第28章 女の愛

 ペラギアは悲しみで眠れぬままその夜を一人で過したのだが、翌朝、自分があきらかに自宅で囚人扱いされていることに気づいて、悲しみは小さくなるどころではなかった。朋輩の娘たちは——誰の命令かは言おうとしなかったが——ペラギアを自室から出すなと言い付かったのだと告げた。娘たちのうちにはため息や涙で哀悼の情を示す者も幾人かいたが、ペラギアには見て取れたように、彼女の治世は終った、彼女に代わる寵姫として自分が君臨するという名誉を切望していると思わせる者も一人ならずだった。

 それが何だというのか。囁きや冷笑や生意気な返答が耳に入りはしたが、聞き流された。彼女には一人の偶像があったが、それを失ったのだ。一つの力があったが、それに見捨てられたのだ。天上天下に平和も救いもなく、黒々と空しい愚かな恐怖と絶望があるだけだった。身中に目覚めたばかりの弱く小さな幼い精神は、生まれたとたんに、打ちひしがれて気を失ったのである。ペラギアは本能的に、自室のある塔の屋根に忍び出て、一人で座って泣いた。

 アレクサンドリアのどの家にもある、日差しを防ぎ、階下の部屋に風を送るという二重の目的を果たす大きな通風筒の下に何時間も座って、ペラギアは屋根や塔の果てしない海や、帆柱や、きらめく運河、滑る小舟に気の無い目を彷徨わせていたが、そうしたものは何一つ見ていなかった——彼女が見ていたのは愛しい一つの面影、失われた、永遠に失われた面影だけだった。

 やっと、抑えた口笛の音でペラギアは夢から覚めた。彼女は目を上げた。狭い路地をまたいだ向かいの家の、屋上欄干の隙間から、ぎらぎらした目が彼女を凝視していた。ペラギアは腹を立てて、視線から逃れようと体を動かした。

 口笛が繰り返され、欄干の上に用心深い様子で顔が覗いた。……ミリアムの顔だった。ペラギアは慎重に辺りを見回して進み出た。あの老女は、何の用があるのだろう。

 ミリアムは何か問う身振りをし、ペラギアは、一人かどうかと訊かれているのだと理解した。そして誰もいないと答えを返したとたん、ミリアムは立ち上がって、小石を重りにした手紙を足元に投げてよこすと、また姿を消した。

「私は一日中ここで見ていた。下では通してくれなかった。ヴルフに、いや全員に用心だ。 自分の部屋から出るな。 今夜おまえを連れ出して、おまえの弟だというあの修道士に渡そうと企んでいる。おまえは裏切られた。気丈にふるまえ!」

 ペラギアは頬を真っ白にして食い入るような目でそれを読み、ともあれ、ミリアムの忠告の最後の部分は受け入れた。階段を降りて堂々と自室を通り抜け、彼女を引きとめようとした娘たちを怯ませるような声と身振りで逆に指図し、手紙を手にしたまま、アマールがいつも真昼の数時間を過す部屋へとまっすぐ降りて行った。

 扉に近づくと、中で大きな声がした。……彼の声だ!——そう。だがヴルフの声も。彼女は弱気になり、話を聞こうと少しの間立ち止まった。……ヒュパティアの名前が聞こえた。狂おしい好奇心に駆られて鍵穴に身をかがめ、一言半句も漏らさず耳を傾けた。
「あの女は、俺を受け入れる気は無えだろう、ヴルフ」
「受け入れん気なら、あの人はずっと遠くに行ってはるかにひどい暮らしをする羽目になる。それにな、言わせてもらや、あの人は難しい状況でな。あの人にとってはこれが最後の機会だ、跳びついてくるはずだ。キリスト教徒どもはあの人に怒り狂っとる。暴動になれば、あの人の命なんぞ空しいもんよ——いやまったく」
「ここに連れて来られてたら良かったんだが、残念だな」
「そうだ。だができんことだった。官邸を手中に収めるまでは、オレステスと決別するわけにはいかん」
「で、官邸は手に落ちるのか、ヴルフ」
「確実にな。昨夜、哨兵隊を全部回ったんだが、アマールが連中の指揮をとるって考えに哨兵隊が熱狂したもんで、蜂起するよりも静かにさせるために賄賂を使わなけりゃならん有様でな」
「オージン! 今、連中のところに居られたら良かったんだがな」
「街が蜂起するまで待て。暴動無しに一日過ぎるもんだか、分かりゃせん。お宝はすっかり積み込んであるな?」
「ああ、ガレー船も準備済みだ。そのために午前中ずっと馬みてえに働いたんだぜ。あんた他のことは何もさせちゃくれんかったからな。で、あんたの話じゃ、ゴデリックは日暮れまでは官邸から戻らねえんだな?」
「こちらが先に襲われたらゴデリックに狼煙を上げる。すると、奴は召集できるかぎりのゴート族を連れてこちらに来る。官邸のほうが最初に襲われたら、ゴデリックがこちらに合図して、わしらは荷物をまとめて向こうに船を回す手はずになっとる。その間に奴は、犬畜生のギリシャ人都督に飲めるだけ飲ませておく」
「あのギリシャ野郎のほうがゴデリックを酔い潰しちまうだろうぜ。俺は知ってんだよ。ローマの悪党どもはみんなだけどよ、奴も薬を持ってて、好きなときに酔いを覚まして、そんで仕事したり、また飲みなおしたりすんのさ。スミッド爺を遣っとけよ。できるもんなら、あの鎧師を潰させてみろ」
「まったくいい考えだな」と言ってヴルフは、それを実行に移すべく、すぐさま部屋から出てきた。

 ペラギアは、隣にあった戸口に退くだけのいとましか無かったが、立ち聞きはもう十分だった。そこでヴルフが通りかかると、跳びついて彼の腕を捕らえた。
「おお、こっちに入って! ちょっとの間、話をして。お願いだから話をしてちょうだい」と、半ばヴルフの意に反して彼を小部屋に引き込むと、彼の足下に突っ伏して子供のようにわっと泣きはじめた。

 わざとらしい怒りっぽい反抗を予想していたヴルフは、この予期せぬ服従にすっかりたじろいで、黙って立っていた。あの美しい顔が、壊れた玩具を嘆く子供のような純真な悲しみに悶えて懇願するさまを見下ろして、ヴルフは罪悪感を覚えて恥じそうになった 。……やがて彼女は言った。

「ねえ、あたしが何したっていうの——何を? どうしてあたしから彼を取り上げるの。あたしが何をしたっていうのよ、彼を好きになっただけじゃない。彼を尊敬して、崇拝しただけよ? あんたが彼を好きなのは知ってるわ、だからあたし、あんたが好きなのよ——ほんとよ。なのにあんたは——あたしと比べてあんたの愛情って何? ああ、あたしは彼のためなら死ねる——彼のためならばらばらに引き裂かれてもいいわ——今、ここで!」……

 ヴルフは黙っていた。
「あたしが何したっていうのよ、好きになっただけなのに。彼を幸せにしたいっていう以外に、あたしが何を願う? お金は十分あるし、賞賛されて、贔屓にされてたわ。……そこに彼が来たのよ。……人間のなかの神さまみたいな——っていうより猿のなかの——神さまみたいに輝いてる彼が——だから崇めたのよ。それが間違ってたっていうの。彼のためにすべてを捨てたわ、それが間違いだったっていうの。彼に身を捧げたわ。それ以上に何ができるの。彼は、あたしなんかを気に入ってくれた——彼が、あの半神が。あたしが落ちないでいられるわけないでしょ。彼を好きになった。好きにならずにいられないわよ。それで彼に悪いことしたっていうの。ひどい、ひどいわよ、ヴルフ」……

 ヴルフは強いて冷厳になった。そうしなければ絆されてしまいそうだった。
「で、おまえに好かれたからって、あいつに何の得がある? 好かれたおかげで、あいつがどうなった。ぐうたらの飲んだくれになりおった! おまえがあいつを、あのギリシャの犬畜生どもの笑いぐさにしたんだぞ、奴らを征服し、奴らの王になっとるはずだったのに! 馬鹿な女だ。おまえの恋情があいつの毒、あいつの破滅のもとだと分からんとはな。あいつはな、今頃はプトレマイオスの王座に座って、地中海の南一帯を支配しとるはずだったんだ——そうなるべきなんじゃ!」

 ペラギアは目を大きく見開いてヴルフを見た。何か広大な新しい考えを心に受け取り、その重さに既によろめいているかのようだった。彼女はゆっくりと立ち上がった。

「つまり、アフリカ皇帝になるかも知れないのね」
「必ず皇帝にする。ただし——」
「ただし、あたしが居ちゃだめ!」ほとんど悲鳴のように彼女は言った。「ええ、無知で、あわれな、汚れたあたしと居たんじゃだめなのね。分かったわ——ああ、神さま、みんな分かった。それであんたは結婚させたいってわけね、あの——あの女と——」

 ペラギアは、その恐ろしい名を口にすることはできなかった。

 ヴルフは、自分が話すはずは無いと思っていた。だが、うつむいて、黙って認めた。

* * * * * * * * * * * *

「ええ——行くわ——荒れ地に——ピラモンと一緒に——あんたもう、二度とあたしのことは聞かないわよ。尼になって彼のために祈ろう。偉大な王になって、全世界を征服しますようにって。なんであたしが行っちゃったか、彼に言っといてくれるわよね、ね? うん、行こう——今すぐに——」

 ペラギアは、その約束を果たそうとするかのように大急ぎで背を向けたが、それから突然身振いして、ヴルフのそばに跳び戻った。
「できない、ヴルフ——彼から離れるなんてできない。そんなことしたらあたし、おかしくなるわ。怒らないで——何でも約束するから——あんたの好きなこと誓うから、ここに居させて。それだけでいい。ただの奴隷でいいの——何だっていい——ときどき彼を見られたらそれで。いいえ——見ることさえできなくてもいい——同じ屋根の下にいられるだけで—おお、炊事場の奴隷にしてちょうだい! 何でもやるわ、彼のために——あんたのために——誰のためにだって! それで彼には、あたしは行っちゃったって言って——死んだとか、何でもあんたの好きなようにね。——ここに居させてくれるだけでいいの! ぼろ服で挽き臼を回すわ。……それだって楽しいでしょうね、あたしが造ったパンを彼が食べてるんだって分かるんだもの。もしも彼に話しかけるとか身の程知らずなことしたら——それどころか彼に近づいただけでも——手首を縛って吊るして、奴隷頭に鞭打たせて。あたしは奴隷が相応なんだから、それらしくね。……そうなったらあたしはすぐに、悲しくて老け込んで醜くなるし、それなら、いとしいヴルフ、あたしのこの呪わしい顔、もう危なくないでしょう。それだけ約束してくれればいいの、それで——ほら——彼があんたを呼んでるわ。入って来させないでよ、見られたくないの——あたし耐えられない。行ってよ、すぐ。全部彼に話して。——だめ、彼には言わないで、まだ」……

 そうしてペラギアはまた床に座り込み、ヴルフはつぶやきながら出て行った。
「かわいそうに、かわいそうにな。死んでヘラの底におったほうが、今日という日は汝にとっては良かったろうに」

 ペラギアはヴルフの言葉を聞き取った。

 すすり泣いて涙にくれ、叶わぬ望みや計画の嵐のなかで混乱しながらも、その言葉はペラギアの心に根を張り広げ、脳も心も彼女はその言葉で一杯になった。
「死んでたほうがあたしのためだった?」

 そして、彼女はゆっくり立ち上がった。
「死んでたほうがよかった? そのとおりだわ。それなら、みんな片がつく。あわれな小さいペラギアが害になることなんて無いもの」……

 ペラギアは誇らしげに、しっかりした足取りでゆっくりと、馴染んだ部屋に向かった。……寝台に倒れ込み、枕を口づけて覆った。彼女の目は、ゴートの戦士の習いに従って枕頭に掛けてあったアマールの剣に注がれた。彼女は震えながら、剣を掴んで降ろした。
「そうよ。……やるしかないなら、これでやろう。やるしかないのよ。耐えられない! 恥だわ! 今の今まで——馬鹿だった、自惚れてたのよ——みんなに愛されてる、尊敬されてると思ってたなんて。はじめからずっと見下されて、嫌われてたのにやっと気づくなんて。講義室の扉の前にいた学生たちに言われたわ、軽蔑されてるぞって——あの修道士のお爺さんにも言われたのに——あたし馬鹿だった。次の日にはそれを忘れたんだもの。——だって彼は——彼はあたしをずっと愛してくれてたから——ああ——あんな話、信じられるはず無いでしょ? 彼の口から言われもしないうちによ。……耐えられない!……あたしみたいな、いけない女が褒められるのは——死んだときよ。あたしがよく歌ったあの歌はどう? 輿の中で首を吊ったエピカリスとか、拷問されて恋人を裏切るはめにならないように自分で舌を噛みきったレアイナとか。アテナイにはレアイナの像があったというわ——舌のない雌ライオンの像が。……あの歌を歌うといつだって、劇場総立ちで声が上がったものよ。見上げた女たちだ、すばらしい女たちだって。……あのときは、わけが分かんなかった。でも今は分かる——今は分かるのよ。もしかすると、やっぱりあたしでも見上げたもんだって言ってもらえるかも。少なくとも『彼女は——あれだ——でも、愛する男のためなら死んでのけたんだ』とは言ってもらえるでしょう。……ああ、でも、神さまもあたしを見下して、嫌ってるんだった。永劫の炎のなかに送り込まれる。ピラモンはそう言ったわ——弟なのに! あの修道士のお爺さんもそう言ってた——そう言って泣いてたけどね。……地獄の炎で永遠に。永遠にだなんて嫌! 偉大な、恐ろしい神さま。永遠にだなんて嫌です! あたしほんとに知らなかったんです。正しいとか正しくないとか誰も教えてくれなかったし、洗礼を受けたことだって知らなかった——ほんとに全然知らなかったんです。それにすごく楽しかったのよ——賞賛されて、気に入られて、いい気持ちだったし、周りのひとが嬉しそうな顔するのを見るのは、ほんとに楽しかったもの。やらずにいられないでしょ。お気に入りの大好きな中庭で歌っている小鳥たち——好きなことをして幸せでいるからって、神さまは小鳥をお怒りにはなりませんよね? それに小鳥よりあたしをむごく扱ったりもなさらないでしょう? 偉大な神さま——だってあたしが小鳥以上に何を知ってたというの。美しい日の光をお作りになって、楽しい、楽しい世界を、花や小鳥をお作りになったんですもの——あたしを送り込んでずっと永遠に焼くなんて、なさいませんよね? 罰には百年で十分じゃないかしら——でなければ千年で? ああ、神さま、この罰でもう十分じゃない——彼と別れなきゃならないだけで。しかも——あたしが善くなりたい、彼にふさわしくなりたいと心から願ったとたんによ?……ああ、お願いです——お慈悲を——お慈悲を——気が済むまで罰したらあたしを放免して。なんであの恐ろしい場所から小鳥になって戻って来て、虫になるのでもいいけど、日の光や花が育つのをもう一度見られないの。ああ、あたしはもう自分を罰してるじゃない。これっていくらか償いにならないの。……そうよ——死のう——そうしたら、ひょっとすると神さまがかわいそうに思ってくださるかも」

 そしてペラギアは、震える手で鞘を剣を抜き、刃を口づけで覆った。
「そうよ——この剣で——この剣で彼は戦いに勝ったのよ。これがいいわ——最後まで彼のもので! なんて鋭くて冷たそうなの。すごく痛いかしら。……いいえ——切っ先を試しちゃだめよ、でないと心が挫けるかもしれない。一気にこの上に倒れ込もう。どこでもいいから傷つけるのよ。そうなったらもう後戻りするには手遅れでしょ。それにやっぱり彼の剣だもの——あたしをひどく苦しませる気は無いはずだわ。でも、今朝は彼が自分であたしを殴った!」

 そう考えたところで、狂ったような長い苦痛の叫びが唇からあふれて家中に響いた。ペラギアは大急ぎで寝台の脚に剣をまっすぐ固定すると、胴着を裂き開いた。……「ここよ——独り身になったこの胸の下のところよ。二度と彼が頭を乗せることの無い胸の! 廊下で足音がする。早く、ペラギア! さあ——」

 そしてペラギアは倒れかかろうとして、両腕を勢いよく振り上げた……
「彼の足音だ。あたしを見つけるだろうけど、彼のために死んだなんて絶対分かんないわよね」

 アマールは扉を開けようとした。扉は固く閉まっていた。アマールは一撃で扉を開け放つと、 強く問いただした。
「何騒いでんだよ。何の真似だ、ペラギア!」

 ペラギアは、禁じられた玩具で遊んでいるところを押さえられた子供のように、手で顔を覆って身を竦めた。
「何なんだよ」と、アマールはペラギアを抱え上げながら大声で言った。

 だが彼女はアマールの腕から跳び逃れた。
「だめ、だめ——もうだめなのよ。あたしはあんたに相応しくない。死なせて、こんな惨めなあたし。あたしはあんたを引きずり下ろすことしかできないもの。あんた王様にならなくちゃ。結婚しなくちゃ、あの——あの賢女と」
「ヒュパティアとか? あの人は死んだぞ」
「死んだ?」とペラギアは悲鳴のような声で言った。
「殺されたんだ、一時間前に、あのキリスト教徒の悪魔どもにな」

 ペラギアは手で目を覆い、どっと涙にくれた。憐れみの涙か、喜びの涙か。……彼女は自問しなかったし、我々も問うまい。
「俺の剣はどこだ? オージンの魂は。なんでこんなことに立ててあんだよ」
「あたし、やろうと思って——怒んないで。……死んだほうがましだって言われて、それで——」

 アマールはしばらく、雷に打たれたように立っていた。
「おお、もうぶたないで。粉挽き場送りにしてよ。今すぐあんたの手で殺して。でももう殴るのだけは嫌!」
「殴る?——見上げた女だな」と叫んで、アマールは彼女を腕に抱きしめた。

 嵐は過ぎ去った。ペラギアはあの最愛の胸に快く寄り添って、幸福な鳩のように何分も喋々喃々していたが、やがてアマールが起き上がって、彼女を起こした。……

「さあ——急げよ。俺たちには無駄にする時間は無えんだ。塔に上ってろ、あすこならおまえは安全だろう。野生の狼の巣穴のまわりでワンワン吼えやがったらどういう目に遭うか、ここの野良犬どもに見せてやるぜ」

最終更新日: 2010年4月8日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com