第1章 ラウラ

 紀元四百十三年のことである。アレクサンドリアから三百哩ばかりも遡ったところで、吹き寄せる砂に覆われた低い山並みの崖縁に、ピラモンという若い修道士が腰を下ろしていた。彼の背後には茫漠とした死の砂漠が果てもなく広がり、一片の雲もない蒼穹のもと、地平線の辺りにはぎらぎらと日が照り返している。彼の足元では砂が黄色い流れとなって岩棚から岩棚へ、亀裂から亀裂へと少しずつこぼれ落ち、かと思えば、気まぐれな夏風の前に黄色い砂煙となってさっと吹き出し、彼の背後で渦巻いた。狭い峡谷の反対側には崖が立ち塞がり、崖の表面にはあちこちに洞窟状の墓穴が、古い大きな採石場があった。そこにオベリスクや半ば切り出された石柱が、何百年も前にそれを放り出した人足たちのように立っている。そのまわりにすべり落ちた砂が積り、天辺はまるで湿り気のない雪が凍りついたかのようだ。どこもかしこもしんとして荒れ果て、死滅した土地の滅びた人々の墓だった。そんなところに座ってピラモンはあれこれ沈思黙考していたが、生命と若さと健康と美に溢れ、さながら砂漠の若きアポロンであった。ぼろぼろの羊皮をなめし革の腰紐で身に巻きつけているだけ。子供のころから刈ったことのない長く黒い巻き毛が波打ち、陽の光に輝いている。頬とあごの豊かな陰りは男子の健康な活力の横溢を顕し、堅い手や日に焼けた逞しい手足は労役と苦難を物語っている。輝く瞳と濃い眉は大胆さや夢想、情熱や思弁を表していたが、こんな場所ではそんなものが活躍する余地は無い。輝くばかりに若々しく人間らしい彼が、墓の間に一人きりで何をしているのだろう。

 おそらく彼もそう考えたらしい。まるで寄り集まってきた夢想を遮るかのように額を手で払い、ため息をついて立ちあがると、崖に沿ってさまよい歩いては突堤や割れ目に来るごとに下を覗き込み、修道院のために焚き木を探した。彼はその修道院からやって来たのだ。

 探している焚き木の大半はからからに乾いた砂漠性の潅木だけで、なかにはうち捨てられた採石場や廃墟の廃材もちらほら混じっていたが、パンボ僧院長の治めるスケティスのラウラ周辺では廃材はますます乏しくなるばかりで、日々に必要な量を集めもしないうちに早くもピラモンは、かつてないほど我が家から遠く迷い出てしまっていた。

 峡谷の角を曲がると突然、目新しい光景に行き当たった……砂岩の崖に神殿が彫られていたのである。正面は平坦な壇状になっていて、倒壊した梁や朽ち果てた道具類が散乱し、日に漂白されたされこうべがそこここの砂に埋もれていた。おそらくは誰か、千度におよぶ昔の戦の一つに巻き込まれて労役の最中に惨殺された職工のものだろう。ピラモンの心の父である僧院長は——ピラモンの一番古い記憶はラウラとその老人の庵であったから、実のところ僧院長以外に父を知らなかったのだが——古代の偶像崇拝の遺構には立ち入ることはおろか、近寄ることさえ禁じていた。けれども、段丘の幅広い道が台地の上からその壇状地へと下っていたし、そこには焚き木がたっぷりあって、素通りするには誘惑が強すぎた。……ピラモンは降りて行くことにした。何本か枝を集めてから退き返して自分が発見したこのお宝のことを僧院長に知らせ、ここをまた訪ねて良いものかどうか助言を求めようと思ったのである。

 そうして彼は下って行ったが像を見上げる勇気はほとんど無かった。深紅と青にけばけばしく塗られた罪深くも魅惑的なその像は、雨の無い空気のせいで痛められもせず、この侘しい荒地でなおも燃え立っていたのだが。けれども彼は若く、若者は好奇心が強い。そして悪魔は、少なくとも五世紀においては、若者の頭にかかりきりだった。さてもピラモンは悪魔の存在を完全に信じており、昼も夜も悪魔から逃れようと敬虔に祈っていたから、彼は十字を切って本当に真心から叫んだ。「おお主よ、我が目をお逸らしください。虚しい栄えを見つめないように!」……だがそれでも彼は見た。

 いったい誰が見上げずにいられよう。四つの巨大な王像は永遠に泰然自若として大きな手を膝に置き、堂々たる頭上に山を支えているかのように不動でいかめしく座っている。ピラモンは畏敬の念や自分の弱さ、ほとんど恐怖さえ感じた。身をかがめて足元の木を拾う勇気は無く、彫像は偉大なけわしい目で彼をじっと見ていた。

 彫像の膝や玉座の周囲には神秘的な文字が刻まれ、記号が記号に連なり、線が線に連なっていた。エジプトの太古の智恵——神人モーゼはそこに古きを学んだのだ——どうしてそれをピラモンも知るべきではないというのか。自分はほんの少ししか知らない大いなる世界、現在、過去、未来のどのような恐るべき秘密がここには隠されていたのだろうか。ここに座っている王たちはすべてを知っていたのだ。王たちのくっきりとした唇が、彼に語ろうと開きかけたように見えた。……王たちが一度でも語ってくれたら!……だが彼らはいかめしい冷笑を浮かべ、その智恵と力の高みから穏やかに侮蔑しながら……彼ら過去の王族のおこぼれの残りかすを拾い上げている哀れな若者を見下しているようだ。……ピラモンはもうそれ以上は王たちを見ていられなかった。

 それでピラモンは王像を見逸らして神殿の堂内を、ひんやりとした緑陰の煌く深淵を覗き込んだ。前へ、内部へとすすむにつれて、柱に柱が連なり通路に通路が続いて、陰はこのうえなく暗い闇へと深まっている。薄闇を通してぼんやりと、壁という壁、柱という柱に豪奢な唐草模様が、絵巻の長い列があるのが見えた。凱旋と苦役。異国の風変わりな衣装をまとった捕虜たちが列をなし、奇妙な動物たちを引き連れ、見知らぬ国からの貢物を携えている。頭には花冠を戴き、手に手に香り立つ蓮の花を持って宴に侍る貴婦人の列。奴隷たちは酒と香水を運び、子供たちは女たちの膝に座り、傍らには夫たち。透けるような長衣を纏い、黄金の飾り帯を締めた踊り子たちが、黄褐色の腕を会衆の間に大胆に投げかける。……これはいったいどういうことだろう。どうしてこんなことがあったのだ。大いなる世界はどうして、何百年も何千年も、飲み、味わい、娶ったり嫁いだりしながら、それより良いものを知らずにいたのだろう……いや、どうしてより良いものを知り得ただろうか。彼らの先祖たちは彼らが生まれる何世代も前に光を失ってしまっていた……そしてキリストは彼らが死んでから何世代も後になるまで現われなかったのである……どうして彼らが知り得よう。……それでも彼らは地獄にいる……一人残らず。ふさふさとした髪に花冠を乗せ、宝石の首飾りをつけ、蓮の花を手にして、沙の衣装をまとい、すなんりとした腕を露にした、ここに座っている貴婦人が一人残らず。たぶん彼女は生きていたときには愛らしく微笑んで浮かれ暮らし、子供や友達もいて、自分の身に何が起こることになるのか——起こると決まっているのか、きっと一度も考えたことはなかったのだが……彼女は地獄にいて、いつまでもいつまでも永遠に、この足の下で焼かれている。ピラモンは石だらけの床をじっと見つめた。見通せたなら、信仰の目が床を見通すことができたなら……揺らめく炎の中で彼女が……永遠の苦痛、一時でも耐え忍ぶと思えば身の震えるような苦痛の中で、真っ赤に焼き焦がされて身をよじって悶え苦しんでいるのが見えたはずだ。棕櫚葺きの小屋が火事になって手に火傷をしたことがあったが……それがどんなだったかを彼は思い出した。……その何百倍もの苦痛を彼女は耐え続けているのだ……永遠に。舌を冷やす一滴の水を求めて彼女が空しく叫ぶのが聞こえたはずだ。彼はこれまで人間の絶叫を聞いたことは一度しか無かった……ナイル川の対岸で水浴びをしていた少年が鰐に引きずり込まれて……広大な河を超えてきた声は遠く弱々しかったが、何日も耳について耐え難かった……炎の穹窿を貫いて永遠にこだまするあらゆる声のことを考える! そんな考えに耐え得えられるのか。そんなことがあり得るのか。アダムの堕落のせいで何万人もの人々が永遠に焼かれる……そんなことをする神が正しいというのか……。

 悪魔の誘惑だった。未だに悪霊どもが留まっている古代の社の不浄な境内に立ち入った。異教徒たちの忌まわしい行いに貪るように目を向け、悪魔のつけ入る隙を作ってしまったのだ。彼は家に逃げ帰って、洗いざらいすべて神父に告白しようとした。神父はふさわしい罰を与え、彼のために祈り、そして許してくれるだろう。だが神父にすべてを話せるものだろうか。あえて一切の真実を——学識の秘儀を学び知りたい、凄まじい活気に溢れた人の世を見たいという飽くなき渇望を話せるというのか。この渇望は何か月にも渡ってますます身の内で大きくなっていき、今やこんな恐ろしいかたちになったのである。もう砂漠に留まっていることなどできなかった。その世界に生きた人の魂はすべて地獄に送られたというが、修道士たちが言うほど悪い世界なのだろうか。いや悪しき世界であるはずだ。そうでなければどうしてそんな報いがあり得よう。だがこんな考えは、信じるには恐ろしすぎる。いや、行かなければ、そして見なければ。

 子供の言葉のように不明瞭で混乱した、けれど恐ろしいこんな考えで頭をいっぱいにしてさまよいながら、教育の無いこの若者はやっと、下に彼の家がある崖のふちに辿りついた。

 人里離れたラウラ。簡素な石造りの僧房のならぶ小道はいつも、南に立つ岩角の陰になっていたが、床しい棗椰子の木立ちに囲まれ充分楽しげだった。崖には分岐した洞窟があってこれが礼拝堂の用もなせば、貯蔵庫でもあり療養所にもなる。谷間の向こうの陽のあたる斜面には僧会共有の菜園があり、青々とした粟やきび、とうもろこしや豆の間を、崖下から出た小川が、極めてつつましく管理され、節水して誘導されて、曲がりくねって流れていた。この小さな区画にはいつも緑が広がっていたが、これは友愛の精神に基づく自発的な労働によって苦労の末に、すべてを呑み込む砂の蚕食から救われたものだ。修道士各々の二畳ばかりの石の寝小屋は別としてラウラでは何でもそうだが、この庭もまた共有財産であったから、庭の世話をしたり楽しんだりするのもみな共同なのである。自分のためにも皆のためにも、誰もがナイル川の肥沃な黒い泥を入れた椰子葉細工の籠を持ち、いちめん銀色のナイル川河にぽっかり口を開けた谷間を苦労して登った。皆のために各人が岩棚を掃いて砂を除け、わずかな人工土壌に種まきをして、そこから得た収穫は全員で等分した。服や本、礼拝堂の家具など教育や礼拝や日々の暮らしに必要なものを買うために、皆が何日も何日も何週間も何週間も座りづめになって、気高い天上的な考えで心を満しながら皆のささやかな椰子林で採った葉で籠を編み、年老いた修道士が、対岸にあるもっと栄えた行きつけの修道院でその籠を物品と交換した。ピラモンは週ごとに老人を漕ぎ渡し、老人を待っている間にパピルス製の軽い小舟に座って皆の食事のために魚を釣った。簡素で幸福で静謐な生活、それがラウラの暮らしだった。いっさいは宗規と典範に則って配分され、これは(そう間違ってもいなかったのだが)聖書に基づいて考案されたものだと考えられていたので、聖書の規律に劣らず神聖だった。誰もが食べ物、着物、この世での住み家、友や相談相手を持ち、全能なる神の絶えざる気遣いを信じて生きていた。そして目の前には昼も夜も、どんな詩人の夢想も及ばぬ不朽の名誉が煌めいていた。これ以上のものがあの日々に有り得ただろうか。彼らは、それと比べればパリは敬虔でありゴモラは純潔であるような街から——地獄のごとく腐りきった、暴君と奴隷、偽善者と淫婦の滅び行く世界から——遁れて、妨げられることなく務めと審判、死と永遠、天国と地獄についてじっくり考え、共同の教義を、共同の利益を、共同の希望を、共同の義務を、喜びと悲しみを見い出そうとしたのである。実際彼らの大半が、神に据えられた場所を捨てて、人を捨ててテーバイド地方の荒野へ遁れて来たのだった。これら大勢の老修道士たちがどんな場所、どんな時代を捨ててきたのかは、この物語が語り尽されるまでに見ることになろう。

「遅かったな、息子よ」と僧院長は、ピラモンが近づいても相変わらず、せっせと椰子の籠を編み続けながら言った。
「焚き木が足りなくて。遠くまで行かなければならなかったんです」
「修道士たるもの、問われぬうちに答えてはいかん。わけなど訊いておらんぞ。で、その薪はどこで見つけたね」
「神殿の前です。谷間をずっと登ったところの」
「神殿だと。そこで何を見た」
 答えは無かった。パンボは黒い目で鋭くピラモンを見上げた。

「入ったな。そして神殿の忌まわしいあれこれを欲したな」
「いや、僕——僕は入っていません。でも見ました——」
「で、何を見た。女人か」
 ピラモンは黙った。
「決して女の顔を見てはならんと命じなんだか。女どもは悪魔の最初の成果ではないか。女はあらゆる邪悪を生む。悪魔のあらゆる罠のうちでも最も巧妙なものではないか。永遠に呪われているのではないのか。何しろ女どもの原初の母がいつわりごとをしたせいで、この世に罪が入り込んだのだから。女が最初に地獄の扉を開いた、そして今でも女どもがその扉の門番なのだ。哀れな子よ。まったく何をした」
「でも壁に描いてあっただけですよ」
「ああ」と、急に重荷が取れたかのように僧院長は言った。「しかし、どうして女人だと分かった。——信じられんことだが——嘘をついたのでなければ、おまえはエヴァの娘たちの顔を見たことがないのに」
「たぶん——たぶん」
 新たに何か思いついて、ふいに安心したかのようにピラモンは言った。
「たぶんやつらはただの悪魔なんです。思うんですけど、あれは悪魔に違いありません。だってすごく綺麗でしたから」
「ほう、どうして悪魔が綺麗だと分かる」
「先週アウフグス神父と一緒に小舟に乗っていたら、土手に……そんなに近くではないですけれど……二人の者がいたんです。髪は長くて、下半身はすっかり黒と赤と黄色の縞々で……川岸で花を摘んでいました。アウフグス神父は身を背けましたけど、でも……今まで見た中で一番綺麗な物だとしか思えなかったから……なぜ身を背けられたのかお訊きしたんです。そうしたら、あれは浄福なる聖アントニウスを誘惑した悪魔と同類のやつだと仰って。それで思い出しました。朗読されたのを聞いたことがあって。悪魔がどんなふうにして綺麗な女人の姿でアントニウスさまを誘惑したのか……それで……それで、だから……壁画の肖像はすごく似てましたから……それで思ったんです、あれはきっと……」
 この哀れな少年は、致命的な恥ずべき罪を告白しているのだと思って真っ赤になって口ごもり、とうとう立ち往生してしまった。
「で、綺麗だと思うたのか。肉の堕落め、狡猾な悪魔め。哀れな子よ、私が許すごとく主も汝をお許しくださるように。今後は菜園の塀より外に出てはならんぞ」
「塀の外はだめだなんて。無理です、できません。院長さまが僕の父でなかったら、そんなことするもんかって言うところですよ。——僕は自由な身分のはずです——院長さまは何もかも散々に仰いますけど、この世が何なのか自分で見て判断しなければ。華々しく虚しいものが欲しいわけじゃない。今ここで約束します。そうしろと仰るなら異教徒の神殿には二度と入りませんし、女人と近づいたときはいつでも土ぼこりに顔を隠します。——だけど僕は——僕は世界を見なければ。アレクサンドリアの大本山や大司教さまや大司教の僧侶方に会わなければ。あの方がたが町中にいて神にお仕えできるのなら、どうして僕はだめなんですか。あそこでなら、ここよりももっと神にお仕えできるのに……この仕事が嫌だとか——院長さまのご恩を忘れたとかではありません——決して、決してそんなことは——だけど、戦いたくて仕方ないんです。行かせてください。院長さまには何の不満もありません。そうではなくて自分に飽き足りないんです。服従が気高いのは分かっています。でも危難はさらに気高い。院長さまが世界をご覧になったのなら、なんで僕はだめなんですか。棲むには世は邪悪すぎると思ってそれで遁世されたのなら、どうして僕は自分の意志でここに、院長さまの元へ戻って来てはいけないんです? 決して院長さまから離れてはいけないってなぜ……それにキュリロスさまもキュリロスさまの僧侶方も世を遁れてはおられない……」

 息せききってピラモンは必死で心奥からこの言葉を駆り出し、それから、高潔な僧院長がすぐさま自分を打つだろうと予期して待った。僧院長が打つなら若者は甘んじて耐えただろう。この修道院ではどんな者でも、いかなる尊者であろうとそうしただろう。当然だ。長年の親交や思索や祈りを経て、修道士たちがパンボをしかるべく僧院長に——アバ——父——最も思慮深く年長者らしい心を持つ者、自分たちの長に選んだのである。そうであれば、そのときにはパンボに従うべきなのだ。そして皆が誠実で理性的な愛情を以て、いや、幾多の王や征服者たちが羨みそうな軍隊のように絶対的な服従で以てパンボに従ったのである。修道士たちは臆病な奴隷だったのか。これについてはローマ軍団兵たちの判断が当たっているだろう。武装した蛮人たち、ゴート族やヴァンダル族、ムーア人やスペイン人よりも、テーバイド地方の非武装修道士のほうが恐い、などと兵たちは言ったものだった。

 二度、老人は杖を振り上げたが、二度、それをまた下ろした。それから跪いているピラモンをそこに残してゆっくりと身を起こし、じっと地面に目を落としたままゆっくりとアウフグス神父の庵に向かった。

 ラウラの者たちは誰もがアウフグスを敬っていた。彼の並ならぬ清らかさや、幼子のような柔和さや謙遜の魅力を高める、ひとつの謎があったのである。——修道士たちは自分たちだけで歩いているときにたまに慎重に耳打ちしあうのだが——アウフグスはかつてはひとかどの人物で、たいそうな街の出——ひょっとするとあのローマの出だと囁かれていた。そして単純な修道士たちは、自分たちの中にローマを見た人間がいると思って得意になった。何にせよ、パンボ僧院長はアウフグスに敬意を表していた。アウフグスを打ったことは無かったし、窘めたこともない——たぶん窘める必要がなかったのだ。だが皆がそうだったのだから僧院長はいささか公平を欠きはしなかったか。実際のところ、テオフィロスがアレクサンドリアから使いを寄越したときには、アラリックがローマを劫掠したという知らせにラウラ中が騒然としたのだが、パンボは使者をまずはアウフグスの僧房に案内してまるまる三時間密談し、しかる後にその他の僧会員に話したではないか。またアウフグスも手ずから手紙をしたためて使者に渡したではないか。その手紙にはアウフグスしか知らない世界政策の深長な秘密が記されているという噂だったが。それで、僧院長がいつになく激したあと跪いた罪人を残して聖者たちの小路に姿を現わすと、誰もが砂岩づくりの自分の僧房の戸口からこっそりと編み細工越しに注目した。そして僧院長が賢者の住居へと歩みを進めているとみると、何か扱いの難しい妙なことが全員の安寧に降りかかったのだと考え、あの方のように助言で難局を打開できるほど賢明だったら、と誰もが妬みもせずに望んだのだった。

 一時間ほど僧院長はそこにいて低い声で熱心に話し合っていた。そしてときおり老人ふたりがむせび泣き涙にくれて祈る重苦しい物音が聞こえた。修道士たちはみな頭を垂れ、ラウラのために、主の教会のために、そして偉大な異教世界の彼方のために、お仕えする主が我らを導いてくださるようにと望みを呟いた。ピラモンはなおもじっと跪いて判決を待ったが、心は満たされていた——誰が何を言えようか。「心の苦しみは心みづから知る。其のよろこびに他人はあづからず」。跪きながらピラモンはそう考えたし、私もそう思う。極めて卑小な人物にも計り難い深みがあり、それを詩人はすっかり見通すと言い張るかもしれないが、その深みは決して分析できるものではなく、ただおぼろげに推し量り、そこから生じた行いを通じてさらにおぼろげながらもその深みを素描するしかないことは弁えている。

 やっとパンボは、出かけたときと同様静かに考え込みながらゆっくりと戻って来て、自房に腰を下ろして言った——
「そして末の子は言った『父よ、財産のうち我が受くべき分を我に与えよ』……そして『遠国にゆき、其処にて放蕩にその財産を散らせり』だ。おまえも行くがいい、我が息子よ。だがまずは私について来なさい。そしてアウフグスと話すのだ」
 ピラモンは、誰でもそうだが、アウフグスが大好きだった。僧院長が退出して二人きりになると自分の心をすっかりアウフグスに打ち明けたが、ピラモンは恐れも恥かしさも何も感じなかった。老人の穏やかな問いかけに答えてピラモンは長々と熱く語った。その老人には僧侶にありがちな物々しさや厳めしさは無く、若者を遮ったり、逆に自分の話を遮らせたりして、悪びれず、愛想よく、ほとんど楽しげでさえあった。けれども若者の訴えかけに応える口調には憂鬱の色があった——

テルトゥリアヌスオリゲネスクレメンスキュプリアヌス——こうした方々はみな俗世で活躍されました。この方々はみんな、それに御名を讃えてその方の祈祷文をお祈りさせていただいているもっと大勢の方々が、異教徒の知恵のなかで学ばれました。世にあって戦い、働き、かつ潔白でおられた。どうして僕はだめなんですか。キュリロス大司教ご自身、ニトリアの洞穴から呼び出されてアレクサンドリアの司教座に就かれたではありませんか」

 老人はゆっくりと手を上げて、跪いた若者のふさふさした髪をうしろに退けると、哀れむようなもの柔らかい目でじっと熱心に長い間若者の顔を見つめた。

「それで世界を見ようというのか、馬鹿な子だ。それで世界を見ようと」
「僕は世を悔い改めさせたいのです」
「まずはそれを知らないとな。世を悔い改めさせるのは簡単だと思ってるようだが、その世界がどんなものか話してやろうかね。私はここに座っている。哀れな名も無いこの老僧はな。もしも神が我が魂をお憐れみ下さるのなら、断食して祈りを捧げて死ぬまで座っているさ。だが私が世界をどう見たか、おまえは少しも知らない。少しも知らずにいるか、あるいは喜んでここに留まって最期を迎えるかだろう。私はアルセニウスだったのだ……ああ、空しい老いぼれだ、私は。そんな名前、おまえは聞いたこともないだろうが、かつては王妃たちがその名を囁いては青くなったものだ。空の空、すべて空なり! だが今も顔を顰めれば世界の半分が震えおののくかの人が、私におののいたのだよ。私はアルカディウスの侍講だった」
「えっ、ビザンチン帝国皇帝の」
「そうだ、我が子よ、そうなのだ。そこでおまえが見ることになる世界を見たのだよ。何を見たかって。おまえが見ることになるものをさ。自分の君主を支配する宦官僭主どもだの、親殺しや売春婦の足に接吻する司教ども、一語のために聖徒を八つ裂きにする聖徒どもだのを。罪びとたちが囃し立てて彼らを異常な争いに赴かせたのだがね。嘘つきが嘘をついて感謝される。偽善者がその偽善を誇る。一握りの権勢家が悪意や気まぐれや虚栄のために大勢の庶民を売り飛ばしたり虐殺したり。貧民から略奪した者は今度はもっとたちの悪い強欲者に略奪された。改善しようという試みはみんなさらにえげつない醜聞の元になったし、どんな慈悲も新たな残虐を産むだけ。迫害者を黙らせてたところで今度はほかの者がそやつを虐待できるようにしただけだ。調伏された悪魔はみんなそれよりさらに邪悪な七つの悪魔を連れて戻ってきた。虚言や利己、悪意と煩悩、混乱は七倍にも膨れ上がった。魔王サタンはいたるところにサタンを放り出した。——王座にあって好き放題にしている皇帝から、自分を抑圧する足かせを呪う奴隷に至るまでね」
「『サタンもしサタンを逐ひ出さば、さらばその国いかで立つべき』では」
「来るべき世ではね。だがこの世では悪魔の王国が現われて制圧し、どんどん悪くなって果て終末に至るだろう。預言者たちの語った最期の日々。いまだかつて地上に無かった災厄の始まりだ。——『地にては国々の民なやみ、狼狽へ、人々おそれ、かつ世界に来らんとする事を思ひて膽(きも)を失はん』。私はずっとそれを見て来たのだ。成りゆきどおりに年毎にぐんぐん近づいてくるのを見たのだよ、そう、隊商を吹きに吹き払って何もかも薙ぎ倒す砂漠に渦巻く砂嵐のように——北方の蛮族の黒い洪水が。私は予言した。そうならないように祈りもした。けれどもいにしえのカッサンドラの予言と同じ。予言にも祈りにも耳を貸す者は無かった。私の弟子たる皇帝は予言を鼻であしらったよ。若者の欲望や廷臣たちの奸策は神の警告よりも強力だったのだ。それで私は希望を棄てた。あの輝ける街のために祈るのをやめた。あの街に審判が下されているのは分かっていたからね。私は霊においてあの街を見た。聖ヨハネが黙示録の中であの街を見ておられたように、あの街と、街の罪と、そして破滅を。それで私は夜陰に乗じて密かに逃げた。この荒れ地に我が身をうずめ、この世の終りを持つことにしたのだ。昼も夜も、主が選別を果たされ主の国にはせ参じられるようにと祈った。毎朝毎朝私はおののきながら、それでも期待もしながら天にまします御子の御しるしを求めて見上げる。太陽が暗くなり、月が血塗られ、星々が天から落ち、空が巻き物のように巻きとられ、火を吹く泉が我らの足下に噴き出し、いっさいの終りが来たかと。それなのにおまえは、私が逃れてきたあの世界に行こうというのか」
「収穫のときが近いのなら主は働き手を必要としておられるはず。凄まじい時代だというのなら、その時代のなかで凄いことをするつもりです。僕を送り出してください。かの日に主の戦いの最前線に居たいのです。そこに居られるようにしてください」
「主の御声に従うべし。おまえに行ってもらおう。さあ、これはキュリロス大司教への手紙だ。彼は目をかけてくれるだろう。私へのよしみもあるが、おまえ自身のゆえでもあると私は信じているよ。おまえが行くのはおまえの自由意志だが、また同じく我々の意志でもある。僧院長も私も、主がおまえのような者をどこかへほかの所に必要としておられるのを知っていて、長い間おまえを見て来た。服従の気構えを見て、教導に向くものかどうか、おまえを試していたのだ。行きなさい。神が汝と共にいますことを。人の金銀を望まぬよう。肉も食べず酒も飲まず、おまえが生きてきたように生きなさい——主のナジルびととしてね。人の顔を畏れるなかれ。だが女の顔は見ないように。女どもが、日のもとで私が見てきたあらゆる禍いの母たちがこの世に現われたのは不幸なことだ。おいで。僧院長が門のところで私たちを待っている」

 驚きと喜びと悲しみの入り交じった涙を流し、恐れに近い気持ちになってピラモンはためらった。
「いや——来なさい。くどくどと別れの言葉を交わして同門や私たちを悲しませることもなかろう。一週間分の食糧、干し棗椰子ときびを岩屋から持ってきなさい。パピルスの舟は渡し場にある。あの舟で下って行けばいい。必要になれば主が私たちのところに舟を戻して下さるだろう。河では神の修道士のほかは誰とも口をきいてはいけないよ。五日も川下へ下って行けばアレクサンドリアの運河口に着く。街に入ってしまえば誰か僧侶が大司教のところに案内してくれるだろう。おまえが幸せでいると聖者の口伝で知らせておくれ。さあ、おいで」
 二人は黙ってゆっくり歩いて一緒に谷間を下り、大河のもの寂しい岸辺に着いた。パンボが先にそこにいて、彼が弱々しい腕で軽い小舟をゆっくりと水に浮かべると、その白髪が昇ってきた月に輝いた。ピラモンは老人たちの足下に身を寄せてぽろぽろと涙を流し、許しと恵みを乞い願った。

「許すことなど何もない。おまえの内なる呼びかけに従いなさい。それが肉の呼びかけならそれ自体が報いとなろう。それが聖霊の呼びかけであるなら、誰あろう我々が神に抗して戦うはずがあろうか。さらばだ」

 黄金に輝く夏の夕暮れのなか、若者とその小舟は急流を下り数分ばかりで小さくなった。もう一分もすると南国の夜が降り来ってすべては闇に包まれ、川面や岩肌そして二人の老人を照らす月の冷たい輝きばかりとなった。彼らは川岸に跪き、二人の子供のようにお互いの肩に頭をもたせかけて噎び泣き、自分たちの老境から失われた愛し子のために共に祈った。

最終更新日: 2001年6月9日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com