第14章 セイレーンの岩

 この四ヶ月はヒュパティアにとって、またピラモンにとっても、じつに多事多忙だったが、仕事や用事は逐次軌を一にしていたので速やかに過ぎ去り、もっぱら結果によって何が起きたか分かるというふうだった。

 頑強な烈火のごとき砂漠の若者は、今は思索に沈む青白い学究に変貌し、入念な思考と疲労を催す記憶の重圧を受けていた。だがそれはすべて最近の追憶である。ヒュパティアの講義室に、ギリシャ思想のお伽の国に入ることによって、彼には新しい人生が始まったのだ。ラウラやパンボやアルセニウスは生まれる前の淡い幻のようで、驚くべき新知識の奔流を前にして日に日に薄れていった。

 だが幼年期の友や光景がそうも速やかにはるかな地平線に沈んで行ったにも拘わらず、彼は孤独ではなかった。彼の心は、かつて知っていたものより健康的ではないとしても、いっそう愛すべき家を見出した。というのも、この多忙ながらも平和な四ヶ月の研究の間に、ヒュパティアとこの美少年の間には純粋だが熱烈な、ある種の友情が沸き上がっていたからである——これはむしろ、聖アウグスティヌスに倣えば、愛という神聖な名で呼ばれるもので——若者と若者を、少女と少女を結びつけるときには美しく聖らかだが、男女の間でしか完全には成熟し得ない。無私の崇敬ゆえに、強く聖らかな司祭に乙女が頭を垂れ、世の動乱と美の誇り、女房役の世話のなかで相談に乗って勇気づけてくれる賢く優しい家刀自に熱狂した少年が付きまとうのであり——これにまさる絆は地上に無く、婚姻の愛そのものもこれによって保たれる。この第二の縁がピラモンを、姉というより母親風に、アレクサンドリアの驚くべき乙女に黄金の鎖で結びつけていた。

 自分の講義室に彼が出席しだしてから、彼女は講演を、彼にとって特に精神的に必要だと思われるものに合わせた。そしてことに重要なくだりでは何度も彼に目をやり、彼に語りかけているというこのしるしに哀れな少年の心臓は高鳴った。だが一月もしないうちに、話すたびに彼が向けた真剣な注意のおかげで彼女は父を説得する気になり、当世流行の著者を研究するとともに日々写字するために雇われていた若者たちに混じって、ピラモンには彼の弟子の一人として図書室に席が与えられた。

 最初、彼女が彼を見るのは——彼女が望んだであろうよりは——稀だった。だが、異教徒であれキリスト教徒であれ醜聞を言い立てられてはと恐れ、少年の進歩ぶりを日々父に訊くだけで満足した。そして時々、彼が座って書き物をしている図書室に入るときや、ムーセイオンに向う道筋で彼とすれ違うときに、彼女のほうは優しい同意のまなざし、彼のほうは敬愛に満ちた感謝のまなざしを見交わし、どちらもそれで十分だった。彼女の呪縛は確実に効いていたし、彼女は自分の理想や力を確信していたので、甘く見ていたあの変容を急かそうとはしなかった。

 「初歩から始めないと」と彼女は心中考えた。「今は数学とパルメニデスで十分だわ。自由科を訓練しなければ、いずれ彼を捧げるあの神々に適う信仰は得られない。キリスト教的な無知や狂信をすべてきっぱり神々への奉仕に変えなければならないし、そのお社には学問と哲学という門口を次々と通り抜けた霊的人間にしか近づけない」

 けれども間もなく、彼を魅了しようと望んだのに劣らず自分が魅せられて、彼女は自分用の手写本の筆写に彼を雇った。彼女は彼の小論文や弁論原稿を手ずから添削して返し、ピラモンはそれを小柄な荷運人足の畏まった羨望のまなざしに晒した後、エウダイモン荘の自分の小さな屋根裏部屋に置いて貴い名誉のしるしとした。明けても暮れてもそのように精進し、賞讃の一言や一片の微笑みだけで一週間の刻苦勉励は十分に報いられたと思い、家に戻れば家主と共通の尽きせぬ話題——ヒュパティアとその完璧さについて心の内を家主に吐露した。同じ主題について相弟子にもよく言い散らしたくなったが、しかし彼らのわざとらしい都会的な作法だけでなく、疑う根拠がありすぎるように思えるその道徳性からしても躊躇した。通りに出て自分の見つけた宝を全世界に向って公然と讃えたい、万人を招いてこの宝を分かち合いたいと彼は熱望した。彼の純粋な愛には妬みなど無かったからである。自分が得たものにはるかにまさる愛顧を彼女が何千人にも注ぐのを見られたとしたら、いっそう祝福された人がこの世にはこんなに大勢いるのだと思って彼は喜んだだろうし、彼女の厚遇を受けるに値するのだからと、彼らすべてをそれぞれ兄弟のように愛しただろう。彼女のあの美貌については、最初の驚きの閃きが過ぎると口にしなくなり——気にすることさえ無くなった。もちろん彼女は美しいに違いない。それは彼女の権利であり、彼女の他の優美さを自然に引き立てていたが、しかし彼にとっては、母の微笑みが子を、空の光がひばりを、山の微風が狩人を——知らず知らず養うように英気を与える要素にすぎなかった。何か特に驚くような所説や奇抜な所説をしばし疑ったときだけ、それを述べる彼女の偉大な麗しさにまさに気づいて、そして心中こう考えて自分の判断を黙らせた——あんな完璧な唇から真実以外の言葉が出て来るはずがあるか——あの女王のごとき頭部に形づくられるものは王者の思考にほかなるまい、と。……あわれな愚者よ。だがこれは自然なことではないか。

 それから彼女はだんだんと、ムーセイオン庭園のどこかあずまやで熱心に本を読んでいる少年のそばを通り過ぎながら、彼女や父につきまとってそぞろ歩く質問者たち、自分たちは新たなアカデメイアの木立ちのなかでアテナイの賢者たちの時代を再現していると夢想する一群に加われと目くばせするようになった。ときには父と二人きりで奥まった小亭に座っているところに差し招きさえして、何か厳粛で個人的だが考え深く高雅な所見を述べ、多くの者よりも彼に深い関心を抱いて強く共感を寄せていること、彼は指導すべき弟子というだけでなく陶冶したい魂であると目していることを、彼女が意図したとおりに彼に気づかせた。そしてこうした心地好い日の煌めきは、ますます頻繁に、ますます長くなっていった。そのたびごとに彼女は、彼の力量も感受性も自分は見誤っていないとますます満足したし、そのたびごとにピラモンは、公私ともに立派にふるまうようだったからである。加えて肉体美に伴う自然なゆとりや威厳、ラウラでの修練によって身についた謙譲や克己や真摯、また彼のギリシャ人らしい人柄が、まったく迅速精妙に多方面で発達しており、ヒュパティアには彼が何か、自分の選り抜きのとりまきになっている軽薄で軽率で実の無い話をする者たちと比べれば、若きティタンといったふうに見えるほどになった。

 しかし人は、共通の病であるあの多産なほうの愛に生きられないのと同様、プラトン的な愛にも生きられない。太っ腹な家主がいなければ、最初の一月、ピラモンは一晩中空っ腹で床につき、哲学的瞑想よりも卑しい原因から眠れぬまま横になるはめになっただろう。家主は自分のことでも他人のことでも一瞬たりとも気落ちしたことがなかった。ピラモンが一緒に糊口をしのぎに出るというのを、家主は聞き入れなかった。通りであの悪党修道士どもに出くわしたら、思いっきり殴り倒されて拉致されるのは必至と考えてみたか。おまけにこんな有望な学生に、卑しき歯の必要を満たさんがために「語りがたき神」をなおざりにさせておくなぞ、なんだか不敬というものだ。だから下宿代は——本当にまったく要らないし、食物については——なんだ、自分がちょっとだけ勤勉に働いてともども賄ってみせる。近所の連中はみな一腹の餓鬼どもを食わせているのに、不死なる者らのおかげで自分ははるかに賢明にも、父親の醜悪に母親のタルタロスじみた色を足した動物を大地に担わせてはおらんではないか。それにどのみち、偉大な知者となって稼ぐようになればピラモンは返済できるだろうし、もちろんいずれそうなる。とかくするうちに何かうまくいく——神々に愛される者はいつでもうまくいく。そのうえピラモンに初めて会った日に十分確証したのだが、惑星のめぐりは順調で、水星はどこやそこや、何だか忘れたが、自分の見るところではピラモンの前兆となる太陽とともにあって、栄光ある敬虔なユリアヌス帝と似ためぐりだった。

 その暗示にピラモンはいくぶん顔を曇らせた。真実味があるようで嫌だったのだが、それでも彼は哲学を学ばなければならないし、パンも食べなければならない。そこで彼は従った。

 しかし彼がテオンの弟子に加わってから数日後のある夕方、彼は自分の屋根裏部屋の机の上に、紛れもなく輝く金貨を見つけて仰天した。翌朝彼は荷運人足のところに金貨を持って降り、この貨幣をなくした持ち主を探して、しかるべく返却してくれるように頼んだ。ところが驚いたことに、小男は果てもなく馬鹿騒ぎして手振りをしながら秘密めかしてこう告げた。それは紛失物ではない、滞納していた下宿代が彼に代って支払われのだ、恵み深い天の力によって毎月新しい金貨が用意されるであろう、と。ピラモンは誰が後援者なのか知ろうと問い詰めたが無駄だった。エウダイモンは頑として口を割らず、自分の妻にも、女の多弁を自らに許してかくも偉大な神秘を漏らすならタルタロス中の呪いあれと——このあわれな者は朝から晩まで決して口を開かないようだったのに——無用に祈った。

 この未知の友は誰だろう。こんなことをしてくれる人は一人しかいない。……そして彼は——その考えは嬉しすぎたので——あえて彼女だとは考えなかった。彼女の父に違いない。あの老人は一たびならず彼の経済状態について尋ねていた。そのたびに確かにはぐらかすようには答えたのだが、親切な老人は真相を見抜いたのに違いない。お礼を言いに行ったほうが——行くべきではないのか。いや、たぶん何も言わないほうが礼儀に適っている。もし彼が——もちろん彼女はその贈物を許し、ことによるとそう勧めたのだから——彼女が——感謝を期待しているのなら、椀飯振舞をこうも注意深く隠すものだろうか。……では、それでいい。だがこれをお返ししないのはどうなのか。何かが——すべてが彼女の恩義だとはなんと悦ばしいことか。生存そのものを彼女に負う悦びを持てたら!

 それで彼は貨幣を受け取って一番哲学者風な服を自分用に買い、そのとおりに喜々として我が道を進んだ。

 だがキリスト教の信仰は? あれはどうなった。

 こうした場合通例はどうなるか。死にはしないものの、当面は急激に休眠する。彼は不信に陥ってはいなかったし、そう言われているのを聞いたら衝撃を受けただろう。しかしちょうど何かを——幾何学、円錐曲線、宇宙生成論、心理学など他のものを信じるので手一杯だった。それでそのときには、キリスト教を信じる暇が無くなったのである。ときにはキリスト教の存在を思い出したが、そのときでさえ肯定も否定もしなかった。ヒュパティアが一切の知識の根本だとするあの大問題——世界はいかにして作られたか、悪の起源とは何か、自分の人格とは何か——また懸案の——彼にもあるのかという問題を、他のいくつかの予備的な問題とともに解いたとき、そのときこそ広くなった視野をもってキリスト教の研究に戻るべきだろう。そしてもしも、もちろん、視野が広がれば当然キリスト教は矛盾しているのが分かるはずだとヒュパティアは考えているようだが……その場合はいったい、どうなのだ。……彼はそのような気に染まない可能性については考えようとしなかった。一日の苦労は一日にて足れりだ。可能性? 有り得ない。……哲学が誤りに導くなど不可能だ。ヒュパティアは哲学を、見えざるものについての人の探究と定義したではないか。哲学によって見えざるものを見出せば、それはまるで見えざるものが自ら示したのとまったく同じにならないか。彼はそれを見出さなければならない——論理学や数学には誤謬は有り得ないのだから。道筋がすべて正しければ、結論もまた正しいはずだ。だから彼は結局のところ正しい道を進んで——つまり、もちろんキリスト教が正しい道だと考えているのだが——目標に至るはずだし、ペリシテ人ゴリアテからもぎとった剣を携えて教会の闘争に戻ることになる。だが彼はまだ剣を勝ち取っておらず、一方、学習は難儀な仕事だった。苦労と同様一日の福利も一日にて足りたのだ。

 月々の金貨のおかげでひたすら勉学に専心でき、そうして彼はまったく、ペテロなら粗っぽく異教徒と呼びそうなものになり果てていた。じつは始めのうちは、良心の習慣からキリスト教の教会に忍び込んでいだ。だがその習慣はまもなく休眠するようになった。見つかって連れ戻されるという恐れが、参列をますます苦役にしたのである。そして、孤独な秘密の礼拝者としてできるだけ会衆から離れているうちに、気づくと日々の暮しばかりか心の中でも彼らから離れていた。会衆や、彼らの拍手喝采めあてに美辞麗句を弄して講話する説教修辞家たちはそれ以上に、自分と同じことは考えたことも望んだこともないように思えてきた。そればかりか彼はキリスト教徒と話すこともなかった。下宿の黒人女は——慎ましさからも恐れからも——彼を避けているようで話せなかったし、このようにして「聖者たちとの交わり」から外的に切り離されて、気づくと内的にも急速に離れ去っていた。それでもう教会に行かず、カエサレウムを通り過ぎるときはいつでも、なぜかほとんど分からぬまま、見て見ぬふりをした。キュリロスとその強大な組織は、頭上の天体に劣らず自分とは無関係な別世界だったが、その天体の神秘的な動きや象徴や影響については、ちょうどヒュパティアの天文学講義が、当惑する彼の想像力に開示しているところだった。

 ヒュパティアはますますひとり悦に入ってこの始終を眺め、無謀きわまる自分の希望がピラモンによって実現するの見るという夢を養った。女の常だが、空想の中で彼女は、現に表れているものだけでなく、そうあれかしと願うあらゆる力や卓越を彼に授けており、この甘美な熱狂家が自分の楽しみのために描いた彼自身の理想化された戯画をピラモンが見られたとしたら、光栄に思うのに劣らず仰天しそうなほどだった。この数ヵ月は、あわれなヒュパティアにとっては至福だった。オレステスは何か理由があったのか求婚を迫らないままで、イーピゲネイアの犠牲はありがたいことに後ろに退いていた。たぶん今は犠牲にならなくても万事完遂できるだろう。しかし——何と長くかかることか。ピラモンの教育を仕上げるのには何年もかかるだろうし、この絶好の機会は二度と巡ってはこない。

 「ああ」と彼女は折々ため息をついた。「ユリアヌスがもっと後代に生きておられたら。我が手で得た宝をすべて太陽の詩人の足元に携えて、そしてこう叫べたら。『私をお取り下さい——神人よ、戦士よ、指導者よ、賢者よ、光の神の司祭よ! 汝の婢女をお取り下さい。お命じ下さい——お望みならば殉教へと赴かせて下さい』と。まったく安いものだわ。それで汝の伝導者たちの、イアンブリコス、マクシムス、リバニオスと苦労を共にする者たちの、最後の真のカエサルの王座を支える賢者たちの合唱隊の末席を汚す栄誉を買えるなら!」

最終更新日: 2005年5月25日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com