隠居した。清盛は春秋に福原やその南方の和田(輪田、現神戸市兵庫区南部及び長田区)で千僧供養を行い、後白河法皇もしばしばここに臨幸している。福原に隣接した和田の地には大輪田泊が設けられており、瀬戸内海航路と日宋貿易の基点となっていた。清盛はこれを重視し、兵庫島(経ケ島、現神戸市兵庫区中之島付近)を築造するなど、港の整備に力を注いだ。
 治承3年、後白河法皇との対立によって、清盛は後白河法皇の院政を停止、政権を掌握した。高倉天皇の譲位、清盛の外孫である安徳天皇の即位が行われたのも、この政変の結果である。同4年6月2日、清盛主導のもと、天皇・高倉上皇・後白河法皇は福原に行幸し、清盛や平頼盛・教盛の第宅を御所とした。これがいわゆる「福原遷都」であり、当時の人々の多くがこれを遷都と受け止めていたことは事実である。しかし重要なのは、この段階での清盛には福原を都とする考えはなかったことである。新都の候補地とされたのは福原ではなく、その南方の和田であった。福原には、和田京建設の実行本部となる行宮が設けられたにすぎなかった。その和田京も、左京については南は五条大路、東は西洞院大路までしか土地が取れず、また右京は山が迫って平地がいくばくもないという状況であった。そこで、地形に合わせて大内裏を南北五町、東西四町に縮小するといった案も検討されている。
 和田京の計画範囲については、福原と和田のどちらかが中心であったと考えるか、また京の中軸線を南北方向とみるか北東ー南西方向に傾斜する(条里地割の方向)と考えるかによって意見が分かれる。福原中心・南北説は大森金五郎や堀田浩之が、福原中心・傾斜説は竹内理三が、和田中心・傾斜説は吉田東伍・喜田貞吉がそれぞれ提唱したものである。また、和田中心・南北説は浅井虎夫が唱えた説で、主旨を変えて足利健亮が復活している。但し、福原中心説は和田京と福原の行宮を混同するものであり、採用するこはできない。また中軸線傾斜説はわが国の都城の通例に著しく反している。和田京は、大輪田泊を含んだ和田の地域に、南北を中軸として計画された(足利健亮説)と考えるのが妥当であろう。
 和田京計画が幻に終わった後、新都の候補地として新たに摂津国昆陽野(小屋野、現兵庫県伊丹市)や播磨国印南野(現兵庫県加古川市)が挙げられたが、これらも実現に至らなかった。そこで第二段階として、治承4年7月に方針の転換が行われた。平安京の首都としての地位はそのままにとし、その一方で福原の行宮を常設の離宮に昇格させることになったのである。この段階での清盛政権が目標とし、また唯一実現可能であったのは、主都(第1首都)平安京と副都(第2首都)福原とが首都機能を分担する、複都制(両都制)とでもいうべき構想であったと考えるべきであろう。平安京を放棄して福原への遷都が行われたわけではないことは明記しておきたい。この方針に従って福原には新しい内裏が建設され、その周辺では道路の開通と宅地の班給が行われた。神戸市中央区楠町の神戸大学医学部附属病院構内(楠・荒田町遺跡)で行われた発掘調査では、12世紀から13世紀にかけての多数の掘立柱跡が検出され、その中には掘方の直径0.8〜1メートル、柱径30センチを測る大規模なものも存在した。瓦がほとんど出土しないことから、桧皮葺か板葺屋根を持つ建築があったのであろう。この遺跡は、福原京に関連した建造物であった可能性が指摘されている。その後、新造内裏に隣接して八省院(朝堂院)を造営することも計画されたが、施設の整備は遅々として進まなかった。そうした中、東国の争乱はますます激化し、富士川の戦いにおいて平氏軍は大敗を喫した。また比叡山延暦寺も猛烈な還幸要求運動を繰り広げた。こうした状況に抗しきれず、清盛も遂に平安京への還幸を決意することとなった。治承4年11月23日に安徳天皇は福原宮を出発、26日に京都へ帰還したのである。
 寿永2年(1183)、平宗盛を総帥とする平氏一門は、源義仲に追われて都落ちを余儀なくされた。宗盛らはその途上で福原に立ち寄り、第宅のことごとくを焼き払った。平氏は一時勢力を盛り返して福原に入るが、それもつかの間の夢に終わった。平氏滅亡後、福原荘は平家没官領として源頼朝に接収され、頼朝の妹(一条<藤原>能保の妻)を通じて一条家の領地となった。
 なお、神戸市兵庫区には福原町という地名があるが、これは明治維新後に名付けられたものであり、平安時代の福原とは直接の関係はない。現在、神戸市兵庫区荒田町の荒田八幡神社境内には安徳天皇行在所(平頼盛第)跡の碑や福原遷都八百年記念碑が、また同区雪御所町の湊山小学校内には清盛の邸宅と伝える「雪見御所跡」の碑が建てられている。

【史料】『兵庫県史』史料編古代3、『玉葉』治承4年5月30日〜11月26日条、『山塊記』治承4年5月30日〜11月25日条、『明月記』治承4年5月30日〜11月25日条、『吉記』治承4年11月2日〜16日条、『百錬抄』治承4年6月2日〜11月26日条、『編年記』治承4年6月2日条、『方丈記』、『平家物語』5、『加茂皇太神宮記』

【研究】『大日本地名辞書』、大森金五郎『福原遷都に就いて』(『史学雑誌』14ノ9、明36)、浅井虎夫『大森学士の「福原遷都に就いて」を読む』(同15ノ2、明37)、同『福原の都』(大4)、喜田貞吉『古代の兵庫及び付近の沿革』(『神戸市史』別録1所収、大11)、元木泰雄『「福原遷都」考』(『立命館文学』509、昭63)、上横手雅敬『平氏政権の諸段階』(安田元久先生退任記念『中世日本の諸相』上所収、平1)、堀田浩之『平安京と福原遷都』(『塵界』3、平3)、山田邦和『福原京に関する都城史的考察』(中山修一先生喜寿記念『長岡京古文化論叢』2所収、平4)

(『平安時代史事典』〈1994年〉より。山田邦和執筆)

《付記》

 上は、山田が『平安時代史事典』(1994年)に執筆した「福原」の項目原稿(一部修正)であり、山田邦和「福原京に関する都城史的考察」(中山修一先生喜寿記念『長岡京古文化論叢』2所収)で展開した論旨を略述したものである。私説の要点は次の通りである。

(1)治承4年6月に新都の候補地とされたのは和田であり、その段階での福原は「遷都実行本部としての行宮」にすぎない。
(2)和田京計画はすぐに挫折し、それにともなって同7月段階で福原は「事実上の複都制における副都(第2首都)」に昇格した。
(3)しかし、福原に首都機能の全てを移転させることは不可能であり、その意味で第1首都である平安京の地位は不動であった。
(4)したがって、平安京廃都を前提とした「福原遷都」という概念は誤りである。

 以上の私説は『平家物語』や『方丈記』の叙述に惑わされてきた「福原遷都」論に対して、一石を投じたものであったように思う。その後、現在までの福原京研究は、祇園遺跡、楠・荒田町遺跡の発掘調査や平氏政権に関する文献史学的研究により、大幅な進展をみた。しかし、ここで示した私の提言(もはや十年近く前の論説であるため未熟なものではあるが)の主要な部分は、未だにその意義を失っていないのではなかろうか。楠・荒田町遺跡の発掘調査によって福原京が改めて脚光を浴びた今、もう一度改めて福原京の都城史的意義を考え直してみたいと思っている。

(山田邦和)

福原の夢2 福原の夢3 福原の夢4 福原復元図


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