野上豐一郎「能樂概説(序論)」三

 以上述べたところは、主として能樂をその本源的の形に於いて考察したものであるが、すべての藝術は時代と共に進展を示す如く、能樂とても多少の進展を示さないではすまなかつた。進展の最も顯著な痕跡は、提示成分の増大によつて示されてゐる。別の方面から見れば、ワキの成長といふことによつてそれは迹づけられる。

 能樂の本源的の形に於いては、ワキは單なる見物人の代表者の如きものであつたことをわれわれは見た。その場合、演伎はシテ一人の演伎であつて、ワキはその演伎を誘ひ出すために旅行中の神官とか僧侶とかの姿で登場し、シテの演伎が主要部分に入ると同時に、舞臺の片隅に靜坐して、われわれ見物人と同じやうにそれを見物するにすぎなかつた。けれども、そういつた原始的の演伎形態はいつまでも見物人の興味をつなぎ留め得るものでないことを、能樂の作者たちは氣づいた。それで改變の第一着手として、ワキを見物人の代表者の資格から一躍して眞實の役者の資格にまで護り立てた。即ち、演伎の傍觀者であつた者を演伎その物の中へ入り込ませて、シテと同時に對立して重要な行動をされることに變更した。これは能樂發展史上の劃期的革新であつて、ギリシア古典劇に於いてアイスキュロスが第二役者を發明したのにも劣らぬ重大な意味を持つてゐる。アイスキュロスが出るまでギリシアの舞臺には役者は一人きりしか立つてゐなかつた。能樂では初めからシテの外にワキがあり、シテにもワキにもツレが附隨することがあつたし、ほかにも狂言役者までも加はつてゐたけれども、それは形の上だけでの人數で、實質的に眞實の役者といひ得るものはシテのみであつたから、第一役者としてのシテに第二役者としてのワキが對立することになつた事情は、アイスキュロスの舞臺を思はせるのである。

 ワキをそんな風に進出させるためには、まづ、ワキの扮する人物をシテの扮する人物の同時代人しなればならなかつた。單に見物人の代表者としてのワキならば、見物人の同時代人であり、職業は神官であつても僧侶であつても市民であつても、用するに無人格者であり、シテの扮する人物をば遠い過去の人物として見るのであるから、シテの扮する人物は亡身として現はれるか、或ひは不死の神靈として現はれるかするより外になかつた。けれども今やワキがシテと同時代の人物に扮することになると、どちらも此の世にゐきてゐた現在の形で現はれるのであるから、それだけ提示的意向が濃厚になり、隨つて夢幻的もしくは超自然的雰圍氣が薄らぐと共に、現實的印象が強まつて來ることは否めない。それが最も顯著に現前するのは四番目物である。

 四番目物(よんばんめもの)といふのは、能樂の作品を五種類に分けて、正式の五番演能の番組を作る時、四番目に置かれる曲目の謂で、初番は脇能物(わきのうもの)(神物)、二番目は修羅物(しゆらもの)、三番目は鬘物(かづらもの)(女物)、五番目は切能物(きりのうもの)(鬼物)と竝べて、それ以外の雜種の物をば、簡單に言ひ表はす呼稱がないので、俗に四番目物と言ひ慣はしてゐる。四番目物の中には、細別すると、狂亂物・遊樂遊狂物・執念物・怨靈物・人情物・現在物等がある。その中で今最も問題となるのは現在物である。

 現在物(げんざいもの)とは史上の人物を此の世に現在生きてゐる形で舞臺の上に立たせる物で、條件の第一として、主人公は男性であり、作意の提示意向が濃厚となるだけ、それだけ寫實的緋ょヴんもたぶんに必要と認められて來るから、シテは直面(ひためん)(假面を用ひないこと)である。これが條件の第二である。次に、第三の條件として、ワキはきまつてシテの扮する人物の同時代人扮し、何かの利害關係に於いて主人公と對立する行動を示す。また、他の種類の於いては主人公もしくば女主人公は一先づ本體を隱して登場し、中入りで扮裝を變へて、二度目の登場の時に本體を現はすといふ行き方をするものが多いけれども、現在物に於いては、初めから本他いを現はしてゐるから中入の必要はなく、隨つて場面は一場きりで、謂はば一幕物として皆構成されてある。これが條件の第四である。最後に、第五の條件としては、シテは舞踊としては男舞(おとこまひ)を舞ひ、舞踊をしない場合には切組(きりくみ)(格鬪)の場面を見せるのがきまりである。例へば、『安宅(あたか)』『七騎落(しちきおち)』などは男舞物で、『正尊(しやうぞん)』『錦戸(にしきど)などは』切組物である。

 此處で斷つて置くべきことがある。現在物といふのは能樂の種別に關する一つの術語であつて、過去の人物を現在生きてゐる形で現はす物すべてに通用する名稱ではない。過去の人物を現在生きてゐる形で現はす物すべてが現在物だとすれば、『俊寛』も『草紙洗小町』も『大原御幸』も『卒都婆小町』も皆現在物だといふことになるわけだが、現在物といふ術語は決してさういつた無制限な意味で使ふべきではなく、必ず上記の諸條件を具備してゐなければならぬのである。

 ワキの成長といふことについて考察を進めると、現在物に於いては、ワキ はシテと同格の重みを持つむまでに成長しては來たが、演伎の主要なもの(男舞物がその代表)はシテが舞ふのであるから、同格の重みといふのは構成上の外觀のことであつて、實質的の重みはまだシテの方が多分に持つてゐた。のみならず、現在物の構成はいちじるしく劇的になつたけれども、まだ能樂本來の形態を變化させるまでには進展してゐなかつた。即ち、合唱部は依然として聲曲の主要部を擔任して、謂はゆる開聞の要所を掌り、シテは依然として舞踊(男舞)によつて謂はゆる開眼の要所を獨占してゐた。(その點、切組物はシテが舞踊を見せなくなつただけでも男舞物より一層劇的になつたといふことができるけれども、その切組としても結局はシテを本位として見せるやうに仕組まれてゐるのであつた。)

 現在物に於いては、ワキの進出についてはそれ以上の工作はできなかつたので、能作者たちは、四番目物の他の部類及び切能物などに於いてなほさまざまの工作わ試みて、ワキを活躍させようと企てた。ワキを活躍させることは、同時にそれだけシテの活躍を抑止することを意味するから、豫期の吟唱の度數と分量をシテ以上に増加することも一つの方法だと考へられた。また、ワキの外にワキヅレにも相當重要な役割を與へることも他の方法だと考へられた。また、狂言役者をアシラヒアヒとして働かせることもまた他の方法だと考へられた。また、同じことを子方(子供役者)にされるのも一つの方法だと考へられた。それにシテは前場と後場とで性格を變へることがしばしばあるけれども、その場合、ワキは前後を通じて同一性格で舞臺の上に續けて殘留してゐることが多いので、時としてはワキが行動の支柱となり易い傾向もあつた。

 しかし、そういつた工作を幾ら費やしても、結局は、舞臺的に重大な意義わねつ行動(殊に舞踊)をシテから奪つてしまふまでは、ワキの完全な優勢は望めなかつた。シテに舞踊をさせないだけでなく、シテの代りにワキが主要な行動わするのである。さうならねばワキが十分に優勢を示すとはいへないのである。四番目物の『接待(せつたい)』(『攝待』)・切能物の『張良(ちやうりやう)』などはその例である。

 『接待』では、屋島で戰死した佐藤嗣信の母なる老尼がシテで、嗣信の遺子鶴若(子方)と共に、山伏接待の高札を打つて、判官の一行十二人が山伏の姿に身をやつし奧州へ下るのを泊め、息子が戰死の有樣を知りたいと待ち構へてゐる。ワキは辨慶である。辨慶が先達となつて判官(シテヅレ)とその一行の者(シテヅレ・立衆)を導いて泊り合せ、忍びの旅のことだから、初めは身分を隱してゐたが、遂に老尼と鶴若に見破られて、主從の對面の後、屋島に於ける嗣信・忠信の功名の物語をし、後を慕ふ幼兒をだまして次の宿へと落ちて行く。シテの側に立つて見ると、戰死した息子に對する恩愛の悲しみと、その息子が主君の身代りに立つた忠勤の名譽に安んじようとする心の葛藤が提示の要點であり、幼兒のいたいけなさが情緒的伴奏をする。しかし、舞臺的に見ると、シテは始終殆んど行動することなく、花帽子で姥の面を半ば隱し、厚板の着流で、舞臺中央に坐つたきりで、ただ最後に立ち上がつて、唐織壺折に稚兒袴を穿いた子方の肩に片手を置いて、いとも淋しい群像を作りながら、ワキ・シテヅレ全部が橋掛から幕の彼方へ消え行くのを見送るのが唯一の行動といつてもよいくらゐである。名ざしの場面とても、聲のする方へわづかに面を向けるだけで別に行動といふほどのものはない。之に反して、ワキは初めから終りまで獨り舞臺ともいつてよいほどに事件の進行の中心となつて、或ひは接待を受くべきか否かについての判斷者となり、或ひは名ざしの發案者となり、或ひは主從對面の操作者となり、或ひはカタリの當事者となり、或ひは幼兒をすかす首謀者となり、外觀的にはさながら主役でもあるかの如く活躍する。殊に聲曲的に全篇の主眼ともいふべきクセと殆んど同等の重みを持つ長丁場のカタリはワキ自身の敍述であり、それに續くクセは(型の如く合唱部によつて吟唱されるけれども)シテの立場からの敍述ではなく、内面的にはワキの側に屬するシテヅレなる判官の立場からの敍述であり、シテは飽くまで受動的地位に置かれてある。

 また『張良』では、至言は一層單純で、行動は却つて更に急激である。漢の高祖の臣下張良が仙士黄石公の試煉を受け、人物考査に合格して、治國平天下の方便として兵法の奧義を授けられることを脚色したもので、場面は二場に分れ、前場と後場の間に四日の經過があるきりで、シテ(黄石公)・ワキ(張良)の性格は共通である。場面を二場に分けてあるのは、張良の攷究(こうきゆう)的熱情と忍耐を示すのに必要だからである。前場では、張良の材幹がすでに黄石に認められ、一度は夢中で試煉を受けたが、それを現實にまた受けるため、夢中に約束された日の明け方下丕(かひ)の土橋へ行くと、時刻が遲れたといつて追ひ返され、(シテもワキも中入をして、後場となり)再び五日目の未明に下丕の橋畔へ行くと石公は馬上で現れ、履いてゐた沓を急流に落す。夢中の試煉の繰り返しである。張良は身を躍らして急流と爭ひながら沓を追つたが、突然現はれた大蛇(シテヅレ)に妨げられて取ることができない。張良の勇氣の試煉である。張良は、大蛇の威嚇に畏れず、劍を拔いて立ち向ひ、大蛇の拾ひ上げた沓を奪つて、それを石公の足に納める。その場で張良は兵法の祕傳を承け、他日高祖を助けて天下を平げるべき素地を作つた。大蛇は觀音の化身だつたが、張良の守護神になると約束し、石公は山上して黄石と化した。シテは初めは普通の尉面を掛け、小格子の着流に水衣を被るが、後では白垂・唐帽子に惡尉(あくじょう)の面を掛け、狩衣・半切の姿で威容を正して現はれるけれども、行動といつては何もなく、ただ沓を川に落すこと(それとても後見が舞臺の上に投げ出すのである)と、卷物をワキに渡すことだけで、あとは立つてゐるか床儿に掛けてゐるきりである。之に反してワキは、殊に後場では、赤地金緞鉢卷に唐冠を戴き、厚板モギドウに半切を穿き、腰に劍を佩いた盛裝で、急流に押し流されながら沓を追つたり、早笛で駈け込んでくるツレの大蛇と格鬪したり、大蛇から沓を奪つて石公に履かせたり、目まぐるしいほどの活躍を見せる。動作の分量からいへばまさにワキが主役であつて、ハタラキを舞ふツレも、試煉を與へるシテも、ワキを中心としてやつと登場理由を保つてゐるかの如くにさへ思はれる。さうして此の曲には敍述成分のクセもなく、それだけ、全體を通じて提示成分が目に見えて顯著になつてゐる。

 けれども『張良』にしても『接待』にしても、シテは上述の如く一見無能に見えるにも拘らず、實質的な内面の重みは何といつてもまだワキより多く保留してゐて、ワキは外觀に行動の多い割には内面的な重要性をば持つてゐず、やはり、シテはシテであり、ワキはワキにすぎないといふ結論が抽き出される。

 それが『羅生門(らしやうもん)』(切能物)などになると、全く状態が一本し、ワキは完全に主役の資格をシテか奪ひ取る。ワキは渡邊の綱で、頼光(ワキヅレ)の周圍に不地割りの保昌(ワキヅレ)以下數名の勇士と共に參會して、春雨の夜のつれづれに酒宴を催してゐる時、九條の羅生門に鬼が出るといふ噂から綱と保昌の間に論爭が起り、論爭の結果、綱は深更にただ一騎で羅生門へ行くと、その樣すさまじき巨大な鬼(シテ)が綱の兜を引つ攫んだので、綱はその腕を斬り落とし、鬼は虚空へ消え失せてしまふ。さういつた童話めいた筋で、場面は酒宴の場と後の格鬪の場と二つに分れてゐて、シテは後の場面に登場するだけで、それもハタラキをば舞ふが、初めから終りまで無言のままで、その點『張良』のツレ(大蛇)と同格の役割に過ぎないから全體がワキの能になつてゐる。ワキは酒宴の場では、合唱部のクセの吟唱に合せて舞つたり、保昌を向ふに廻して論爭したり、後の場面では、一聲の囃子で、黒頭に鍬形を附け、法被・半切の武裝で登場して鬼と格鬪したり、つまり、シテを押しのけて、シテのすべきことをすべて自分でするのである。歌詞も頗る提示意向の漲つたもので、クセの如きも(甚だ短いものではあるが)敍述成分は少しも混入しないで全體の提示嗜好を助けてゐる。作品としての品質はとにかくとして、ワキを主役にした一個の提示演伎の見本として見れば、能樂構想の進展の上で見遁すことのできないものである。

 作者は、『羅生門』は觀世小次郎信光、『張良』も小次郎信光、『接待』(『攝待』)は宮増とふことになつてゐる。小次郎信光は音阿彌元重の七男で、息子の彌次郎長俊と共にワキを重用する作品を數多く殘したので顯著であるが、その作品の中には、上記の外に、小次郎光信には『安宅(あたか)』『船辨慶(ふなべんけい)』『大蛇(をろち)』『玉井(たまのい)』『九世戸(くせのと)』等があり、彌次郎長俊には『正尊(しようぞん)』『輪藏(りんざう)』等があり、これ等はいづれもワキを活躍させるものか、でなくとも、ワキを現在物的にシテと同時大の人物に扮するやうに仕立てたものである。

 『接待』の作者宮増の經歴はよくわからないが、大和猿樂の系統に屬する宮増座の大夫で、小次郎光信・彌次郎長俊などよりは一耳朶いも二時代も先輩であつたらしく、その作品の中には『小袖曾我(こそでそが)』『元服曾我(げんぷくそが)』『調伏曾我(ちようぶくそが)』『放下僧(ほうかぞう)』『鞍馬天狗(くらまてんぐ)』『錦戸(にしきど)』『烏帽子折(えぼしおり)』『大江山(おおえやま)』等があり、皆提示成分の勝つたもので、ワキを活躍させたものが多い。中にはワキを缺くものもあるけれども、ワキの登場するものではワキは皆シテの同時代人で、重要な役割をするのが特長であり。思ふに、能樂は世阿彌以來ひどく幽玄一主義に囚はれて、そのために優雅典雅な藝風は成熟したけれども、舞臺的興味からいへば、ややもすれば單調に流れ、變化に富む行動に於いて缺ける傾があつてかもしれない。その缺陷を充して大いに時代の要求に適合したのが宮増であつたとすれば、宮増は逸早く小次郎・彌次郎の道を拓いたと見ることができる。

 宮増は脇方としてもすぐれてゐた(その時代の大夫でもワキを勤めることはあり得たし、殊に宮増の座は振はない座であつたらしいから、他座のワキを勤めたことも多かつたのかも知れない)が、小次郎信光も脇方の經歴を持ち、息子の彌次郎長俊は專門の脇方となつた人である。舞臺人として脇方の經驗を持つた者がワキ強調の作品を作つたことは不自然ではなく、その上に能樂進展の意向が働いてゐたとすれば、その點からまづ着目してかかつたであらうことも不自然でなく考へられる。

 けれども、ワキを活躍させることが從來のシテ本位の能樂に新生面を開くことになるだらうといふことは、宮増を俟つまでもなく、小次郎・彌次郎を俟つまでもなく、誰しも昨能に指を染めるほどの者で思ひつかなかつた筈はない。シテ本位主義を重視した世阿彌の作品の中にもさういつた傾向は見られるし、十郎元雅と共に世阿彌の衣鉢を襲いで、更により多くの寂びを出さうと努めた禪竹氏信の作品野中にさへも同じ傾向は見られる。

 例へば、世阿彌の作とされている『壇風(だんぷう)』(『檀風』)について見ると、日野中納言資朝の子息が帥(そつ)の阿闍梨(あじやり)に附き添はれて父の配所なる佐渡の島に渡り、父の斬刑を見て亢奮し、島司の家人本間の三郷を父の仇敵と五人し、阿闍梨に助けられて本望を遂げ、遁走を企てたが逆ふうに妨げられて船に乘れなかつたのを、阿闍梨の法力で熊野權現に助けられ、命を全うすることができた、といふ筋で、行動の主體はワキの阿闍梨と子方の少年である。シテは前場では日野の資朝(流派によつてはシテヅレ)で、後場では熊野權現であるが、資朝は斬られるために登場するだけで(シテヅレの役を振られても妥當でなくはないくらゐで)、そとてもワキと對立するやうな關係に立つてゐるのではなく、ワキと對立するのはむしろ本間の三郎であるが、本間の三郎はワキヅレの役である。後場の熊野權現に至つては、最後に事件の結末を飾るために姿を見せるだけで、ハタラキを舞ふのでもなければ、他の著しい行動をするのでもない。後場に於いては、むしろ逆風を口實に船わ返すことを拒む棹差の方がワキと對抗する役であるが、それも今一人のワキヅレによつて勤められる。結局、此の曲はワキとワキヅレによつて主要な役を占められてゐるやうなもので、それだけに頗る提示的で、敍述成分が少なく、クセさへもない。

 唾に禪竹作の『谷行(たにこう)』に至つては、提示成分は更に行く亙り、合唱部の吟唱は極めて少なく、クセはあるけれども短く、且つ事件を進行させるためだけの詞章で、その他の部分ととても殆んど一行として敍述的囘顧的詞章はない。ワキは今熊野の阿闍梨で、彼は先達となつて山伏の一行を連れて峰入をすることになり、愛する少年の家に袂別に行き、却つて少年に慕はれて同伴したが、途中で少年が寒冒か何かで倒れたので、峰入の掟として谷行(病者を谷底に投げ捨てる行式)を行はねばならぬことになり、師弟の情愛と修驗道の大法の間に挾まつて苦惱する。その主題的心理状態をばワキが示すのだから、ワキが主役である。ワキヅレの山伏數名のうちの一人(小先達)と今一人のツレは、内心先達の阿闍梨にも少年にも同情は寄せてゐるけれども、大法のため先達の心の弱さに反抗する。だから、抗爭はこの曲でもワキとワキヅレの間に生じて、シテは與らない。シテは前場では少年の母に扮し、後場では山伏一行の祈誓を容れて少年を蘇生させることに助力する伎樂鬼神に扮するが、その行動はシテヅレとしても、よいくらゐに單純なものである。

 以上二曲は、世阿彌・禪竹といへども、この程度の提示本位の物を書かうとすれば書けるといふことを示したものではないかと思はれるほどに劇的行動を主としたものである。しかし、全般的に見て、ワキを主要役者とする傾向は宮増以降、小次郎信光・彌次郎長俊ありたまでで、惜しいかにそれ以降は革新的情熱を以つて新作に力を注ぐ有能者が現はれなかつた爲に、創作的精神は消耗してしまつた。尤も、もし創作的精神が燃えつづけて、宮増・小次郎父子の如き行き方で推し進んだとしたら、今頃はどうな状態になつてゐたであらうか。或ひは歌舞伎發生以前にもつと形態の異なつた他の演劇が作り出されてゐたかも知れない。その代り、能樂その物は今日の如き形で保存されなかつたかも知れない。いづれにしても、能樂は創作精神が消えると共に、すでにそれを古典視する傾向が生じてゐたので、努力は專ら保存のために費やされ、技術の鍛錬と琢磨のみが積まれ、技術的にはますます巧緻を極め、のみならず江戸時代に入つてからは愈々儀禮的に修飾され、その結果、今日見るが如き技術としては精巧無比のものにまで仕立て上げられたのである。

 われわれは、一方に於いては、藝術進展の機運にまかせて能樂を自由に變化させて見たかつたとも思ふと同時に、また一方に於いては、(いかなる藝術形態といへども時代に順應して變化しない筈はないから能樂といへども多大の變化を經驗して今日に到つてゐることきはいふまでもないけれども、それにしてもとにかく)六百年前の状態を實感し得るかの如き形態をこれまで保存し得たことを喜ばしく思はないではゐられない。例へば、ワキの進出の問題にしても、宮増や小次郎父子の革新運動には敬意を表するけれども、彼等の作品に現はれてゐる程度のワキ進出を推し進めて行つただけでは、徒らに世阿彌の完成した幽玄主義を破壞するのみで、それに代る幾ばくの優秀なものを附加し得たであらうか、疑はざるを得ない。考へ方によつては、能樂は室町・東山時代に於いてすでに達せられるだけの高所に達してゐたので、それ以上の努力はすべて本來の美を毀損する結果にならなかつたとも限らない。さういつた推定にもし十分の確率があるとすれば、われわれは過去に於いて早く能樂進展の中絶したことをあまり問題にしないで、能樂の卓越した本質的美點を考察した方が賢明であるかも知れない。何となれば、その考察から民族的藝術表現の特色とするものを抽出することに依つて、今後の新藝術發展に役立て得るかも知れないから。

『能樂全書』第一卷一五頁〜

最終更新日: 2004年10月10日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com