第3章 ゴート族

 二日というもの、若い修道士は漕いだり漂ったりしてナイル川を下り続けた。数々の町を右から左へと憧れのまなざしで次々に見送り、張り出した土手が視界が遮るまでこの別荘、あの別荘と返り見した。あの楽しげな建物や庭園は、もっと近くで見たらどんなふうだろう。それに、賑わう波止場にひしめく人々や、両岸に沿って走る本街道を大きな流れになって徒歩や車で進む何千もの人々は、いったいどんな暮らしをしているのだろう。そんなことを知りたくて仕方がなかった。富裕な地主か商人の金箔貼りの屋形舟から、三角州のどこかの市場に空壷を売りに下る壷を浮きにしたちっぽけないかだまで、小舟が通り過ぎるごとにピラモンは注意深く避けた。あちらこちらで修道士の一団が、静かな入江で網を曳いていたり、修道院から修道院へと続く水上の交通路を進んでいて、そんな舟人に出会うと彼は挨拶をした。けれども修道士たちから得られた情報は、アレクサンドリアの運河はなお数日川下へ旅した所にあるということだけだった。両側には堰や水車、棕櫚や棗椰子の木立のある高い泥の土手の単調な眺めが果てもなく見える。筋になった砂地と泥土の土手がうんざりするほど続き、どの眺めも前の眺めと似たりよったりで、水際には丸太や岩がまき散らされて線になって点在していたが、近づいて見るとそれは甲羅干しをしている鰐だったり眠っているペリカンだったりした。遮られた視界に目が疲れ、遠望を求めては広大な砂漠の広がりや、遠く離れてしまった砂丘のきざきざした輪郭に思い焦がれた。彼は子供の頃からそんな砂漠の中にいて、東の空から暁が神秘的に昇ってまた夕べには神秘的に砂漠へと融けて行くのを見てきた。その向こうにはありとあらゆる世界の驚異、象や龍、サテュロスに喰人族、——ああ、それに不死鳥さえいたのだ。疲れて憂鬱になり、心は内向して自ら心を苦しめ、そしてアルセニウスの最後の言葉が何度も何度も考えに上ってきた。「僕に呼びかけたのは肉だろうか、それとも霊だったのか」。どうやってこの問題を吟味したものか。世を見たいと思った……これは肉の呼びかけだったかも知れない。それはそうだ。しかし世を回心させたいとも思った。……これは霊的ではなかろうか。高貴な使命に服したのではないか。渇望するのは労苦とか聖者になるとか、殉教でもいい……そうなりさえすればあらゆる誘惑のゴルディアスの結び目が断ち切れて——無事に勝利して俗世から戻るという大海のごとき難事一切から、俗世に関わらないうちに——何となく救われるような気がしていた。……彼の心はよるべない荒野を前に縮み上がっていたのだ。いや、駄目だ。賽は投げられた。肉に服従するにしろ霊に服従するにしろ、下流へ、先へと進まなければ。ああ、でも。一時間でもいい、あの愛しいラウラの静けさと昔馴染みの顔を。

 やっと土手が急に曲がった。と、けばけばしく塗られた平底舟が視界に現われた。船べりには異国風の変てこな衣装を着た武装した男たちがいて、蛮語で叫びながら水中に何か大きなものを追っている。舳先には巨人のような背丈の男が立って右手で縄付き銛を振り回し、左手には二本目の綱を握っており、その先端は数碼流れを下った所で泡を吹いて転げ回る巨大な河馬の真っ赤に染まった横腹にくい込んでいた。船尾では白髪混じりの老戦士が両手で梶を取り、河馬がいきなり狂ったように向き変えるのをものともせず小舟の舳先をその怪物に向け続けていた。怪物が死にものぐるいで流れを横切って走ると、二十本ほどの櫂が水にひらめいて追跡する。満ち満ちる活気と興奮。好奇心に駆られたピラモンが平底舟にほとんど横付けせんばかりに流れ下ったのも不思議ではない。はるか彼方に彼が舟を見つけるより先に、その舟の後半分に張られた飾り天幕の下から、思い詰めたような二十四の黒い瞳が獲物と彼とを代わる代わる覗き見していた。あの蛇どもだ!——喋ったり笑ったり、きゃっきゃと可愛く小声で叫び、つややかな巻き毛や金の首飾りを揺らし、薄木綿の服をはためかせて十碼ほどの所にいる! 彼はなぜか分からないまま真っ赤になって、櫂をぎゅっと握りしめて罠から退こうとした……ところがどうしたことか、そんなきらきら輝く眼から逃れようとするその奮闘こそが、ほかの一切から彼の注意を逸らしてしまったのである。河馬はピラモンを目にすると痛みに猛り狂って無害な小舟に突進した。銛の細縄が体に絡み、すぐに彼は舟ごと顛覆した。そこへ怪物が巨大な白い牙をかっと大きく開き、流れの中でもがく彼の上でその牙を閉じた。

 幸運なことに修道士のならわしに反してピラモンは水浴者であり、水鳥のように泳いだ。彼は恐れを知らなかったし、死は子供の頃から身近だった。ラウラの他の成員にとってもそうだったが、絶えず瞑想し続けていたため、まさに新生が始まろうというこんなときでも死を恐れて竦むことはなかったのである。けれども修道士も男であり、しかも若い男である。反撃もせずにむざむざ死ぬ気はなかった。一瞬のうちに細縄から逃れ、唯一の武器である短い小刀を引き抜いた。素速く潜って突進してくる怪物をかわし、背後から刺して攻撃した。刺し傷は深くはなかったものの、ひと刺しごとに水は血に染まってゆく。蛮人たちは快哉を叫んだ。河馬は怒り狂って新たなる攻撃者に向きなおり、突進した! ああ、河馬の巨大なあごにひと咬みされて空の小舟は粉々である。だが向きを変えたのが致命的だった。平底舟がすぐ近くに迫り、河馬が横腹を攻撃に晒したとたん、巨人の逞しい腕が河馬の心臓に銛を打ち込んだ。びくり、と、一度痙攣して巨大な青い塊はひっくり返り、死んで浮き漂った。

 あわれピラモン。勝利の叫びのただなかで彼だけが沈黙していた。ピラモンは小さなパピルスの舟の残骸の周りをぐるぐると泳ぎ、悲嘆に暮れた……これでは鼠一匹浮かぶまい。諦めきれずにはるかな土手に目を向け、そちらに向かって泳ぎだそうかと少し思いかけたが、止めた……鰐のことを考えたのだ……それからまた周りを泳ぎ……今度はバシリスクの目のことを考えた。鰐からは逃れられるかも知れない。だが誰が女から逃れられよう。……それで彼は雄々しくも岸に向かって泳ぎ出した。……平底舟の舳先が迫っているのに気づいて彼が慌てて止まると、誰だか親切な蛮人が輪縄を投げてくれた。船べりに我が身を引っ張り上げて、ピラモンは気の良い水夫たちの哄笑と賞賛と驚嘆と、加えて不平に包まれた。当然のことながら水夫たちは、ピラモンがすぐに自分たちに助けを求めるものと期待していたし、彼がそれをためらう理由には思い及ばなかったのである。

 ピラモンはこの奇妙な大勢の人々を驚いて見つめた。顔色は白っぽく、頭と顔は丸い。高い頬骨、背の高いがっしりした体つき。あご髭は赤味を帯び、髪は黄色くて頭の上で妙な形に結っている。服装は半ばはエジプト風かローマ風、半ばは異国風の毛皮という珍妙なもので、数多の戦闘や強襲で汚れてしみがついていたが、昔風の宝飾品だの飾り留めだのローマ貨幣だのを首飾りのように繋げて悪趣味にけばけばしく飾り立ててあった。操舵手がやってきてしきりと河馬に驚嘆しては、重くて扱いづらいこの獣を船べりに引き上げるのを手助けしていたが、この男だけは民族衣装を本来の飾りの無い状態にしているようだった。鹿皮の紐で縛った白い亜麻布の脚絆、皮を縫い合わせた胸よろい、そして熊革の外衣。飾りといえばその獣自体の牙と爪と、灰色の毛束の房飾りだけだったが、この房飾りは人間の髪にあまりにもそっくりだった。彼らの話す言葉はピラモンにはまったく理解できなかったのだが、我々までそうである必要はあるまい。

「よく育った若いやつだな。それに勇敢だ。オウィダの息子ヴルフ」と巨人は熊革の外衣の老勇士に言った。「そんでもってご存じだぜ。こんなかまど口の中みてぇな陽気じゃ、あんたみたいにしてるよりゃ皮を着てるほうがましだってな」
「わしは御先祖様のいでたちを守っとるんだ、アマールのアマラリック。これを着てローマでぶん取ったし、これを着てアースガルズを見つけよう」

 巨人のほうは鎧かぶとと元老院風長靴でもって、ローマ武官と文官とのごちゃまぜの雑種といったいでたちに飾り立て、首には十二、三も金鎖を巻きつけて指ごとに宝石を光らせている。彼はいらいらと嘲り嗤ってはねつけた。

「アースガルズ——アースガルズ? こんな砂ん中のどぶを遡って、そんなに慌ててアースガルズに行こうってんなら、そいつに訊いたほうがいいぜ。アースガルズまでここからどれくらい遠いかをよ」
 ヴルフはおとなしくその言葉に従って若い修道士に質問を向けたが、ピラモンは首を振って答えるしかなかった。

「よう、ギリシャ語で訊いてやんな」
「ギリシャ語は奴隷の言葉だ。ギリシャ語で話しかけるんなら、わしではなく奴隷にやらせるがいい」
「おい娘っ子ども、誰かこっちに。ペラギア。おまえはこいつの言うこと分かるよな。アースガルズまでどれくらいあるのかこいつに訊きな」
「もっと丁寧に頼んでよ、あたしのがさつな勇者さん」と柔らかな声が天幕の陰から聞こえた。「美人にはお願いするもんよ。命令するんじゃなくて」
「それじゃ来てくれ、俺の橄欖の木よ、俺のかもしかよ、俺の蓮の花よ、俺の——何だったかな、おまえが俺に教えたたわごとの最後のやつは——まぁ、この砂漠の野人に訊きな。この忌々しい、きりもねえ兎穴からアースガルズまでどれくらい遠いか」

 天幕が上がり、柔らかな敷物に豪奢に身を横たえ、孔雀の羽扇をつかい、紅玉と黄水晶を煌めかせ——ピラモンがかつて見たことの無い光景が現われた。

 二十二ばかり夏を重ねた女で、ギリシャ美人のうちでも極めて官能的な体つき。その肌には甘やかな褐色を通して血管がみな菫色に透けて見える。座布団をくぼませている小づくりな両足はアプロディテの足よりも完璧、白鳥の胸より柔らかい。薄い紗の長衣を透かして腕や胸のふくらみがすっかり見え、下肢は薔薇と貝殼の刺繍をした橙色の絹の肩掛けに包まれている。黒みがかった髪は枕のうえに入念に広げられ、千もの巻き毛に黄金や宝石が巻きついていた。黒色アンチモンで陰をつけて深みを出したまぶたの洞窟の中からは、思い詰めたような眼が金剛石さながらに燃え煌めいている。生まれつきなのか癖なのか唇はいつも口づけするように突き出していた。ゆったりと気怠げに小づくりな腕を上げ、彼女は熟れた唇をゆっくりと開いた。巨躯の恋人の質問を、極めて純粋で旋律的なアッティカ方言で修道士に向かって舌足らずに語り、問いが繰り返しされた後で、少年は呪文を震い除けて尋ねることができた。

「アースガルズ? アースガルズって何ですか」

 さらなる情報を求めて美女は巨人を見やった。

「不死なる神々の都だ」と老戦士が慌てて口をはさみ、厳めしい様子でその婦人に言った。

「神の都は天にあります」とピラモンは、魅惑的に輝く探るようなまなざしから顔を背けながら通訳者に言った。

 この答えに首領は肩をすくめ、ほかは全員いっせいにどっと笑った。

「ナイルを上がるのも空に上がるのも結構なもんだぜ。俺は思うんだが、飛んで天まで行っても、このでっかいどぶを漕ぎ上って行っても同じだろうよ。ペラギア、この河がどっから流れてんのかこいつに訊け」

 ペラギアは従い……すぐさまいっそうひどい混乱に見舞われ困惑させられた。混乱の元になったのは、神話の中のおとぎの国のあり得ないような驚異の数々で、こうした驚異をピラモンは子供の頃から老修道士と散歩するときにむさぼるように聞いたものだったが、ゴート族がアレクサンドリアで仕入れてきた驚くべき伝承も、同様に信用に足るものではあったが混乱を生み出していた。かの河のせざるは何も無し。いわく、河はカウカソスに源を発した。ではカウカソスとはどこか。彼は知らなかった。それは楽園に——インドのエチオピアか——エチオピアのインドにある。して、それはどこなのか。彼は知らなかった。誰も知らなかった。川は百五十日のあいだ砂漠を旅するのだが、その砂漠には空飛ぶ蛇とサテュロスしか棲まず、熱気で獅子のたてがみが燃え上がり……

「何にしてもいい狩りだな、そんな龍に囲まれてりゃ」と一党の鎧師、トロールの息子スミッドは言った。
「結構だな。ソールミズガルズの大蛇を去勢牛の頭で捕まえたときと同じくらい良いぞ」とヴルフ。

 河は東に曲がってなおも百日のあいだアラビアとインド中を旅するのだが、そこには象のひしめく森があり、犬の頭をした女がいる。

「いいぞいいぞ、スミッド」とヴルフは満足そうに唸った。

「そこじゃ新鮮な牛肉が簡単に手に入るってか、ヴルフ大公」とスミッドは言った。「そりゃ矢じりを検分しとかにゃ」

 ——ヒュペルボレオスの山々まで行くと、そこでは永遠に夜が続き、大気は羽毛で満ちている。……すなわち、ナイル河の三分の一はそこから来ており、もう三分の一は月の山の向こうの南の大洋に発するが、そこには未だかつて誰も行ったことがない。残る三分の一は不死鳥の棲む国から来ているが、これがどこにあるのかは誰も知らない。それからそこには大瀑布があって、氾濫して——それから——それから——それから大瀑布の上には砂丘と廃墟しかなくて、有り得る限りの悪魔でいっぱいで……アースガルズについては、伝え聞いた人は誰もいない……ペラギアが通訳したり誤訳したりし続けるうちに、どの顔もどんどん浮かぬ表情になり、とうとう巨人は手で膝を打ち、ナイル河を上ってさらに遠く歩を進める前にアースガルズは衰えて神々の黄昏となるだろう、と大きく断言した。

「くそ坊主!」とヴルフは唸った。「こんな哀れな畜生がそういう事について知っているわけがあるか」
「なんでこいつが猿公のローマ人都督くらいには知ってちゃいかんのだ」とスミッドは尋ねた。
「まあっ、修道士は何でも知ってんのよ」とペラギアは言った。「お坊さんたちは何百哩も何千哩も河を遡って、悪魔や怪物のいる砂漠を横切って行くの。どんな人でも喰われちゃうか、そうでなきゃすぐに頭がいかれちゃうようなとこを」

「ああ聖い方。みんな祝福された十字の御印のおかげよ」と娘たちはみな一斉に叫び、敬虔に十字を切った。とりわけ熱狂的な二三人はピラモンの祝福を求めて前に出て跪こうかと思ったが、二の足を踏んだ。ゴート族の恋人たちは異教徒らしく愚かで、こういう点にかけては取り澄ましていたからである。

「なんでこいつが都督と同じくらい知ってちゃいかんってか。よう言うたぞ、スミッド。都督の書記は、帆を張って十日も遡ればアースガルズだなんて言って、俺たちをぺてんにかけやがったに違いねぇ」
「なんでだ」とヴルフは尋ねた。

「わけもくそもあるか。何でもかんでもローマの悪党代言人みてぇにわけを説明してたら、オージンの息子、一個のアマールだってのが何になる。俺はあの都督は嘘つきらしいって言ってんだ。この坊さんは正直者のようだし、だから俺はこいつを信じることにする。これでしまいだ」
「あたしに腹立てて睨むのはやめてよね、ヴルフ大公。絶対あたしのせいじゃないんだから。あたしはこのお坊さんの言ったことしか言えないもん」と哀れなペラギアは囁いた。

「誰がおまえに腹立ててるんだ、俺の女王よ」とそのアマールが大声を上げた。「その男を俺に引っ張り出させろ。そしたらソールの大鎚で俺は——」
「誰があんたにそんなこと言った? しょうのないお馬鹿さんね」とペラギアは言ったが、彼女は絶えず雷を恐れて暮らしていた。「誰かが誰かに腹を立てるって、あたしがあんたに腹を立てるほかないでしょ。あんたがいっつもやってるみたいに聞き間違えたり、思い違いしたり、余計なことしたりしてたら。威したとおりにやるわよ。いい子にしてなきゃヴルフ大公と駆け落ちしちゃうわよ。見えないの? 仲間はみんなあんたが演説するのを待ってるのに」

 そこでアマールは立ち上がった。

「いいか、オウィダの息子ヴルフ、それに戦士のみんな。お宝が欲しくても砂山の間では見つかるまい。女が欲しくても、そういう龍や魔物の間じゃ、こいつらより可愛いのは何も見つからんはずだ。怒るな、ヴルフ。この坊さんが言ってた犬の頭の女を娶ろうなんて思っちゃいまい。で、それで、だ。俺たちは金も女も持ってるし、気晴らしが要るんなら獣を殺るより人間を殺るほうがいい気晴らしだ。だから、一番の獲物のいる所に行ったほうがいいんだが、この道を上って行っても駄目なのは間違いない。誉れや何やは、俺はそんなのはもう充分だけどよ、あの地中海の岸辺沿いのどっかにごまんとあるんだぜ。アレクサンドリアを焼いてぶん取ろうじゃねえか。俺たちゴート族四十人であんな驢馬乗りどもは二日でみんな殺っちまって、こんな無駄足を踏ませやがった嘘つき都督を吊るしてやれるだろうぜ。口答えすんじゃねぇ、ヴルフ。やつが俺たちを騙してるのは端っから分かってたんだ俺は。だけどよ、あんたがあんまりやつの言うことをぜんぶ仰天して聞いてるもんだから、先輩がたが俺のためにお決めくださったことをやったってわけさ。戻ろうぜ。そんで、あちこちの部族に使いを送るんだ。ヒスパニアにヴァンダル族を呼びにやったり——連中はもうアタウルフにはうんざりしてる。やつに呪いあれ!——俺が請け合う。団結して軍団になってコンスタンチノープルを取ってやる。俺は皇帝、ペラギアは皇后、あんたとスミッドはここで二人皇帝になるのさ。それからこの坊さんは宦官長にしようや、な?——静かな暮らしがいいなら何でもいいぜ。だがともかく、ぬるい水の張ったこの忌々しい溝は、俺はもうこれ以上は上って行かんぞ。野郎ども、おまえらの女に訊いてみろ、俺も自分の女に訊くからよ。女ってのはみんな一人残らず予言者だからな」
「あいつらが淫売でなけりゃな」とヴルフは一人唸った。
「あたしは世界の果てまであんたについて行くわ、あたしの王さま」とペラギアはため息をついた。「だけど確かにアレクサンドリアはこれよか楽しいわね」

 ヴルフ爺はじつに猛然と跳び上がった。
「聞いてくれ、アマールのアマラリック、オージンの息子よ、それに勇者の皆。わしのご先祖はオージンの配下になると誓って、アース神族の息子たる聖なるアマールに王国をあけ渡したんだが、そんとき、あんたらのご先祖とわしのご先祖が交わした盟約は何だった? オージンが永遠に宮居して地上の一切の王国を手中にされるかの都、アースガルズに戻れるまで南へ南へと進みまくるってことじゃなかったか。わしらは盟約を守らんかったか。アマールたちに忠誠じゃなかったか。わしらがアタウルフの元を離れたのは、アマールという導き手がありながらバルトなんてやつに従おうとは思わなんだからだ。わしらはあんたの忠実な配下ではなかったか。アース神族の息子よ」
「敵だろうと友だろうと、オウィダの息子ヴルフがなおざりにするとこなんて、誰も見たことないぜ」
「そんなら、なんでそいつの友はそいつをなおざりにする。なんでそいつの友はおのれをなおざりにする。雄野牛が横になってごろごろしてたら、群はお頭のために何をしようや。狼の王が臭いを嗅げんようになったら、群はどうする。ユングリングがアースガルズの歌を忘てしもうたら、誰が勇者たちのためにかの歌を歌う」
「そうしたけりゃあんたが自分で歌えよ。ペラギアは俺のために本当に上手に歌うぜ」
一瞬のうちに小利口な美人は意図を察し、柔らかな、眠たげな歌を低く蕩々と歌った。

帆を広げ、櫓は休め、はるかに漂い下り行け
塔のよこ、町のよこ、疾う滑り行け、
いのち短かし、疾う得よ愉しめ汝が眠り
我が傍らに伏し眠り

「答えられるか、ヴルフ」と十もの叫びが上がった。
「アースガルズの歌を聞け、ゴートの戦士どもよ。王者アラリックはこいつがすごく好きじゃなかったか。カエサルの宮殿で王の前でわしはこの歌を歌い、王はキリスト教徒だったのに、南進して聖なる都を探しに行くと誓うことになったではないか。そうして王がヴァルホッルに行き、シケリアで船が難破しちまって、そんでバルト氏族のアタウルフが怠け者の犬みたいに戻って来やがって、オージンの憎むローマ人の娘を娶ってもう一度ガリアへ北進したとき、わしはメッシーナでおまえたち皆にアースガルズの歌を歌い、おまえたちはオージンの館を見つけて神の手から蜜酒の杯を受け取るまで、火の中水の中このアマールに従うと誓うことになったではないか。さあ、もう一度聞け、ゴートの戦士どもよ」
「その歌はやめろ」とアマールは両手で耳を塞いで大声をあげた。「あんたは俺たちをまた血に狂わせようってのか。しらふな感じに戻って落ち着いて、何のために俺たちに命が与えられんのか分かったってときによ」
「アースガルズの歌を聞け。アーカズルズに向かうんじゃ、ゴートの狼ども!」と片やヴルフは叫び、声々が騒々しくわき上がった。
「この七年、俺たちは戦って、行進しつづけて来んかったか」
「俺たちゃ十回以上も血をすすったじゃねえか、オージンを満足させるためによ。オージンが俺たちを求めるってんなら、神のほうからやって来て俺たちを導けってもんだ!」
「一からやりなおす前に一息つこうや」
「ヴルフ大公はその名のとおり疲れを知らんようだな。冬の狼の足をしてんのさ。俺たちもそういう足をしてちゃならんってわけは無いぜ」
「この坊さんの言ったことを聞かなかったのか——俺たちはそういう大瀑布を越えられっこねえんだ」
「坊さんには婆の戯言みてえなあの話は止めさせて、俺たちで決めようぜ」とスミッドは言った。腰を降ろしていた船の横木から跳ね上がるや片手で鉈鎌を掴み、もう一方の手でピラモンの喉を捉えた……一瞬にしてピラモンは一巻の終り……

 敵意をもって掴まれる、こんな感じはピラモンは生まれて初めてだった。そして戦士と取っ組み合ううち、ある新しい感覚が全神経を駆けめぐった。振り上げられた手首を左手で握り、右手では飾り帯びをぐいっと掴み、めったやたらに暴れているうちに、おかしなことにものすごく面白くなってきたのである。

 女たちは自分の恋人たちに向かって金切り声を上げて、戦いを止めようとしたが無駄だった。

「絶対やめん。いい勝負だ、いい戦いだ。おまえの長げえ足を引っ込めてろ、イトー。さもなきゃあいつらがおまえの上に倒れてくるぜ。いいぞ、スミッド、匕首は使うな。やつらすぐに落っこちるぞ。ヴァルキュリャ全員にかけて、あっ、やつら倒れた。スミッドが下だ」
 間違いなかった。次の瞬間ピラモンは敵の手から鉈鎌を捻り取ったはずだったが、見物人たちがすっかり驚いたことには、ピラモンは急にいましめを解くと、力強くひと捩りして自由に身震いすると、静かに自分の席に戻ったのである。敵が自分の下になっているのを感じたとき、血を求める恐ろしい渇望が突として身のうちに沸き立ち、これに対して良心が痛んだのだ。

 見物人たちは驚いてものも言えなかった。当然のことながら、敗北者の頭蓋骨を叩き割る権利をピラモンが行使するものと思ったのだ——そんなことになれば彼らは深く悼み嘆いたに違いないが、しかし名誉を重んじる男たちであったから、邪魔だてする言い訳はできず、ただ、毟り取られるように仲間を失うことに対して、勝利者が生きていて自分を「血に飢えた鷲へと彫み上げる」とか、あるいは何かほかの精巧な儀式をして、その儀式が安全弁になって彼らの悲しみを和らげ故人の平安をはかることをもって、慰めとするだけだった。

 スミッドは鉈鎌を手にして立ち上がり、そして辺りを見回した——たぶん何を期待されているのか見ようとしたのだ。スミッドは自分の武器をなかば振り上げて……席について穏やかに彼の顔を見ているピラモンを殴りかけた。……老戦士の目は土手を捉えた。土手は今やすいすいと彼らのうしろへと通り過ぎていた。流されないようくい止める努力もしないまま自分たちが本当にまた川下に向かって流されているのを見ると、老戦士は自分の鉈鎌を捨ててゆっくりと自分の場所に腰を降ろしたのだが、これには見物人たちはピラモンの行いと少しも変わらず驚いた。

「五分もいい勝負をやって、誰も殺られとらん。恥さらしだぜ」とほかの者が言った。「血を見んとおさまらねえのよ、俺たちは。そんで、そいつはあんたのがいいな修道士先生。あんたよかご立派なやつのよりはな」。そうして哀れなピラモンに襲いかかった。

 その男は水夫たちの心を語っていた。彼らの内に眠る狼が戦いによって呼び覚まされ、血を見ようとした。ケルト人やエジプト人のように取り乱したりはせず、テウト人のどこかしら滑稽な残酷さで一斉に立ち上がってピラモンを仰向けに倒すと、どんな死に方をさせたものかと考えを巡らせた。

 ピラモンは静かに服従した——人間本来の習慣がまったく驚くべき新たなものによって破られ、このうえなく奇妙な振る舞いや受難でも当然と思えるまでになった心の状態が、何か服従と関わるものであれば、だが。ラウラから突然抜け出したこと、新たな考えや行いの世界に突入したこと、新しい仲間たちに加わったこと、こうしたことによってピラモンは心の拠り所から完全に追い立てられ、そして今やありとあらゆることが起こりつつあった。偶然女と行き会っても決して見るまいとピラモンは誓っていたが、自分ではどうにもできない状況のせいで、いかがわしさの極致といった類いの内でも極めていかがわしい連中が船中にいっぱい、その真っ只中にいる——こんなまったく最低なことが起こってしまった。何が起きてもこんな最低の事態よりは何だってましだ。他のことは、彼は俗世を見るために出発したのであって——それも俗世を見る方法の一つだった。ピラモンは俗世を見ようと腹をくくり、そして自分の望みの成果をたっぷり味わおうとした。

 五分かもう少しで、何やら考えるのもおぞましい形で、彼はそれを味わうことになっただろう。だが、罪深い女であろうと身のうちには心があり、ペラギアは金切り声を上げた——
「アマラリック、アマラリック。あいつら止めさせてよ。耐えられない、あたし」
「戦士ってのはな、俺のかわいこちゃん、自由な男どもだし、何がまっとうなのか知ってるもんさ。こんな畜生の命がおまえにとって何だってんだ」

 彼が止める間もなくペラギアは座布団から跳び上がり、野獣どもの哄笑のただ中に躍りでた。
「この人を放して。後生だから放してあげて」と彼女は叫んだ。
「可愛いお嬢ちゃんよ。戦士のお楽しみを邪魔すんじゃねえ」
 一瞬のうちに彼女は肩かけを引き剥がし、ピラモンの上に投げた。彼女が立ち上がると、美しい手足の輪郭がきらきら光る薄い紗の長衣を透かしてすっかり露わになった——

「そんな肝があるんなら、肩掛けの下のこの人に触んなさいよ。——サフラン染めのだってね」
 ゴート族はたじろいだ。ペラギア本人に対しては、この世の他のものと同様少しも敬意など抱いていなかったものの、彼女は決してアレクサンドリアのメッサリナではなく、女というものだった。古い女性崇拝の本能にたがわず、彼らはそれぞれ彼女の煌めく目に、単なる女の怯え以上のもの、高貴な憐れみと義憤が満ちているのを見た——彼らはたじろぎ、ひそひそと囁きあった。

 良き霊が勝ったか悪い霊が勝ったか、当座は疑わしかったがそのさなか、肩に手の重みを感じてペラギアは振り返りそこにオヴィダの息子ヴルフを見た。

「引っ込んでろ、かわいこちゃん。みんな、わしはこの小僧が欲しいな。スミッド、こいつをわしにくれ。こいつはおまえの手下だ。やろうと思やこいつを殺ることもできた。だがおまえはやらなんだ。だから誰も殺してはならん」
「そいつを俺たちにくれよ、ヴルフ大公。もう何日も血を見てないんだぜ」
「前に進む気があれば、血の川を見られたんだぞ。この小僧はわしの手下だ。勇敢な小僧だな。この坊主は今日、戦士を堂々と打ち負かしたんだ。そしてそいつを放した。お返しにわしらはこいつを戦士にしてやろう」
 そしてヴルフは倒れ伏していた修道士を引っ張り上げた。

「おまえはもうわしのもんだぞ。闘うのは好きか」

 話しかけられた言葉が分からず、ピラモンは首を振ることしかできなかった——その言葉の意味が分かっていれば、正直な話「いいえ」とは言えなかっただろう。

「首を振ってるぜ。闘いが嫌いなんだ。臆病者だな。さあ俺たちにこいつをやらせてくれよ」
「おまえらが蛙を射ってた時分に、俺は王者たちを殺しとった」とスミッドは叫んだ。「聞け、せがれども。臆病者ってやつは最初はぎゅっと握って、しばらくすると手を緩める。そいつの血はぱっと熱くなっては、すっと冷えちまうからさ。勇敢な男ってのは、長いこと握ってりゃ握ってるほどきつくなる。オージンの霊がそいつに来臨するからだ。俺はこの小僧の手が俺ののどくびを掴んでるのを見た。こいつは手下を作るぜ。そうさせてやろうと思うんだ。けどよ、すぐにこの小僧を役立てたほうが良いや。だからこいつに櫂を渡してやれや」
「てことは」とピラモンの新たな味方が答えた。「俺らがやつを引っ掻き回したのと同じくらい、やつは上手に水を掻くってわけだ。牝牛の死の時ヘラの池に戻るんならなるたけ早く行くのが良かろう」

 男たちは櫂を身に取り直し、一本をピラモンの手に押しつけた。ピラモンは大層な力と技でもって櫂を操った。先ほど彼を苦しめていた者たちは、ときとして掠奪や殺人に傾きがちではあったがまったく気の良い正直な連中で、ピラモンの背中をどんと叩いて心の底から彼を賞めた。つい先ほどまで死ぬまで苛んでやれと本気で思っていたのと変わらぬ本心だった。そうして先へと進んで行ったが、漕いでいない者はみな先ほど仕留めた怪態な獣を矯めつ眇めつ、牙から尻尾までいじりまわし、口に頭を入れてみたり、獣の皮で小刀の切れ味を試したり、この獣は何に似ているとか似ていないとか、見たことのある他のあらゆる獣と比較したり、子供っぽく驚いては小童どもの群のように楽しげに笑って互いに押し合ったりした。とうとう一党の知恵袋、スミッドが彼らのためにこの問題について比較分析してみせた。

「ヴァルホッル! こいつが何に一番似ているか分かったぞ。——あの青いでっかいすももだよ。ラヴェンナの北の果樹園で野営したときに、俺らみんなが胃を痛くしたやつさ」

最終更新日: 2001年6月9日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com