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「赤備え」といえばセカンドビューで示した四武将があまりにも有名であるが、もう一人居た。それも武田の家中でである。
武田の赤備えと言えば、飯富、山県の兄弟が知られる。それを引き継いだ井伊直政は、山県の軍そのものであり、真田幸村も父昌幸、祖父幸隆と武田の重臣で、四人皆武田関係者である。もう一人の赤備えも武田関係者で、上野先方衆の小幡上総介信貞である(武田関係はほんと信の字が多い!!真田も多いが!!!)。
甲陽軍艦によると、信貞は五百騎を指揮する立場にあり、武田家中でもっとも多い動員数であった。高坂昌信でさえ三百五十騎であったから、その動員能力、信玄、勝頼からの信頼も厚かったものと考えられる。信貞は上州の朱武者として怖れられ、赤い軍装の軍団を率いていた。歴史群像シリーズ風林火山の文章を要約すると、父の代に身内の謀反により本領を追われる身になるが、武田晴信に臣従して旧領を奪回、武田の主な合戦にはほとんど出陣している。
しかし、本能寺の変後は後北条氏の配下になり、小田原落城前に逃げ出して徳川家康に従ったとも言われる。厩橋で井伊直政に従い、結局旧友の真田昌幸のもとで余生を送り、別所温泉にお墓がある。子孫は信州松代真田家、および徳川家旗本として現在に至る。
小幡氏は結構独立性が高く、同盟的な要素が高かったらしい。武田家滅亡後の世渡りを見ると(真田氏同様に)、小豪族ゆえの悲しさが良くわかる。しかし、武田信玄にはかなり信服していたようで、また信玄も彼をかなり信頼していたようである。勝頼も信貞をかなり買っていたらしく、海津城代に信貞を起用しようとしたふしも見受けられる。また、信貞は木曽氏がいち早く離反するとの動きをキャッチし、
「木曽を小幡に、小幡を木曽に!」
と進言したらしい。甲陽軍艦の著者小幡勘兵衛系とはまったく異なる系統らしい。
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