■ 福原の夢2
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「福原の夢1」で福原についての概略を団長が紹介しました。
「福原の夢2・3」では2003年12月に行われた楠・荒田町遺跡の現地説明会へ行った時に歩いた周辺の史跡を中心に平家関連史跡を紹介します。

※位置について別ウィンドウで案内図を用意しました。必要に応じてクリックしてください。

楠・荒田町遺跡、荒田八幡神社

楠・荒田町遺跡で検出された二重堀(現地説明会風景 )
楠・荒田町遺跡で検出された二重堀(現地説明会風景 )

 2003年12月、神戸大学医学部附属病院構内(神戸市中央区・兵庫区)の発掘調査で平家の福原に関係するとおもわれる二重堀の遺構が検出され、大きな話題になりました。現地説明会では、確認されている二重堀は東西約39メートルにわたり、北側の堀は幅約2.7メートル、深さ約1.7メートル、断面の形がV字状の薬研堀(やげんぼり)と呼ばれる形になっており、南側の堀は幅約1.8メートル、深さ約1.6メートル、断面の形がU字状の箱壕(はこぼり)になっていると発表されました。また夏の調査では、この二重堀の北側で、大量の京都系土師器皿を投棄した土坑と、それを切り込むようにして建てられた1間×2間(2.7×3.6m)の建物が検出されました。建物の柱穴は大きく、かつ深く、底には丁寧に加工された礎盤石が入れられていました。平面規模に比べて柱穴の深さが深いことから、この建物は高床建築であり、中世武家居館に付属する「櫓(やぐら)」ではないかと推定されています。この「櫓」は、出土遺物から12世紀後半から13世紀のはじめころと推測されます。堀の年代もそのころと特定できるようです。つまり、平清盛の福原の時期とちょうど重なります。発掘地点の西側には荒田八幡神社があり、そこは安徳天皇の行宮になった平頼盛邸の伝承地です。この、櫓を持ち、二重堀を巡らせた邸宅は、頼盛邸そのものか、もしくはそれに隣接した平家の武家邸宅であったかもしれません。
 2004年1月10日、この発見を契機として、遺跡の保存を訴える緊急シンポジウム「平家と福原京の時代〜楠・荒田町遺跡の評価をめぐって〜」(主催:歴史資料ネットワーク)が神戸大学で開催されました。シンポジウムでは、楠・荒田町遺跡、祇園遺跡の報告、歴史学と国文学から福原についての講演と討論がありました。
 その報告で、楠・荒田町遺跡の二重堀について、興味深い議論がおこなわれました。この二重堀の機能を、防御という部分で考えるのか、または邸宅の区画という点を重視するのか、という議論です。楠・荒田町遺跡の調査を担当された兵庫県教育委員会の岡田章一氏は、発掘調査の時点では防御的機能を持っていたとの考えていましたが、城郭史の村田修三氏から「防御的機能を想定するには規模が小さく、むしろ区画溝と考えた方が妥当である」というご教示を得られたといいます。また中世考古学の鋤柄俊夫氏からは、三重県雲出島貫(くもづしまぬき)遺跡から検出された同様の溝との比較から、北側の溝は館を取り囲む溝で、南側の溝はその敷地を取り囲むか、あるいは福原京の都市計画によったものであると思うとの発言がありました。一方、中世史の野口実氏は、雲出島貫遺跡の例が伊勢平氏の居館であること、清盛が法性寺一橋に二重の堀をめぐらした城郭を築いた(『平家物語』12)ことなどから、二重堀は伊勢平氏独自の構築形態である可能性を指摘されました。
 堀の問題の他に、福原の都市構造についての議論がありました。祇園遺跡を発掘調査された兵庫県教育委員会の須藤弘氏が、清盛の邸宅の位置を記す史料をあげ復元を試みられましたが、会場からそれに対する反論も出、議論は白熱して行きました。堀についても、都市構造についても、まだまだ分からないことが多く、幻の福原京の発掘調査の進展の様子は、これからも目が離せません。

 

荒田八幡神社境内 石碑2基   荒田八幡神社境内 石碑2基
荒田八幡神社   荒田八幡神社境内 石碑2基

 荒田八幡神社は、安徳天皇の行宮となった平頼盛邸と伝承されています。神社は周辺より少し高台になっています。境内には「史跡安徳天皇行在所址」(側面には「平頼盛山荘址」)、「福原遷都八百年記念之碑」の石碑が建っています。
 このあたりが平頼盛邸と伝承されるのは、『平家物語』の「新院御逗留ありて、福原のところどころ歴覧ありけり。池の中納言頼盛卿の山庄あら田まで御覧ぜられる」、『高倉院厳島御幸記』の「福原の中御覧ぜんとて、御輿にて、ここかしこ御幸あり。所のさま造りたる所々、こまうどの拝しけるもことはりとぞ見ゆる。あしたといふ頼盛の家にて、笠懸・流鏑馬などつかうまつらせて御覧ぜさす」(「あした」は「あらた」の誤写であるとされています)という記事によっています。荒田は清盛の邸宅があったとされる平野の西南にあたり、現在の兵庫区荒田町です。安徳天皇の行在所といっても、安徳天皇が頼盛邸に滞在したのは、福原に来た最初の1日だけで、翌日には清盛邸に入った高倉上皇と入れ替わっています。

【参考文献】
『兵庫県史』(兵庫県 1975)
「楠・荒田町遺跡発掘調査現地説明会資料」(兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所 )
「緊急シンポジウム平家と福原京の時代」配布資料
神戸史談会編『源平と神戸〜福原遷都から800年』(神戸新聞出版センター、1981)

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