長篠城 (のぼり祭、鳥居強右衛門祭) 遠征日記 (2000/5/3)

 武田勝頼は一万五千の兵を率いて長篠城を囲んだ。時の長篠城主奥平貞昌は、約 500 の兵で守った。5/8 以後、武田軍は激しい攻撃をかけ、ことに 13 日夜から 14 日にかけての総攻撃は激しく、城兵はよく応戦した。しかし城中には 4, 5 日分の食料が残っているのみとなり、落城は目前に迫った。

のぼり祭り、鳥居強右衛門
1 鳥居強右衛門磔死の跡
2 長篠城跡 (のぼり祭り)
3 篠場野陣地跡
4 有海陣地跡 + JR 鳥居駅
5 横田十朗兵衛康景の碑
6 鳥居強右衛門の墓
7 鳶が巣山陣地跡 (武田兵庫頭)

 岡崎への援軍を頼むための軍議をひらいたが、このとき決然と立ちその密使を志願したのは鳥居強右衛門勝商 (かつあき) である。5/14 強右衛門は夜半に乗じて野牛門から川におり、鳴子網を切って急流を下り広瀬に上陸。家康に落城の危機を告げ援軍を請うた。家康は快諾し、信長も来る旨を伝えた。家康は鳥居に食事などを与えて一緒に長篠に行こうと誘うが、鳥居は「今日明日かもしれない城であるので今すぐ帰って籠城軍に加わる。そしてこの朗報をみなに知らせて上げたい」といい、一足早く帰った。城に入ろうとして捕らえられ磔になった。

 20 日、武田軍は長篠城の押さえとして 3000 千の兵を残し、織田徳川連合軍の堅陣、設楽原に向かって進軍した。  

 長篠城にあるのぼり。鳥居の忠節に感じ入った徳川家臣、向井佐平次道久の旗指物。その後紀州徳川家に仕え向井家は代々強右衛門の旗指物を用いた!  長篠城にあるのぼり2。真田源太右衛門尉、土屋右衛門尉、内藤修理、甘利、山県と続いて見える。織田徳川連合軍のものも奥に見えます。

1 鳥居強右衛門磔死の跡。この地で鳥居は、援軍は来ないと城兵に叫べば釈放するとの武田家の命令を破り「援軍は来る!今しばらくの辛抱である」と叫び、槍に刺されて絶命した。 鳥居強右衛門磔死の跡からみた武田信実陣跡。右から久間山、中山、鳶が巣山、姥が懐。酒井忠次の別働隊により背面攻撃を受け全滅。信実、三枝守友らも討ち死にした。

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設楽原の合戦考察

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