第29章 報復の女神・二

 さて、アマールの知らせは本当だったのだろうか。

 ピラモンは、ラファエルが通りをよぎってムーセイオンの庭園に駆け込むのを見た。ラファエルが最後に言ったのは、そこに留まっていろという命令だった。そこで少年は、彼に従った。ラファエルを送り出したあの黒人門番は、ご主人様は誰にもお会いにならないし、伝言もお受けになる気は無いと、少々横柄にピラモンに告げた。だがピラモンの心は決まっていた。日差しがどうのと文句を言って控え壁のかげに身をひそめ、一か八か跳び出せるように舗道に腰をすえた。奴隷はピラモンをじろじろと眺めた。だが彼は哲学者たちの奇行には慣れていた。そして自分がそんな境遇に生まれなかったことを神々に感謝して門番部屋に引き上げ、その件をすっかり忘れたのだった。

 ピラモンは、たっぷり半時間はそこで待っていた。彼には何時間にも、何日にも、何年にも思えた時間だった。だがラファエルは戻って来なかったし、衛兵たちも誰一人現われなかった。あの妙なユダヤ人は裏切ったのだろうか。いや有り得ない——あのに顔には、ピラモンに劣らず激しい、真剣で絶望的な恐怖が現われていた。……でも、なぜ戻って来ないのだろう。

 ひょっとすると彼は、街路に差し障りが無いのに気づいたのだ。自分たちの危惧は事実無根だったのだ。……何だろう、百間ばかり向こうの黒々とした人だかりは。横町の入り口に屯しているが、あの方の講義室への扉のちょうど真向かいだ。……ピラモンは人だかりを見ようと動き出した。すると、人だかりは消えた。ピラモンはまた身を伏せて待った。……また人だかりができた。気がかりな位置だった。それはカエサレウムの裏手に沿ってその大教会を無数の路地口や裏手の建物と繋いでいる通りで、修道士たちが好んで屯する場所だった。……だがそれなら、修道士の一団が居て当然ではないか。アレクサンドリアのどの通りについても、これ以上にありふれたことがあるだろうか。ピラモンは自分の不安を笑い飛ばそうとした。だがその不安は、考え詰めれば考え詰めるほど、確実になっていった。何か恐ろしいことがすぐそばまで迫っているのが彼には分かった。隠れ場所から何度も見たのだが—— 一団はずっとそこにいた。……一団は増えて、接近してくるようだった。彼らに見つかったら、何を疑われんものやら。何を気に病んでいるのだ。そうなったらなったで、彼女のために死ぬまでだ——そんなことにが起こり得るというわけではないが。しかしともかく、あの方にお話ししなければ——警告しなければならない。人や馬車が次々と道を通り過ぎ、学生たちが次々に講義室に入って行った。近くを通った、というわけではないにしても、彼らはピラモンの目には入らなかった。日はますます高くなって、ピラモンが身を屈めている片隅にその全炎熱を送りつけ、焼けた歩道は鉄のように熱く、ぎらつく光に目が眩んだ。だが、そんなことはまったく気にならなかった。意も感覚も視覚もすべて、よく知ったあの扉に釘づけにして、扉が開くのを待ち受けていた。

 ついに、銀色に輝く二頭立ての二輪馬車がかたかたと角を回って、ピラモンの向い側に止まった。すぐにあの方がお出でになる。人だかりは消えていた。あれはきっと、結局ピラモンの妄想だったのだ。いや。彼らはそこに居た。講義室に近い角のあたりで覗き見している——地獄の番犬どもが! 刺繍された座布団を奴隷が持ち出し——そしてそれから、ヒュパティア当人が出てきたのだが、これまで以上に輝かしく見えた。彼女の唇は、悲しげに微笑したままこわばっていた。彼女は激しく問いかけるように見上げていたが、その目は何か内なる畏敬の念によって影をおびて穏やかで、まるで彼女の魂が遥か天高くにあって神に直面しているかのようだった。

 すぐさまピラモンはヒュパティアのほうに跳び出すや、発作的に相手の長衣を掴み、身を投げ出すように跪いた——
「待って! 行かないで下さい! 殺されます」

 ヒュパティアは静かに彼を見下ろした。
「魔女の共犯者のくせに! テオンの娘を自分同様の裏切り者にする気?」

 ピラモンは弾かれたように立って後退り、恥辱と絶望で麻痺したように立ちつくした。……

 では僕が元凶だと思われていたのだ。……それが神のご意志だったのだ。

 我に帰ったピラモンが、何だか分からない叫びを上げて後を追って駆け出したときには、馬の羽飾りは通りの遥か向こうで揺れていた。

 手遅れだった。黒々とした人波が隠れ場所から走り出し、車の周りに押し寄せて……先へと押し流した……ヒュパティアは消えていた。そして息せき切って後を追うピラモンの横を、無人の馬車を引いた馬たちが狂ったように家に向かって駆け抜けた。

 彼女はどこへ引きずって行かれたのだろう。カエサレウムに、他ならぬ神の教会にか? まさかそんな! どうして、地上のあらゆる場所のうちで、よりによってそこなのだ。少しの間に何百人にも増えた暴徒が、海岸に流れ下っては石や貝殼や陶片を振りかざして戻って来ているが、どういうことだ。

 ピラモンが追い着いたときには、彼女は教会の階段上に居たが、暴徒に紛れて見えなかった。だが、彼女の服の切れ端を辿って後を追うことができた。

 ところで、彼女のご機嫌な弟子たちはどこに? 不届きなことに彼らは、講義室の扉から彼女を攫った最初の襲撃のときに、防壁を作ってムーセイオンに立てこもっていた。卑怯者! ピラモンは彼女を守ろうしているのに!

 魚売り女や沖荷運人足に入り混じって挺身団や修道士の塊が犠牲者をぎっしり取り囲み、とび跳ねて叫びを上げている中を突き抜けようと、ピラモンはもがいたが、無駄だった。だが、彼にできなかったことが、彼より弱い別の者にはできた——あの——小柄な荷運人足には。猛り狂って——どこからどうやってかは誰にも分からなかったが——暴徒の一番密集した箇所の地面から跳び出したかのように、有毒の山猫さながら、短刀や歯や爪でもって己が偶像を目指して猛然と道を突き進んだ。ああ! 彼は引き剥がされて階段の上に転倒し、半死半生でそこに伸びて苦悶に咽んでいたが、その横を抜けてピラモンは教会に跳び込んだ。

 そう。他でもない教会の中へだ。雷文装飾の列柱や、曇天のような円蓋や、蝋燭と香、煌めく祭壇、壮麗な薄闇を仕切る壁から見ている数々の大絵画のある、冷たく薄暗い影の中へ。真正面の祭壇の上では、巨大なキリスト像がじっと壁から見ていたが、右手を上げていたのは祝福のためか——それとも呪うためなのか。

 身廊を上り、聖なる舗床に散らばる彼女の服の真新しい切れ端を追って——まさに内陣の階段を上り——祭壇へと上り——その真上には大きく静かなキリストが。あの地獄の犬どもでさえそこで立ち止まった……。

 彼女は身を揺すって迫害者たちから逃れ、跳び退ると一瞬すっくと立ち上がり、雪のように白い剥き出しの肌が、周りの埃まみれの集団に対峙した——見開かれたあの澄んだ目にあるのは恥辱と怒りで、一点の恐れも無い。彼女は片手で身の周りに金色の髪を巻きつけ、もう一方のすらりとした白い腕を、大きく静かなキリストのほうへ——誰が敢えて、無駄だと言えよう——人から神に訴えるように伸ばしていた。彼女の唇が開いて何か言おうとしたが、しかしそこから出るはずの言葉は神の耳にしか届かなかった。というのもその瞬間、ペテロが彼女を殴り倒し、黒々とした集団が再び彼女に襲いかかったからである。……それから、耳をつんざく長く、激しい悲鳴が次々に円天井に反響し、復讐の天使の喇叭のようにピラモンの耳中に響きわたった。

 柱に押し付けられ、密集した人ごみのなかで身動きもできず、ピラモンは耳を強く手で塞いだ。悲鳴は遮れなかった。いつになったら終わるのか。慈悲の神の名のもとで、いったい何が行われているのだろう。ヒュパティアを八つ裂きにしているのだうろか。そうだ。それにもっとひどいことも。そして叫びは響きつづけ、あの大きなキリストは、あの耐え難いほど静かな目を逸らそうとせず、ピラモンを見下ろし続けた。その頭上の虹には「昨日も今日も永遠までも変はり給うことなし」と書かれていた。いにしえのユダヤと同じキリストだというのか、ピラモン? ではこの狼藉は何だ、誰の寺院の中で? ピラモンは手で顔を塞ぎ、死んでしまいたいと願った。

 終わりだ。だんだん弱まる悲鳴は呻きに変り、その呻きも沈黙となった。どれくらいの間、そこにいたのだろう。一時間か、それとも永遠? 終わったのだ、神に感謝せよ。彼女のために——いや、暴徒のためにか? だが彼らはそうは考えず、新たな叫びが円天井に湧き上がった。
「キナロンへ! 骨を焼き捨てろ。海にぶちまけでやれ!」……暴徒が再び押し寄せて、ピラモンの横を抜けようとした。……

 彼は向きを変えて逃げようとした。だが今度は教会を出たところで精根尽きて倒れこみ、階段に倒れ伏して、ぎらつく炎や、モロクに捧げた犠牲を囲んで叫びを上げて飛び跳ねる悪魔のような暴徒を、恐ろしい思いで呆然と眺めていた。

 腕を掴まれた。見上げると、あの荷運人足だった。
「この人殺し野郎! これがカトリックの、使徒の教会なのか」
「ちがう! エウダイモン。地獄の悪魔どもの教会だ」。そして気力をふりしぼって階段に座り、顔を手で覆ってうなだれた。命も果てよと力いっぱい泣きたかった。だが目も脳も、砂漠のように熱く乾いていた。

 エウダイモンはしばらくピラモンを見ていた。この哀れな気取り屋は、はっとしてすぐに正気になった。
「おれは、あの方と一緒に死のう思って、できるだけのことはやったんだ」と彼は言った。
「僕は、お救いするためにできるだけのことを」とピラモンは答えた。
「分かってる。今言ったことは許してくれ。おれたち二人とも、あの方が大好きだったろ」

 そして不幸な小男はピラモンの横に座り、傷口から血を舗道に滴らせながら、人間の痛烈な苦しみに悶えて涙を流して泣き出した。

 強烈な苦難自体が恩恵となって我々を麻痺させ、あれこれ考えて自分を責め苛めないようにしてくれることがある。ピラモンにとっては今がそのときだった。どれほどの間か分からないまま、彼はそこに座っていた。
「あの方は神々のもとに居られるんだな」とついにエウダイモンが言った。
「神々のなかの神の御許においでなんだ」とピラモンは応じた。そして二人ともまた黙り込んだ。

 突然、人を圧するような声がして彼らは我に帰った。目を上げると、前にはラファエル・アベン・エズラがいた。

 彼は死んだように青ざめ、死んだように静かだった。その顔を一目見ただけで、彼がすべて知っていることが分かった。
「修道士くん」と彼は声をひそめて言った。「君はあの人が大好きだったようだね」

 ピラモンは目を上げたが、話すことはできなかった。
「だったら立ち上がって、砂漠の最果ての片隅へ命がけで逃げなさい、この呪われた町にソドムとゴモラの審判が下る前に。お父さんお母さん、兄弟姉妹はいるの——ああ、猫でも犬でも鳥でも、君が気にかけているものは、この市壁の中には?」

 ピラモンはびくりとした。ペラギアのことを思い出したからだ。……今晩、信用できる二十人の僧をピラモンと一緒に行かせてペラギアを捕まえると、キュリロスが約束していたのだ。
「いるんだね。じゃあ一緒に連れて逃げなさい。ロトの妻を思すんだ。エウダイモン、一緒に来い。おまえの家、ユダヤ女ミリアムの貸間に連れて行ってもらうぞ。嘘をつくな! そこにいるのは分かってるんだ。逝った方に免じて、おまえに危害は加えないでおこう。ああ、正直者なのを見せてくれれば報酬もたっぷりだ。さあ!」

 ラファエルの顔をよく知っているエウダイモンは、立ち上がると、おののきながら先導した。そしてピラモンは一人残された。

 二度と会うことは無い二人だった。だがピラモンには、目の前にいたあの男が自分よりも強く、また太陽でさえ顔を覆うに違いないと思えるあの所行を、自分以上に苦い思いで憎んでいるのが分かった。そして、厳しい自制をもって、押し潰されるような苦悶に歪んだ唇から出た「立ち上がって、命がけで逃げなさい」という彼の言葉が、審判の喇叭のように耳を貫いて響いた。そうだ、逃げよう。世の中を見に出てきて、それを見たのだ。結局アルセニウスが正しかった。砂漠へ、家へ帰ろう。だがまずは、自分一人でペラギアのところに行って、一緒に逃げるようにもう一度嘆願してみよう。自分は愚かなけだものだった。彼女を無理やり——あんなものの助けを借りて——手に入れようとしたなんて。神の国は、教義を声高に叫ぶ教信者の王国ではなく、自ら望み、愛して、服従する心の王国なのだ。彼女の心を、彼女の意志を勝ち取れなければ、一人で去って、彼女のために死ぬまで祈ることにしよう。

 ピラモンはカエサレウムの階段から跳び出して、ムーセイオン通りを上って行った。ああ、一つになって渦巻く頭の海だった。彼らはテオンの家を——かくも思い出深いあの家を略奪していた。たぶんあの気の毒な老人も死んだのだ。だが——姉はまだだ! 彼女を助け出して逃げなければ。そしてピラモンは脇道に入って、道を進もうとした。

 ああ、だがまただ。港湾地区全体が、上を下への大騒ぎだった。通りという通りに、本流に流れ込もうとする怒り狂った熱狂者の潮があふれていた。そしてペラギアの家に着けないうちに日は沈み、ピラモンのすぐうしろでは一万もの声がこだましていた。「異教徒はみんなぶちのめせ! アリウス派のゴート族を根こそぎにしろ! 偶像崇拝の浮れ女どもをやっつけろ! ペラギア・アプロディテをやっつけろ!」

 ピラモンは路地を駆けくだり、ヴルフと待ち合わせている塔の扉に向かった。扉は半開きになっており、戸口に立つ人影が夕闇のなかに見えた。階段を駆け上ると、いたのはヴルフではなくミリアムだった。
「通してくれ」
「何する気だい」

 ピラモンは何も答えず、ミリアムを押しのけようとした。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿!」と妖婆は、全力でピラモンに抵抗して扉を押さえながら囁いた。「人さらい仲間はどこにいる。おまえの修道士隊はどこなのさ」

 ピラモンは跳び退いた。どうしてあの計画が分かったのだろう。
「ああ——やつらはどこなんだ、酔っ払いの餓鬼が。今日の昼に修道院生活は十分見たじゃないか。おまえはまだ、可愛そうな娘をおまえみたいなものにせんと気が済まんのか。ああ、おまえはその気になったら人としての己のさがを根絶やしにして、天使になるつもりで悪魔にもなろうさ。だがあの子は女だ、生きるも死ぬも女としてだ!」
「通せよ!」とピラモンはかっとして叫んだ。
「大声を出すがいい——そうしたらこちらも騒いでやる。そうなりゃ、おまえの命はひとたまりも無いよ。阿呆が! 私がユダヤ女としてそう言ってると思うのか。女として、尼として言ってるんだ! 尼だったことがあるのさ、気狂いめ——鉄の苦しみを魂に味わったよ——神に味わわされたのさ。他の魂があんな目に遭うのを止められなかったらそれ以上の苦しみも! あの子は渡さない。いっそこの手で私があの子を絞め殺す!」そしてミリアムはピラモンに背を向けると、曲がりくねった階段を駆け上がって行った。

 ピラモンは追った。だが老いた妖婆は激情にかられ、若いマイナスさながらの速さで力強く突き進んだ。一度ピラモンは、彼女を追い越しそうになった。だが道を知らないのを思い出し、ぴったり後について、逃げ去るままに先導させることにした。

 階段から階段へとピラモンは駆け上がり続け、ついにミリアムは向きを変えて、ある部屋の扉の中に入った。ピラモンは立ち止まった。数尺上には階段のてっぺんに、広々とした空が見えていた。では屋根が近いのだ。一瞬かそこらで妖婆はまた、部屋から駆け出し、向きを変えてなおも上へと逃げた。その腕を掴んでピラモンは妖婆をその空き部屋に投げ戻し、扉を閉めた。そして、何歩か跳んで屋根に着き、ペラギアと、顔と顔を突き合せた。
「来て!」と息もつけずに彼は切れ切れに言った。「今だ。みんな下にいるうちに行こう!」と、彼はペラギアの手をとった。

 だがペラギアは跳び退っただけだった。
「だめ、だめ」と彼女は声をひそめて答えた。「無理よ、できないわ——彼がすっかり許してくれたの、何もかも! あたしは永遠に彼のものよ。それに今の今、彼の身が危ないのよ、怪我でもしたら——ああ、天よ! 彼を見捨てるようなひどいことさせる気?」
「ペラギア、ペラギア、大好きな姉さん」と、ピラモンは苦悶の声で叫んだ。「罪の裁きのことを考えて! 地獄の苦痛のことを!」
「今日だってそのことは考えたわよ。おまえのことは信じないの。ええ、信じない。おまえが言うほど神は残酷じゃないわ!——もし残酷なんだとしても——恋人をなくすほうが地獄よ。後生で焼かれたっていい。今、彼といられさえしたら!」

 痺れたように震えながら、ピラモンは立ちつくした。以前の疑問が一斉に——浮かれ騒ぐ貴婦人たちが洞窟寺院に描かれているのを見て、彼女たちは永遠に焼かれ続けているのかと自問して身震いしたあの疑問が——落雷のように身を貫き閃いたのである。
「行こう!」と息を詰まらせながらピラモンはもう一度言い、身を投げるようにひざまずいて彼女の手に何度も口づけて必死に懇願したが、無駄だった。
「何だ、これは!」と声がとどろいた。ミリアムではなくアマールの声だった。アマールは丸腰だったが、まっすぐピラモンに向かってきた。
「乱暴しないで!」とペラギアは悲鳴をあげた。「この子あたしの弟なの——あんたに言ってた弟なの」
「こいつ、ここで何やってやがんだ?」と、アマールはただちに真相を見抜いて叫んだ。

 ペラギアは黙っていた。
「アリウス派の異端者の罪深い腕から姉さんを救い出して、キリスト教徒にしたいんです。救い出すか、さもなければ死ぬ気です」
「アリウス派?」とアマールは笑った。「すぐに異教徒とか言っちゃ、真理を語りやがって、阿呆な若造め。ペラギア、こいつと出て行って砂丘の尼になる気か?」

 ペラギアは恋人に跳び寄った。ピラモンは絶望的に、最後にもう一度訴えようと彼女の腕を掴んだ。一瞬で、どちらも何故だか分からないまま、ゴート族とギリシャ人は死闘になっており、ペラギアのほうは、一声あげて助けを呼んだ途端に弟は死ぬと分かって、恐怖のうちに黙って立っていた。

 それも数秒だった。ゴート族はピラモンを赤ん坊のように腕に抱き上げて手すりまで運び、下の運河に投げ入れようとした。だが敏捷なギリシャ人は蛇が巻きつくように相手にしがみつき、死に物狂いで相手の喉を強く掴んだ。彼らは二度よろめいて手すりの上に倒れて、また二度跳び退いた。三回目の恐ろしい衝突で——土壁が崩れ、互いに掴みあったままゴート族とギリシャ人は暗い淵へと落ちて行った。

 ペラギアは縁に駆け寄り、恐怖でものも言えず、涙も流さず、目を凝らして暗闇を見下ろした。空中で二度、二人一緒にひっくり返った。……塔の根元は、エジプトではよくあるように、水に向かって外向きにせり出していた。きっとあそこにぶつかる——そうなったら!……二人が石組みに接触するまでは永遠とも思えた。……アマールが下だ。……アマールの金色の巻き毛が、無情な石に激突して浮き立つのが見えた。握り締めた手が急に弛み、手足が脱力した。別々に落ちた二つが、暗い静かな水面を割った。何もかもしんとして、立てられたさざ波が怒ったように壁に打ち寄せているだけだった。

 ペラギアは一瞬、下を見つめていたが、悲鳴を屋根や河に響き渡らせるや、振り向いて階段を駆け降り、夜の中へと駆け出した。

 五分後ピラモンは、ずぶ濡れになり、痣だらけで血を流しながら、小路の下手にある水際の階段を這い上がっていた。誰か女が裏口から駆け出し、手を握りしめて運河を見つめながら埠頭の縁に立っている。月光がその顔を照らした。ペラギアだった。 彼女はピラモンを見て彼だと知ると、後ずさった。
「姉さん——姉さん。僕を許して」
「人殺し!」と彼女は悲鳴をあげると、差し伸ばされた手を払い除け、狂ったように通路を逃げた。

 道は商品の荷箱で塞がっていたが、踊り子は鹿のように荷箱を跳び越えた。ピラモンのほうは、墜落のせいで気を失いかけており、水の滴る巻き毛で目が見えず、よろめき、倒れ、横たわると、起き上がることができなかった。ペラギアは、本通りに押し寄せて咆哮する暴徒の松明のほうへ数間ほど向かって行ったが、突然向きを変えて横の路地に消えた。ピラモンは舗道の上で呻きながら、この世に何の望みも生き甲斐も無くして横たわっていた。

 五分かそこら、ヴルフは壊れた手すり越しに、ペラギアの悲鳴で出てきた男や女、二十人ほどの脅えた野次馬の頭を見つめていた。

 彼だけは、ピラモンがいたのではと疑い、何が起きたのかと考えて身震いすると、それを自分だけの秘密にした。

 だがペラギアが塔の上にいたことはみんな知っていた。アマールがそこへ上がるのも全員が見た。二人は今どこだ? それに裏の小門が開いているのが見つかったのは何故だ。閉めて暴徒の進入を防ぐにはぎりぎりだった。

 ヴルフは立ったまま、こうしたことを考えすぎるほど考えるのが習いとなった脳の中で、死や惨事といったあらゆる不慮の事故に考えを巡らせた。そしてついに——
「縄とあかりを、スミッド!」と彼は声を潜めて言った。

 物が届くとヴルフは、こんな危険な捜索には自分を行かせてくれと懇願する若手をみんな抑えて、自ら破損箇所から降りて行った。

 三分の二ほど降りると、ヴルフは縄を揺らして合図し、上に居る者たちに押し殺した声で告げた。
「引き上げてくれ。十分見た」

 気を揉み、恐怖に息を飲んで、彼らはヴルフを引き上げた。彼らの間に立ったままヴルフは何分か、何か大きな悲しみの重さに気を失ったかのように黙っていた。
「死んだのか?」
「オージンはご子息を家に召されたのだ、ゴートの狼たちよ」

 そしてヴルフは、畏れに打たれた一党に右手を差し伸ばし、苦悶の涙にくれはじめた。……掌には、血のこびりついた長い金髪がひと房あった。

 奪うように髪を掴むと、男たちは次から次へと手渡した。……一人また一人、いとしいあの金髪だと認めた。そうして、周りに立っていた娘たちが心底驚いたことに、涙を恥じるには勇敢すぎる単純にして偉大な心をもつ彼らは、子供のように泣き叫びはじめたのだった。……我らがアマール! 天上の男、オージン自らの息子、我らの喜び、我らの誇り、我らの栄光よ! その名のとおり、誰もが望んだ我らの「天の王国」、いや、それどころか我が身そのもの、我らの骨の骨、我らの肉の肉だった! ああ、まことの心を持つ人間は皆、理想を奪われれば苦しむ。たとえその理想が、ただの野牛、無情な剣闘士の理想であったとしても。

 やっとスミッドが言った——
「勇者どもよ、これはオージンの裁きだ。ご先祖様は正しい。四か月前に俺たちがヴルフ大公の言うこと聞いてりゃ、決してこんなことにゃならんかったのに。俺たちが怠け者で臆病なんで、オージンはわが子にお怒りになったのさ。俺たち、ヴルフ大公の手下になって、明日からはどこだろうとヴルフの思うとこについてくって誓おうや!」

 差し出された手を、ヴルフは情をこめて握った。
「いいや、トロールの息子スミッドよ。おまえがそんなこと言っちゃいかん。クニファの息子アギルムント、エルメンリックの息子ゴデリック、おまえたちはバルト系だ、継承権はおまえたちにある。さあ、どちらが頭領になるのかくじを引け」
「だめだ、だめだよ、ヴルフ!」と、若者は二人ともただちに叫んだ。「あんたが勇者だ。あんたがサガの男なんだ。俺たちにゃ無理だよ。俺たちは臆病な怠け者だし、他のやつらだってそうだ。ゴートの狼どもはヴルフに従うぜ。巨人の国に連れてかれるとしてもな」

 続いて喝采がとどろいた。
「ヴルフを盾に乗せろ」とゴデリックが、自分の丸盾を外しながら声を上げた。「盾に乗せるんだ、ヴルフ王万歳! エジプト王ヴルフ!」

 この騒ぎに呼び寄せられた残りのゴート族が塔の階段を駆け上って来て、ぎりぎりで「エジプト王ヴルフ!」という雄叫びに加わった。——少年たちが窓ガラスに吹きつける雪を意に介さないのと同様、外で唸りをあげて押し寄せる夥しい暴徒などどこ吹く風だった。
「いや」とヴルフは、掲げられた盾の上に立つと厳粛に言った。
「わしがおまえたちの王で、おまえたちがわしの手下だというなら、ゴートの狼どもよ、オージンに憎まれたこの地を、アルルーナの乙女の無辜の血で酸鼻極まるこの地を、明日にも発って進もうぞ。アタウルフのところに戻れ、同族のところへ! 来るか?」
「アタウルフのとこに戻るぞ!」と男たちは叫んだ。
「あたしたちを置いてきぼりにして、見殺しにしないわよね?」と娘たちの一人が叫んだ。「暴徒がもう門を破りそうよ」
「黙っていろ、阿呆。者ども——やらねばならんことがあるぞ。それなりの供もつけずにアマールをヴァルホッルに逝かせてはならん」
「このあわれな娘っ子どもじゃなくてか?」とアギルムントは言った。彼は、ヴルフは当然、本式のゴート流でアマールの弔いを執り行うべく、奴隷たちを屠ろうとすると思ったのだ。 「ああ。……こいつらの一人が、ついこの昼にファラにも値する振る舞いをしたのを見てな。こいつらも——こいつらだとてやはり勇者の妻になれるかも知れん。……女というのはわしが思っておったよりは良もんだな、女のうちで最悪の者でも。いいや。降りて行って門を開け放せ、勇者ども。ギリシャの犬畜生どもを、オージンの息子を弔う晩餐に呼び寄せろ」
「門を開け放せ?」
「そうだ。ゴデリック、十二人連れて東の広間で待機しろ。アギルムントは十二人連れで中庭の西側へ行け——炊事場の中だ。わしが鬨の声を上げるまで待てよ。スミッドと残りの者は、わしと一緒に厩を通って門のそばまで来るんだ——ヘラみたいに静かにな」

 そして彼らが降りて行くと——下の階段のすぐ上でミリアム婆に行き会った。

 突っ走って疲労し息切れしていたところをピラモンの豪腕に押されて、ミリアムはばったり倒れ、しばらく気を失ったように横たわっていたのだが、審判に遭おうというちょうどそのときに意識が戻ったのだった。

 時が来たのが分かったし、彼女らしくそれに対峙した。
「この妖婆を捕まえろ」とヴルフはゆっくり言った。——「勇者を堕落させる者を——わしらすべての哀しみの元凶だ」

 ミリアムは静かに笑みを浮かべて彼を見た。
「己の色欲と怠惰の報いをこの妖婆のせいにするたわ言を聞くのも、もう疾うに慣れとるわ」
「こいつを斬り捨てろ、トロールの息子スミッド。ニヴル・ヘイム行きの道すがら、アマールの魂とすれ違って彼を喜ばせてくれよう」

 スミッドはそうした。だがあの落ち凹んだ眼窩から睨みつけてくる目のあまりの恐ろしさに目が眩んだ。戦斧はわきに逸れてミリアムの肩を打った。彼女はよろめいたが、倒れはしなかった。
「もう良かろうが」とミリアムは静かに言った。
「呪われたグレンデルの娘め。俺の腕を痺れさせやがって」とスミッドは言った。「行かせちまおうぜ。女を二度斬ったなんぞとは言われたかない」
「遅かれ早かれニーズヘグがこいつを待っとる」とヴルフは答えた。

 そしてミリアムは涼しい顔で肩掛けを体に巻きつけると、背を向けてしっかりした足どりで階段を降りて行った。男たちのほうは皆、まるで何か呪われた超自然的な呪縛から解放されたかのように、呼吸が前より楽になった。
「さて」とヴルフは言った。「持ち場につけ、仇討ちだ!」

 暴徒は半時間かそこら、家の周りにごったがえして甲斐もなく喚いていた。だが高い壁は、上階の細長い窓がいくつか通りに開いているだけで、難攻不落の要塞と化していた。突然、鉄の門扉が後ろに開き、月あかりに照らされた、不気味なほど静かな人気の無い中庭が、最前列の暴徒に露になった。彼らは一瞬、よく分からない恐怖にかられ、謀りかと恐れて後退りした。だが背後の暴徒が彼らを押し出し、ヒュパティア殺しの下手人たちがどっと流れ込んで、わけもなくいきり立って壁や柱にうねり寄せ、息を切らせた厚顔無恥の徒で中庭は一杯になった。そのとき丸門の両側から、武装した背の高い男たちの一団が駆け出し、さらに入ろうとしている者たちを皆、追い返した。門扉が再び敷居を滑って閉じ合わさった。アレクサンドリアのけだものどもが、ついに罠に捕らえれたのだ。

 そうして情け容赦の無い大量殺戮が始まった。三方の扉から別々にゴート族の戦列が現われたが、その兜と鎖帷子のおかげで暴徒の無様な得物では傷つけられようも無く、ゴート族たちは密集陣形の助けを借りるまでもなく、生きた暴徒の塊の間にまっすぐ道を切り開きはじめた。確かにゴート族は一対十の小勢だった。だが一頭の獅子を前にして、十匹の野良犬が何ほどのものか。……月はますます高く昇りゆき、怒れる復讐神の裁きの庭を、青ざめながらも冷厳に見下ろしていた。鉈鎌や剣はなおも斬りに斬り、隙が見つかるとゴート族は、中央の暗い小山のほうへと死体を引きずって行った。そこではヴルフ爺が累々と重なる死人に腰を下ろして、アマールへの賛美とヴァルホッルの栄光とを歌っており、彼の竪琴の甲高い音が、逃亡者や負傷者の悲鳴のうえに鋭く響いていた。周囲の恐怖と苦悶を厳かに嘲笑しながら老歌手が乗ってくるにつれて、この荒々しい円舞の一刻はますます素早く飛び回るのだった。

 かくして、神意とはそうしたものだが、ヒュパティアとは関わりも無い目的と人とによって、彼女の血の一部はその夜に報復されたのであった。

 だが一部である。読師ペテロと彼の特別に親しい仲間たちは、祭壇にぴったり身を寄せて、無傷でカエサレウムの聖域にいたからだ。自分たちが起こした嵐に脅え、官邸に対する攻撃の帰結を恐れて、彼らは暴徒を放置してほしいままに暴れ回らせていた。そうしてゴート族の刃を逃れ、罰を受けないというさらに恐ろしい刑罰を運命づけられることとなったのである。

最終更新日: 2010年11月1日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com