第30章 人の行く末

 真夜中近かった。ラファエルはミリアムの奥部屋に座って、彼女の帰りを三時間ほど空しく待っていた。できることなら先祖伝来の財産を取り戻して一日も待たずにキュレネに運ぶためであり、またできることならあわれなユダヤの老女を仲間になるよう説得し、なだめ、導き、ことによれば改宗させるのが、次の目的だった。——いずれにせよ、財産が戻ろうが戻るまいが、呪われた街から逃げるためだった。無辜の血に塗れ、報復の神の陰鬱な呪いに黒ずんだように思える空気のなかに自分を引き留める緩慢な一刻一分を、ラファエルはいらいらと数えていた。そのような考えに耐えられず、財産を置き去りにして発とうと腰を上げたのも一度ならずだった。だが、過去の自分の生活を思い返して踏み留まった。アレクサンドリアの邪悪の大山に、どれほど罪を上乗せしたことか。どれほど他人を誘惑して、悪事を堪能させたことだろう。善なる神よ! 自ら全力で悪事をなしたばかりか、他人が同じことをするのをどれほど喜んだことか。そうしてまさに今、己の策謀の結実を刈り取っている。これまで何年も、自分の権勢欲や厭人的嘲笑を満たすためだけに、あの邪悪なオレステスを、当人の卑しい本性や意志によるものさえ凌ぐほど邪悪にしてきた。そしてまさにあの傀儡に復讐されたのだ。ヒュパティアの婚約の手を求めるよう吹き込んだのは自分、ほかならぬ自分だ。……面白半分、彼女の優秀さへのやっかみ半分に、自分が唯一人愛していたあの人にあの忌まわしい陰謀を企てたのだ。……自分が彼女を滅ぼしたのだ! ヒュパティアを殺したのはペテロではなく自分だ! 実際に彼女の死を画策したことは一度も無い。……そんなことはしなかった。だが死よりも悪いことを企んだではないか。決してそんなつもりではなかった。……見越したうえでのことではなかった。だがそれは単に、見越そうとしなかっただけのことだ。自分は神であろうとした。己の意志と掟とによって生かし、殺そうとした。見ろ。まさにその行いによって悪魔になったのだ。自分は許されたのだと疑問の余地無く明晰に知ることにによって、ますます激しくなる内なる羞恥と自責のあの悲痛な苦悶から、誰があの神聖なとばりを引けようか——たとえ可能であっても、誰があえてそんなことをしよう。自分が憎み反抗した神が、悪の代わりに善で報いてくれ、あの非道に応じずに褒章してくれたという考え以上に深くあの偉大な心を貫くような、どのような罰への恐れが、どのような空しい絶望がありえよう。いにしえのエゼキエルがラファエルの祖先に警告したとおり、この発見は彼の自己嫌悪の杯を満たした。……憎み畏れた神の名をついに発見してみれば、それは「愛」だった!……ウィクトーリアを、生きた人の姿ではあれ、それでも不完全ながら神の似姿であるものを、我がものとすること。そして彼女の内にわが家を、義務を、生きる目的を持ち、しかるべき労苦の、おそらくは最終的勝利の、明朗な新生を持つこと。……それが罰だった。それがカインの額の烙印だった。これは、彼には耐えがたいほど大きく感じられた。

 だが、なすべきことが少なくとも一つはあった。罪を犯したその場所で、償いをしなければならない。宥めるのでもなく賠償するのですらなく、ただ自分の見出した真理を告白するという償いを。やるべきことがはっきりするにつれて、ミリアムが帰ってきてそれを実行できるようにと彼は切望し、祈った。

 ミリアムが帰って来た。外の部屋をゆっくり通り抜け、中に誰がいるのかを娘たちから聞くと、部屋を出るよう彼女たちに命じて外扉の向こうに閉め出すのが、ラファエルに聞こえた。ついにミリアムが入ってきて、静かに言った。——
「よく来たね。来るのは知ってたよ。ミリアム婆を驚かせることはできなかったのさ。テラピムが昨夜、あんたがここに来ると言ってくれてね」……

 ラファエルの顔に疑い深い微笑を見たのか、あるいは何か突然の良心の呵責にかられたか、ミリアムは声を上げた——
「……いいや。違うんだ! あんたが来るとは思ってなかった。私はうそつきだ、老いぼれた惨めなうそつきだよ、本当のことを言いたくても言えない。優しくしておくれ、笑っておくれよ、ラファエル!——ついにラファエルが、憐れで惨めな、極悪非道の老母のもとに戻ったんだ! もう一度だけ微笑んでおくれ、美しいわが子! 私の坊や!」

 そしてミリアムはラファエルに飛びつき、腕に抱きしめた。
「わが子ですって」
「そうだよ、せがれや。やっと安心してそう言える! やっと私の子になった。もう隠さなくていいんだ。誓約上の子でなかろうと、腹を痛めた子なんだよ」。そうして彼女は狂ったように笑った。「わが子で、私の跡取りさ。あんたのために三十三年、こつこつ働いて貯め込んできたんだよ。急いで! 鍵はここにある。証文はみんなあの戸棚に入ってる——私の物はみんなあんたの物さ。あんたの宝石も無事だよ——私のと一緒に埋めてある。あの黒人女、エウダイモンの女房が場所を知っている。秘密にするよう、あれの小さい木の偶像にかけて誓わせたんだが、あの女はキリスト教徒で、正直だ。あの女は、一生金持ちにしておやり。あんたのあわれな老母を匿って、無事に守ってくれたおかげで、家に戻った坊やに会えたんだ。だけど、亭主の小男には何もやりなさんなよ。あれは悪党で、女房を殴るんだよ。——急いでお行き! 財産を持って立ち去るんだ!……いいや、もう少し居ておくれ——もう少しだけ——このあわれな老魔女は、死ぬ前にもう一度、最愛の子の姿を見て目を楽しませたくてね」
「死ぬ前に? わが子って? 父祖たちの神よ! 一体全体どういうことです、ミリアムさん。僕は、今朝は、アンティオキアの商人エズラの息子でしたが」
「エズラの跡取り息子さ。跡取り息子だよ。最後は彼も全部知ってた。臨終の床で打ち明けたからね。誓って言うが、私らはエズラに言ったし、エズラはあんたをわが子としたんだ」
「私らですって! 誰のことです」
「エズラの女房と私だよ。あの老いぼれ守銭奴は、子どもが欲しくて堪らなかったのさ。それで私らが一人都合してやったんだ——かつて彼の家から出たどんな者より優れた子をね。だけどエズラは、一切を知ってもあんたを可愛がって、自分の子にしたんだ。あの老いぼれ爺は、死んだ後で嗤われるのが恐かったのさ——子無しだと知られるのがさ! いいや——エズラは正しかった——その点では本当にユダヤ人だったね、やはり」
「じゃあ僕の父は誰だったんですか」と、ラファエルはすっかり狼狽して遮った。
 老女があまりにも長々と猛々しく笑ったので、ラファエルは身震いした。
「お母さんの足下にお座り。座っておくれ。……あわれな老ぼれを喜ばせるだけだ。信じてくれなくたって、死ぬまでの一分間、わが子の、いとし子のふりをしてくれるだけでいい。すべて話してあげるよ……たぶんまだその時間はある」

 そこでラファエルは座った。……「あらゆる邪悪が受肉したようなこれが、本当に自分の母親だとしたら……だが——そう考えて高慢にも縮み上がる理由は何だ。もっと清らかな出所に値するほど、自分は清らかだろうか」……老女はラファエルの頭に優しく手をのせると、骨ばった指で柔らかな巻き毛を弄びながら、濁った声で早口に話した。

エッサイ家の者、ソロモンの子孫なんだ。バビロンからローマに至るどんなラビもそれは否定しない。私は王女で、王の心を持っていたし、今だって持ってる。ソロモンその人のような心をね、坊や。……王者の心を……だから奴隷になるのが嫌でね、男なんて暴君がユダヤの女たちに、慰み者になれ、魂の無い人形になれと言い渡すのを笑い捨ててやったのさ。欲しかったんだよ、知恵が、名声が、力が——力が——力が! それを我が民は私には拒んだ。もちろん私が女だったからさ! だから我が民を離れた。キリスト教の坊主どものところに行ったんだ。……あいつらは求めるものをくれた。……それ以上のものをくれた。……女の見栄や、矜持や強情や、結婚なんて屈従を好き放題に軽蔑させて、聖者になれ、天使や大天使の裁判官に、神の花嫁になれと言いやがった。嘘つきめ、嘘つきめ! それで——あんたに笑われたら私は死ぬよ、ラファエル——それでヨナタンの娘ミリアムは——ダビデの家のミリアムは——ルツやラハブ、ラケルやサライの末裔は、キリスト教の尼になった。幻を見よう、夢を夢見ようと閉じこもって、自分はナザレ人ヨシュア・バル・ヨセフの——自分ではエホバ・イシと呼んでいたが、その連れ合いだなんて罰当たりにも夢想するまで狂った自惚れを肥え太らせたんだ。——黙っとくれ! ちょっとでも止められたら、手遅れになるかもしれない。もうあいつらが呼んでるのが聞こえる。あいつらに約束させたんだが、わが子に——私の恥の子に全部話すまでは連れて行かないと」
「誰に呼ばれてるんです」とラファエルは尋ねた。だがミリアムは、一度強く身震いした後、意に留めずに続けた——
「だがあいらは嘘をついたんだ、嘘を、嘘を! あの日、それが分かった。……見ないでおくれ。全部話してあげるから。暴動があってね——キリスト教徒の悪魔と異教徒の悪魔の戦いだったが——尼寺が襲われたんだよ、わが子ラファエル——襲われたんだ!……そのときに奴らの罰当たりぶりを思い知らされた。……おお神よ! そう悲鳴を上げたさ、ラファエル! 諸天を引き裂いて降りて来て——こいつらに雷を落としてください——地を裂いてこいつらを飲み込んでくださいと——奴を崇める憐れで無力な娘を、父も母も一門も、富も、天の光も、女であること自体を奴のために捨てた者を——奴を拝み、瞑想し、昼も夜も奴を夢見る者を守ってくれと呼びかけたんだ。……ラファエル、奴は私の声を聞きゃしなかった。……聞いてくれなかった。……聞かなかったんだ!……その時、みんな嘘だと分かったのさ、嘘なんだと」
「そして、それが何のためだか知った!」とラファエルは、すすり泣きながら叫んだ。ウィクトーリアのことを考えて、全静脈が義憤に滾るのを感じた。

 ——「あの試練に間違いは無かったね、だろ?……九か月の間は狂っていた。それから、あんたの声が、私の赤ん坊、私の喜び、私の誇りが——また正気に戻らせてくれた。それでガリラヤの坊主どもに後足で砂をかけてやって、我が民のもとに戻ったのさ、神がはじめから私をそこに置かれたところに。全員に——ラビたちや父や一族全員に——私を認めさせてやった。誰も私の目の前には立てなかったよ。私は自分の好きなように人を動かせるんだ、ラファエル! 私はやれたんだ——今あんたを皇帝にすることだってできたんだよ、時間さえ残っていれば! 私は戻った。エズラを騙して、彼の息子だとしてあんたを掴ませたんだ、私とあれの女房とで。あいつがビザンティウムにいる間に生まれたんだとエズラに信じさせた。……それからは——あんたのために生きることだ! あんたのために生きたよ。あんたのために富を求めて、インドからブリタニアまで旅をした。骨を折り、蓄え、嘘をつき、悪巧みをして手に入れ、悪事であろうとお構いなしにあるゆる手段で金を勝ち取った——あんたのためではなかったとでも? 私が勝ったんだ。あんたは南地中海一のユダヤ人富豪なんだよ、坊や! その財産に値する子だ。身のうちにはこの母の魂があるからね、私の坊や。あんたを見て、誇らしかった——その狡猾さ、豪胆、教養、ユダヤならぬ犬畜生どもへの軽蔑ぶり。あんたは身の内にソロモンの王の血を感じたんだね。自分はユダの若獅子で、あいつらはあんたのおこぼれを漁りに着いて来る野良犬だという気がしたんだね。それに今は、今は! 唯一の危険は過ぎ去った。あの小賢しい女は逝っちまった——私の若獅子を落とし穴に嵌めようとした女妖術師は、自分がその真ん中に落ちたのさ。若獅子は無事に戻ってきて、諸民族を餌食にし、その骨を粉になるまで引き潰す。『彼は牡獅子のごとく伏し、雌獅子の子のごとく蹲る。誰か之をおこすことをせん』と書かれているとおりだ」
「待って!」とラファエルは言った。「僕に言わせてください、お母さん! 言わなきゃならないことが。僕が好きなら、僕に嫌われたくないなら、答えてください。あの人の死に手を貸したんですか。言ってください!」
「言わなかったかね、私はもうキリスト教徒じゃない。キリスト教徒のままだったら——何をしでかさんものか誰が言えるね? ユダヤ女のこの私がやってのけたことはみんな——私は馬鹿だ! 今度はすっかり証拠を忘れてた——証拠を」
「証拠は要りません、お母さん。お言葉だけで十分です」とラファエルは言って、ミリアムの手を両手でとって、自分の燃えたつ額に押しつけた。だが老女は急いで続けた。——「ご覧。ご覧よ、あんたが狂ってあれにやった黒瑪瑙だ」
「どうやって入手されました」
「盗んだ——盗んだんだよ、坊や。泥棒が盗んで、窃盗罪で磔刑にされるような仕方でね。わが子を恋い慕う母親にとって磔刑の運命がなんぼのもんだ。——三十三年前の暗黒の時に、あの割れた黒瑪瑙を赤ん坊の首にかけて、もう半分は昼も夜も自分の心臓の横にもっていた母親なんだよ。ご覧。どんなにぴったり合うことか。これを見て、あわれな罪深い老母を信じておくれ。見ろと言うのに」。そしてミリアムはラファエルの手に魔除けを押し込んだ。
「さあ、死なせておくれ。誓って言うが、この秘密はあんたにしか話したことはない。あんたにも話さなかったんだよ、私が死ぬこの夜まで。さよなら、坊や。口づけしておくれ、一度だけ—— 一度だけ、わが子、わが喜び! おお、これでみんな報われる。自分はナザレ人の花嫁だなんて寝とぼけていた最後の日、あの日でさえ埋め合わせがつく」

 今言わなければならない、今でなければもう話せないとラファエルは思った。そのせいで全財産を失い、母に呪われようとも話さなければならないと。目は上げられないまま、彼はそっと言った。
「男どもは神のことでお母さんに嘘をついたんですね。でも神が自らについて嘘をついたことがありますか。僕には嘘をつきませんでしたよ。人間を見つけるために僕を世に送り出したときも、「人なる神」が世に生まれたという福音を持って、お母さんのもとに送り返したときも」

 だがラファエルが驚いたことには、予期していた頑固な憤りを炸裂させる代わりに、ミリアムははっきりしない力の無い声で低く答えた。
「神があんたをここに遣したって? そうだね——私が神についてよく夢想したこととわりと似てるね。……偉大な考えだよ、やはり—— 一人のユダヤ人が天上と地上の王だというのは。……まあ——もうすぐ分かることだ。……私はかつて「彼」を愛した。……そしてたぶん……たぶん……」

 ミリアムの頭がラファエルの肩に重く落ちかかってきたのは何故だろう。彼が身を避けると——暗い血が一筋、ミリアムの唇から流れていた。ラファエルは跳ぶように立ち上がった。娘たちが駆け込んできた。娘たちがミリアムの肩掛けを引き剥がすと、彼女が最後まであの鉄の意志で隠し通した凄まじい傷が見えた。もう手遅れだった。ソロモンの娘ミリアムは、己の行くところへ行ったのだ。

* * * * * * * * * * * *

 翌朝早く、ラファエルはキュリロスの次の間に立って、謁見を待っていた。中で大声がした。そしてしばらくして、よく知っている護民官がぼそぼそ悪態をつきながら駆け出してきた。
「何にしに来たんです、友よ」とラファエルは言った。
「あの悪党、引き渡さんのだよ」と彼は声を抑えて言った。
「引き渡すって、誰を」
「人殺しどもだよ。今、カエサレウムの聖域にいるんだ。オレステスが私を引渡し命令に来させたんだが、あの野郎、公然と拒絶しやがった」。そして護民官は急いで出て行った。

 ラファエルは嫌悪の情にかられ、護民官について出ようと背を向けかけた。だが良いほうの天使が勝って、案内してくれた助祭の呼び出しに従った。

 キュリロスは、いつもの習慣で大股で行ったり来たりしていた。訪問客を見ると、激しく問うような眼差しで、急に立ち止まった。ラファエルはすぐに、冷たく穏やかな声で用件に入った。
「私をご存知でしょう、間違いなく。私が何者だったかも。今はキリスト教の洗礼志願者ですが。この街でしでかした過去の悪行をできるだけ償うべく参上しました。お目通しいただけましょうが、淪落の女百名を救済する家を借りていただき、そのうち年あたり三十名に相応の夫を見つける持参金を出していただけるだけの年次合計に関する信用証書がこちらの書類のなかにございます。計画の詳細はすべて整えました。これが間違いなく遂行されていれば、寄付を続けさせていただきます」

 キュリロスがいそいそと書類を受け取り、敬虔な慈善について何かありきたりなことを述べはじめると、ユダヤ人が遮った。
「賛辞はご無用に願います、聖下。この事業と関わりがあるのはあなたの地位であって、あなた自身ではありません」

 その朝、良心にたっぷり不安を覚えていたキュリロスは、ラファエルのそっけない静かな物腰を前にして恥じ入る思いだった。どんなあからさまな叱責をもしのぐ非難が示されているのが、彼にはよく分かっていたのだ。それで、何やら赤面していないわけでもなく、俯いて書類にせわしなく目を走らせた。それから、できるだけ穏やかな調子で言った——
「わが兄弟よ、一言言わせていただきたいのだが、思うとおりに慈善をなさる権利は完全に認めますものの、エジプトの首都大司教としては驚かされますな。ペルシウムのイシドロス僧院長ばかりか、先の共謀に絡んでいる俗世の平民守護官が、一公僕が、共同受託者として私と提携していると知れば」
「この件では、一人ならぬキリスト教司教の助言を受けました。ご権威を認めればこそ、こちらに伺ったのです。聖書の言うことが正しいのなら、世の執政官たちもあなた同様に神の僕なのですから、彼らの権威も私は認めなければなりません。この信託では都督をあなたと提携させたいところでしたが、現在都督の地位にある者と不和でおられるせいで企画が頓挫するかも知れませんので、平民守護官を指名したのです。すでに彼の手にこの書類の謄本を渡しました。もう一つの謄本はイシドロス師に送りましたし、彼はペルシウムにいる私のユダヤ人銀行家全員から一切の金を受け取る権限を得ておられます」
「では、私の能力か公正さか、どちらかを疑っておられるのですかな」と、いくらかいらいらしはじめたキュリロスは言った。
「申し出が聖下のお気に召さないのでしたら、証書からお名前を削除するのは簡単です。もう一言申しますと、私の友人ヒュパティアを殺した犯人を司直に引き渡していただければ、ただちに遺贈を倍額にしますが」

 キュリロスは即座に切れた。
「汝の金など汝と共に失せろ! こともあろうに、金でわが子らを暴君に引き渡せという気か!」
「まず簡明な正義を果たしてくださるなら、いっそうの慈悲をお示しになる手立てをご用立てすると申し出ているのです」
「正義だと?」とキュリロスは声を上げた。「正義だと? ペテロは死んで当然だというのなら、君、まずはヒュパティアが死んで当然でなかったかを見たまえ。私が企てたことではない。私の目の黒いうちは、あんなことにならないよう自ら手を尽くすつもりだった。だがもう起こってしまったのだ——正義を口にする連中にまず見せるがいい、天秤の皿がどちらに傾くか! 大衆には敵と友の見分けがつかないなどと寝とぼけているのかね、君。彼らをまさにあの外なる暗黒に——そこから彼らを解放するために神の子が死なれ、彼らは必死にもがきながらやっとのことでそこから日のもとに這い上がってきたというのに——その無知に、獣じみた情欲に、苛酷な隷属の黒い深淵に引き戻そうと、衒学家が放蕩者と目的を共にしているのに、大衆が手をつかねて座しているなどと思うのか。キリスト教の洗礼志願者だというならだな、君、二日前のあの悪魔の陰謀が成功していたら、アレクサンドリアの運命がどうなっていたか、自ずと分かるはずだ。大衆の攻撃がやりずぎだったから何だ。攻撃したところは正しかったのだ。彼らが、異教徒にしか似つかわしくない激情に駆られたから何だ。そのような激情を身のうちに養わせた異教の数世紀を思い出すがいい。私の教えではなく、彼らの父祖たちの教えを難じたまえ。当のペテロにしても……ただ一度悪魔に譲って、許すべきところを復讐したから何だ。ちょっとした恐怖の発作にかられて、いかなる危険を冒してでも偶像崇拝という欺瞞を粉砕すべきだと思うのも無理からぬ記憶が、彼に無かったというのかね。今や三百年を数える迫害につぐ迫害を、殉教者を——この言葉の含むところを君が知っているならだが——自らの血縁であり一族である殉教者のことをペテロは考えているのだ。彼は、ヒュパティアが昨日復活させようとしたまさにあの哲学、まさにあの神々を奉ずる者どもの手で、父親が盲目の足萎えにされ、姉が、神に身を捧げる尼僧が、道の真ん中で豚野郎に生きながら貪り食われるのを見たんだぞ、たった七歳の少年だったときに。こんな男を裁けるのは神だけだ。私でも君でもない!」
「では、神に裁かせてください。神の僕に引き渡して」
「神の僕だと? 異教徒で背教者のあの都督かね? 彼が苦行によって背教を償い、教会の胸中に戻ると公にした暁には彼に従うだけの間もあろうが、それまでは彼は悪魔の僕以外の何者でもない。いかなる聖職者も、不信心者の裁判所で断罪させはせん。不義なる者に訴え出ることは聖典が我々に禁じているのだ。俗世には私を好きなように言わせるがいい。俗世やその統治者など歯牙にもかけんわ。私はこの街に神の王国を建てねばならんのだ、いや、建ててみせる。現にある礎、キリストという礎以外に礎など有り得ないのは分かっているからな」
「そのために新たに礎を据えようとなさる。既に礎が据えられているのを立証するには妙なやり方ですが」
「何が言いたい」とキュリロスは立腹して尋ねた。
「神の王国がともかく存在するのであれば、それはある種の王国であるはずですし、その『王』が『誰』であるのかを考えれば、あなたの助け無しに、いつの頃からかずっと——おそらくは実のところ、わがユダヤの父祖たちの聖書が信ずべきものであるならば、この世が作られる前からずっと——自ら建ってきたものだ、というだけのことです。神がアレクサンドリアの王であり、聖職者も含めてすべての殺人者を磔刑にするべくローマ法を神がここに置かれたのですから、それに従ってかのハマンほどの高位の者も磔刑になるべしとお考えになるのがあなたのつとめなのです」
「そんなことはもう聞きたくない、君! 私は神に対して責任を負うのであって、君にではない。私に任された権限によって件の者たちを三年以内に正式に破門し、神の教会から追放しよう。それでよしとしたまえ」
「それでは、彼らは今はまだ追放されていないようですが?」
「追放すると私が言っているのだぞ、君! 私の言葉を疑いにここに来たのかね」
「そんなつもりはまったくありません、いと高き閣下。ただ私としましては、神の王国と教会に関する現世的な考えからいたしますと、彼らは神の聖霊を放擲して殺人という残虐な精神を我がものとした瞬間からすでに、覿面極まり無く自らを追放していたのです。このうえなく適切にして賞賛すべきあなたの破門処分はせいぜい、その事実を公にするだけのことかと。いや、もう失礼いたします。期日には額面を揃えます。今ここで私たちにとって一番重要なのはその件ですし。ご配下のペテロとその一味についてはたぶん、あり得るかぎりの最も恐ろしい罰が、やったことに応じて下るのでしょう。あなたが同じ轍を踏まれないようにと願うばかりです」
「私がだと!」と、怒りに震えながらキュリロス叫んだ。
「衷心、聖下のためを思って申し上げたのです。私の考えは何やら世俗的だとお思いなのでしたら、あなたのお考えは——失礼ながら——私には何だか無神論のように思えます。言わせていただけば、ご注意いただきたいのです。神の王国を建てようと忙殺されるうちに、すでに建っている神の王国の諸法のああいうものに目を瞑ることによって、神の王国がどのようなものであるのかをお忘れになりませんように。聖下の偉大なご権能があれば、何かを建てるのに成功されることは、まったく疑っておりません。ただ心配なのです。その国が建ってみると、神の王国ではなく悪魔の王国だと分かって戦慄されるのではないかと」

 返答を待たずにラファエルは一礼して御前を辞すと、その日のうちにエウダイモンとその黒人妻をつれてベレニケから出帆し、己の行くところへ行った。そしてその場所で、厳しくて哀しげだが、人を愛しまた大いに愛された男は、それから何年も働き、人を助けたのである。

 さて今は、我々もアレクサンドリアを去ることにしよう。そしておよそ二十年後に跳んで、この歴史物語で語られた他の人物がみな、どのようにして各々の行くところへ行ったのかを見てみよう。

* * * * * * * * * * * *

 二十年あまり後に、東方で最も賢明で最も聖なる人が、死んで間も無いキュリロスについてこう書いていた——
「彼の死は彼より生き延びた人々を喜ばせた。だが、極めてありそうなことだが、死者を悲しませた。彼の存在が厄介過ぎると分かって彼が送り返されてこないかと恐れるだけの理由はある。……あなた方の祈りによって彼が慈悲と許す心とを得、はかり知れない神の恩寵が彼の邪悪に打ち勝たんことを!」

 こうテオドレトスは書いたのだが、そのときにはまだ、「墓に悔い無し」という福音を告げ知らせる一連の曖昧な近代賛美歌は聖典に加えられていなかったのである。キュリロスも己の行くところへ行ったとしておこう。それが歴史上どこであるのかは、あまりにも周知のことだ。一切の生を永遠の相で見る神の目にそれがどう見えるかは、我々には関わりの無いことである。創造物すべてに慈悲をおかれる神が、正統であろうとなかろうと、ローマカトリックであろうとプロテスタントであろうと、あるいはキュリロスのように真実のために虚偽から始めて悪の道を進み続けて、いにしえの律法学者やパリサイ人とともに遅かれ早かれ確実に行くところに行き着く者であろうと、すべてに慈悲を賜りますように!

 確かに勝ったのはキュリロスとその修道士たちだった。だがヒュパティアの死は報復されなかったわけではない。その邪悪な勝利の時に、アレクサンドリアの教会は致命傷を受けたのだ。善い結果をもたらし得るなら悪行を、信仰を口実にした陰謀を、ついには公然と迫害するというあの習いを教会は認可したわけだが、これは人と人とのつながりや世俗の法とは無関係に宗教だけの帝国を——手短に言えば「神政樹立」を企てるところにはどこにでも忍び込むものであり、それを企てるというまさにその行いによって、「神」がすでに支配していることを内心信じていないのを告白するものなのである。そして、エジプトの教会は年々ますます無法になり、人道を失っていった。外敵が居なくなり、恐怖に強いられた団結から解放されると、教会はその凶暴性を内部に転じ、互いを呪い、排斥し合い、自発的な自殺行為によって自らの生命を食い荒らして自らを寸断し、ついには形而上学的命題のために互いに迫害しあう妄信的宗派の単なる混沌になり果てたのだが、そうした諸命題は真であれ偽であれ、分派の標語に用いただけであるから、彼らが口にすれば等しく異端であった。彼らは正義も愛も平和も知らなかったのだから、正統であろうとなかろうと神を知らなかったのである。……彼ら『その兄弟を憎む者は暗黒にあり、暗きうちを歩みて己が往くところを知らず』……やがてアムルとそのムハンマド教徒たちがやって来ることとなった。その事実を知ろうと知るまいと、彼らは己の行くところへ行ったのである。

   神の碾臼は緩やかに巡れど、すぐれて細かに挽きたまう
   神は忍耐づよく立ち待てど、余さずすべてを挽きたまう

 しかるべき時にこのことを、アレクサンドリアの聖職者たちと同様に哲学者たちも知ることとなった。

 ヒュパティアの死の二十年後、哲学の火はまさしくその燭台の底穴で揺らめいていた。ヒュパティアが殺されたのが致命的打撃だった。身も蓋も無い言い方をすれば、自分たちが人類には無用になったことを哲学者たちは知らされたのである。彼らは天秤にかけられ、足りないものが分かったのだ。福音書以上に説くべき良いものを持たないのであれば、それを持つ人々に道を譲るしかない。そして彼らは道を譲った。以降、彼らやその知恵について我々が伝え聞いていることはほとんど、あるいはまったく無く、プロクロス、マリヌス、イシドロス、そのほかの人々が「プラトン継承の金鎖」を保っていたアテナイを別にすれば、次々とますます深く混迷の領域に——物質的なものと霊的なもの、主観と客観、道徳と知性との混迷へと沈んで行き、首尾一貫しているのはただ一つ——すなわち、彼らの排他的パリサイ主義だけだった。人として人のために福音を示すことも、あるいはそのような可能性を考えることすらまったくできず、徐々に、唯一彼らが憎むあの観念——つまり受肉という観念と絡まないあらゆる迷信を、ますます独りよがりに見るようになっていった。奇跡のしるしを切望し、魔法や占星術や蛮族の呪物信仰をかじってみたり、堕落した時代を嘆いて自分の思想以外のあらゆるかたちの人間の思想に不平たらたらに吠えかかったり、ひどいギリシャ語とそれ以上にひどい趣味、それを上回るひどい奇跡に満ちたご大層な伝記物を書いたりした。……

   ——今際の際の凄まじき様
   妬み深い怠惰と、老い耄れた高慢
   信なく、技なく、王なく、僧なく、神もなく
   凍てつく生命の泉を囲み、円座になって罵り合い
   剥げた芝生に屈み込み
   還らぬ春を空しく論じ
   救えぬ死せる神々に泣きついて
   歯抜けの体系は墓に慄く

 彼らの悲劇の終幕には、一抹の哀調が無いこともなかった。……五百二十九年、ユスティニアヌスはついに勅令でアテナイの諸学派校を閉鎖した。諸学派は世に対してもう何も言うことが無かったのだが、世のほうはそれ以前に千度もあくびをしていた。この祝福された沈黙を、どうして今更そんな雑音で破らなければならなかったのか。哲学者たち自身がそう感じたのだった。死んで証明するようなものは何も無いので、殉教者になる気は無かった。人類に伝えることは何も無かったし、人類のほうも哲学者たちにはまったく無関心だった。彼らに残されていたのは、自らの魂の世話をすることだけだった。拝火教徒の純粋な一神教や、哲人皇帝ホスローとそのマギという神聖階級に、何かプラトンの理想国と似たものを見た気がして、彼らのうちの七人はペルシャへと向かい、その実現された理想国において、憎むべきキリスト教の存在を忘れようとした。ああだが現実は! その最も純粋な一神教には、頑迷と蛮行、奢侈と暴政、後宮と絞殺縄、近親婚や、野の獣や空の鳥に野晒しにされた死体が、完全に共存していたのである。そこで尤もながら自分の首を案じ、心疲れたギリシャ最後の七賢人は、まともな人々の間で平穏のうちに死のうと、逃げ出してきたキリスト教の帝国へと帰郷する許可を、ホスローがユスティニアヌスから得てくれたのにすっかり満足したのだった。そうして彼らはまともな人々の間で死に、人類への彼らの最後の遺産としてシンプリキオスの『エピクテトス「提要」注解』が残されたのだが、これは、それに従えばまったくのパリサイ人に劣らずに神の地上を暗くするであろうような主我主義の手法に関する論評だった。彼らの灰に幸いあれ!……彼らは己の行くところへ行ったのである。

* * * * * * * * * * * *

 ヴルフもまた、それがどこであるにしろ、己の行くところへ行った。彼はスペインのアタウルフとプラキディアの宮廷において、寿齢と名誉の絶頂で死んだ。彼は支配権を正当な族長の手に委ねて長生きしたので、ゴデリックなど年下の仲間が武装してヴァンダル族やスエーヴィー族を陽の当たる坂道から追い払い、そこにアレクサンドリア人の花嫁たちと住み着いて、「最高に青い血の」カスティリャ貴族の祖先となるのを目にすることができた。ヴルフは、自分が生きてきたとおりに、異教徒として死んだ。プラキディアは高潔で気高い魂をすべて愛したので、ヴルフのことを大変気に入っており、一度は洗礼を受けるように彼を説得するのに成功したことがあった。アタウルフ自らがヴルフの洗礼の名付け親の一人になった。洗礼盤に歩み寄っている最中に突然老戦士は司教を振り向き、異教徒である自分の先祖の魂はどこにあるのかと尋ねた。「地獄に」とご立派な高僧は答えた。ヴルフは洗礼盤から退いて、熊の毛皮の外套を身に纏った。……「アタウルフさえよければ、自分は身内のところへ行きたいのだが〔原注: 事実〕」と。かくして彼は洗礼を受けないまま死んで、己の行くところへ行ったのだった。

 ウィクトーリアは、まだ生きて忙しく働いていた。だがアウグスティヌスの警告が実現していた。——彼女は肉の煩いを知ったのである。主の日が来て、今やヴァンダル族の暴君たちがアフリカのすばらしい穀倉地帯の主人となっていた。彼女の父と兄はヒッポの崩れた壁の下に、ラファエル・アベン・エズラと並んで横たわっていた。侵略者の群から自分たちの領土を守ろうと空しく試み、何年も前に殺されたのである。だが彼らは英雄の死を遂げたのであり、ウィクトーリアはそれでよしとしていた。そして、慈悲の天使よと彼女にすがりつく、蹂躙されたカトリック教徒の間では、彼女もまた奇妙な不幸と恥辱を忍んだのだと囁かれていた。ウィクトーリアの華奢な手足には恐ろしい拷問の傷跡があった。彼女の家の、彼女以外は誰も入ったことのない一室には幼い少年の墓があり、アリウス派の迫害者の手によって殉教した自分の一人子が横たわるその場所で、ウィクトーリアは長い祈りの夜を過すのだった。いいや、あの恐ろしい強襲の嵐に直面してその猛威を生き延びた僅かな人々のうちのある者は断言しているのだが、恥辱と苦悶の只中で彼女自身が、栄光ある死に向かって怖気づく少年を励ましたという。だが、肉の煩いを知ったにもかかわらず、彼女の霊は何の煩いも知らなかった。オスティアの野で父の横を歩いていた時のように、澄んだ目をして楽しけにヴァンダル族の劫掠や迫害の犠牲者たちの間をあちこちまわって、以前の富の僅かな残りを障害者や病人、破産者のために遣い、その純粋と敬虔とによって、蛮族の征服者からさえ崇敬と好意とを勝ち取ったのだった。彼女にはやるべき仕事があったし、それをこなして満足していた。そしてしかるべき時に、彼女もまた己の行くところへ行ったのだった。

 パンボ僧院長は、アルセニウスと同様、死んで数年が経っていた。パンボの死に際の指示で、近くの砂漠から来たある隠者が僧院長の座に就いたのだが、その人は並外れた禁欲や不断の祈り、愛ある知恵、また噂によると奇跡の力に帰するほかない数々の治療によって、何里四方にも渡って知られていた。彼はまだ壮年だったが、本人の懇願に反して切り立つ断崖の隙間から引き出されてスケティスのラウラを司ることになり、パンボの助言でその教区の司教によって助祭に任命されたのだが、その三年後にはその教区司祭が命じて、彼を司祭職に就かせたのだった。年上の修道士たちは、そんな若輩者に指図されるのは屈辱だと考えたが、彼の運営のもとで僧院は急速に成長し発展した。彼の優しさや忍耐、謙遜、何にもまして同世代の人々の疑問や誘惑に対する素晴らしい理解力に引かれて、近隣の修道院で鋭敏さや強情さのせいで持て余されていた者たちが周りに集まってきた。不満を抱いた者や虐げられた者が山中のダビデのもとに集まったように、彼のもとに集まったのである。近隣の僧院長たちは、収税人や罪人と飲食を共にした人に対するように、はじめは彼を避けたがったが、見捨てられたものとして自分たちが追い払った者たちが、ピラモンのもとで楽しげに大人しく働いているのを見ると、口をつぐんだ。スケティスの年上の世代もまた、罪人たちが新たに流れ込んで来るのをいくらか恐れながら見ていたが、彼らの抗議に対して僧院長が答えたのは一つだけだった。——『健やかなる者は医者を要せず、ただ病ある者これを要す』と。

 どんな人に対してもこの若い僧院長が無慈悲なことを言うのは聞かれなかった。「七年間、罪人を改宗させようと試みても無駄だったのであれば、彼のほうが自分よりも悪人であるのかどうか疑う権利を持てようというだけのことだ」と彼はよく言っていた。万人のうちに善の種子があり、万人と競う神の言葉すなわち霊があり、僧院長や僧侶たちが正しく伝道することさえできれば、万人の心を転じさせる善き知らせ、すなわち福音があるというのが彼の気に入りの教義であり、まれなことだがたまに、何らかの主題について論じてもよい気になったときにはよく、アレクサンドリアのクレメンスの著作に基づいて、この教義を擁護したものだった。何よりも彼は、異端者であれ異教徒であれ罵ろうとするどんな試みも、厳しい叱責によって止めたのだった。「どんな異端や不信仰の咎めも、カトリック教会にしかない。たった一日でも教会があるべきものであったなら、夕暮れまでに世界は回心させられただろうに」と彼はよく言っていた。実際、諸罪の一類には、つまり宗教者の諸罪には彼は容赦が無く——ほとんど冷酷なほどだった。どんな人であれ正統的信仰と聖性を評価されていればいるだけ、その人に対するピラモンの判定は厳しく容赦がなかった。公正でなかったことが判明したのも一度ならずだった。自分が公正でなかったことに気づくと、彼は誰よりも率直に自分の誤りを告白し、誰よりも苦い思いでそれを恥じた。だが原則から決して外れることはなかった。それで、収税吏や罪人が彼を愛し、彼に従ったのと同じくらい、ナイルのパリサイ人たちは彼を恐れて避けたのである。

 彼のふるまいのなかでただ一つだけが、悔悟を必要としない正しい人々に、中傷の手がかりを与えていた。超人的聖性に関する評判を勝ち得るもとになった不断の祈りと修養の長い夜の、彼の最も厳粛な勤行において、いつも祈祷に二人の女の名が混じっているのは周知のことだった。ある立派な年長者がその年齢を頼みに思い切って、そのようなふるまいがより弱い兄弟たちの何か中傷のもとになっていると、親切心からあえて仄めかしたところ、「本当のことです」と彼は答えたのだった。「兄弟たちに言って下さい。私は二人の女人のために夜ごとに祈っているのだと。二人とも若く、美しく、私の魂以上に私に愛されたのだと。さらにこう言って下さい。二人のうち一人は売春婦で、もう一人は異教徒だったと」。その老僧は口を手で覆って引き下がった。

 彼の残りの伝記については、紀元六百四十年にアレクサンドリアがアムルの手に落ちた際にその重要な著作の大部分が破壊された、グライディオコロシュルトゥス・タベンニティクス『ナイル聖者伝』の未刊の断片から抜粋するほうが良さそうだ。

「さて前述の僧院長が非凡なる思慮によって、美徳と奇跡にきらめいてスケティスの修道院を七年間指導していた折、ある朝彼が聖務に遅れたことがあった。そこで助祭でもあった或る年老いた兄弟が、そのようにまれな怠慢の原因を確かめに遣られたところ、その聖者が、霊においては遥かに隔たるとはいえ肉においてはバラムのごとく、忘我に陥り、だが目は開いて自房の床に横たわっているのが見つかった。助祭は、何かが天から彼に降り来たったものと正しく判断し、あえて起こさずに正午の時刻までその傍ら座っていた。時刻になると、聖者は驚きもせずに起き上がり、『兄弟よ、私のために聖餅と葡萄酒とを用意してください。聖別しますので』と言った。何のためかと理由を尋ねると、聖者はこう答えた。『ここを離れる前に兄弟全員で聖餐を分かち合いたいのです。七日のうちに天の住まいに移ることが間違いなく分かっているので。というのも昨夜の夢の中で、私が愛しそのために祈っているあの二人の女人が、一人は白い装い、もう一人は紅玉色の衣で互いに手を取り合って私のそばに立って言ったのです。“死後の生は思っているようなものではない。ゆえに我らとともに来て、それがいかなるものかを見よ”と』。その言葉に心痛めて助祭は出て行ったが、聖なる服従ゆえだけではなく、祝福された僧院長の聖性ゆえに、ためらうことなく言い付けに従って聖餅と葡萄酒とを整えた。それを聖別すると僧院長は、至聖の聖餅と葡萄酒とのほんの一部だけを残して、兄弟たちに分配した。それから兄弟全員に平安の口づけを与えると、自ら手に聖皿と聖餐杯とを持ち、修道院から砂漠へ向かって行った。もう顔を見ることは無いと分かっていたので、兄弟会全員がすすり泣きながらついて行った。だが或る山の麓に着くと僧院長は立ち止まって兄弟たちを祝福し、これ以上ついてきてはいけないと命じて、こう言って彼らを去らせた。『汝らが愛されたように愛しなさい。裁かれたように裁きなさい。許されたように許しなさい』と。そうして昇って行って、兄弟たちの目には見えなくなった。そこで彼らは驚いて戻ると、祈り、断食して、眠らずに三日を過ごした。だがついに最年長の兄弟が、エリヤのともがらの懇願を前にしたエリシャのように恥じて、二人の青年を彼らの主人の捜索に遣わした」

「注目に値し、奇蹟に満ちたことが彼らにふりかかった。僧院長と別れたのと同じ山に登っているとき、キリスト教の真理を嫌ってはない或るムーアの人々に会ったのだが、彼らが明言したところによると、何日か前に、聖皿と聖餐杯とを携えた僧侶が彼らとすれ違い、黙って彼らに祝福を与えると、聖なるアンマの洞窟の方に向って砂漠を横切って進んで行ったのだという」

「そこで二人が、そのアンマとは誰かと尋ねると、ムーア人たちはこう答えた。二十年ほど前、あの山々に、この地方ではかつて見られたことがないほど美しい女が、豪華な衣裳を纏ってやって来た。女は少しの間彼らの部族の間に滞在した後、身につけていた宝石を彼らに分け与えると進んで隠遁生活に入り、近くの山の最も高い丘の上に寓居した。やがて衣が傷み落ちると、時おり女への供物の果物や食事を運んでは女の祝福の祈りを求める部族の女数人のほかには、人類から身を隠した。その女たちにも稀にしか姿を見せず、並外れて長く艶やかな黒髪に足元まで覆われていた」

「これを聞いて二人の兄弟はしばし疑ったが、ついには決心して先に進み、日暮れ頃に前述の山の頂に着いた」

「見よ、ここにある偉大な奇跡を。何となれば、新たに砂に穿たれた露な墓の上に、禿鷹などの穢れた鳥どもが雲のごとく舞っていたのだが、あたかも中には何か神聖な埋蔵物が奉られているかのごとく、二頭の獅子が鳥どもと猛然と戦って鉤爪で追い払っていたのだから。二人の兄弟は聖なる十字のしるしでもって身を護り、獅子どものほうへと登って行った。すると、護衛の任務期間を果たした獅子どもは退いた。あとに残った光景に兄弟は驚き、注視し、涙なくしてはいられなかった」

「何となれば露な墓の中にはピラモン僧院長の亡骸が横たわっていたからである。その傍らには、ムーア人たちが述べたとおりの並外れて美しい女の遺体が、僧院長の外套に包まれてあった。それを弟が姉にするように固く抱きしめ、唇を唇につけて、僧院長は魂を神に委ねていた。 あの至聖の聖餐を女に与えなかったわけでもないように見えた。何となれば墓の横には、その神聖な中身の空になった聖皿と聖餐杯とがあったからである」

「それを無言のうちにしばし見つめ、かような事柄の正しい理解は天上の審判の座のすることであって、聖職者が理解する必要は無いものと兄弟たちは考えた。そこで急いで墓を埋めると、泣きながらラウラに戻り、目にした奇妙な諸事をつまびらかに述べた。著述者である私が至聖にして最も信頼に足る口から聞き集めたこれらの事実については、知恵はその子らすべてによって証されると言えるのみである」

「さて、戻る前に兄弟の一人が、聖女の住んでいた洞窟を探したところ、そこには食物も家具も他の物も無く、誰も読めない異国の文字を刻んだ奇妙な細工の大きな金の腕輪が見つかっただけだった。腕輪はスケティスのラウラへと持ち帰られ、聖なるアンマの記念として礼拝堂に奉納されたのだが、その霊験のなせる奇跡により、一切の疑惑を超えて、元の持ち主の聖性を証明した。その評判はテーバイド全域に広まり、群をなす嘆願者を無数にその聖遺物に引き寄せた。だが、ゲイセリック王とフネリック王がアフリカを蹂躙し、カトリック教会を無数の殉教者で満たすこととなったヴァンダル族による迫害の後、アリウス派の異端に染まり、成功のせいで不敵になっていたヴァンダル族の或る蛮人どもが、モリタニア方面からテーバイド地方へとなだれ込んだ。蛮人どもは修道院をことごとく劫掠して焼き払い、神に身を捧げる乙女らを陵辱しながら、ついにはスケティスの修道院にまで来たのだが、蛮人どもの不敬な慣わしどおりに、祭壇を穢し聖器を持ち去ったばかりか、ラウラ随一の栄誉であるあの最も聖なる遺物——すなわち聖なるアンマの腕輪をも奪い去り、不敬にも、それを己の部族の或る戦士のものだと言い張って、そこに刻まれた銘をこのように説明した——

   アマール族のアマラリックのために、トロールの息子スミッドこれを作る

 この点について話が真実であろうとなかろうと、聖物窃盗は罰を受けずには済まなかった。何となれば故郷に帰らんとナイル川を海へと向かっていた折、酒で泥のように眠り込んでいるところを、その地方の者たちに襲われ、一人残らず惨めに滅ぼされたのであるから。だがその敬虔なる者たちが、聖なる黄金をもとの聖域に返して報いられぬことは無い。何となればその日以来——盲人には光を、足萎えには力を、悪魔憑きには正気を取り戻すという——さらにも新たなる奇跡によって、正統なるカトリック教会とその永遠に祝福されたる聖者たちの名誉にとって、輝かしいものとなったのであるから」

* * * * * * * * * * * *

 それはそうと。ペラギアとピラモンは、他の者と同様、己の行くところへ行った。そのような者がそのような日々に安息を見出せる唯一の場所に、砂漠や隠者の房に向かい、それから聖者の人生がすべて以降何世紀にも渡って包まれる運命になる伝説と奇蹟からなるお伽の国へと向かったのだ。

 では読者諸氏よ、いざさらば。私があなた方に示したのは古い相貌の新たなる敵——外套や帽子のかわりに長衣や短衣をまとったあなた方自身の肖像である。お別れのまえに一言。この昔のエジプト人たちを誘惑したのと同じ悪魔があなたを誘惑する。この昔のエジプト人たちが望むのであれば彼らを救ったのと同じ神が、もしあなたが望むのであればあなたを救うだろう。 彼らの罪はあなたの罪、彼らの誤りはあなた誤り、彼らの破滅はあなたの破滅、彼らの救いはあなたの救いなのである。日の下に新しきものなし。既にあった事は後にもある。あなた方のうち罪なき者は最初に石を投げるがいい、ヒュパティアにであれペラギアにであれ、あるいはミリアムやラファエル、キュリロスまたはピラモンにであれ。

最終更新日: 2010年11月1日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com