第15章 雲上郭公国

 ピラモンのもとの信仰と意見を異にする点については、ヒュパティアはいつも彼との議論を注意深く避けていた。哲学の神的な光が自力で浸透して結論を引き出すに任せていたのである。だがある日、その時点からこの物語は再開するのだが、彼女は弟子にそれまでより率直に話す気になった。彼女の父が数日前に、彼女の数学上の新しい業績をピラモンに紹介しており、ムーセイオン庭園で出会ったときに彼女を歓び迎えたピラモンの嬉しげな崇敬のまなざしが、無理もないことだが彼女の好奇心を誘い、自分の知恵がすでにどのような奇蹟をなしたのか調べたい気になったのである。彼女は歩を止めて、ピラモンと話すよう父に合図した。

「さて」と老人は勇気づけるように微笑んで尋ねた。「我々の弟子はどう思うかな、彼の新しい——」
「私の円錐曲線のことですの、お父さま。私がいるところで偏らない答えを期待するのは公正ではありませんわ」
「どうしてですか」とピラモンは言った。「全世界と同様、先生にもお話しするべきではありませんか。ほんの数時間で僕に開かれた新しい、驚くべき思想領域について」
「ではいかが」とヒュパティアは、まるでどのような答えになるのか知っているかのように微笑んで述べた。「私の注釈はアポロニオスの原典とはどこが違うのかしら。私はあれに忠実に依拠したのよ」
「おお、生体と死体くらいに違いますよ。直線や曲線に関する単なる干からびた論考の代りに、詩学と神学の鉱脈が見つかります。まるで奇跡によって、退屈な数学の公式がみんな、見えざる世界の何か深遠で高貴な原理の象徴に変貌したみたいでした」
「ではペルガの彼はそういったものを見なかったと思う? 洞察の深さの点で過去の世界の賢者たちを超えたと、私たちは自負できると? 形而下のことしか語らないようでも、詩人と同様、彼らも霊的なものだけを語っていたのは確かよ。ただ俗人の目から隠すために、天を地上的な装いの下に秘匿しただけで。でもこんな退廃した時代では、耳の鈍い人たちに、詳細をいちいち解釈してあげなければ」
「君はどう思うね、若き友よ」とテオンは尋ねた。「哲学者にとって数学は、霊的真理の媒介という以外の意味で価値を持ち得るのだろうか。我々は、単に帳簿をつけられるようにというだけで、数論を研究しているのかね。それともピュタゴラスがしたように、宇宙や人間や神性自体を構成する諸観念を数の法則から演繹するためだろうか」
「僕にはもちろん、より高貴な目的のためだと思えます」
「では円錐曲線は、機械の作り方をいっそうよく知るためのものかね。それともむしろ、神と神のさまざまな流出との関係の象徴を案出するためのものだろうか」
「ソクラテス本人みたいに対話法をお使いになるのね、お父さま」とヒュパティアは言った。
「そうだが、目的のために一時的に使うだけだ。語の探求や概念の分析といった微細なところに哲学の本質が見出されるなんて考えに、ピラモン君を慣らしてしまったら遺憾だからな。キリスト教徒ソフィストのアウグスティヌスみたいに、プラトンの言葉を崇拝しながらプラトンの精神を否定する者たちには、そういう探求がプラトンの主な力だったと思えるらしいが。対話篇を神殿本体だと思って、その玄関間にすぎんのを見ておらんのだな——」
「というよりとばりですわ、お父さま」
「確かにとばりだな。俗世的な心を持つ者の無作法な視線を逸らすためのとばりだ。だがやはり玄関間でもあるのだよ。蒙を啓かれた魂はそこを通って内なる聖域へ、ティマイオスなど賢聖の黄金の果実を守るヘスペリスの庭へ導かれるのだから。……あの二冊の本さえ残れば、他の著作はすべて明日この世から消えようが私は気にならん」

【原注】この驚くような言葉は通例、ヒュパティアの「偉大な」後継者であるプロクロスに帰せられている。

「ホメロスはべつになさらないと、お父さま」
「うむ、俗衆用にはな。……だが何か霊的な注釈書が無いことには、彼らにとってホメロスが何の役に立とう」
「たぶん俗衆にはほとんど何も語らないでしょう。丸描き棒で円を描く大工に、円が語る程度のことですわ」
「では円は何を意味しているのですか」とピラモンは尋ねた。
「無限の意味があるわ。他の自然現象すべてと同じよ。それに、それを注視する魂の高さに応じて意味はいっそう深くなる。でも、考えてごらんなさい。円は一つの完全な図形だし、まさに霊的世界の完全性の象徴ではないかしら。霊的世界と同じで、感覚的物質の不毛で粗野な現われによって限定された外周しか目には見えないし。それに、円がそれ自体は不可視の一つの中心に——エウクレイデスが中心点をそう定義しているように、部分も量も語れない一点に——起源を持つのとちょうど同じように、諸霊の世界は不可視で定義不能な一つの底知れぬ存在のまわりを廻っているわね。——それは、いつもいつも説いているように、あらゆる属性を、理性、徳、力といった属性すら欠くことによってしか考えられない存在なのだから、それ自体では無だけれど——でも円の中心のように、他のあらゆる存在の根拠なのではないかしら」
「なるほど」とピラモンは言った。さしあたって、上述の底知れぬ神が何か冷え冷えとした不毛な概念のように感じられるのは確かだったが……しかしそれは単に、彼自身の精神的知覚が鈍いせいかも知れない。何にせよ、論理的帰結であればそれは正しいはずなのだ。
「とりあえずこれでいいでしょう。あとは分かるでしょう——分かるだろうと予言できるくらい私はあなたを知っているつもりよ——頂点のみが円に内接する正三角形には、感覚を超えた存在の三つの原理があるわね。物理的世界に顕われているとおり、神に含まれていて、その極限で神と一致していて、それと同様に、名づけがたいけれど中心にある不可視の一者に負っているという原理が」
「ああ」とあわれなピラモンは言って、自分が愚鈍な気がして真っ赤になった。「本当に僕は物分かりが悪くて、そのような知恵を浪費する値打ちなんか無いんです。でも、あえてお尋ねしてよければ、……アポロニオスの見るところでは、円も他のすべての曲線と同様、一義的にはその存在を中心点に負うものではなくて、むしろ、円錐の軸に対して直角をなす平面によって円錐を切断することによって生じるのではないのですか」
「でもその円錐を生じさせるには、円を描くか、あるいは少なくとも円を考えなければならないでしょう。そしてその円錐の軸は、その円の中心によって決まるじゃないの」
 ピラモンは難じられて言いよどんだ。
「恥ずかしがることはないわ。あなたは知らないうちに、たぶん同じくらい深い象徴をあらわにしたというだけよ。それが何だか分かる?」

 ピラモンは懸命に考えたが無駄だった。
「これは分からない? つまり、考えうるかぎりの円錐の垂直断面にはすべて円が現われるし、その円はすべて歪みのない対称図形よ。ここに神を見出せないかしら。真っ直ぐに偏らない見方をすれば」
「あざやかです!」とピラモンは言い、老人はこう付け加えた。
「してまた、偉大な著作すべてに完全で根源的な一つの哲学が見出されるのは何故かということも示されておらんか。学問的な思考を持ちさえすれば、そういう著作から唯一の哲学を引き出せるのではないかな」
「そのとおりですわ、お父さま。でも今は私が示したような考察によって、ピラモン君に自然をもっと高次に霊的に洞察させたいの。自然はいたるところで——少なくとも美しく高貴な形ではすべて——神そのものとともにあるのを直観的に啓示しているわ。彼に感じさせたいのよ、キリスト教徒みたいに神が世界を作ったと言うだけで、それを口実に神は世界からずっと退いたところにあると信じるのなら、不十分なのだと」
「キリスト教徒はそうは言わないと思いますが」とピラモンは言った。
「言葉ではね。でも事実、神を死んだ機械の作り手、いったん作られればあとはひとりでに動く機械の作り手みたいに思っているわ。そしてグノーシス派であれプラトン派であれ、あらゆる哲学的思想家を異端として否定するのよ。神々しい万物をあんな、死んだ、不毛な、みすぼらしいものとする概念には飽き足らない人々をね。神が普く存在することを知って万物は神を讃えようとし——神は世界の内にあって生きて動ているという——彼ら自身の聖書の主張を正直に信じようとしているのに」

 ピラモンは穏やかに、問題の文章は聖書にいくらか違った言葉で書かれていると示した。
「そうね。でも一方が真ならその逆も真でしょう。世界が生きて動いており、かつその起源が神にあるなら、必然的に神は万物に広がっているのではないかしら」
「なぜですか——すみません頭悪くて。説明していただければ」
「だって、もし神が万物に行き渡っていないとしたら、神の行き渡っていないものらは、神の存在の隙間のようなものだし、その限りにおいて神無くしてあることになってしまうわ」
「それはそうですが、それでもなお神の外周のうちにあるでしょう」
「いい論証だわ。でもやはりそんなものは神のうちにではなくて、自らのうちに生きているの。神のうちに生きるためには、神の命が行き渡っていなければならないのよ。例えばこんなことがあり得る——そう主張するのは敬虔でさえあると思う? 自らが占めている空間から、自らの価値のもとである存在を、つまり根源的に行き渡ってものに構造と生命とを付与するばすのあの当の存在を排除する力を持つものが、神の限りない栄光のうちに何かあり得るだなんて。神は創造を終えると、神自身の世界に余地をつくるというつまらない用を減らすために、創造のあいだ占めていた空間から退くのかしら。そうしてまるで肉に刺さった棘のように神自体の実体に異物が内在するという苦難に——あらゆる物質的自然の類比からして苦難だと言われるものに——耐えたりすると? むしろ、神の知恵と光輝は、精妙な鋭い火のように、組織された原子すべてを貫いて抗い難い力で永遠に自らを浸透させていると信じるべきよ。それがちょっとの間でも、極めて些細な花の花びらから退いたとしたら、粗野な物質とそこから花が形成された死せる混沌が、その美しさの名残りのすべてとなるでしょうに……」
「そうよ」——と彼女は続けた。自分の学派の流儀に従って、衰えたものはほとんどそうだが、対話法よりも長広舌を、演繹よりも綜合を好んでいた。……「あそこの蓮の花をご覧なさい。夜中眠っていた波の下からまるでアプロディテのように立ち上がって、鶴首をたわめてあの太陽にお辞儀をしているわ。あれは太陽を慕って空をついて回るでしょう。ここには知性無き物質以上のもの、導管やひげ根、色や形、いわゆる植物的生活という無意味な生死以上のものが無いかしら。いにしえのエジプトの神官たちはもっとよく分かっていて、あの象牙色の花びらや黄金色の雄しべの数や形、それに波からの神秘的な日々の誕生——夜は波の洗礼を受けて朝が来るたびまた波から新たな命に生まれ変わるということに、何かしら神的な観念を見られたのね。花そのものにも、花を手にして神殿祭儀をする白い長衣の女神官たちにも、そして女神官たちと花がともに捧げられていた女神にも共通する神秘的な法則のしるしを。……イシスの花! ……ああ——そうよ。自然には女神の素晴らしい象徴だけでなく、悲しい象徴もあるわ。彼らが偉大なのは女神のおかげなのに、間違って導かれた民が新奇な野蛮な迷信のせいであの女神の崇拝を忘れるにつれて、イシスの聖花はますます稀になって、とうとう今では——花がそのために香りを散じていたあの信仰の標章にふさわしく——こうした庭園にしか見られない。——俗衆には奇妙な庭園でも、私などにとっては、過ぎ去った栄光と知恵の名残りの庭園だわ」

 ピラモンは、このときにははるかに進歩していたようだった。というのも彼は少しも身震いもせずに、イシスへの引喩に耐えたからである。いや——彼ははあえて、この美しい哀悼者を慰めようとさえした。
「哲学者は」と彼は言った。「単なる外的な偶像崇拝が失われたところでほとんど嘆きはしないでしょう。お考えのように、自然の象徴には霊的真実の根があるのだとしたら、それが死滅するなんてあり得ませんから。ですから蓮の花は、この世にその種が存在するかぎり、その意味を保ち続けるはずです」
「偶像崇拝!」と彼女は微笑んで言った。「言い古されたキリスト教的誹謗を、弟子が私に向かって繰り返してはいけないわね。いかなるものであれ低俗な迷信へと堕ちてゆくのは信心ぶった俗衆よ。偶像崇拝者は今はキリスト教徒であって、いにしえの神々の信徒ではないわ。死人の骨に奇跡の力があるとしたり、納骨堂の神殿を作ったり、人類のうちでも最も卑しい者の像に頭を垂れたりする者どもには——象徴的な美という形態のうちに言語を超えた理想を具現化したギリシャ人やエジプト人の偶像崇拝を非難する権利が無いのは確かよ。
 偶像崇拝? 私はパロス島を崇拝しているわ、すべてに打ち勝つヘラスの力のしるしとして何時間もあの島を畏愛をもって見つめるときには。本が開示する天上の真理を歓び迎えて、本の携える言づてのために書物という物質を賞讃し愛するときには、ホメロスの言葉を記した巻子本を崇拝しているわね。俗衆以外の者が、像そのものを崇拝したり、像が助けてくれたり話を聞いてくれるだなんて寝とぼけたりすると思うの? 恋する人が自分の恋人の肖像を、生きて話をする本物だと取り違えたりするかしら。私たちが崇拝するのは、像をその象徴とする観念なのよ。その観念を不毛な考えだ、己の知性の曖昧な妄想だとして捨てずに、象徴を用いて自分の情緒や感情にその観念を思い描いているからと言って、あなたは私たちを非難するの?」
「では」とピラモンは、声は口ごもりながらも、好奇心は保ったまま答えた。「では、異教の神々を崇敬しておられるのですね」

 何故ヒュパティアがこの問を癪に触ると思うのか、ピラモンは戸惑った。だが彼女がそう感じているのは明らかだった。というのもじつに傲然とこう答えたからである——
「キュリロスに訊かれたのなら、答える値打ちもないとしたところよ。あなたには言うけれど、その質問には答える前に、あなたの言う異教の神々が何なのかを知ってもらわないと。俗衆は、 というより彼らと哲学者をいっしょくたにするために俗衆を謗れば自分の得になると思っている者たちは、神々をただの人間だ、人間並みに愛や痛みを被るもの、人格性の制限を受けるものだと考えるでしょう。逆に、ギリシャの初期哲学者たちや古代エジプトの神官たち、バビロンの賢者たちに教えを受けた私たちが神々のうちに見て取るのは、普く行き渡る自然の力、胎動する霊の子ら、原初の一なる統一の多様な流出にほかならないもの——というより一者の多様な局面なのよ、民族や思潮の違いに応じていろいろな国の賢者たちによってさまざまに考えられてきたように。だから私たちから見れば、多なるものを崇敬する人はまさにその行為によって、極めて高等な充実した憧憬をもってあの一なるものを、多なるものがその完全性の部分的な対型である一なるものを崇拝しているの。各々は自らにおいて完全だけれど、それぞれその極致たる唯一者の像なのよ」
「ではなぜ」と、この説明でだいぶ気が楽になってピラモンは言った。「キリスト教をお嫌いになるのですか。キリスト教も多くの様式の一つなのでは——」
「それは」と彼女はいらいらと遮って答えた。「キリスト教自体が、そうした多くの様式の一つであることを否定して、その否定に自らの存在を賭けているからよ。キリスト教だけが神の唯一の啓示だと詐称して、その思い上がりのせいで、あらゆる宗派の教義と似ていることによってキリスト教の教義自体が、そんな想定を反駁していることに気づけないからよ。諸宗から借用する値打ちは無いなんて見せかけているけれど、ガリラヤ人の教義なんてみんな、何か他の形式や何かで諸宗のうちに見つかるわ」
「ただし」とテオンは言った。「人間を、生まれの卑しい文盲もすべて高め、平均化するというのはべつだがね」
「それを除けば——見て! 来るわ——とうてい会う気になんてなれない者が。この道を曲がりましょう——早く!」

 そしてヒュパティアは死人のように青ざめ、哲学者らしからぬあわてぶりで父を脇道へと引きこんだ。
「そうよ」と、落着きを取り戻すとヒュパティアは心中で続けた。「このガリラヤ人の宗教が、帝国のそのほかの『認可宗教』の間につつましく場を占めるだけで満足しているのだったら、とりあえず我慢できたかも知れないわ。労役に勤しむ卑しい俗衆には似合いの、神的事物を擬人化した概形としてはね。たぶん格別にお似合いなのよ、だって格別に俗衆に媚びているもの。でも今は——」
「ミリアムがまた」とピラモンは言った。「真正面に!」
「ミリアムですって」とヒュパティアは厳しく問い質した。「では、あの人を知っているのね。どうして」
「あの人エウダイモン荘に間借りしてるんです、僕もですが」とピラモンはありのまま答えた。「あんな卑しき衆生と言葉を交したことはありませんし、そうしたいとも思いませんよ」
「口をきいてはだめよ。いいわね」とヒュパティアはほとんど懇願するように言った。しかしもはやミリアムを避ける手立ては無く、いやおうなくヒュパティアはその責め人と顔をつきあわせることとなった。
「一言だけ、ちょっとだけ。麗しいお嬢さま」と、奴隷のようにぺこぺこしながらミリアムは話し始めた。「いや、そんなむごく突っぱねないで下さいまし。持って参りましたのですよ——ご覧下さい。持参させていただきましたものを」と彼女は怪しげな雰囲気を漂わせながら差し出した。「ソロモンの虹でございます」
「ああ存じておりますよ。しばし足をお止めになるとて——指輪のためでないのはもちろん、かつてこれをあなたさまに差し出しました者のためですらない。——ああ今はどこにおるのやら。ことによると焦がれ死にを! ともあれこれはあの男の最後の形見、このうえなく素晴らしいお方、このうえなくむごいお方への形見でございます。そう……たぶんまっとうでございます……皇后に——皇后になることは……あのあわれなユダヤ人が差し出せたどんなものよりはるかに素晴らしい。ですがそれでも……皇后たる者、臣下の嘆願を聞くにはおよばぬというものではございませんよ」……

 甘言に乗せるような囁き声でこれだけ一気にまくしたてながら、ミリアムは全身を絶えず蛇のように身をくねらせていたが、目だけは別で、ぎらぎらしながらいやにじっとして、まるで手足すべての支えとなっているかのようだった。そしてその目が不思議な力を保っているかぎり、それから逃れることはできなかった。
「どういうこと。この指輪をどうすれば良いの」と、ヒュパティアはいくらか脅えながら尋ねた。
「かつてこれを所有しておりました者が、今あなたさまにこれを差し出しておるのです。覚えておいででしょう、あの小さな黒瑪瑙——つまらない物を。……捨ててしまわれたに違いないとお見受けいたしますけれども、もしそうでなければこの蛋白石で……かような御手にはあんな物より遥かにふさわしい宝石と取り替えさせていただきたいとあの者は望んでおるのです」
「あの人があの瑪瑙をくれたのよ。手放す気は無いわ」
「ですがこの蛋白石は——値打ちもの、おお金貨一万の値でございますし——あんな壊れたつまらない物と交換するに足るものではございませんでしょうか」
「私はあなたみたいな売人ではないのよ、現金価値で物をはかるような真似は学んでいないわ。あの瑪瑙がお金になるものだったら、決して受け取らなかったでしょう」
「指輪を頂戴しなさい、これを。いい子だから」とテオンはもどかしげに囁いた。「これで借金を完済できる」
「ああできますとも——全部払えましょうよ」と老婆は答えた。不思議なことにテオンの言うことを耳にしたらしい。
「何てことを——お父さま! お父さままで、私に金銭ずくになれとお勧めになるの。ねえあなた」と彼女はミリアムのほうに向き直って続けた。「私がなぜ断わるのか分かってくれるとは思えないわ。私とあなたでは価値の規準が違うのよ。でもあの石には護符が彫ってあるから、他に理由が無くてもあれを手放すことはできないの」
「ああ護符のためでございますか。賢明なことでございますよ、まったく。気高いことでございます。哲学者にふさわしい。おおもう何も申しますまい。あの瑪瑙は麗しき女予言者さまがお持ち下さいませ。そして蛋白石もお取り下さいまし。なにしろご覧下さいな、これも魔法がかかっておりますのでね。その名によってソロモンは神霊を命令に従わせたのでございますよ。ご覧下さいませ。使い方をご存じであれば、おできにならないことなど何がございましょう。六つの翼をもつ輝ける大天使をいつでも呼び出して足元に跪かせ、『参上しました、ご主人さま。お申しつけを』と言わせることが。ご覧下さるだけで良いのです」
 ヒュパティアはこの魅力的な餌にくいつき、自ら認めたくはないほど興味深々と検分した。他方老婆は話を続けた——
「ですが賢明なお嬢さまは黒瑪瑙の使い方も存じておられましょうね、もちろん。アベン・エズラが申し上げましたでしょう、そうではございませんか」

 ヒュパティアはいくらか顔を赤らめた。白状するのは恥ずかしかったのだが、アベン・エズラはその秘伝を明かしてくれなかった。たぶん、何か秘伝があるとは信じていなかったのだ。また、その護符は彼女にとっては興味深い玩具といったものでしかなく、ある日はひょっとするとこれには何か秘術的な効能があるかも知れないと信じる気になったが、次の日にはそんな考えは非哲学的で蛮族じみていると笑っていた。それで彼女はいくぶん厳しい調子で、自分の秘密は自分だけのものだと答えた。
「ああ、それではすっかりご存じでいらっしゃる——幸運なお嬢さま! では護符は申し上げましたのですね、今回ヘラクリアヌスがローマに勝つかのか負けるのか、つまりお嬢さまが新たなプトレマイオス朝の母とおなりか、それとも、そんなことは四大天使が阻止しましょうけれど、乙女としてお隠れになるのかを。きっともう、平らな側を擦って、偉大な神霊を参上させなさったのでございましょうね」
「お行きなさい、愚かな女ね。あなたと違って、私は子供じみた迷信にのったりしないのよ」
「子供じみた迷信ですと。ははは」と、老婆はそれまで以上に卑屈に身を屈めて、振り向き去りながら言った。「つまりまだ天使をご覧でないと。……ああ、けっこう。そのうち護符の使い方を知りたいと思われましたら、美しいお嬢さまはかたじけなくも、あわれなユダヤの老婆にやり方をご案内させて下さいますでしょう」

 そしてミリアムは路地に消えると、深く生い茂った潅木のしげみに飛び込み、他方三人の夢想家は彼らの道を進んだ。

 ヒュパティアには知る由も無かったが、老婆は一人きりになったと分かったとたん芝生に突っ伏し、猛り狂う野獣のように転げ回って草を噛みしめた。……「手に入れてやる。あの女の心臓を引き裂いてでも、手に入れるんだ!」

最終更新日: 2005年6月26日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com