第17章 見失われた光

 サルディニアの最後の青い岬は速やかに北西の水平線に消えゆき、安定した風は無数の船をその先へと運んだ。アフリカの海岸に帰ろうと必死に競って身震いしながら突き進む壊走したヘラクリアヌス軍である。恥辱と失望、恐れと痛みの道行きにあっても白い帆は、遥々と広い雲の無い青空の下、ほんの一月前に荒々しい望みと勇ましい胆力を身に負っていたときと変わらず、今も煌めく海のうえで陽気に輝いていた。あの不運な戦いの惨事を誰が数え上げられよう。……これはそうした惨事の一つ、それ、あの苦悩の時代におけるもろもろの悲劇のうちでも極めて些細な無名のもの、西のバビロンを揺すぶり倒す無数の断末魔のうちの、小さな死の悶えにすぎなかった。審判の刻が来たのである。苦悶につぐ苦悶のなかで都は腐敗して自業自得の滅亡に向かっており、聖ヨハネが幻視した都のようでさえあった。奢侈に耽ってもろもろの国びとを虐げながら、都は徴の獣の上に座し——自らの傀儡と奴隷の野獣的な欲望を己の力の礎としていたが、しかし彼らにすらまして己が自らの傀儡と化していた。苦い教訓によって見出されたのは、都の臣下たる地上の王たちは都ではなく「獣のため」に都に力と権能を与えたのだということ、また、都がそうも狡猾に満足させてきた彼らの獰猛さと肉欲が都の呪いとなり、都の破滅の元になったということだった。……聖者たちの血に酔っていた。過去何世紀もの間ずっと高貴で、清らかで、再生力に満ち、神的であった己が帝国を、己の傲慢と嫉妬のために自ら破壊し根絶しようとしているという事実に目を塞ぎ、都は新しい野心家たちすべての餌食、自らの奴隷たちの奴隷として、無為無力に座していた。……「そして地上の王たちは、かの淫婦を憎み、之をして荒涼ばしめ、裸ならしめ、且つその肉を喰ひ、火をもて之を焼き尽さん。神は御旨を行なふことと、心を一つにすることと、神の御言の成就するまで国を獣に与ふることを思はしめ給ひたればなり」……いたるところに淫行と不和と憎しみ、背信と無定見と恐怖。神の憤恚の鉢が傾けられたのだ。この先いったいどうなるのかと誰もが隣人に尋ねたが、「生きているより死んだほうがまし」という答えしか得られなかった。

 けれども、艦隊から離れた一隻の船の中は平和だった。恥辱と恐怖、怪我人の呻きと飢えの嘆息のただ中での平和ではあったが、完全な絶望だけはなかった。大きな三段櫂船や五段櫂船が、のろのろ進む輸送船をぞんざいに追い抜いて先へと突き進み、安全を求めて狂ったように競争しながら、仲間の大半を無防備なまま壊走の後尾に置き去りにした。けれども力強い櫂が閃めき回って進んで行っても、一艘の小さな釣舟だけからは、卑しい嘆願も悲痛な呪いの言葉も聞かれなかった。百本足の巨龍のような船が日ごとに次々と北の沖から急ぎ出ては、それぞれ櫂が大きく水を打つたびに恐怖に身震いするかのように震え喘いで、力強い衝角でもって右に左に乱暴に水を跳ね散らす。その舳先ではゴルゴンやキメラ、象や野猪といったものが真鍮色の目でアフリカの海岸を見つめており、自分が運んでいる人類と同様、卑劣な壊走以外何にも注意を払っていないようだった。船は次々と突き進んでいたが、船尾から何か大声が上がり、皆の心を一瞬凍りつかせた。ネアポリスの帝国艦隊が全速力で追って来るという恐ろしい知らせだった。……だが小ぶりな船の甲板にいた兵士たちは慌てず騒がず、老長官の泰然とした表情に目をやった。長官が身震いして目を逸らすのを見るとウィクトーリアは——騒々しく争う人々の間に女神のように立ち上がり、大きく声を上げた。「主は主のものを守って下さいます」。彼らは彼女を信じ、平静にしていた。多くの日々が、そして多くの船が過ぎ、小さな漁船は輸送船や商船にさえ追い越されながら、一枚きりの四角い帆の赴くまま懸命に這い進み、ついにぽつんと海上に取り残された。

 さて、ラファエル・アベン・エズラはどこだろうか。

 彼はブランの頭を膝の間に置き、陽射しや飛沫から怪我人を守る船尾の甲板の仮設天幕の戸口に座っていた。そこに座っていると天幕から、ウィクトーリアと彼女の兄が救いの天使のように病人たちの世話をしたり、神の希望と慰めの言葉を読み聞かせたりしている静かな声が聞こえたのだが——そこには自分の寄る辺ない魂の居場所は無いような気がした……。
「生きている限り僕は、この哀れなずたぼろの無頼漢どもの誰とでも居所を取り替えるのにな。あの声がああいう言葉を僕に言ってくれて……それを信じるために」……そして彼は、手にしていた手稿本を精読し続けた。

* * * * * * * * * * * *

 「さて」と、しばらくして彼はひとりため息をついた。「前途洋々とは言わないにしろ、少なくとも我らが運命にはきわめて愛想の良い見通しではある。この運命に遭う前にばあやの信心は投げ捨ててしまったけど、ダビデの子孫が地上すべてを制圧してエルサレムに第二のローマ帝国を建てることになっていたな。ただし前のよりもひどいやつ。暴政と劫掠に、迷信と偏見の悪魔どもが加わったのを」

 肩に手が置かれ、尋ねる声がした。
「何がそう前途洋々たる見通しなのかな」
「ああ大将」と言ってラファエルは見上げた。「今朝は、料理の腕を揮えるちょっとした献立があるんですよ。夕べああして好運にも鮫を引っ掛けましたけど、これがもしあの鮫の料理でなかったとしたら、僕は我が友を煮込みにする必要に迫られていたに違いない。太った十人隊長の大長靴を、ですよ」
「保証付きだがそれもかなり旨かったろうに。あなたの魔法の腕にかかったとなれば」
「ほんと慰めですよ、アレクサンドリアでもやはり何か有益なことを学べるって分かるなんてね。おかげで僕は先に進んで、僕の芸術的技巧を役立てられるというわけです」
「それより、今しがた耳に入った独り言が何のことなのか言って下さらんか。何やかやの前途洋々たる見通しというのを」
「正味の話——僕のことをご子女に告げ口はなさいませんでしょうし、さりとて僕が入れ込んでいるともお思いになりますまいし、とすれば——まあタルソスのパウロが、我が傲岸な民の歴史であり運命だと考えたことですよ。お嬢さんが僕に何を読ませているかご覧下さいな」そして彼は『ヘブライ人への手紙』の手稿本を持ち上げた。
「ひどいギリシャ語だ。でも健全な思想なのは否定できません。アレクサンドリアの淑女貴介をひっくるめたよりも、パウロはプラトンを理解していますよ。この点に関して、愚見に値打ちがあればですが」
「わしは一介の軍人で、そういうことは分からんのですよ。パウロがプラトンを理解していたかどうかは。だが神を理解していたのは間違いない」
「慌てないで」と、ラファエルは微笑んで言った。「たぶんご存じないでしょうね。僕はこの十年、まさにその知識を事とする人々の間で過してきたのです」
「アウグスティヌスもまた、人生最良の十年を過された。それでも今、まさにかつて自分が教えた過ちと戦って居られる」
「何かもっと良いものを見つけた気がしたのでしょうね」
「見出されたのだ、何より確実に。だがご自分で彼と話して、論じるに足る人とその問題を論じ尽さんと。わしには、そういう問題は不案内な所だ」
「そうだな……ことによると、そんなことをやらかす気にまでされてるのかな。少なくとも完全に改宗した哲学者なんてものは——なにしろ親愛なる哀れなシュネシオスはまだ半分異教徒で、想像するに、彼はエジプトの智慧に恋い焦がれていますから——なかなかの見ものでしょうし。それに学識豊かな有名人と話すのはいつでも愉しいものです。とはいえ彼にしろ他の人にしろ、議論したところで仕方が無いですよ」
「いったいどうして」
「親愛なる閣下、三段論法だの蓋然的推理だの、賛だの否だのには飽き飽きなんです。双方を計量して、疑わしい議論が十九斤ばかりの重み、対して、同様に疑わしい議論は二十斤でより重みがあるとか、そんなの知ったことじゃない。お分かりになりませんか。勝ったと思った論述はたった一斤の重みで拮抗するだけだし、残りの十九斤はまるまる無駄だろうっていうのが」
「どうも分からんな」
「お幸せなかただ。僕は分かるんですよ、悲しい経験からね。いや、いと高き閣下。僕は議論を超える信条が欲しいんです。代言人を納得させる証明ができようとできまいと、自分が納得して信じたいんだ。そして新たに再発見した本当の自分がやれるかぎり、不合理にも疑いもせず、信条のために行動したい。信条を所有したいんじゃない。僕を所有する信条が欲しい。もしそんなのに辿り着くとしたら、信じて下さい、それは何か、まさにこの天幕が与えてくれたような実践的実証によってでしょうに」
「この天幕で?」
「そうです、閣下。この天幕です。この中で閣下やお子さんたちの実践の生活を拝見しましてね。あれはユダヤ人である僕には目新しかったし、たぶんユダヤならぬヒュパティアにもそうでしょう。何日も拝見してきましたが、無駄ではなかった。練達の将校たる閣下が怪我人たちを背負い込んで逃走するのを見たときには、ただただ驚くばかりでしたよ。ですがお目にかかってからというもの、閣下とお嬢さん、そして何にも増して風変わりな息子さんとかいう陽気なアルキビアデスときたら、怪我人たちに食わせるために自分は飢え——彼らのために昼も夜も卑しい奴隷仕事をやり——僕がかつて受けたことがないような慰めを与え——自分以外の何者も咎めず、自分以外の万人を気遣い、自分以外の何者も犠牲にはしない。しかも名声や報償も望むでもなく、神なり女神なりの報復を宥めるためでもなく、ただそうするのが正しいと考えたからそうする。……閣下、こうしたことやこれ以上のことも拝見し、またこの本を読みまして、実践しておられるじつに偉大な道徳的規範は、真偽はともかく偉大な思想から知らず知らずに当然の帰結として出てきたもので、思想が規範に先行しているらしいと気づいて非常に意外でした。さて、閣下。そこで僕は疑い始めたのです。果して、ここ数日目にしたようなことを実行させ得る信条とは、単にそちら側ではちょっと蓋然性が高いというだけでなく、我々ユダヤ人は——それにしろ何にしろ信じていたときには——そう呼んできたわけですが神の全能を備えているものかどうかと」

 そう言いながら彼は、必死に格闘する人のような表情で、長官の顔をじっと見た。ラファエルのまなざしは張り詰めて凄味があり、それを前にしてはこの古兵ですら身震いするほどだった。
「ですから」と彼は続けた。「ですから、閣下。ご自身やお子さんたちの行いにお気をつけ下さい。この呪わしい阿呆どもの舞台の上で僕がこれまでに出会ったあらゆる人々の内に見てきたような愚昧やら卑劣やらのせいで、僕の新たな希望の蕾を——そうなれる、ならなきゃいけないと分かっている何かに僕を変えてくれる何かがどこかにあるという希望を——もしも閣下の非行のせいで踏みにじられるくらいなら、よろしいですか、僕の初子を殺されるほうがまだましだ。憎しみ——ユダヤ人だけがもち得る憎しみで、閣下とご家族を憎むでしょう」
「神が我らを守り、我らに力を下さるよう」と、老戦士は気高く謙譲に言った。
「ところで」とラファエルは、このいつにない感情の噴出の後で、喜んで話題を変えた。「現在の進路を保っているのが賢明かどうか、もう一度真剣に検討しなければ。もしカルタゴなりヒッポなりに戻られるのでしたら——」
「わしは打ち首だ」
「確かにね。ご自身がそういう目に遭われるのを何度お考えになったにしろ、息子さんとお嬢さんのためには——」
「ああ」と長官は遮った。「親切で言って下さっている。ですがやめていただきたい。惑わさんで下され。わしは総督の側で三十年間戦ってきたし、彼の側で死ぬ。それがふさわしい」
「ウィクトーリウス! ウィクトーリア!」とラファエルは声を上げた。彼らが天幕から出てくると、「助けてくれよ。君らの父上ときたら」と彼は続けた。「カルタゴに向って進んでご自分の頭を無くして、僕らのも投げ捨てようって決心したままなんだよ」
「私の——私たちのために——お父さん」と、ウィクトーリアは彼を抱きしめて声を上げた。
「僕のためにも。いと高き閣下」と、ラファエルは静かに微笑んで言った。「ちょっとしたお手伝いをさせていただいたのを言い立てるなんて、そんな無作法なまねはしたくありませんよ。でも思い出して下さるといいな。僕には無くなる命があるし、それを、そのおつもりらしいけど、危険に晒してやろうだなんて公正じゃない。ヘラクリアヌスに助力するなり救うなりおできになるというのだったら、僕は直ちに口をつぐむべきでしょう。でも今は、単に名誉のために、右手と左手の区別もつかない五十人の善良な兵士を滅ぼすんです——彼らの意見を訊いてみましょうかね」
「わしに反乱を起こすおつもりか」と、老人は厳しい調子で言った。
「どうして素面のピリッポスのために酔っ払いのピリッポスに反乱を起こさないというのです。ですが本当に僕は閣下に従いますよ……我々に従って下さるのでさえあれば。……自らに忠告することも友から忠告されることも無い者を、ヘシオドスは何と定義していました。……例えば、キュレナイカに信用できる知人はおられませんか」

 長官は黙っていた。
「聞いて、お父さん。どうしてエウオディウスさんのところに行かないの。あの人は昔馴染みだし、この……この遠征にも好意を寄せて下さってるわ。……それに、思い出して。アウグスティヌスさまは今あそこにいらっしゃるのよ。私たちがカルタゴを出たときには、シュネシオスさまや五大都市の司教さまたちと協議なさるために、ベレニケのほうに出帆していらしたし」

 アウグスティヌスの名に、老人は思案した。
「アウグスティヌスはそこにおられるだろう、そうだ。わしらのこの友は彼に会わねばならん。ではともかくわしは彼の助言を得るべきだろう。カルタゴに戻るのがわしの義務だとお考えなら、やはり可能であるし。だが兵たちはどうしたものか」
「それは素晴らしい、閣下」とラファエルは言った。「シュネシオスも五大都市の地主たちも——ムーア人のおかげで、自分の命を我が物とも言えない状態ですし——まったく大喜びで彼らでも誰でも、目下武器を手にしている勇敢なやつらなら金を払って食わせてくれるでしょう。それにこの、我らが友ウィクトーリウスはきっと、黒人どもの掠奪に抗すべくちょっとした野営をするのが楽しいに違いないと思いますが」

 老人は静かに頭を下げた。勝負あったのだ。

 非常に心配そうに父の顔をじっと見ていた若い指令官は、その素振りを捉えると前に出て、軍事計画の変更を告げた。これに喜びの叫びが起こり、続く五分で帆の向きを変え、舵を転じ、船は安定した北西の風を受けて、シケリアの西の岬に向って航路を進んで行った。
「ああ」とウィクトーリアは嬉しそうに大声で言った。「ではアウグスティヌスさまにお会いになるのですね。あの方とお話になるって約束して下さらなきゃ」
「少なくともそれは約束するよ。かの偉大なソフィストが何を好んで語ろうと、兄弟ソフィストは辛抱強く聞くつもりだよ。言い方がどうだって怒りなさんな。思い出してもごらん、我が祖先ソロモン同様、知恵だの知者だのに僕はちょっと疲れてて、そういうのは狂気と愚昧みたいなものだとしか思ってないんだ。だから僕が人を信じるなんて期待はできないよ? 神だって信じてないんだから」

 ウィクトーリアはため息をついた。「そんなこと仰って私、信じませんよ。どうしていつも、実際より悪く見せようとなさるの」
「君みたいな魂の人は、僕が見かけ以上に悪だって気づく苦痛を免れてもいいだろうしね。……さて、お喋りはやめよう。君が憎んでくれたらって僕が心から願っているというのは別だけど」
「やってみましょうか」
「それは君じゃなくて僕がやらなきゃならんようだ。だけどもうすぐ、不足の無い証拠を示してあげよう。疑いなさんな」

 ウィクトーリアはもう一度ため息をついて、傷病者たちの世話をしに天幕に戻った。
「さて」と、長官は息子とラファエルのほうを向いて言った。「見損なわんでいただきたい。疲れ果てて希望を失った者の常として弱っているかも知れんが、だが、身の安全を心配して逆境に屈する人間だとは思って下さるな。神がお聞きになるとおり、わしには死より望ましいものは無い。進路を変えたのは、アウグスティヌスがそう助言して下されば、子供たちはわしを自由にカルタゴに戻らせて宿命に出会うままにしてくれると悟ったためです。ただ、我が愛し子を尼僧院の安全な保護下に置けるまでは命永らえんことをと祈るのみ」
「尼僧院ですって」
「そうですとも。あの子が生まれたときからずっと、神への奉仕に身を捧げさせるつもりだった。それにこんなご時世だ。身を守るすべの無い少女にとって、何がより良いというのか」
「失礼ながら」とラファエルは言った。「僕は愚鈍すぎて、お嬢さんが独身でいたところで、閣下の神格に何の得なり愉楽なりがあるのか理解できませんよ。……実際のところ、つまり、敬意や良識のぼんやりした名残りみたいなものがたった今心中に再び目覚めましたので、性無き僧侶の穢れ無い口からでなければ語らせておくべきではない一つの仮定としてなら別ですがね」
「お忘れだが、話しておられる相手はキリスト教徒ですぞ」
「請け負って、忘れてやしません。お付き合いはたいへん理性的で楽しかったですから、確かに二分ばかり前までは忘れてましたよ。今後はそんな阿呆な間違いをする危険は無い」
「君!」と、長官はラファエル流のあからさまな侮辱に顔を赤らめて言った。「聖パウロの書簡をもう少し理解すれば、侮辱はすまい。書簡に従って己の最も貴重な宝を神に捧げる者たちの考えや気持ちを」
「おお、それでは閣下にそんな助言をしたのはタルソスのパウロなのですか。それをお教え下さったとはありがたい。おかげで彼の著作をさらに研究する面倒から救われます。すみませんが、彼のこの手稿本を閣下からお返しいただけますか。お嬢さんによくお礼をお伝え下さい。ご自分の神格を喜ばせるために終身刑にしようとしておられるあの子にね。今後は閣下やご家族とあまりお話ししないほうがいいでしょう」そうしてラファエルは、離れようと身を翻した。
「しかし、ああ」と心底無念そうにその誠実な軍人は言った。「なりませんぞ。——たいへんお世話になっているし、それにあなたが大好きなのに一時の気紛れで別れ別れなんぞ。何か気に障ることを申したのでしたら——忘れて下され。後生ですから許していただきたい」そして彼は、ラファエルの両手を握った。
「親愛なる閣下」とそのユダヤ人は穏やかに答えた。「僕こそどうかお許しを。信じて下さい、先ほどの愉快なお話のために、抵当に関する自分の契約を忘れはしません。……ですが——ここでお別れしなければ。本当のことを言えば、僕は半時間前にあやうくキリスト教徒以上でも以下でもない者になりかけていました。結局のところガリラヤ人の神格は我々ヘブライ人のいにしえの祖先の神——アダムやエヴァやアブラハムやダビデや、そのほか子宮の果実たる子供たちを後継者だ、主より来りし贈物だと信じる者の神であり——我々の古い国家形態が発展し完成したものが教会だというパウロの理論は正しい——本当に正しいなんて——そんな幻想に現に惑わされていたのですよ。……この誤謬に気づかせて下さったことに感謝しませんとね。僕が寸刻正気を失っていなければ、修道士や修道女なんてものは皆、彼らが存在するという事実だけで反駁されたでしょうに。僕に芽生えかけた信仰は何か、自らの被造物がその存在の第一原理を無効にするのを見て喜んだりしない神のためにとっておきます。さようなら」

 そうして驚いた長官が石のように立ちつくしている間に、ラファエルは心中不平を言いながら甲板の向こうの端に引っ込んだ。
「初めから分かってたじゃないか。こんな光はいきなりで輝かしすぎて長持ちはしないって。彼だって他のやつと同じ——驢馬野郎の正体を現わすことになるって分かってたじゃないか。……馬鹿だよ、こんな地上に分別を期待するなんて。……再び混沌に逆戻りだ、ラファエル・アベン・エズラ。そして茶番のおちに向って砂の縄を綯うがいい」

 そして兵士たちと交わりながら、ラファエルは長官や彼の子供たちとは言葉を交わさないままベレニケの港に着き、それから首飾りをウィクトーリアの手に押しつけると埠頭の雑踏に紛れて消えた。行方は誰も知らなかった。

最終更新日: 2005年10月7日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com