赤備え - バーチャルシリーズ - 彦根 - 木村重成


彦根と木村重成

 彦根のその他の見所です。こんなところで大阪方木村重成に関する情報が入手できるとは思いませんでした。

 武田の遺臣、庵原朝昌が関連してきます。庵原は今川家の家老朝綱の嫡男。親の跡目について不服があり武田勝頼に仕える。しかし、ここも不足として徳川家に仕えた。庵原は家康の直命による付属家臣ではなく、高崎で直政に仕え、1500 石。しかしこれも気にいらず水野勝成に仕える。結局水野家も退去し、井伊家に 2000 石で仕え、代々第二家老として仕えた。

清涼寺です。ここは佐和山時代は島左近の屋敷があったと言われています。初代直政の墓所のために直孝が建立。その後歴代藩主の菩提寺となる。寺宝として歴代藩主の画像があるそうです。

宋安寺
 本来は室町幕府の政策で建設された安国寺。井伊直政公が高崎城主となると安国寺は高崎に移され、さらに関ヶ原の戦いでの戦功により近江佐和山に移されると、同時に移り、敵将安国寺恵瓊の名をさけ、宋安寺と改めた。
 
 
正四位 木村長門守重成公の首塚沿革
 元和元年四月の大坂夏の陣で、井伊直孝隊は平野口に向かう命令を受けていたが、軍略上これを変更して大和口に向かった。冬の陣では家康に、「
井伊の赤備えなんか見たくない。あのようなきらびやかな隊は、軍勢ではない」とまで言われた。後に従う十騎ほどのぼろぼろの古い甲冑を着た甲州武者こそ真の赤備えであると言ったそうである。
 
豊臣方木村重成隊は若江堤に陣を敷いた。ここにおいて激戦数刻、直孝隊もかなりの戦死者をだした。直孝自身が陣頭に進み鼓舞した。ついに木村隊は崩れてしまい、そこに井伊家武将庵原助右衛門朝昌が重成を見つけ、立ち会うことになった。力を尽くすこと数合、ついに重成は倒れた。そこに安藤長三郎がきて、「それがしは本日の戦いで何の手柄も立てておりません。この首をいただけませんか?」と言った。朝昌は「よろしい、この首は進呈する。」家臣は止めようとしたが、続けて「自分は井伊軍の勝敗に責任を持つ重職であるため、一騎討ちの武功はいらない」と!家臣は重成の白熊の幌と金の捻竹の串をとり、重成の首は長三郎が持ち、笹に包んで帯刀と共に持ち帰った。重成の首実検のときの家康のコメントは有名である。その後、長三郎は祖先のお墓に首を懇ろに祀り、現在まで祖先同様に供養して宗安寺にいたる。

 JR 彦根駅前にある「井伊直政」公馬上像!

津城にある藤堂高虎公像、仙台伊達政宗公像、上田の真田幸村公像などと共に同じくらいかっこいい!

彦根と木村重成

井伊家の家臣

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