第26章 ミリアムの企み

 己の意志と良心に背いてまで一人の女を崇めた男は、偶像が完全に崩れ去るまでにはいかに嵐に嵐が続き、地震に地震が続くのかをよく知っているものである。ピラモンもその夕方、その日の奇妙なめぐり合わせについてじっと考え込んでいたとき、これに気づいたのだった。つまり、理性と良心は抵抗したものの、ヒュパティアに対する昔の思いが身の内に甦り始めたのである。彼女のすばらしい愛らしさに対する純粋な愛、男女どちらのものであれ何か本当に価値のある——神的で天上的な、そう、なぜだか分からないのに、最も深い意味で永遠である——美を、歓び讃える気高い本能だけではなかった。この本能によって我々の理性は、「我ら彩られた泥の身の褪せゆく色」に関する道徳家たちの駄弁などは単なる論理上の感情的な嘘にすぎないのだと暴露し、古いヘブライの聖書にあるように、肉体の美はあらゆる精神的象徴のうちでも最も深遠だと告げる。思慮無き美貌は豚の鼻につけた金の飾りだとしてもやはり金の飾りであり、精神において、また真実において実現されるべき内なる美の秘蹟であって、やがては実現されることだろう、と。「まったくの悪というにはあの人は美しすぎる」というささやき——誰がこれを地上のもの、低俗な世界のものだと言えよう——これだけがピラモンにささやきかけていたのではなかった。——むしろ彼女の教義の、彼が見つけたばかりの欠陥こそが、ピラモンをヒュパティアに引き戻したのである。マグダレナに対する福音をお持ちでないのは、異教徒だからだ。……それなら悪いのは異教であって、ご本人ではない。ペラギアに同情していらした。だが同情しなかったとしても、それもまた異教のせいではないか。ではその異教については誰が悪いのか。あの方が? ……そうだと肯定する奴なのか、自分は。キリスト教徒として教育された自分でさえ信仰がぐらつくほどの、醜聞や、蒙昧や、蛮行を見たではないか。いっそう繊細で、鋭敏で、高潔なあの方にとって、これ以上どんな理由がいるというのか。異教徒である父親の子なのに? 才芸はご本人のものでも——欠点は境遇のせいではないか。……それに、快く受け入れて、導き、教え、厚遇して下さったではないか。……あの方に背くことができようか。——なにより今は苦境に——ことによると危険のうちにおられるというのに。他のことはともかく、感謝する義理はありやしないか。余人はともかく自分は、真の信仰に改宗さえなさればあの方は完璧なのだと信じる義理があるのではないか。……そうして彼女を改宗させるという当初のあの夢想が、ほとんどかつてのとおりに輝きだした。……が、すぐに最初の完全な失敗のことを考えて思いとどまった。……改宗させられないにしろ、少なくともあの方を慕い、あの方のために祈ることはできる。……いいや、それすらだめだ。だって誰に祈れるだろう。悔い改めて許しを求めなければならぬ身で、他人はおろか自分のための祈りでさえ、聞き届けられると望めるようになるまでには、おそらくは何年も懺悔によって卑下しなければならないのだ。……こうして彼の希望や決意は行きつ戻りつ揺れていたが、やがて小柄な荷運人足が夕食に呼ぶ声によって、物思いから呼び覚まされた。そして初めて、その日は何も食べていないのを思い出し、あまり気は進まないが降りて行って、食事をした。

 だが、ピラモンと荷運人足とその黒人妻が、黙って悲しげに同席しているところに、いかにも上機嫌なミリアムが入ってきて、二階の自分の貸間への行きがけにいっとき足を留めた。
「ええ? 夕食だろう? レンズ豆とスイカだけかい。二千年来ずっとエジプトは美食で有名だったのに。ああだけど、あれから時代は変わったんだ。……あんたらが、ユダヤならぬあわれなあんたらが、ヘブライの古い暗示を使い古して、ヨセフの代りにカエサルを据えたのさ。静かに! 騒々しい子だね」とミリアムは手を大きく打ち鳴らし、二階の娘たちに大声で言った。「こっちだよ。あの鶏の丸焼きを一羽ここに持って降りて来とくれ。葡萄酒の中の葡萄酒ってのも一瓶——緑の封印の葡萄酒だよ。まったくおまえたちときたら。気のきかんミデアン娘どもめ、私が家におらんときには四六時中、男に気をとられてるのは受けあいだ。ああそのうち後悔するよ——そのうち後悔するんだ、アダムの最初の妻の娘たちは!」

 シリア人の奴隷娘がひとり、鶏と葡萄酒を手にして降りてきた。
「さて、それじゃ、みんなで晩餐としようかね。葡萄酒! 気が晴れ晴れするよ——お兄ちゃん、前は修道士だったんだから、こういうのはすっかり読んだだろう。美酒は甘く滑らかに流れくだり、睡れる者の口をして動かしむ、とか。祝福されたソロモンがレバノンの田舎蔵にお持ちだった葡萄酒が、貴重なものだったのは間違いないがね。これが結構な代りにならんかどうか、試してみようじゃないか。さあ、ちび猿ちゃん、飲んで憂さを晴らしな。あんたはベルゼブブの寺男になるよ、いや本当に。さあご覧な、泡立って固まった、素敵なやつさ! 人の唇に触れると思って、猫みたいにごろごろいってる。蜜のように甘く、火のように強く、琥珀のように透明だ。飲むがいい、汝ゲエナの子らよ。消えることの無い劫火までに、今後に残されたわずかな時を利口にお使い」

 ミリアムはまるで水のように一杯あおり、他の者が飲むのを意味あり気な目つきで眺めた。

 小男の荷運人足は勇ましく倣った。それを見てピラモンも倣いたくなったが、恥じるように赤面してちびちび啜り、好きではないのだと思おうとした。そして、たとえつかの間でも哀しみを忘れたくてたまらず、またちびちびと飲んだ。黒人女は恐ろしさに震えながら断った——「誓いを立ててますので」
「おまえもおまえの誓いもサタンの手に落ちろ! 飲むんだよ、トペテ産の石炭め。毒が入っているとでも思うのかい。この世の生き物でおまえだけは、苛めて楽しむ気は無いね。私が手出しせんでも、みんなしておまえを虐めてるんだから。私が飲めって言ってるんだよ。それとも頭のてっぺんから足の爪先まで、エンドウマメみたいに青くしてやろうか」

 黒人女は杯に唇はつけたが、自分の都合があるので、なんとか見られないように中身を零した。
「この間の朝のヒュパティア様のじつに見事な講義。ヘレネの無憂薬の話だが」と小男の荷運人足は、酒気が上るにつれて哲学がかって言った。「ミュートスの底知れぬ竪穴から哲学の清水を汲み出すあの力。俺は聞いたことがないな。あんた聞いたことがあるかね、ピラモンちゃん」
「ああ、半時ばかり前にあれとその話をしたよ」とミリアムは言った。
「何ですって。お目にかかったのですか」とピラモンは、心臓をどきどきさせて訊ねた。
「知りたいんだったら、おまえのことを言ってたよ——もちろんさ」
「どう——どう仰いました?」
「若きポイポス・アポロンとか言ってたね——確かに名前は出さなかったが、一番分別のある有望で実際的な—— 一番賢明な演説だったよ、この十二か月あの女から聞いたうちではね」

 ピラモンは真っ赤になった。
「それも」と彼は考えた。「今朝あんなことがあったのに、だ! ——あれ? 大家さんはどうしたんだろう」
「ソロモンの忠告を聞いて、悲しみを忘れたのさ」

 実際そうだった。とろんと目を開けたまま、涙ぐんで天井に微笑みかけながら、心地好くまどろんでいたのだから。黒人女の方は深くうなだれて、同様に、人がいるのを気にしていないように見えた。
「見てみよう」とミリアムは言った。そして灯火を手にすると、それぞれの腕に無造作に炎を近づけた。だがどちらも、顔も顰めず、身じろぎもしなかった。
「本当に、葡萄酒に一服盛ってませんよね」とピラモンは身震いして言った。
「なんで? こいつらをけだものにした物は、私らを天使にもするんだ。それのおかげで、おまえはやはり元気になったようだがね」
「だけど、薬を入れた葡萄酒って」
「当たり前だろ。葡萄酒を作った当の人物が芥子汁を作った。どちらも人を幸せにするんだ。両方使って何が悪い」
「毒だ!」
「無憂薬なんだよ、ヒュパティアに言ってやったとおりでね。今朝ヒュパティアが、神秘主義的なたわごとを言っていたあれさ。お飲み、ぼうや、お飲み。今夜は寝かせてやらないよ。おまえを男にしてやりたいのさ、というより男かどうか見せてもらおうか」

 そしてミリアムはさらに一杯飲み干し、そうして、半ばは独り言のように続けた——
「ああ、これは毒さ。音楽は毒、女は毒。いまどきの宗派、異教徒やキリスト教徒はそう言う。葡萄酒も毒、そのうち肉だって毒ってことになって、牛のように草を食う狂ったネブカドネザルが世に満ちるだろうよ。坊主だの宦官だの、そういう枯れた小川ではなくて男だってことは、毒で、残忍で、悪魔的なんだとね。みんな同じ嘘を吐いてるんだ、キリスト教徒も哲学者も、キュリロスもヒュパティアも! 口を出すんじゃない、飲むんだよ、馬鹿なぼうや——ああ、男らしさを無くさない唯一の男、そういうふうに神に作られたのを恥じない男はユダヤ人だけだ。結局いつかは気づくだろうよ、まともな考えやまともな男らしさを取り戻すにはユダヤ人が必要なんだと。おまえのようなユダヤならぬ腑抜けどもには——ユダヤ人とその書が要るんだ。おまえたちが崇めながら軽蔑しているアブラハムや、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ソロモンの偉大ないにしえの書が。あわれな偽善者どもは聖者と呼んでいるが、お上品すぎるおまえたちにはできないことをなさった方々だ。妻子をもうけて、美女のことで神に感謝なさったんだから。それ以前にはアダムが、以後には息子たちがそうしたようにね——飲めって言ってるんだ——あの方々は、悪魔ではなくて神が本当にこの世を作られ、世を統べる力を自分たちにお与えになったと信じておられたのだ。そのうちおまえも身をもって知るだろうが」

 これを聞いて、ピラモンは答えることができなかった。そしてミリアムは喋り続けた。
「音楽もだろ? ユダヤの僧侶は、四弦琴だって、竪琴だって、揚琴や喇叭だって、神の家で鳴らすのを恐れなかった。だって、そういう物を作る賢さをどなたが与えてくださったか知っていたからね。預言者たちは、予言しようってときには恐れずに音楽を求めた。自分の魂を柔軟にして沸き立たせ、意気を揚げて心を開き、そうして事物の内的調和を見て現在のなかにある未来を注視するようになった。どなたが旋律や和声をお作りになって内なる歌の——太陽や星々、雨風や嵐を貫いて満ちる御言葉の——外的象徴となされたのか、知ってたからさ。——この点では、異教徒の似非哲学者どものほうが、キリスト教の坊主よりは利口だよ。やってみな——やってみるんだよ。ついておいで。寝た者はここにおいといて、私の部屋に来るんだ。ソロモンみたいに賢くなりたくてたまらないんだろう。だったらソロモンがなさったようにして知恵を得るんだね。まずは狂気と愚昧を知ろうと心掛けることだ。……伝導の書は読んだんだろう?」

 哀れなピラモン! 彼はもはや己の主人ではなかった。自分自身にではなくて、言葉や——葡萄酒や、老婆の声と目の恐ろしい呪縛を通じて現われる圧倒的な強い意志にどんどん引きずられていたのだ。まるで夢でも見ているかのように彼は、ミリアムに従って階段を昇って行った。
「さあ、その阿呆くさい哲学者風の外衣は脱ぎ捨てておしまい。格好悪くいし見苦しいよ。そうだ。私がやった白い短衣を着てるんだね。やっと人がましく見えるよ。それに今日は風呂にも入ったね。さて——他の者と同じようにさっぱりしたし、野獣の革みたいに焼けてたのが、作りたての雪花石膏みたいに白い肌になってる。飲めって言ってるんだよ。ああ——何て顔だ、何だってそんな顔してるんだい。鏡をこっちに持っておいで、お転婆ちゃん! さあ、ご覧よ。そうして自分で判断するんだ。この唇の丸み、何のためにもならないのかね。この目が顔についていて、山の蜂蜜さながらに甘く、宝石のように煌いているのは何のためだね。この巻き毛。柔い指に巻きつけたら、つやつやした黒い巻き毛の間でいっそう白く見えるだろうに、それを待ち受けているのは何故だろうね。さあ自分で考えな」

 ああ、哀れピラモン。
「結局」と彼は考えた。「これは真理ではないか。快楽でもあるけれど」
「あわれな坊やに歌っておやり、娘たち!——歌っておやり。この子のくだらん蒙昧な生涯で初めて、霊感に至る昔ながらの道を教えてやるがいい」

 奴隷娘のひとりが寝椅子に座って双笛を取ると、別の娘が立ち上がって夢見るような物憂い調子でゆるやかに舞い、銀の腕輪と足輪を繊細に煌めかせて神楽鈴を掲げて鳴らし、床を優雅にくるくる漂いながら歌った。

    生まれてきたのは何のため、歓ぶためではないかしら
    熟れているのは何のため、落ちるためではないかしら
  寝とぼけないで、美人から遠のく義理などありはしない
  美人は水や陽射しのような、みんなのための宝物。

    口づけをするためにだけこの唇はできてるの
    触れて楽しむためだけに私のこの手はできてるの
  この目は一人ぼっちの恋しい人を、惚れたあなたを誘うため
  溺れるほどの歓びに誘うためだけにできてるの

 ああ、哀れなピラモンにそんなことを。いや、耐えた。毒そのものが、毒とともにその解毒剤をもたらしたのだ。一つの強い意志の努力によって、音楽と葡萄酒の呪縛を振り払い、ピラモンは跳ぶように立ち上がった……
「違う! 愛がそんなものでしかないのなら——ただ自分の欲を満たすだけのひよわなものなら、そんなのけだもの以下だ。だって、もっと気高い能力をねじ伏せることになるし、魂が偉大であればあるだけそれを身のうちで押し殺すだけの巨大な我欲が必要になるんだから——だからそんなもの何も欲しくない。僕には夢があったよ——そう。でもあの人は、師にして弟子で、僕に借りがあるのに僕の女王だった——僕に頼って、でも僕を支えてくれて——たとえ光は劣っていても古い月が新月の輪を満たすように、僕に無いものを補ってくれた—— 一緒に並んで何か偉大なことのために骨を折って——僕が身を高めるときにはいつでも一緒に上昇するはずの人だった——その身代わりがこれだなんてひどい。絶対に違う!」

 これが激しい感情から無意識のうちに出た言葉であったにしろなかったにしろ、あるいはユダヤの老婆が聞いていたにしろ聞くふりをいただけにしろ、いずれにせよ足音が階段を上ってくると、すぐに老婆はさっと立ち上がった。
「しっ。静かに、娘たち! 誰か訪ねてきたらしい。こんな夜中にあわれな老魔女に恋のまじないを頼みに来るとは、何て狂った乙女だろう。それともキリスト教徒の血に飢えた猟犬どもが、とうとうユダヤの老いた雌獅子の巣穴を嗅ぎつけたのか。さあどうだ!」

 老婆は帯から短刀を抜くと、大胆に扉のほうに向かって行った。

 出て行きながら老婆はふり向いた——
「そうかい、勇敢な若いアポロン。ただの女じゃ感心しないのかい。もっと学があって知的で霊妙とかなんとかいうのをあてがってやるしかないね。不思議だよ、あの園でアダムに近づいたとき、エヴァは自由七科の修了証書を持ってたもんだろうか。けどまあ——類は友を呼ぶものさ。結局は私らだっておまえにお似合いになれるだろう。消えな、ミデアンの娘たち」

 そう言われて娘たちは、ひそひそと笑いながら姿を消し、気づくとピラモンは一人になっていた。老婆の最後の言葉でいくらか落ち着いたとはいえ、まだ恐怖や危険、誘惑が迫ってくる気がして、険しい様子で立ったまま、どこだかとばりや山積みになった枕の陰から新手のセイレーンが出て来やしないかと、油断なく部屋中を見回した。

 部屋の一方に紗のとばりに覆われた戸口があり、その陰から囁く声がするのに気がついた。心全体が興奮するにつれて恐れが増し、何か罠ではと疑いだすと恐れは怒りに変わった。そしてとばりのほうに振り向いて立つと、追い詰められた野獣のように、雌雄を問わずあらゆる悪霊に向かって、早くも腕を振り上げたのだった。
「また現われてくださるかしら。どう声をかけたら」と、よく知っている声が囁いた——ヒュパティアの声だなんて、あり得ることか。続いて老婆のしゃがれたヘブライ語訛が答えた——
「今朝みたいに話せばいい——」
「ああ、すっかり打ち明けよう。そうすれば——お慈悲をかけて下さるに違いないわ。でもあの方が——かくも畏く、輝かしい方が!——」

 答えがどうだったのかは、聞き取れなかった。だが次の瞬間、麻薬のやにのような甘く重い香りが部屋に満ち——ぼそぼそと呪文が聞こえ——燃え立つ光にとばりが消えた。そして驚くピラモンの目に露になったのは、光る煙の後光に囲まれた、鼎のわきに立つ妖婆とそのそばに跪くヒュパティアその人だった。ヒュパティアは純白の長衣を纏い、金剛石と黄金を煌かせていたが、唇を開き、頭を後に反らせ、苦しいほどの期待に腕をさし伸ばしていた。

 ピラモンが身動きする間もなく、一瞬でヒュパティアは炎を跳び抜け、彼の足下に跪いた。
「ポイボス! 美しく、輝かしく、永久に若い方! お聞き下さい。少しの間だけ。これきりですから!」

 衣には鼎から火が移っていたが、彼女は気に留めていなかった。ピラモンは本能的に彼女を腕に抱きしめて火をもみ消したが、その間も彼女は嘆願していた——
「どうかお慈悲を。秘密を明かしてください。仰るとおりにいたしますわ。私には我などありません——御身の奴隷ですもの。お望みなら殺して。でも、お話しになって」

 炎が弱まり、穏やかで暖かい、柔らかな微光になった。そしてその向こうに現われたのは何だろう。

 黒人女が指を一本唇にあてて、嘆願するような、ほとんど絶望したような目つきで、自分の小さな十字架像を彼のほうに持ち上げて見せていた。

 彼は見た。その限りない自己犠牲の神聖なしるしを目にしていかなる思いが稲妻のように身に閃いたのか、それは言わない。それを知る人自らの判断に任せよう。だが次の瞬間、哀れにも欺かれた乙女を突き放し、彼女の偶像崇拝的な法悦が自分に向けられたものではないのは見て取ったが、必死に部屋を駆け過ぎって出口を探した。

 暗がりのなかで扉か——部屋か——窓——を見つけるや、次の瞬間、通りに向かって二十尺跳んだ。転げて痣を作り、血を垂らしながらも、アンタイオスのように新しい力を得てまた立ち上がり、大司教館に向かって走り去った。

 哀れなヒュパティアのほうは半ば意識を失って床に横たわり、横ではユダヤ女が彼女の苦い涙を見ていたが——それはただの失望の涙ではなく、まったくの恥辱の涙だった。というのもピラモンが逃げ去るときに、よく知ったその姿に彼女は気づいたからだった。彼女の目から薄衣が取り払われ、テオンの娘の希望や自尊もまた、永遠に去ったのである。

 彼女の怒りは尤もなもので、あまりにも深すぎて非難の言葉にもならなかった。彼女はゆっくりと立ち上がった。奥の間に戻り、外衣をゆっくりと着付けた。そして軽蔑と抵抗の眼差しでユダヤ女を厳しく一瞥すると、静かに去った。
「ああ、仏頂面の一つや二つ、今夜は気になりやせんわ」と独り言を言って老婆は笑い、そのために永い間企みをめぐらしてきた目当ての品——ラファエルの半欠けの黒瑪瑙を、床から拾い上げた。
「あの女、これを無くしたのに気づくだろうかね。まあ、これと係わり合いになろうとはもう思うまい。これを擦ると、どんな見え見えの大天使が出現するか、もう分かったんだから。だがこれを取り返す気なら……よかろう——私と力くらべをさせてやるまでだ——いやむしろ、キリスト教徒の暴徒どもとね」

 それから老婆は懐から護符のもう一片を取り出すと、二つのかけらを何度も一つに合わせ、断面がなおもぴったり合うことに満足を覚えるまで、指で弄りまわし、涙の溢れそうな目で二つのかけらを見つめ、そうしながらときおり一人で呟いていたのだった——「ああ、ここにいてくれたら! 今、戻ってくれたら——今! 明日では遅過ぎるんだ。待てよ。——テラピムに聞きに行ってみよう——テラピムならどこにいるか知っているかも」……

 そしてミリアムは呪文を唱えに行った。ヒュパティアのほうは自宅の寝台に倒れ込み、痛みに苦しむ子供のように、長く低い慟哭で部屋を満たしていたが、やがてその恥辱と絶望にわびしい夜明けが訪れた。そこで彼女は起き上がり、一大決心して気を引き立てると、静かに最後の演説の準備をした。その演説のなかで、アレクサンドリアと全学に永遠に別れを告げるつもりだったのである。

 一方ピラモンは、セラペイオンに続く本通りを大股で必死に進んでいた。だが、本人が望むとおりに、すぐにそこに着ける定めではなかった。というのも十町も行かないうちに、見てのとおり、こちらに向かって来る人だかりが通りをすっかり塞いでいたのである。

 群衆は果てしなく見えた。彼らの頭上には何千もの松明が燃え揺らめき、行列の中心からは厳粛な聖歌が聞こえ、ピラモンはすぐ、よく知ったカトリックの賛美歌だと気づいた。彼らと接触しないよう、どこか横道に引きかえそうかと考えかけた。しかしそうしようにも、曲がろうとした横道はどこも同様に人々の支流で塞がれているのが分かったのである。そして、ほとんど気づかないうちに、大きな縦行列の先頭に巻き込まれていたたのだった。
「通して下さい!」と、彼は懇願する声で叫んだ。
「通せとな? 汝のような異教徒を?」

 自分はキリスト教徒だと抗弁したが無駄だった。
オリゲネス派ドナトゥス派の異端者だな! 善きカトリックは今夜いずこへ行くべきか。カエサレウムを守りに、だ」
「みなさん! わが同志よ! 僕はカエサレウムには用が無いんです」とピラモンは、すっかり絶望しながら声を上げた。「個人的に大司教さまのご意見を伺いたいと思って出かけて行くところなんです。大事な問題なんです」
「嘘つきめが。大司教さまの知り合いだとか言いながら、今夜カエサレウムにお出でになるのを知らんとはな。殉教者アンモニウスの至聖なるご遺体を見舞われるんだぞ」
「何ですって。キュリロスさまがご一緒に?」
「聖下も、聖職の方々も皆お揃いでだ」
「そのほうがいい、人前のほうが」とピラモンはひとりごち、向きを変えて群衆と合流した。

 聖歌や挽歌を歌いながら進む群衆は、太陽門を通って港の遊歩道に流れ出ると、埠頭に沿って右に向きを変えた。それにつれて松明の浴びせる赤くぎらつく光が、カエサレウムの大正面や、その前にある高いオベリスク、また群衆の左側の、港に停泊している千の船の帆柱を照らして行き、そして最後に、だが最少どころではないものを照らし出した。遊歩道に面する官邸が巨大な塊になって薄暗く見えているのを背にして、輝く兜と胴鎧が長い列をなし、綱の防壁を前に立てて海岸からムーセイオンまで延びていたのである。

 突然の停止。そして低い不吉な唸りが上がった。それから群衆は後から前へと殺到し、防壁のところまで押し寄せかけた。兵士たちは槍先を下げたまま、揺ぎなく立っていた。群衆は再び後退り、また前へと押し寄せた。激しい叫び声がした。まったく大胆にも、石を拾い上げようと身をかがめる者もいた。が、幸いなことに舗道は固すぎた。さもなければ次の一瞬で、アレクサンドリアの全軍が、五万のキリスト教徒を相手に、命がけで戦うことになったことだろう。

 だが、キュリロスは将たることを忘れなかった。その夜の出来事から分かるように、配下の激情を刺激しようとも意に介さない男だったが、それでも、成功したとしても何百もの生命を犠牲にすることになる夜襲を起こして悪評を招く危険を冒すほど無謀ではなかった。敵の数と勇気を熟知していたし、ひとたび衝突すれば、どちらの側も間違いなく助命することもされることも無いのはよく知っていた。……それに、一戦交えないわけにはいかないにしろ——遅かれ早かれそうなるだろうが——自分のいるところで、自分の認可のもとで交戦になってはならない。今、正義は自分にあり、オレステスが間違っていた。キュリロスは正義の側にあり続けようとした——少なくとも自分の急使がビザンチンから戻って、オレステスが追放されるか更迭されることになるまでは。そこでそうした機会を待つことにして、この用心深い高僧は、副官としてよく仕込んでおいた町の助祭たちにあとを任せて、カエサレウムへとわが道を上って行った。外の治安維持については彼らは信用できると分かっていたのである。

 そして助祭は十分に自分の役目を果した。どちらの側からも攻撃どころか侮辱もなされもしないうちに、先頭集団をかき分けて前に躍り出ると、破門になるぞと強く脅して、今行われつつある神聖な儀式が完了するまで、治安だけでなく絶対的な沈黙も保つように申し渡したのである。そして敵対する戦列の間に立つ歩哨兵のように行ったり来たり歩いてみせて、その後の苛立たしい二時間のあいだ命令を守らせ続け、やがて兵士たちのほうが称賛を口にし始めるまでになった。戦うことに特に異存はないが特段望んでもいなかった歩兵隊長は、公共秩序を保とうとする助祭たちの賞讃すべき努力を大げさに褒めたが、受けた返答は「我らの武具は肉のものならず。血肉と戦うにあらず、権威支配と戦うなり」という何やら曖昧なもので……不可解なままにしておくのが一番だと、今はいくらか眠くなってきた指令官がそう考えたような代物だった。

 さて、司祭の列のほうは寺院の階段を上って行ったが、なかでも何にもまさって絢爛と輝いていたのは、司教の堂々たる姿だった。司祭の後には、アレクサンドリアやニトリアだけでなく、隣接するあらゆる町や修道院から来た何千もの修道士がびっしりと続いた。そのためピラモンは半時間ほど教会に入り込めなかったのだが、修道士の果てもない流れを見ているうちに、アレクサンドリアでよく聞く、今やエジプトの人口の半分は「修道会員」だという誇称に十分得心がいった。

 修道士に続いて平信徒が入って行った。だがその時でも群衆は膨大で、階段上で密集して雑踏になっていたので、ピラモンが教会に入り込めたときにはすでに、キュリロスの説教が始まっていた。

* * * * * * * * * * * *

——「汝ら何を眺めんと出でしか。柔かき衣服を着たる人か」。いいや、そのような者どもは王宮に、すなわち皇帝にならんと欲する都督どもの官邸にいて、主との絆をわが身から捨てているところだ——そうした者どものことが、こう記されている。彼らを諸天に坐す主はあざ笑い、悪人どもを自ら罠に陥らせ、王の子らのはかりごとを徒労にしたまう、と。ああ、王宮で、そして劇場で、信において貧しいこの世の富者どもは自らの信仰誓約を否定し、洗礼の衣を穢し、しかもそれをこの世を貪る者の誉れとして行っている。主の杯と悪魔の杯に、ともに与れると思う者に災いあれ。悪魔アプロディテを讃えたその口で、神がそこから生まれたと記されている純潔の処女を讃える者に災いあれ。そのような者どもは、苦行と慈善によって罪を祓い清めるまで、主の杯から、主の教会から破門されるがよい。だが汝らは——汝ら、この世では貧しくとも信において富める者を富者どもは侮り、判決の席前に引きずり出し、汝らを呼ぶ聖なる名を冒涜しているのだ——汝ら何を眺めんとて野に出でしか——預言者をか——ああ、預言者よりも勝る者——殉教者をだ! 預言者に勝り、王に勝り、都督に勝る者。彼の劇場は砂の荒野、彼の玉座は十字架。彼に冠を授けたのは、父祖どもの作物でもって人を惑わす異教徒哲学者、サタンの娘どもではない。天使と大天使から栄光の冠を、至高天の楽園に永久に生い茂る勝利者の月桂冠を賜ったのだ。もうアンモニウスとは呼ぶまい。タウマシウス、驚嘆すべき者と呼ぼう! 貧しさにおいて驚嘆すべき者、熱意において驚嘆すべき者、信仰において驚嘆すべき者、堅忍において驚嘆すべき者、死において驚嘆すべき者、何にもまして死への態度において驚嘆すべき者、と。おお、三たびも祝福された者、まさに十字架の名誉に値した者よ。肉ある生においてかくも尊い者は、今彼が生きている生においても尊ばれているに違いない。何が起こりえよう。三たびも聖なるこの四肢の功徳によって癩者は浄められ、唖者は語り、死者は甦るという以外に何が起こりえよう。そう、これを疑うのは不敬というものだ。十字架によって聖別されたこの肉体は、希望のうちに安らぐだけでなく、力のうちで働くに違いない。近づけ、そうして癒されよ。近づけ、そうして聖者たちの栄光を、貧しき者の栄光を見よ。近づけ、そうして人が侮るものを神はこよなく尊ばれることを、人が拒むものを神は受け入れることを、人が罰するものを神は褒賞することを知れ。近づけ、そうしていかにして神がこの世の愚かなるものを選んで賢い者を挫き、いかにしてこの世の弱きものを選んで強者を挫いたかを見よ。人は十字架を忌み嫌う。だが神の子はそれに耐えて下さった。人は貧しい者を踏みつけにする。だが神の子は頭を横たえさえしなかった。人は病人を役立たずだとして素通りする。だが神の子は、ともに苦しむ者として彼らを選び、彼らのうちに神の栄光を現わされた。貧者から強奪して己の金庫を満たすために取税人を雇いながら人は取税人を呪う。だが神の子は、取税人を税の領収書から呼び離し、使徒という、地上の王たちよりも高い者にされた。誘惑して一時の罪の奴隷にしておきながら、人は売春婦をしおれた花のように捨てる。だが神の子は売春婦を、汚され見捨てられた者を、神自らのもとに呼んでその涙を受け入れ、捧げ物を祝福し、汝の罪は許されたと宣言された。愛さぬ者は少しも許されないが、彼女は多く愛したのだから、と」……

 ピラモンはもう聞いていなかった。熱狂的なギリシャ人生来の情熱と衝動に動かされて群衆の間を通り抜け、内陣に通じる階段へと突き進んだ。その上には豪華な天蓋の真下に、玻璃の棺に納められたアンモニウスの遺骸が祭壇正面に安置されていた。そしてピラモンは、キュリロスの説教壇の前にいるのに気づいてようやく止まると、腕を十字に広げてうつ伏せに舗道に伏せ、多衆の足元に静かにじっと横たわった。

 会衆からは不意に囁きとざわめきが起こった。だがキュリロスは一瞬止まっただけで、続けた——
「人は驕り高ぶり、屈辱を、贖罪を、傷つき悔い改めた心を見下す。そして、自力で上手くやっている間はその者にお上手を言ってやるのだと告げる。だが神の子は、己を低くする者こそは、悔悟するこの我らの兄弟のような者でさえ、高められるべき者だと言っておられる。彼こそは、『なお遠く隔たりたるに父これを見て、走りゆき』『最上の衣を着せ、その手に指輪をはめ、その足に鞋をはかせよと言い』『悔い改むる一人の罪人のために歓喜する神の使たちの合唱で浮かれ喜べ』と記されている者なのだ。立ちなさい、わが子よ。汝が何者であろうとも。そして今夜は平穏に去るがよい。『わが腹は舗道につきたり』と言われた方が、『我が敵サタンよ、我に逆らい喜ぶなかれ、我仆るれば興きあがるなれば』とも言われたのを思い出せ」

 大司教の演説の、この巧みで、そのくせ極めて正しい転換に続いて、アレクサンドリアのいかなる教会もかつてまったく聞いたことがないと言っていいほどの、雷のような喝采が起こった。だがピラモンはゆっくりと、恐るおそる膝立ちに身を起こし、真っ赤になって万もの目の凝視に耐えた。

 突然、説教壇の横から老人がとび出して来て、ピラモンの頭を抱きしめた。アルセニウスだった。
「我が子よ、我が子よ」と老人は声を上げんばかりにすすり泣いた。
「お望みなら、息子とでも奴隷とでも」とピラモンは囁いた。「大司教さまのお恵みです。ですからラウラに、故郷に永遠に帰りましょう」
「おお、二たびも祝福された夜よ」と、上ではキュリロスの深く豊かな声が流暢に流れた。「殉教者の戴冠と罪人の改宗を一度に見ようとは。勝利者の教会の兵と、闘士の教会の兵が同時に増えたのだ。二重の感謝の激しい喜びが、天上の諸霊を貫こう。高き所では勝利者を、地上では悔悟者を歓び迎えるのだから、兄弟よ」

 そしてキュリロスに合図されて読師ペテロが進み出し、すすり泣く二人をじつに優しく連れ出したのだが、彼らがそばを通りすぎると、あのニトリアの狂信者たちですら祝福と祈祷と涙でもって歓迎したのだった。いいやペテロ自身、二人を聖具室に残そうと向きを換える際に、ピラモンに手をさし伸ばしたのだ。
「許して下さい」と言って哀れな少年は、熱意とある種の喜びに浸りながら、自ら完全に謙った。
「こちらこそ」とペテロは言った。そして、いつもよりはるかに快げな様子で、またおそらくは気持ちも快く、教会に戻って行ったのだった。

最終更新日: 2009年5月30日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com