小幡氏の系譜

 小幡氏は平良文流秩父庶流平氏である。「寛政重修諸家譜」によると「村上天皇御子具平親王十二代後胤、赤松播磨守則景が末男、左衛門尉氏行、外家畠山某が平氏となって小幡を称した」とある。また、松代藩の「幡氏旧領弁録」にも「赤松氏行が母方の性である秩父畠山に入り、平氏と改め上野の国甘楽の郡司となり小幡を称した」とある。
 それから数代、小幡氏は国峰城の城主として続き、尾張守重定の時代には足利義氏、上杉憲政に仕え、上総介信貞の時代には武田家に仕えた。小幡氏の子孫は江戸時代、松代真田藩の家老となる。この関係は、天文十年に真田幸隆が武田信虎、村上義清、諏訪頼重らにより小県を追われた事件に始まる。このとき幸隆が落ち延びた先が上州であり、長野業政の元であった。上州は幸隆の妻親、羽尾幸全の領地もあり、海野氏支族が散らばっている場所でもある。小幡信貞は業政の騎下にあり、顔を合わせる機会も多かったと考えられる。この時以来、真田氏と小幡氏は親しくなったようだ。
 ところが永禄元年、その信貞は草津温泉に療養中に業政と小幡図書介によって国峰城を追われてしまう。このため信貞は武田信玄に下り、信州佐久郡大日向で五千貫 (約三万石?) を与えられて、南牧城を築いた。
 永禄六年、信玄は信貞を先陣として箕輪城、国峰城を攻撃して西上野を占領後、もとの国峰城を信貞に返した。武田家での活躍は「信貞」の項で述べたので割愛する。
 武田家滅亡後、織田信忠に仕え、本能寺の変後は北条氏直に属して先鋒になる。小田原の役の時、信貞は本城である小田原にいた。国峰城は北陸軍、前田利家、上杉景勝、金森長近等の攻撃により落城する (上杉家の藤田信吉に占領された)。そのとき城を守っていたのは信秀 (弟) である。信貞は家康らの調略により、小田原落城前に降伏してらしい。
 天禄元年、徳川家康が肥前名護屋に出発するとき、信貞は家康に京都で初めて会い、次子直之は家康に千石で仕えることになった。信貞は有宗と共に旧友真田昌幸のもとで過ごした。有宗は信之に仕えて松代藩の家老となる。旧武田系の小山田、原らとともに松代藩では重職に就いた。

 小幡氏の御子孫は現在でも松代にいらっしゃるそうです。

 幕府系の小幡氏の系図はこのようになっています。寛政重修諸家譜から抜粋しました。旗本 1200 石程度で三代重厚は従五位下備中守に任官しています。これは知行地を増やすことがほとんどできなかった江戸初中期において官位で褒美を出すということかも (例外はたくさんありますが・・・)。四代直昌も任官し、それも先祖が代々名乗っていた上総介に任官。うれしかったと思いますよ。小幡家の知行地は碓氷峠の近くと言うことですので、本拠地である甘楽町とは非常に近く良かったのではないかと思います?また、直昌の子供信定は武田の旧臣初鹿野家に養子に行ってます。甲州系の旗本たちは、横のつながりが非常に濃かったということが寛政重修諸家譜より良くわかります。また甲府勤番を仰せつかるのはほとんど旧武田系の旗本が多かったそうです。

 旧武田系の遺臣は旗本以外に、井伊家 (土屋、一条、山県、原系)、水戸徳川家 (穴山系)、尾張徳川家 (曽根系)、真田家、本多 (浅利系) などに散らばりましたが、その実力はかなり高く評価されたようです。

小幡信貞

甘楽町小幡

国峰城

小幡氏の系譜