前田慶次郎利太の朱槍事件

 一夢庵風流記でおなじみの前田慶次郎には面白い言い伝えがたくさん残っています。たとえば、前田家出奔のとき (当主は利家)、いつも利家に迷惑ばかりかけているので、今回は是非とも馳走したいといことで利家を自分の館に招待しました。「まず風呂を召し上がれ」ということでした。当時の風呂は大変貴重なもので、現在のように毎日湯を沸かして入るということなどできませんでした。蒲生氏郷のように、功のあった家臣を自邸に呼び、自ら風呂を沸かしてやったというほど、貴重かつ大変なもてなしでした (蒲生風呂は当時非常に評判であった)。利家は大変喜び風呂に入ったのですが、なんとただの水風呂でした。運悪く季節は冬で、しかも北陸金沢での出来事です。激怒する利家を尻目に、慶次郎は自慢の愛馬松風にのり悠々去っていったとのことです。慶次郎は前田家の嫡子である利久の養子であります。本来なら前田家は慶次郎が継いでいるはずなのです。また考え方の違いもあったとは思いますが、前田家を出奔してしまいました。

 話がそれました。赤にまつわる事件、皆朱の槍事件を取り上げてみます。前田家出奔後、彼は上杉家に仕えることになりました。同期に岡左内、山上道及、車丹波善七 (佐竹家家臣、息子は徳川将軍家お庭番、秀忠の命を狙ったとされるが、許されて非人頭になる。非人頭は代々善七を襲名する)、上泉主水、斎道二などがいます。どの仁も当時名の通った武将でした。その中でも前田慶次郎、上泉主水は名家の出でしかも戦歴も豊富であります。上泉主水は、新陰流の祖、上泉伊勢守の孫です。足利義輝、柳生宗厳を門人とする当時の剣豪の草分け的存在です (塚原卜伝など)。しかも箕輪十六将に数えられるほどの名将でしたが、武田家に長野家が滅ぼされた後、武田家からの誘いをけり、剣の道を選んだという強者です。

 慶次郎は、旗指物「たいぶへんもの」と書き、しかも槍は皆朱でした (この意味の解釈は二通りあります)。上杉家では皆朱の槍をもつことは当主景勝の許しが必要なのです。が、許されていない上杉家の者にとって新参の慶次郎が朱槍をもつことは非常に不服でした。不識庵謙信公より武門の家柄としてきた上杉家では、皆朱の槍を持つことは非常に名誉で、自分の実力が認められたということです。

 上杉の四人衆は、景勝に訴えでました。それならと、兼続の意見で四人に皆朱の槍を許しました。その意味は、皆朱の槍を持つことで今まで以上の武辺が求められ、お互いに競争意識で上杉のために働いてくれるであろうとの考えをもったといわれています。これにより、上杉の朱槍四人衆は慶次のソバを離れることができなくなり (慶次にその働きを証明せねばならないから)、慶次は屈強の武士を配下に入れることができました。彼らの働きは最上攻めで十分発揮されました。

 その後の詳細は慶次については御存知の通りです。しかし、死去した場所が、大和ということになっているのですが、本当に上杉家に戻ったんでしょうか?

現存する「前田慶次郎の朱塗りの甲冑