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忠烈の士 鳥居強右衛門勝商
鳥居強右衛門勝商は、天文9年(1540)、三河国市田村(現在の豊川市市田町)の農家に生まれ、幼名を平蔵といった。作手亀山城主奥平貞能に仕えたが、天正3年(1575)2月、貞能の嫡子貞昌が長篠城主になったとき、貞昌に従って長篠城へ移った。
同年5月、貞昌が守る長篠城は、武田勝頼が率いる武田軍に包囲され落城寸前であった。この危機に城主貞昌の命令を受けた勝商は、城の運命を背負って城を脱出し、岡崎城の徳川家康のもとに走り、織田・徳川連合軍の援軍を得ることに成功した。その帰途、勝商は再度入城するところを武田軍に捕らえられ、有海の篠場野において磔の刑に処せられた。時に勝商36歳であった。
雑兵をいう低い身分の勝商が、主君奥平貞昌を想う忠誠心から「援軍は来るぞ、城中の者がんばれ」と叫んで死んでいった彼の功績は、三河武士の鑑として、後生までたたえられた。
勝商の子孫は、貞昌の内室となった亀姫の進言により、貞昌と亀姫の4男松平忠明の家臣として迎えられ、末代まで栄えた。
強右衛門勝商辞世歌碑
我君の
命に替る玉の緒を
などいとひけん
武士の道
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