第2章 滅びゆく世界

 アレクサンドリアのムーセイオン通り。そこに建つ古アテナイ様式で飾られた家の二階に小部屋があった。この部屋の住人がここを選んだのは、静かだったからというだけではない。南側にある女部屋の回廊で働く女奴隷たちのお喋りや口論を聞かずに済むのなら我慢できると思いはしたものの、下の目抜き通りを行く人の声や車輪の騒音に晒され、通り向こうの少ししか離れていない見世物小屋から響く奇妙な咆哮や吹鳴やいななきを浴びていたからである。立地条件として魅力だったのはおそらく、塀ごしにムーセイオンの庭園を見渡せるその眺望だった。花壇や潅木、噴水、彫像、歩廊、あずまやには七百年近くに渡ってアレクサンドリアの賢者や詩人たちの知恵がこだましてきたのだ。幾多の学派が連綿とそこを逍遥し、枝を広げたすずかけや栗、いちじくや棕櫚の木の下で教え、歌った。プトレマイオス・フィラデルフォスエウクレイデステオクリトスカリマコスリュコプロンと連れ立ってそぞろ歩いたあの日々以来、ここにはギリシャの思想や詩歌のあらゆる富が薫り立っているかのようだ。

 庭園の左側にはムーセイオンの高雅な東翼が張り出していて、そこには画廊や彫像の間、食堂や講義室があった。大きな翼面に入っているのはかの有名な図書館である。フィラデルフォスの父によって設立され、カエサルの包囲で大かた破壊された後でさえ、セネカの時代にもなおも四十万巻の写本を収蔵していた。そこには世界の驚異が楼をなし、雨を知らぬ蒼天に向かって輝きを放つ白い屋根の向こうには、堂々たる建物の大棟や破風の間から広々と輝く青い海がかいま見えた。

 部屋は純ギリシャ風に整えられている。気取った擬古趣味というのではないが、抑制の効いた半階調で描かれた渋い様式のフレスコ画が、アテナイの古神話の場面でもって壁面を彩っていた。中庭の窓の網戸を貫いて射しこむ焼けつくような太陽のもとにあっても、全体としては洗練された落ち着き、清潔、静謐といった印象を与える。部屋には絨毯も暖炉も無く家具といえば寝椅子と机と肘かけ椅子だけ。いずれもこの時代よりもはるか昔、古代の壷絵に見られるような繊細で優雅な形だった。とはいえその朝その部屋に入れば誰でもきっと、家具だの全体的な印象だのムーセイオンの庭園だのその向こうに輝く地中海だのに目をやる余裕もなくこう同意したに違いない。この部屋は眼福に足る、何しろここには一つの宝が、その横では何ものも一瞥にも値しない宝があるのだから、と。というのも瀟洒な肘かけ椅子には二十五歳ばかりの女性が一人座って、机に置いた写本を読んでいたのである。どうやらこの小さな社のご本尊らしい。部屋の擬古趣味とよく合う、古風な雪白色の簡素なイオニア風の長衣をまとっている。裾は足下まで伸び、上は喉もとに達する一風変わった厳めしくも優雅な衣装で、上半分は首から腰まで上掛けふうに垂れ下がって胸部の輪郭をすっかり隠しているのに、肩先や腕はむきだしになったままだ。衣装の飾りといえば、紫色の二本の細い縞が前身頃にあって彼女がローマ市民に相応する身分だと分かるのと、足には金糸で刺繍をした靴、それから額から首筋までぐるりと締めた金の網のほかには何も無い。髪は豊かで色は黄金と見紛うばかり。波打つ具合や色合いや厚みはアテナが羨まれたであろうほどだ。昔のギリシャ美人のうちでも極めて簡素にして荘重な類の目鼻立ち、そして手と腕。同時にどの部分にもよく発達した骨格が伺えた。引き締まりつつも丸みのある円熟した輪郭とすべすべした豊艶の肌が骨格を覆っていたが、これは昔のギリシャ人たちが入浴や筋肉の鍛練を続けたうえに、日々軟膏を使い続けたおかげである。澄んだ灰色の瞳はあまりにも悲しげであるし、きつく弧を描く唇は自意識的な抑制が強すぎるようで、彼女が読んだり書き取ったりしている姿勢はどうやら古い花瓶や浮き彫りに学んだものらしいのだが、そうした衒った威厳に愛着しすぎているように思えるかも知れない。けれども密かな欠点はすべて、顔だちや体つきの線がみな持つ荘厳な優雅さと美しさに打ち消され、壁の羽目板ごとに飾られたアテナ女神の肖像の理想美そっくりだと認められるばかりだろう。

 彼女は写本から目を上げ、興奮した面持ちで外を見やってムーセイオンを見渡した。現代の姉妹や妻たちには決して見かけないような、ギリシャ風の弧を描くふっくらとした唇が開き、彼女は独りごちた。聞いてみよう。

「そう。彫像は壊れている。図書館は略奪されているし、あずまやには音もない。神託所もおし黙ったまま。けれど——半神や賢者の古い信仰が死んだなんて誰が言うの。美というものが滅びるなんて有りえない。神々は神託所をお捨てになっても、神々を焦がれ求める魂はお見捨てにならなかったわ。諸国民を導くのをお止めになっても、神々の選ばれた者たちには語り続けられた。俗衆を打ち捨てられようと、このヒュパティアのことは

* * * * * * * * * * * *

「ああ、誰もが神々から落伍していっても古い信仰を保つのよ……失望を味わいながらも信じること……希望がなくても希望を持つこと……俗衆にとっては死滅した暗い神話、でもそこに息づく果てしなく深い輝きを見つめて俗衆に優る者であることを示すのよ……腐ってゆく時代の新しい野蛮な俗信に抵抗して最後まで、祖先の信仰のために、いにしえの神々、いにしえの半神たちのために、天地の秘密を測ったいにしえの賢者たちのために戦って——たぶん勝つのよ——少なくとも報いられる……天上の半神の位に迎え容れられ——不死なる神々にまで、語り得ぬその力にまで、高く先へと昇るのよ。幾多の歳月と永劫を通じて、ついに故郷を見出し、名づけ得ぬ絶対的一者の光輝へと消え去るまで……」

 彼女の顔全体が強烈な誉れにぱっと輝き、それからまた急に恐れと嫌悪に似た身震いへと沈んでいった。庭園の向こうの壁の下から腰の曲がったよぼよぼのユダヤの老婆が彼女を眺めているのが見えたのである。老婆は、ものすごい晴れ着をまとい、このうえなく豪華なとてつもない格好にめかし込んでいた。

「何だってあの老いぼれ妖婆は私をつけまわすの。どこでもあれを見かける——少なくとも先月はそうだった——それがまたここに。何者なのか都督に調べてもらって、あの邪眼に魅入られる前に追い払おう。あ、行くわ。神々よ感謝します。ああ馬鹿だわ、馬鹿な私。哲学者のくせに。ポルピュリオスの権威に逆らって邪眼や魔術を信じるなんて。でも、お父さまが書斎を行ったり来たりしていらっしゃるし」

 そう口にしていると隣室から老人が入ってきた。彼もギリシャ人だったが、もっとありふれた、たぶんもっと低い類の人で、陰気で癇症だが、細身で品は良い。思索に疲れた痩せた体つきや頬は、職業のしるしにまとった旧弊な哲学者風の外衣とよく調和していた。いらいらと部屋の中を行ったり来たりしていたが、鋭く輝く眼と落ち着きの無い身ぶりからは心中の激しい思考が伺えた。……「分かったぞ……いや、また逃した——自己矛盾だ。なんとあわれな人間だ、私は。ピュタゴラスを信じるなら記号は三の累乗の級数展開であるはずだ。だがあの忌まわしい二項因子が入り込むだろうし。おまえは総和を解いたのではなかったね、ヒュパティア」
「お座りなさいな、お父さま。召し上がって。今日はまだ何も口にしていらっしゃらないのよ」
「食物なんぞ気にしておれるか。語り得ぬものを語らねばならんのだ。円積問題を解かねばならんのだとしても、この仕事はやってしまわんと。恒星天よりも高い天球層にいる者が、どうして毎度毎度地上に身を落とせる」
「はいはい」とヒュパティアはいくぶん苦々しげに言った。「不死なる神々を完璧に真似て、食べないで生きられたら。でもこんな物資の牢獄にいる間は、鎖に繋がれているしかないのよ。見識があれば品良く繋がれるのだとしても。この身体の卑しい必要物のことは、理性のための神的食物の無様な象徴だと思いましょう。隣の部屋にレンズ豆とお米を添えた果物を用意してあるわ。多すぎて嫌でなければ、パンも」
「奴隷の食物だな。いいさ、食べるよ。食べて恥じるさ。あ、お待ち、言ったかな。今朝がた数学の学派に六人新弟子が来たんだ。発展する。拡張するぞ。我々が勝つんだ!」
 彼女はため息をついた。
「ソクラテスのところに来たアルキビアデスクリティアスみたいに、俗っぽい政治的な力を修得しに来ただけじゃないってどうして分かるの。怪態なことだわ。神々の位にまで昇れたかもしれないのに、人間でいて、くだらないことやって満足する人たち! ああ、お父さま。ああいうのが一番いやよ、悲しいわ。朝は講義室で私の言葉を一句一句神託みたいに崇敬するそぶりで、午後にはペラギアの輿の周りをうろうろ、夜には——あの人たちがすることは分かっているわ——夜にはさいころ賭博にお酒、それにもっといかがわしいこと。パラスウェヌス・パンデーモスに日々負けるなんて。ペラギアのほうが私より力があるだなんて。あんなものに煩わされるわけではないわ。被造物は何も私の平静を乱せはしない、と良いと思う。でも、もしも仮に私が嫌悪に屈することがあるとしたら——あの女を嫌うでしょう——嫌うわ」

 ヒュパティアの声には、高雅に超然とした心を持つべしと思いながらも、人並の俗っぽい嫌悪感でペラギアを嫌うわけではないのかどうかはっきりしない調子があった。

 だがそのとき会話は急に途切れた。奴隷娘が慌てて入って来て、上ずった声で知らせたからである——
「閣下が、お嬢さま、都督さまが。この五分ほどの間に門口にお車が停って、いま二階に上がって来られます」
「馬鹿な子」とヒュパティアは気の無いそぶりで答えた。「どうして私を煩わさなければならないのかしら。入っていただきなさい」

 扉が開き、五、六種類のさまざまな香水の香りを先触れに、派手な優男が入ってきた。元老院議員の華やかな衣装をまとい、指と首は宝石に覆われている。
「カエサルの議員はアテナ・ポリアスの神殿に参ずるのを自らの名誉とし、女神の女司祭さまが、お仕えになられる女神に似ていずれ劣らずお美しいのを拝見して喜ばしく存じます。……内緒にしてください。でも本当に異教の信仰の話をせずにはいられなくて。あなたの目に感化されているんだと思うと、いつでも」
「真理は全能ですわ」と、ヒュパティアは立ち上がり、微笑み会釈して彼を出迎えながら言った。
「ああ、そう言われていますね——おや、ご尊父がお姿を消されている。本当にとても控えめな方だ——誠実ではおられますが——国家機密にはお向きでない。だってご存じのとおり、ご助言を仰ぎに参りましたのは、ミネルウァのごときあなたになのです。私がいない間、この不穏なアレクサンドリアのごろつきどもはどんなふるまいを?」
「俗衆は食べたり飲んだり娶ったりし続けていました。いつもどおり、と存じますが」と気怠い調子でヒュパティアは答えた。
「そして増殖していた。違いない。そう、今度暴動が起きて十や二十は磔刑にするはめになったら、いや、きっとそうするつもりですが、そうすれば帝国にとっては無駄が減るでしょうな。絞首刑にされるだけのことはあるのを下民がよく弁えて、属州人口を減らすような公的処罰の危険を避けるよう気をつけているのは、政治家にとっては大いなる慰めです。ですが、学校のほうはいかがですか」
 ヒュパティアは悲しげに首を振った。
「ああ、男の子は男の子ってやつ……私も身に覚えがありますよ。『我はより善きものを見、それを可とす。されどより悪しきものに従う』。我々に辛くあたらないでください。……私生活ではお言いつけを守るにしろ守らないにしろ、公的生活では我々はあなたに従います。我々があなたをアレクサンドリアの女王に祭り上げているのであれば、ご自分の廷臣や衛兵にいくらかは廷臣特権を許してくださらないと。さあ、ため息をつかないで。でないと私は悲しくてなりません。何にしてもあなたの最悪の敵手は荒れ地に身を投じましたよ。大瀑布の上に神々の国を求めて行ってしまったのです」
「誰のことを仰ってるの」とヒュパティアは、まったく哲学者らしからぬ急いた調子で尋ねた。
「もちろん、ペラギアですよ。ここからテーバイドまでの中ほどのところで会ったのですけど、人類中で一番可愛くてお行儀の悪かったのが、慎み深い愛情を持つ完璧なアンドロマケーに変貌していましてね」
「それで、誰にとっての? 仰って」
「とあるゴート族の巨人にとっての、です。やぁ、ああいう蛮人たちはなんという男を産むことか。一緒にひと足ひと足歩くごとに、象の足の下で潰されやしないかと冷や冷やしましたよ」
「なんと!」とヒュパティアは尋ねた。「閣下がそんな蛮族と話しておやりになったのですか」
「本当を言うと、彼は四十人ほどの屈強な同郷人と一緒にいたんですが、これが厄介で都督なんてものには当惑ものでした。ああいうゴート族とは良好な関係を維持しておくのが常に望ましいことは言うまでもありません。実際、ローマが劫掠されアテナイが雀蜂に襲われた蜜蜂の巣さながらきれいさっぱりまきあげられた後では、ものごとは由々しい様相を呈してきましたし。それに偉大なる野獣本人にとっては彼は彼なりに十分な地位があって——人食い神や何やらの血筋だと誇っていましてね——たかがローマ人都督なんぞには、実のところほとんどお話しくださいませんでした。貞節で愛情深い彼の花嫁が私のために取りなしてくれるまではね。そうは言ってもあいつは善き生というのが分かっていましたし、我々はこの新たな友好条約を高貴なる祝酒で祝ったのですが——ですがこれについてはあなたにお話ししてはいけないんですよ。それでも私は連中を追い払いました。今までに聞いた地理上のあらゆる嘘八百のうえにもっと多くの大嘘を引き合いに出して、欲を煽って無駄足になる用向きにもう一度向かわせたというわけです。かくして今やウェヌスの星は沈み、パラスの星が日の出の勢い。ですから言って下さい——私は煽動家聖人をどう扱えば」
「キュリロスですか」
「キュリロスです」
「正義を」
「ああ、公正至極な賢者さま。そんなおそろしい言葉は講義室の外では遣わないでください。理論としてはたいへん結構です。ですが貧しき地上の不完全な生業では、長たる者は手元に届くだけのことを甘んじてやるしかないんです。抽象的な正義からすれば私は、キュリロスも助祭も教区参詣者もみんな一列に並べて砂丘の外で釘づけにするべきだ。じつに単純です。ですが、不可能です。単純で素晴らしい多くの偉大な事柄と同様にね」
「人民を恐れておられるのですか」
「そうなのですよ、お嬢さま。それにあの極悪非道な煽動家は下民をすっかり味方につけているではありませんか。ここでコンスタンチノープルの暴動を再演するべきでしょうか。直視できません、本当に。そんな気力はありません。たぶん私は怠惰すぎるんだ。そうなんだ」
 ヒュパティアはため息をついた。「ああ、あの大闘争が閣下お一人にかかっていることを見てさえくだされば! あれが単なるキリスト教と異教の抗争だとはお思いにならないで」
「そうだとしたらどうして私は、ご存じのとおり私はキリスト教徒ですが、聖列に加えられた皇帝のもとで、皇帝の御尊姉は言うに及ばず——」
「承知しております」と、美しい手をいらいらと振って彼女は遮った。「キリスト教と異教徒の戦いでもなければ、哲学と野蛮との戦いでもない。単純に、優れた人間と下民との闘争なのです——富や洗練や学殖といった国を偉大にするすべてのものと、高貴なる選良のために労役に供せられる卑俗な多衆、下層にいて子供を殖やすだけの粗野な者たちとの闘争です。ローマ帝国はその奴隷に命令すべきなのか服従すべきなのか、これが閣下とキュリロスが戦い抜かなければならない問題で、この戦いは血を見るに違いありません」
「そうなっても驚かないでしょうね、ほんとに」と肩をすくめて都督は答えた。「馬に乗っているときはいつも思いますよ。いかれた修道士に脳味噌を打ち砕かれやしないかって」
「当然ですわ。よく言われるように、皇帝や執政官が漁師だの天幕職人だの墓に額づき、下劣極まる奴隷の黴臭い骨に接吻する時代ですもの。磔刑死した大工の息子を神とする者どもの間にあっては。学殖、権威、古代、出自、階級、世代を重ねて蓄積された知恵によって養育されたこうした帝国の機構が——まったくどうして一瞬でも誰だか乞食の怒りからお命を守るでしょうか。そういう乞食の信じるところでは、神の息子は閣下と同様その乞食のためにも死んだのであって、生まれの卑しい文盲の神格から見れば、その乞食は閣下に優りはしないとしても同等ではあるというのですよ」

【原注】 これらの言葉づかいや議論は、ポルピュリオスユリアヌスそのほかのキリスト教の敵対者が一般に採用しているものである。

「説得力の極みですね、我が哲学者どのは。それはことによると——おそらく——掛け値なしの真実です。この新しいものにこの種の非常な不都合があるのは実際認めます——新しいもの、とはカトリックの信仰のことですが。しかし世界は不都合だらけなのです。賢者は気に喰わないことのために自らの信条と争ったりはしません。指が痛くても我慢するだけです。どうにもできないのですから、悪い物事でもできるだけで上手く利用しなければならないのです。どうすれば平和を保てるのか、それだけ仰って下さい」
「そうして哲学を破壊させよと」
「そんなことには決してならんでしょう。ヒュパティアという方が生きてこの世に光明を投じている限りは。そして私が関わる限りは、明るい展望と——相当な厚意を約束させていただきます。今この瞬間に、四百人のうんざりするような連中の誰かに聴聞する前に、公然とこちらをお訪ねしているのがその証しです。貴族も平民も私を執政官席で責めたててやろうと待ち構えているんだ。どうか助けてください、ご助言を。私はどうすれば」
「もう申し上げましたわ」
「ええ、はい。一般的真理としては。ですが講義室の外では、私は実際的な方便のほうが好ましいのです。例えば、ですね。キュリロスがこれに書いて寄越したんです——奴に禍いあれ! 一週間ですら平穏に狩りもさせてくれんとは——ユダヤ教徒側がキリスト教徒を殲滅しようと企てているというのです。ここに重要書類があります——見てください、憐れと思って。よく分かりませんが、おそらくその陰謀はまさに逆で、キリスト教徒がユダヤ教徒を皆殺しにする気なのかも。ですが、この手紙には何か通達を出さなければ」
「私はそうは思いません、閣下」
「どうして? 考えてください。もし何か事が起これば、私に不利な信書がコンスタンチノープルに飛ばされるでしょう」
「させておおきなさい。潔白だという意識を確かにお持ちならそれがどうしたというのです」
「潔白の意識! 私は都督職を失うことになる」
「通達を出されたとしても同じくらい危険でしょう。何が起きたにせよ、ユダヤ教徒に組したとして非難されるはず」
「その非難は確かにいくらか当たっているかも。親切にも彼らが援助してくれなかったらどうやって属州の歳入を賄えたか、考えられません。あのキリスト教徒どもが病院や救貧院を建てる代わりにその金を貸しつけてくれるのであれば、連中が明日にでもユダヤ人街を焼こうと気にしませんがね。ですが今は……」
「ですが今は、絶対にこの手紙に通達を出してなりません。ご自身と帝国の名誉のために。ほかならぬこの手紙の調子が禁じているのです。アレクサンドリアの大衆のことを『王たちの王がその掟と気遣いとをお任せ下さった仔羊たち』などと語る者と折衝なさいますの。アレクサンドリアを治めるのは閣下ですか、それともこの高慢な司教なのですか」
「実のところ、お嬢さま、雌雄を決するのは諦めまして」
「ところが彼は諦めていません。キュリロスは人口の三分の二に絶対的な権威を持つ者として閣下に相対し、自分の権威の出所のほうが上だと臆面も無く仄めかしているのですよ。帰結は明らかですわ。向こうの権威の出所のほうが上なら、もちろん向こうの権威がこちらの権威を制御するのが当然のことですし、回答しておやりになったりすれば——閣下ご自身、向こうに統制されて当然だと告白することになりますし、キュリロスの途方もない要求すべての根幹を承認することになります」
「でも何か言わないことには。さもなければ私は通りで石を投げられることに。あなた方哲学者はご自身の身体を超えて上昇されるのかも知れませんがね。本当に忘れないでください、我々哀れな俗物には折れる骨があるんですよ」
「それではあの人にお話しなさいませ。ただし口頭でだけ。彼が送ってきた知らせは彼が私的に知ったことから出たものであって、司教としてのキュリロスにではなく、執政官としてのご自身に関わるのであって、正式な密告状を執政官席に提出して、彼が私人として話すのでなければその話を考えに容れることはできないと」
「それはいい! 哲学者の女王だが劣らず外交官の女王でもおられる。お言葉に従いますよ。ああ、どうしてあなたがプルケリアではないんだ。いや、駄目だ。そうなったらアレクサンドリアは闇だし、私オレステスは御手に口づける至上の幸福をなくしてしまう。この御手、パラスがあなたをお作りになったときアプロディテの工房から借用されたに違いない」
「キリスト教徒でおられるのをお忘れなく」とヒュパティアはいくらか微笑みながら答えた。

 そうして都督は立ち去った。すでに外の広間にはヒュパティアを訪ねてきた一流の弟子や訪問客が詰めかけており、都督は会釈して彼らを通り抜けて自分の馬車に戻ると、キュリロスに食らわせてやろうとしている肘鉄のことを考えてほくそ笑み、霊感に満ちた聖書中で完全に納得のいく唯一の語句でもって自分を慰めた——「一日の苦労は一日にて足れり」と。

 門口には馬車や、自分の主人に日傘を差し掛ける奴隷たちや、野次馬の小僧や市場の衆が群れひしめいていた。大都市ではどこでもそうだが、いつもどおりのアレクサンドリアである。都督をじろじろ眺めて護衛兵に頭を小突かれながらも群衆は、ヒュパティアとはどんな傑物なのだろう、アレクサンドリアの大長官が親交を結ぶにふさわしい人の住まうべき家とはいったいどんなだろうと感嘆していた。群衆の間には不機嫌な顔は多くないどころではなかったが、それというのも彼らの大半はキリスト教徒であり、アレクサンドリア人の常として、非常に煽動的で無法な政治屋であったからだが、「マケドニアの人々」はこうなるものなのだ。彼らの間にはほとんど聞こえよがしな大変多くの不平不満の声があり、都督が執政官席で哀れな者の訴えを聞いたり教会で祈願者に声をかけたりするより先に、物々しくも異教徒の女——異教徒の女魔術師と呼ぶ信心ぶった老女も何人かいたが——の家を訪ねているのを難じていた。

 都督が自分の二頭立て馬車に乗り込みかけたちょうどそのとき、彼に劣らず華やかに飾り立てた背の高い青年が都督に続いてぶらぶらと階段を降りて来て、自分の日傘を持った黒人少年に気怠げに手を振って合図した。

「ああ、ラファエル・アべン・エズラ。我がよき友よ。ちょうど会いたいと思っていたときに君をアレクサンドリアにお運び下さるとはいずれの恵み深き神格——いや、う、おほん、殉教者——なのやら。私の隣に来たまえ、執政官席への道々お喋りしようじゃないか」

 呼びかけられた男はゆっくりと前に進み出てわざとらしく深々と挨拶したが、顔に浮ぶ人を呑んだ眠たげな表情は隠しようもなく、また実際隠す気もなかったのである。彼はゆったりした調子で尋ねた——

「さて、何のご用でカエサルの代理人がかような名誉を卑賤至極の身に賜りますものやら、云々で——ご炯眼からしてあとはお分かりいただけましょう」
「びくびくしなさんな。君に借金しようというんじゃないんだ」と、そのユダヤ人が馬車に乗り込むとオレステスは笑って答えた。

「それをお聞きして嬉しいです。実際、一家族に高利貸しは一人で十分。父が黄金をなし、僕がそれを消費する。哲学者というものに要求されることは全部やっていると思いますよ」
「この白ニサイアの組馬なんか素敵じゃないかね。四頭全部のうちで灰色の蹄はたった一つだよ」
「そうですね……でも馬には、ほかのものもそうですけど、うんざりしてきましてね。始終病気になるか、逃げるか、何か他の仕方で人の心を乱す。おまけにキュレネでは命も危ういほど悩まされたんですよ、犬やら馬やら矢やらをあのニムロデ老司教シュネシオスに押し付けられましてね」
「なんと、かの名士は相変わらずお元気なのか」
「お元気? 僕が三日も神経性の熱病になったのは彼のせいみたいなものですよ。朝四時に起床。いつも、ほとんどうんざりするほど健康で生気満々。畑を耕し、猟犬を駆って矢を放ち、悪党の泥棒黒人を追って生け垣や掘り割りを馬で飛び越える。説教をし、陰謀を巡らし、金を借り、洗礼し、破門し、あのがみがみ屋のアンドロニコスを逆に怒鳴りつけ、老女は慰め、愛らしい乙女には持参金を与え、半時間哲学について殴り書きしたかと思うと、次の半時間には蹄鉄術。夜を徹して賛美歌を書き、強い酒を飲み、翌朝四時にはまた馬上。しかもそうする間に何時間も、世間の争乱からの哲学上の抽象概念について語り続けるんですよ。天よ、二本足の竜巻からお守りください! ところで僕は、我が民の素晴らしい娘が一人、閣下にお似合いの船荷と一緒に僕と同じ船でアレクサンドリアに戻りましたよ」
「私に似合いの君たちの民の娘ならここにも大勢いるよ。船荷なんてぜんぜん無くても」
「ああ、ネバトの息子ヤラベアムの時代からさえ、あの可愛いお馬鹿さんたちは腕利きですからね。でも僕が言っているのは——ご存じミリアム婆のことです。彼女は黒い連中と戦う資金をシュネシオスに貸し続けていたのですが、まさに潮時でした。やつらは何哩にも渡って属州中の家産を焼いてしまったんです。ですがあの剛胆な老婆は自分のためにちょっとした取り引きをしなければならなくて、それで蛮人たちを物ともせずすぐさまアトラス山へ出かけて、連中に囚われたご婦人方をみんな買い戻しました。それに、蛮人の娘や息子や、蛮人本人をも飾り玉と古鉄で買い取ったんです。それでリビア美人なんていう船荷と一緒に戻ったというわけです。趣味の良い都督というような人士でも最初に選びたい気にさせられるような魅力的な美女ですよ。この特権については僕に感謝してくださいましょう」
「もちろん君が好き放題にした後で、だろうね。はしっこいラファエル君」
「いいえ僕は。女はうんざりです。とうの昔にソロモンが発見したとおりだ。お話しませんでしたかね。僕はソロモンみたいに、アレクサンドリア一の選りすぐりの後宮から始めたんです。ところが女たちが諍うんで、ある日出かけ行ってユダヤ娘一人を除いて全員売り払いました——それでラビたちのほうで異論が出たんですけどね。次にはソロモンがしたように一人の女でやっていこうとしたのですが、我が「閉じたる園」「封じたる泉」は常に自分を愛してくれというのです。それで私は代言人のところに行き、彼女には十分に手当を与えました。そして今は修道士のように自由というわけ。僕もそれなりの眼識や経験は持っているかも知れませんし、これが閣下のお役に立てば幸いです」
「ありがとう、ユダヤの名士君。我々はまだ君のように高尚じゃないし、今日の午後には老エリクトを呼びにやるつもりなんだ。しかし今は、卑しき地上の政治稼業の話を聞いてくれたまえ。キュリロスが書いて寄越したんだよ。君たちユダヤ教徒がキリスト教徒を殲滅する陰謀を企んでいるって」
「まあ——当然でしょう。本当ならいいのにと心から思いますし、それに全体的に見て非常にありそうなことですし」
「不死なる——聖者にかけて、君。本気じゃないだろうね」
「滅相な、四大天使にかけても。僕には関係ありません。僕が言っているのは、この世のほかの人々と同じく我らが民も大馬鹿で、よく知りませんがたぶん、何かその気はあるというとだけです。もちろん成功はしないでしょうし、それだけお気遣いになればよいのです。ですがもし労に値うとお考えでしたら——僕はそう思わないけど—— 一週間のうちに所用でシナゴーグに行くはずですから、そのときに誰かラビに訊いておきましょう」
「怠惰の骨頂だ!——私はまさに今日この日にもキュリロスに回答しなければならないんだよ」
「我らが民について何も聞かないほうがいい理由がもう一つあります。今なら嘘をつかずに言えるんですよ、その件については何もご存じないと」
「まあ、無知はやはり哀れな政治家の砦ではあるな。そういうわけで君は急がなくてもいいからさ」
「急ぎはしないでしょう、請け合いますよ閣下」
「今から十日かそれくらい、だね」
「まさに。すっかり片がついてからです」
「ああ、どうにもできん。よくあることだが、なんて慰めだ。どうにもできないということは」
「それが哲学の根幹、かつ真髄です。閣下の実際家としての一面は哀れにして悲惨な境遇なもので、あれやこれやをなんとかしようとしては方策だの手段だの、予防だの防止だので自分の魂を苦しめる。哲学者としての一面ほうは静かにこう言うんです——どうにもできないんだと。——そうなる運命なら、そうなるでしょうし、そうであるならそうなる運命なのです。世界を作ったのは我々ではないのだから、我々には世界に対して何の責任もない。——ここにはあらゆる真の叡知の要約と本旨がありますね。ユダヤ人フィロンからユダヤならぬヒュパティアまで言われ書かれたことの典型だ。ところで、ほら、カエサレウムの階段をキュリロスが降りて来ますよ。えらく男前だな。熊みたいに不機嫌ではありますが」
「かかとの側には小熊を連れて。なんて悪党面だ、あの背の高いやつは——助祭か、祈祷読師か、まとう衣装は何にしろ」
「囁きあってますね、あいつら。天よ、彼らに楽しい考えともっと愛想のある顔をお与えくださいませ」
「アーメン!」と言ってオレステスはあざ嗤ったが、キュリロスがペテロ——長身の読師に何と答えたのか思うままに聞けたとしたら——我々はこれから聞くのだが——彼はまったく本気でアーメンを唱えたであろう。

「ヒュパティアの所から? なぜだ。都督はつい今朝がたこの町に戻ったところだぞ」
「彼の四頭立て馬車があの女の門口に止まっているのを見たんです。三十分ほど前にムーセイオン通りをこちらに下って来たときのことですが」
「そして自家用馬車がわきに二十台? 違いない」
「そういう馬車が通りを塞いでいました。ここです! さあ、あの角をご覧ください——馬車、輿、奴隷、洒落者たち——こんな群衆をあるべきところに見るのはいつの日か」

 キュリロスは答えず、ペテロは続けた——「あるべきところとは、我が父よ——セラペイオンのお宅の門口です」
「世俗、肉欲、悪魔は、己のものが分かっているのだ、ペテロ。行くべきところがある限り、我々のところに来るとは期待できん」
「ですが、行き先を始末してやったら」
「我々のところに来るかも知れん。より良い楽しみを求めてな……悪魔や何や。そうだな——世俗と肉欲とを私がきちんと捉えられたら、加えて悪魔も捕まえて、そして悪魔をどう処置したものかも分かったかも知れん。しかし、そんなことは決して無いのだ、こういう講義室が——こういうエジプト風の像の間が——続いているうちはな。魔王の劇場だ。ここでは悪魔が輝く天使に変貌してキリスト教の徳の猿真似をやり、自分たちの司祭を正統な司祭のように飾り立てているのだ。こんな講義室が存続していて、偉大な能ある仔羊たちが自分たちの暴虐や無神論の言い訳を学びに行っている限り、アレクサンドリアでは神の国は足下に踏みにじられる。講義室がある限り、この世の王子たちが、剣闘士や寄食者や高利貸しと一緒にアレクサンドリアの主人となるのだ。生命ある神の司教たちや僧侶たちではなくてな」

 今度はペテロが黙る番だった。二人はうしろに教区巡視員のささやかな一団を連れて港を見渡す広い遊歩道を不機嫌な顔で歩き、それから急に、悲惨の群れ集う水夫居住区に続く煤けた路地に消えた。さて、彼らは救済の旅に行かせておくとして、我々は上流人士のように大行列を続け、純血種の四頭の白馬の牽く彫刻して金箔を貼った馬車に乗った我らが上流の友の話をもう一度聞くことにしよう。

「素敵だ。パロスの外海を吹くきらめくそよ風。ラファエル——小麦輸送船にもよい風だね」
「船団は出てしまったのですか」
「そうだよ——なぜだい。三日前に最初の船団を送って、残りの船は今日出航するんだが」
「ええっ——あ、——そうですか。——それではヘラクリアヌスからお聞きになっていませんか」
「ヘラクリアヌス? いったい——崇むべきかな聖人方、アフリカ総督が私の小麦輸送船をどうするって」
「いや、何も。僕には関係の無いことだ。単に彼は反乱を起す気だというだけです。……ですが、お宅の門口ですよ、ここ」
「何をするって?」とオレステスは驚愕した様子で尋ねた。

「反乱を起してローマを攻撃するんですよ」
「善き神々よ——いや神のことだが。新たなる厄介事か。来てくれ、都督なんぞというこの哀れで惨めな奴隷に話してくれたまえ——小声で話せよ、後生だから——この小ずるい馬丁どもに聞かれていなければいいんだが」
「運河に投げ込むのは簡単ですよ、聞かれたにしても」と涼しい顔でそう言いながら、ラファエルは狼狽えた都督に続いて、広間や通廊を冷然と通り抜けた。

 哀れなオレステスは中庭の小部屋に着いてやっと足を止め、続いて入るようにそのユダヤ人に合図した。扉に鍵をかけて肘掛け椅子にどさりと腰を下ろすと、膝に手を置いて前かがみになり、滑稽なほどの恐れと困惑でもってラファエルの顔をじっと見た。

「あれについて全部話してくれ。今すぐにだ」
「知っている事はもうお話ししました」と静かに安楽椅子に腰を落ち着け、宝石で装飾された短剣を弄びながらラファエルは言った。「もちろん、あの機密に関わっていらっしゃると思ったんですよ。そうでなければ何もお話しするはずがありません。僕には関わりのないことですし」
 贅沢に慣れた芯の脆い人々、特にローマ人はたいていそうだが、同様にオレステスも野獣じみた気質を内に持っていて——それが外へと爆発した。

「地獄よ、復讐の女神よ。横柄な属州の奴隷め——気ままの度が過ぎたようだな。私が誰だか分かってるのか、呪わしいユダヤ人めが。本当のことを全部話せ。さもなければ皇帝の首にかけても、真っ赤に焼けた金鋏で真実を捻り出すことになるぞ」

 ラファエルの顔つきは不屈の様相を帯び、新プラトン主義者の影響による無関心の甲羅の下に古いユダヤの血が真に脈打っているのが分かった。そしてこう答える彼の微笑みは静かだったが嫌な真剣味があった。
「それでは、我が親愛なる都督閣下、この世で初めて、意に反したことをユダヤ人に強制的に言わせたりやらせたりする人になろうというわけですね」
「やってみようじゃないか」とオレステスは叫んだ。「奴隷ども! ここへ」。そして彼は大きな音で手のひらを鳴らした。
「落ち着いて下さい、閣下」とラファエル立ち上がりながら言った。「扉には鍵、窓には網戸が張り渡してあって、そしてこの短剣には毒が塗ってある。僕の身に何かあればユダヤの金貸し全員の気分を害することになって、激烈な痛みの中で三日くらいで亡くなられるでしょうよ。ミリアム婆と密会する約束をしくじって一番好ましいお仲間を失い、ご自身の財源と州の財政を憂慮すべき窮乏に陥れることにもなる。お座りになったほうがどれほど良いことか。ヒュパティアの真の弟子らしく僕は哲学的なもの言いをしますが、全部聞いてください。それに本当に知らない事を人が話すなんて期待しないことです」

 オレステスは逃げ場を求めて虚しく部屋中を見回し、それから静かにまた椅子に沈み込んだ。そして奴隷が扉を叩いたときには、拷問ではなく侍童と葡萄酒を頼むくらいにまで彼は自分の哲学を取り戻していた。

「いやぁ、君たちユダヤ人というのは」と事を笑って誤魔化そうとしてオレステスは言った。「ティトゥスが看破したのと同じ受肉せる悪魔だね」
「まったく同じですとも、親愛なる都督さま。さてこの件は——少なくともユダヤでない方には本当に重要ですよ。ヘラクリアヌスはきっと反乱を起すでしょう。シュネシオスはそういうことを僕にばらしたんです。彼はオスティアに向かって軍備を整えてしまっていて自分の小麦輸送船は止めましたし、閣下の船も止めろと書いて寄越すでしょう。永遠の都、ゴート族、元老院、皇帝、みんな餓死するようにと。彼の法外でもないちょっとした要求に従うかどうかは、もちろん閣下次第です」
「してまたまったく、彼の計画次第でもある」
「もちろんです。閣下に何がしか期待を寄せられるのは——婉曲に申しますと——お時間を費やす値打ちがある場合だけです」

 オレステスは座って、深く考えに沈み込んだ。

「もちろんだ」と、ついに彼はほとんど無意識に言った。それから、突然深入りするのが恐くなり、険しい目でユダヤ人を見上げた。

「どうしてこれが君らの非道な罠でないと分かる。こういうことを全部どうやって知ったのか言いたまえ。さもなければヘラクレスに誓って(このとき彼は自分がキリスト教徒なのをすっかり忘れていた)——ヘラクレスと十二神に誓ってやってやるからな、つまり——」
「哲学者らしくない言い回しはお止しなさい。僕の情報源はとても簡単で、かつ大変良いものです。ヘラクリアヌスはラビたちに金を借りようとカルタゴで交渉し続けていたのですよ。ラビたちは怯えたのか忠誠なのかもしくはその両方なのか、尻込みしていました。——賢い為政者ならみんな知っていることですが——僕も含めてユダヤ人を脅しても無駄だと彼も弁えていました。僕は決して金は貸さない——哲学的ではありませんから。でも彼にミリアム婆を紹介しました。彼女は悪魔とでも臆せず取り引きしますしね。この一手で彼が資金を手にしたかどうかは言えませんが、しかし我々は彼の秘密を握っているとは言えます——そして今は閣下も。さらなる情報をお求めでしたから、あの老女はファレルヌムと同じくらい陰謀を楽しんでいますし、情報をくれるでしょう」
「なるほど。やはり君は真の友というわけだ」
「もちろん僕はね。まあ、一組の薄汚い黒人に僕を挟んで引っ張らせるより、そういう方法で真実を知るほうがずっと簡単で楽しいのではありませんか。それに拷問だと、嘘しか喋らないのが僕の名誉になるわけですし。あ、ガニュメデスが葡萄酒を持って来てましたよ。ちょうど良いときに来たね。閣下の神経を鎮めて直観で満たすには……良き助言の女神にかけて、閣下。何て葡萄酒だろう、これは!」
「本物のシリア産——炎と蜜のね。次の醸造期で十四年物だ、ラファエル君。あっ、おい、出ていけヒュポコリスマ! あれが立ち聞きしていないか見てくれたまえ。まったく生意気な悪党だ。二年前に騙されて金貨二千であれを掴まされたんだ。あれはそれくらい可愛かったし——十三歳になったばかりだと言われたんだ。——以来我が人生の疫病というわけさ。もう床屋が要るようになってきた。ところで、総督は何を夢見ているんだね」
スティリコ殺しに対する報酬ですよ」
「なんと、アフリカ総督になっただけで十分じゃないのか」
「先の三年に渡る貢献で相殺されたと思いますけど」
「確かに、彼はアフリカを守った」
「そのことによってエジプトをも、です。ですから皇帝と同じく閣下も、自分に何がしかの借りがあると考えているのかも知れません」
「我が良き友よ。私にとっては借りは莫大すぎて、何かで埋め合わせようなんて考えられないほどなんだ。だけど彼はどんな報酬を望んでいるんだろうか」
紫衣を」
オレステスはびくりと動き、それから考えに沈んで行った。ラファエルは座ってしばらく彼を眺めていた。

「さて、この上なく貴き閣下。おいとましてもよろしいですか。言うべきことはみんな申し上げましたし、それにすぐに帰宅して昼餐にしないと閣下のためにミリアム婆を見つけ出す時間がほとんど取れません。日が暮れる前に我々のちょっとした用事を彼女と片付けるのが難しくなります」
「待って。彼にはどんな戦力があるんだね」
「既に四万、という話です。あのドナトゥス派の悪党どもも、もし総督が連中の棍棒を良質の鋼鉄に換えてやれるのなら、一人残らず彼と考えを等しくするのだとか」
「では、行きたまえ。……そうか。十万ならやれるかも知れん」と考えに耽りながら都督は言い、ラファエルは会釈して出て行った。「手に入らんだろうが。いや、分からん。あの男にはユリウスというものの頭があるし。さて——アッタルスの阿呆はエジプトを西帝国に併合するとか言っていたが……こんなのも悪い考えではないな。白痴の小僧と信心ぶった尼さん三人に統治されるよりは何でもましだ。お上品ぶったプルケリアのご機嫌を損なって破門されやしないかと毎日思っているんだ。……ヘラクリアヌスはローマで皇帝に……そして私は、海のこちらのご主人様……ドナトゥス派を正統派に嗾けて平和裏にお互いの喉を切らせてやるか……コンスタンチノープルへのキュリロスの密告やら間諜行為はもうたくさんだ……そんなに悪いおもてなしではないが……だがそうなったら——またまた大変な厄介になるぞ」

 こんなことを言いながらオレステスは、この日三度目の温浴に向かった。

最終更新日: 2004年8月3日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com