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歴史編
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規格外の大天才、粘菌サンプルはキャラメルの箱で

 南方 熊楠 (みなかた くまぐす) 1867〜1941

【和歌山市生まれ】

▼言わずと知れた大天才ですが、では何をした人なのかを具体的に言うのが難しいのでは(笑)?天皇にキャラメルの箱を渡したとか、そんなイメージではないでしょうか。

▼まぁ要するに学問の範疇で言うなら植物学とか細菌学とか、メインはその辺りなんではありますが・・・他にも天文学や民俗学、宗教学なんて部分も。ややこしいのは何せこの人、ありとあらゆる分野に顔を出した上、それなりの成果を挙げているもんだから、いわゆる「何学者」とも言えないんですわ。だから「大天才」と言われてるんですな。それぞれの学問の垣根は、この大天才にとっては邪魔な物だったようです。

▼天才の片鱗はすでに幼少の頃に現れています。全105巻にも及ぶ漢文で書かれた本などをすべて「写本」してしまっています。植物が好きで、いつも野山で活動してましたが、根を詰めすぎて数日間家に戻らなかったことも。和歌山中から東京大学予備門と進みますが、熊楠のレベルが高すぎ中退(笑)。

▼国内レベルでは熊楠に学究の満足を与えられる門戸が無かった為、熊楠は20歳で渡米。現在で言うホームステイをしながら勉強し、26歳で今度は英国へ。ここでは天体の研究が認められ、ついにあの大英博物館の嘱託職員に。差別や誹謗中傷に遭いながらも信念を貫き、多くの有益な研究成果や知識を得ます。

▼34歳で日本に戻りますが、熊野の自然環境を研究する為、田辺に本拠を構えます。孫文(←中国建国の父)や柳田国男(←知ってます?航空機事故の時に出てくる柳田邦男さんとは違いますよ)といった当時のビッグネームとも学問を橋渡しに親交を深めています。

▼熊楠が生涯で一番怒りを顕にしたのが、明治後期のいわゆる「神社合祀」という政策を政府が押しつけてきた時。これって、寺院も神社もごちゃまぜにして、政府が癒着する神道を純化して推し進めるためのもの。不要な(と政府の考える)寺社を潰して周囲の森や林を伐採しまくったもんだから、そりゃ怒りますわな。研究対象を破壊されたからではなくて、それ以前に森林って神聖なものでしょう。森には神様が住んでいるんですから。中央学会に働きかけ、数々の投書を行い、挙句の果てには集会に乱入し逮捕されています。

▼生物学者でもあった昭和天皇の南紀行幸の際、粘菌の標本100種余りをキャラメルの箱に入れて献上したエピソードはあまりにも有名です。普通できまへんで・・・。

▼熊楠の没後に昭和天皇が再度、南紀行幸した際、「雨にふける神島を見て紀伊の国の産みし南方熊楠を思ふ」という歌を読んでいます。個人的な利害に拘ることなく自由に生きた熊楠は、ほんの少しの出会いでしたけど瞬時に心の通じ合った、昭和天皇の良き友人であったのかもしれませんね。

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徴兵制の生みの親、はからずも皮革産業の産みの親

 津田 出 (つだ いづる) 1832〜1905

【和歌山市生まれ】

▼旧和歌山藩の執政大夫。いわゆる「徴兵制度」といわれるものの生みの親ですね。郡県制度の確立にも貢献しましたが、軍事訓練にドイツ式のプロセスを取り入れたりしてそっち方面で御活躍されたようです。

▼徴兵制やドイツ式訓練を取り入れているうち、必要になってきたのが「軍服」。軍服には革靴がつき物・・・というわけで、和歌山の皮革産業が勃興することとなったのです。

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海援隊を支え日本を支えた、明治外交の重要人物

 陸奥 宗光 (むつ むねみつ) 1844〜1897

【和歌山市生まれ】

▼中学校で習いますよね。元々はもちろん紀州藩の出ですが、京都に移った後に勝海舟の海軍操練所に入りました。さらに24歳の時に、かの坂本竜馬の海援隊に入隊。尊皇攘夷運動に尽力しました。

▼その後は外務大臣などを歴任し、日英通商航海条約の締結や、日清戦争の講和(下関条約)など、明治政府を語る上で絶対に外せない最重要キャラクターの一人となりました。

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和歌山女性の象徴・悲劇のヒロインは透き通るほど純粋だ

清姫 (きよひめ) 生没年不明

【中辺路町生まれ】

「安珍清姫」伝説で有名な清姫は、熊野古道の重要地点中辺路町真砂生まれ。この伝説は、奥州白河から、若い僧侶である安珍がはるばる熊野詣にやってきたことから始まります。

▼安珍はその日の宿にと訪れた民家ですばらしく美しい女性に惹かれてしまいました。その名を清姫といい、清姫も安珍に心を寄せました。安珍は、清姫を妻に迎える決心をします。無論、異存などあろうはずのない清姫。

▼ところがある夜、障子に映った清姫の姿・・・これが何と蛇!実は清姫、おかんが白蛇。黒蛇に食われそうになった白蛇のおかんを人間である清重が助け、白蛇おかんは妻に先立たれた清重の後妻となりその二人の間に清姫が生まれたのです。

▼さて、心臓が止まるほど驚き慌てた安珍、逃げの一手。「熊野詣が終わったら、ここに戻って来る」と言い残しスタコラサッサと逃亡しました。一応、熊野詣は外せない安珍は、とりあえず熊野詣を済ませ中辺路を横目に現在の田辺市の方まで行ってしまいました。

▼「帰りが遅い」と心配した清姫が、通りすがりの巡礼に尋ねたところ安珍を目撃していたその巡礼は、清姫のヘビ疑惑など知る由もなく「彼は田辺の方へ向かっている」と暴露。今度は清姫がびっくり。慌てて追いかけ、田辺の越境地である潮見峠にある杉の大木に登り田辺の会津橋を渡り逃亡中の安珍を発見。

▼さあ、どうする清姫・・・ん?大蛇となって安珍を焼き殺した?はいブー。川辺町の道成寺の鐘に隠れた安珍を、鐘ごと焼き殺したとか言うんでしょ。それはホンマの作り話。情熱的な和歌山女性のイメージがそういうお話に発展したものなんですよ。

実際は、愛する安珍に裏切られ傷心した清姫、「この世で夫婦になれないのなら、あの世で」と自宅近くの庄司ヶ淵にて投身自殺・・・。現在でも、真砂の人々は気の毒な清姫に想いを寄せて庄司ヶ淵に鎮魂碑を建て、毎年供養を行っています。

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天下の知識人、日本国憲法文言の根幹を作る

山本 玄峰 (やまもと げんぽう) 1865〜1961

【本宮町生まれ】

▼臨済宗妙心寺派官長。かの有名な、終戦の際の玉音放送の一説である「耐え難きをを耐え、忍び難きを忍び」のくだりはこの山本玄峰の言葉なんですよ。

▼さらに終戦後の新憲法立案に際し憲法調査委員会が「民主主義」と「天皇制」のバランスに困った際困り果てて藁をも掴む思いで助けを求めて訪れたのも彼の所。天皇の定義について禅問答を行った末の結論は「天皇は空に輝く国民の象徴みたいなものだ」と歴史的な名解答にたどり着きました。目の前の霧が晴れるような思いで東京に戻った調査委、さっそく新憲法にその言を取り入れる事となり一件落着。

▼彼は若い頃は熊野の山で木を切ったり筏流しをしたりしていましたが、眼病を患い長い闘病生活を経験。なかなか治らない眼病に対し、四国遍路の路を選択しました。7回目の遍路で高知まで辿り着いたのですがそこで行き倒れになってしまいます。

▼そんな玄峰を助けたのは高知にある「雪渓時」住職、山本太玄。彼はここで仏門に入り、厳しい修行の日々を送りました。結果、臨済宗のトップに名を連ね、日本屈指の知識人・高僧として政府からも信頼を得たのでした。

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口語による詞を産んだ、童謡の神様

東 くめ (ひがし くめ) 1877〜1969

【新宮市生まれ】

▼童謡作家。東京音楽学校(現・東京芸術大)卒。この名前を知っている人はどれだけいるでしょうか?でも「鳩ぽっぽ」「お正月」「雪やこんこ」という童謡は皆さん知っていますよね。そうです、それらを作詞した人です。

▼彼女は日本で初めて「話し言葉」での童謡を作りました。これに滝廉太郎が作曲を担当するという当時最強コンビによるコラボレーションで、明治後期〜昭和初期の音楽シーンにその人ありと言われたそうです。ちなみに滝廉太郎は彼女の大学時代の後輩。

▼新宮駅前には「鳩ぽっぽ」の歌碑があり、自身も1962年、新宮市の名誉市民となりました。

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経営の神様は、和歌山との縁は薄かった

松下 幸之助 (まつした こうのすけ) 1894〜1989

【和歌山市生まれ】

松下電器の創業者。「経営の神様」。1987年、勲一等旭日桐花大綬章を受けています。昭和35年、和歌山初の名誉市民に。でも和歌山で松下家はいじめられていたとか、嫌われたとかで本人の和歌山への思いは少々複雑だったようですな。

▼父の事業失敗を契機に、彼は9歳ですでに大阪に丁稚奉公に出ています。1910年、大阪電灯(現・関西電力)に入社、同時に夜間学校(関西商工)へも通う努力家。1917年、同社退職、二股ソケット開発。これが大ヒット!翌年松下電器製作所を創業。家族で会社を切り盛りしていたのですが、そのうちの一人、妻の弟である井植氏は後に三洋電機設立というスゴイ環境。

▼ちなみに「ナショナル」の商標は1927年からです。公募によるものでしたが、現在で一億円に相当する賞金が出たとか。戦争の時、軍事用の無線機器なども作っていたので戦後公職追放という処分を受けました。追放中、経営者の理念などを本にまとめる出版活動を開始。それがあのPHP文庫(黄緑色と白色?の文庫本)。

▼松下電器復帰後もフル回転、大量生産によるコスト削減と全国に張り巡らせた販売網で他企業を圧倒しました。そういえば昔、ナショナルチェーン店ってありましたよね。あれです。彼は私財投入のプロフェッショナルでもあったので、これだけの地位を得た人にしては比較的質素な生活だったそうです(さすがに土光敏夫にゃ負けるでしょうけど)。

▼80歳になった1973年、相談役に就任し事実上第一線からは退きました。1989年、94歳で死去。和歌山には「松下体育館」を作りましたが大規模な工場はひとつもありません(^^ゞちなみに「和歌山マリーナシティ」の経営母体の「MID」は松下グループです。

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陰口・中傷にめげず理想を追求した平和主義者

片山 哲 (かたやま てつ) 1887〜1978

【田辺市生まれ】

和歌山人初の内閣総理大臣。そして何と、史上初の社会党首班内閣の総理大臣!これは凄い事ですよ。だって日本は資本主義国なのに。ただし、選挙区は神奈川県。そんな経緯もあってか「クズ哲」の気の毒なアダ名も。

熱心なクリスチャンで、歴代で唯一まともな平和主義を掲げた総理だったようですね。この人は結局、なんだかんだで計11回、衆議院議員として当選しています。無論、それだけの人ですから重職である社会党の書記長、委員長を歴任。田辺市はおろか、和歌山が誇る偉人のひとりです

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陛下の御命令を最後まで守り抜いた真の漢の生き様を見ろ!

小野田 寛郎 (おのだ ひろお) 1922〜

【海南市生まれ】

「小野田少尉」と言った方が有名です。終戦を知らないままフィリピンの山奥(ルバング島)で27年8ヶ月の間陣地を守り続けた英雄です。和歌山ではいわゆる「ロクイチ(第61連隊)」に所属、その後、あの中野学校でゲリラ戦の訓練を受けました。

▼ルバング島では数名で居残りスパイみたいな役目をしてましたが、終戦後も数度の武力衝突が起こり、同様に潜伏していた戦友が次々に戦死。政府は何度か捜索隊を出しますが残念ながら空振り。そんななか彼は、ある日本人冒険家と遭遇しますが「命令があるまでは、ここを動くわけにはいかない」と頑なに日本に帰ることを拒否し続けていました。しかし元上官の必死の説得により、ついに1974年3月日本政府派遣救出団の前に姿を現しました。

▼当時の写真では、反り返るほど背筋の伸びた姿勢から右手をこめかみに当てる美しい敬礼と日本陸軍の将校としての厳しい表情をしていましたが二年後に故郷を訪れた際にはとてもやさしそうなおじさんの顔になっていたのが印象的でした。

▼帰国後、一部の人から誹謗中傷を受けた事もあり、ブラジルに移住。牧場経営でなんとか成功しました。忘れちゃいけないのが奥さんの存在。ブラジルに移住した寛郎氏を追いかけ結婚(これって押し掛け女房?)。影から日向から強力サポート。

▼現在小野田氏は「小野田自然塾」を主催し青少年の育成に尽力されています。まだご存命ですよ!念のため。

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和歌山を舞台にした名作は、やはり和歌山をする者が産み出す

有吉 佐和子 (ありよし さわこ) 1931〜1984

【和歌山市生まれ】

▼東京女子短期大学卒。同じく和歌山出身の世界的医師・華岡青州を題材とし、彼に献身的なサポートを与えつづけた妻・加恵の立場でドラマチックに、かつ現実を深く掘り起こした「華岡清州の妻」で女流文学賞を受賞。ミリオンセラーとなった「恍惚の人」は流行語にも。僕が小学生の頃だったかな?ボーっとしてる人を見ては「あ!コーコツの人!」と指差して笑っていた記憶が(笑)。

▼また、和歌山を舞台にした「紀ノ川」「日高川」「有田川」3部作で和歌山の風情や豊かな人情を描いています。彼女の父は銀行員であり、全国を点々と移り住んだ事が、却って故郷和歌山への思いを増幅させたようです。

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紀州男児の熱き血は魔王・信長をも怯ませた!

鈴木[雑賀] 孫一重秀 (すずき[さいか] まごいちしげひで) 生没年不明

【和歌山市生まれ】

▼姓は「雑賀」やら「鈴木」やら言われますが、「雑賀」は孫一が住んでたトコで、「雑賀」に住んでる「孫一」という意味で雑賀孫一という意味です。これには京の有力者たちがイナカモノ扱いした蔑称だという説もあります。名の方は孫一とも重秀とも言われていたようですが、一般的には「鈴木孫一」と呼ばれていますね。いかんせん彼の正確な資料が乏しく、何かと謎に包まれているんです。

▼彼は浄土真宗を尊ぶ和歌山の豪族の長でした。総本山である石山本願寺が信長に攻め込まれたのを期に「打倒信長」の旗をあげました。孫一率いる最強の鉄砲集団・雑賀衆は、15倍以上の勢力を持つ信長勢に怯むどころか、これを卓越した戦術と、それを実現する高い技量で次々と撃破。信長に敵対していた毛利氏の支援を受けつつ善戦し「雑賀おどり」のもととなる喜びの舞を舞いました。

▼最後は勢力の差に屈する雑賀衆ではありましたが、なおもその魂は和歌山人のなかに生き続けています。

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襲いかかる激痛を必死に耐える、患者たちに対する彼の答えは・・・

華岡 青洲 (はなおか せいしゅう) 1760〜1835

【那賀町生まれ】

▼外科医。麻酔の元祖。外科医として、彼はどうにかして痛みの無い手術をすべくさまざまな薬草を調合し、ついに「マンダラゲ」を主成分とした「痛仙散(麻沸散)」という麻酔薬を完成させました。そして、世界で初めて、全身麻酔による乳癌の手術に成功。その後も数多くの実績を挙げ、門弟も2000人を超えました。

▼でもやっぱり、彼を支えた妻と母を忘れるわけにはいきません。何と、妻と母は、彼の手術の実験台として手術台に乗り、彼の研究の手助けをしたのです。

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八代将軍は暴れん坊・・・?でも理性溢れる倹約家。

徳川 吉宗 (とくがわ よしむね) 1684〜1751

【和歌山市生まれ】

▼紀州藩第二代藩主徳川光貞の四子。元服時は得田(徳田ではない)新之助といいました。昔の人はコロコロ名前が変わったのでわかりにくいですね(^^ゞ三人の兄が次々早死にし、若干二一才で第五代藩主となります。

▼質素倹約をモットーとし、一汁一菜の食事を率先して行い、庶民の声を市制に生かすために「目安箱」を設けました。そういった積み重ねと吉宗の高い人格が江戸に届き、江戸幕府八代将軍となったのです。その後も「享保の改革」など国政のシステム化を図り江戸中期の国政を支えました。

▼まず己が行うという為政者の精神は我々もぜひ見習うべきですね。

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源義経の最強SPは、田辺の誇る豪腕戦士だった!

武蔵坊 弁慶 (むさしぼう べんけい) 1151〜1189

【田辺市生まれ】

▼比叡山で出家し、「♪京の五条の橋の上〜♪」の歌にもある通り京都五条の橋の上の決闘で源義経に敗れて家来となり、以後義経の片腕として戦国の世を生きました。

▼彼の最期は、源頼朝に追われる義経を身をもって守り、ついには義経を守るために全身に矢を受けて果てました。これがかの有名な「弁慶の立ち往生(往生=死ぬ、の意)」です。

▼おやっさんは熊野別当湛増(くまのべっとうたんぞう)という当時の田辺の実力者。このおやっさんは源平合戦の折り、源氏平家のどちらにつくかで、鶏を戦わせて占ったといわれていて田辺市の「闘鶏神社」の名付け元(俗っぽく言えばネタ元)となってます。そういえば弁慶は生まれたとき歯が生え揃い、すでに髪の毛も肩まで伸びていたとか・・・やっぱり恐るべし和歌山人!?

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