戦国の財テクと武士道 (岡左内定俊)

 

 戦国の世の後半、安土桃山時代は、ゴールドラッシュと国内需要の伸び、商工業の発達により金融に対する感覚が変化した時代であるとも言えます。戦国と経済論は切っても切れないものであり、戦がいかに金のかかるものか?ということは為政者の悩みの種でした。戦国初期には略奪という行為による現地調達が盛んに行われていたのですが、「国を富ませ、安定した政権を得るには民衆から」という発想が次第に定着し、織田信長の「一銭切り」で完成したと言えます。

 経済 (ここでは米の流通という意味ではなく、金という意味) に通じていた武士は比較的少なく、織田信長、羽柴秀吉、石田三成ら数人にすぎません。たとえば、伊達政宗がその当時珍しかった天正の大判をもって大名集に見せびらかしていました。その中に直江兼続もいました。直江は陪臣でありながら、30 万石を有し豊臣の性を持つ当時の名臣です。直江は政宗の持っていた大判に触ろうとしませんでした。政宗は、直江が陪臣であるから遠慮しているのであろうと思ったのですが、直江にこう返されました。

「それがしの手は、不識庵謙信公以来、上杉の家の軍配を預かる身である。そのような誰が触ったともわからないようなものを触ることができようか?」

 直江の金銭観を表しているとは言えませんが、当時このような考え方は武士にとって当たり前であったようです (この考え方が江戸時代の大インフレーションを導いた原因ではなかろうか?)。

 前置きが長くなってしまいました。そこで岡左内です。かれは若州太良庄城主、岡泉守盛俊の子です。左内は蒲生家に二千石で仕え、蒲生氏郷没後 (92万石から18万石に減封、このとき蒲生郷舎 (横山喜内)、後の石田家二番家老も出奔)、浪人し、前田慶次、上泉主水、斎道二、山上道及、車丹波らと同時期に上杉家に仕えました。当時名のしれていた彼ら五名がこぞって上杉家にアプローチしたのです。景勝、兼続はどんな顔をしたでしょう?うれしくないわけがありません。それどころか、上杉家の武門の誉れ高きことが天下に知れ渡っていることが再認識できたときでもありました。

 左内には変な趣味が有りました。金を貯めるのが何よりの楽しみだったそうです。休みの日には貯めた金を部屋中にばらまいて素っ裸になってその上で昼寝するというのが彼の休日の過ごし方だったそうです。

 あるとき、領民がケンカしているというので金もそのままで現場にすっ飛んでいっきました。しかし、金はそのままであった。とか、自分の家臣にも金を貯めることを推奨しました。あるとき、身分の低い者が金が貯まったといって左内に見せたそうです。左内はその家臣を士に取り上げたそうです。これは当時の感覚ではとても考えられないことです。

 このような左内を、武門の誉れ高い超保守的な上杉家家中の者達が、よく思うはずがありません。あいつは身分を金で買うとか、なぜあんなに金を持っているのか?という話になりました。きっと金貸しをしているという結論になったのですが、だれもその現場は見ていないといいました。なぜなら、その現場にいた全員が左内から金を借りていたのです。

 しかしいざ関ヶ原というとき、新地に越してきた上杉家は金があまりありません。左内は今まで貯めていた金を「金はこういうときに使うものぞ!」と言いながら、全てを上杉家に献上してしまいました。これに直江は非常に喜んだそうです。また、悪口を言っていた他の家臣達は二度と左内の悪口を言わなくなりました。

 これだけで話が終わるのなら全然面白くありません。その後がまた面白い。

つづく!