| 眉間尺という中国の故事にならった旗指物があります。生首が三つで争う図です。日本では、だれが使用したかちょっと分かりませんが、奇抜なアイデアって今も昔もハッとさせられるものなのでしょうね。 | |
|
原加賀守昌俊 (武田家) 甲越信戦録に以下のような話が伝わっている。昌俊がまだ若い頃、山に猟に行ったとき、不思議な修験者にであった。乞われるままに一夜の宿をした。その修験者は、白粥を一斗、一気に食べたり、熱湯を頭からかけるなど、その荒行を昌俊の前で行った。昌俊はいすくされてしまった。そして、千切形の陣取りの秘伝を教えられた。次の朝、昌俊が起きてみると、その修験者はどこにもいなかった。彼の紋は、このとき教えられた陣取り方法に由来するという伝説が伝わっている。 |
|
|
岡部権太夫 (後北条家) 北条氏康の配下。下総堺合戦 (vs 佐竹) のとき、猪の指物で参加したが、帰陣してみると旗指物が無いことに気づいた。すぐとって返し、敵陣正面に馬を乗り寄せて、「これは北条家人下総の住人、岡部権太夫と申す。このたびの戦いにおいて、組打ちする間に指物を失ってしまった。首級はあげていまだ実験に合わせておらぬゆえ、願わくば引き替えたい」と懇願した。佐竹の中から一騎乗りだし、「優しき御所望かな。猪の旗指物、関八州に珍しきゆえ、拾いおきたり。すなわち返しける」と北条五代記、続武家閑談にある。 |
|
|
本多中務少輔忠勝 (徳川家) 忠勝公については今更語る事もないと思われますので (すばらしい HP もありますので)、旗指物の件についてのみ述べます。 右の絵は、非常にへたくそなのですが、鍾馗 (しょうき) と言われる中国の悪敵邪鬼を払う空想上の神です。中国宋の時代の徽宗皇帝が、毎晩頭痛に悩まされていた。ある日夢の中に頭痛を追い払う人物、すなわち鍾馗が現れ、一刀両断に病気の元である疫鬼を切った。次の日から頭痛は全くなくなったという伝説がある。一剣をもって邪を制すと言う意味より、本多家では忠勝の父、忠高のころからは少なくても旗印として利用していたそうである。 鍾馗は疫病払いの神としてあがみたつられ、五月人形として現在も伝わっている。本多家の旗印である「鍾馗旗印」は、歴史群像「徳川四天王」や福井県立博物館蔵の姉川合戦図屏風に載っている。右の絵は、ホントへたくそです。 |
|
|
林半介 (百姓→石田家) 元百姓で石田家の使い番。美濃国の青柳村の百姓であったが、関ヶ原の前に、三成が賞は功次第という約束の酒杯を末席から出てきて飲み干したという逸話がある。 常山紀談に、「皆憎き振る舞いよ、と言いしが、杭瀬川にて一番槍をとりぬ。かくて両軍物別れするとき、稲葉助之丞は、金の切裂の指物にて、秀家の軍士の殿し、林は白じないの指物指して乗り下がり、殿しけるが、なおも本多忠勝が兵に向かって、ただ一騎輪をかくる様子、敵ありとも思わざる体なりしを、東照宮ご覧じて、あっぱれ不敵者かな、武功を志す者は、かの武者の草ずりを載け、と仰せありけれ」と称された。 |
|
|
渡辺金太夫照 (小笠原家) 見聞雑録に、照の旗指物があまりに有名であったため、物見に出ることを控えさせられた話が載っている。「小笠原氏助、しばしとおし止め、これに金太夫、その方朱の傘の指物は天下に隠れ無し。ことさら日本一番の槍と大筆に書き付け、信長より下されしを。徳川殿方にての旗本の一番槍は本多平八郎殿、その儀難しくなり候様子を、信長御覧になられ、その方の指物を取り寄せ、張り替えさせ、金の短冊に日本一番の槍と御書き下され候を、ただ今に至って、遠州高天神の渡辺金太夫は、朱の傘に金の短冊の指物とは、国々までも隠れあるまじ」とある。 また、武辺咄聞書にも、「渡辺金太夫は、朱の唐傘に金の短冊を下げた指物で敵と渡り合った。遠望した信長の目にも留まったが、猿皮の投頭巾の鎧だけで指物を付けていない、判奈左近右衛門はめざましい働きをしたにも関わらず、信長の目には留まらなかった」という話が伝わっている。変わった旗指物は目立つため、主君への良いアピールになるのと同様に、恥ずかしい行動はとれないと言う背水の陣の現れでもあった。 |
|
|
山下民部左衛門、大道寺孫九郎政繁、三好孫太夫 (北条家) 北条五代記に天正十三年の対佐竹戦のおりのことが書かれている。「北条氏康家中に、相州甘縄の住人三好孫太夫という勇士あり。指物に提灯を七つつけたり。孫太夫が七つ提灯といいて隠れ無し。しかるところ松田肥後守与力に山下民部左衛門尉 (という侍がいて、彼は六つ提灯の指物をしていた)、指物に子細有りやと問う。民部左衛門尉聞きて、提灯に何の子細あらん、我がこの身なりと言う。孫太夫曰く、武功を積まずして、六提灯指しがたし。それ天文十五年の頃おい、上杉と当家と武州において合戦のみぎり、それがしの一番槍の誉れありて、氏康公より褒美の感状有り。その節、われ一つ提灯を指したり。その後また功有って二つ提灯を指す。三度功有って・・・・七つ忠勤をぬきんで、重々の功によって七つ提灯と名付け、関八州にその隠れ有るべからず」と馬上にて問答をした。 続きがあって、「その日の競りあい戦に、佐竹方に大石八郎と名乗って、釣り鐘の指物をし諸人に先立ち、我と思わん者あらば、組んで勝負を決せよ、と長刀にて切ってまわるところに、民部左衛門尉は合わせて、馬より組んで落ち、民部左衛門太刀なれば、八郎を組み伏せ、首を取って、その場にて気を転じ変え、提灯を五つ引き切って捨て、一つ提灯を指したり。皆これを見て、民部左衛門尉が問答の時日を移さず、誉れを現し、一つ提灯指す事、かえってきとくなり。孫太夫が武勇にも劣るべからず、おのおの口ほうびせり」とある。 提灯と武功は比例させるべきであり、武功を積まない者は、たくさんの提灯を指すべきではなかったのである。民部左衛門が一つ提灯は、これから武功を重ねて、孫太夫を越してやる!との意志表示であり、孫太夫の言葉は、もっとがんばれとの励ましにも思える。しかし、北条家にはもっと上の、九つ提灯の武者がいた。武州川越城主、大道寺駿河守政繁であった。 天文七年の対上杉合戦で、敵将本間江州を討ち取り、江州が討たれ際に言い残した言葉に従って、大道寺は九つ提灯をするようになったとの言われが甲陽軍艦に書かれている。 |
|
|
北条左衛門太夫綱繁 (今川家→後北条家)、真田隠岐守信尹 (真田家→池田家→徳川家→蒲生家→徳川家) 綱繁は、もと今川家の家臣福島氏であった。父正成は、1521 年の飯田合戦で武田信虎の破れ、戦死。綱繁は北条家を頼り駿河・遠江を退去。北条氏康に仕え、器量を認められ養子となった。関八州古戦録、甲陽軍艦、関東兵乱記、常山紀談等に、「綱繁生得武道に志し厚く、毎月十五日は宿より潔斎して、八幡大菩薩の社へ詣で、冥感を祈ること、歳を追って怠慢無し。擁するところの旗指物、朽葉色に染めた四半の練絹に、真字に八幡と墨にて書き、戦場に臨む時はこれを指して、白旗を握り、諸卒の真先に進んで、勝ったぞと声を掛け、軍勢の勇を励まして、前後左右を乗り回す。その勢いほとんど神妙なる故、世の人これを地黄八幡と呼び慣わす」とあり、綱繁の勇猛さ、兵の統率のすばらしさが書かれている。 真田信尹は武田の将で「十五騎足軽十人持、加津野市右衛門」と称していた。1569 年北条綱繁を深沢城に攻めたとき、綱繁の旗指物「黄八幡」を奪った。信玄公より、のちのち旗指物はこれをつかうべしとの仰せにより、黄八幡の旗指物を使うようになった。武田家滅亡後は、真田家→池田家→徳川家→蒲生家→徳川家 (旗奉行 3000 石) と渡り歩いた。同家には、黄八幡の旗が現在でも伝わっているそうである (武者物語、続武家閑話、常山紀談)。 |
|
|
車丹波守善七 (斯忠) (佐竹家→徳川家) 佐竹家の将で、関ヶ原後の秋田移封に対して徹底抗戦の構えを見せ、忙殺された。丹波の息子である善七 (父も善七であるが) は、伝あって徳川家のお庭番になった。 丹波の旗指物は、白練四半に火車を描いた大指物で有名であった。徳川にとらえられたとき、磔にされたが、この旗指物が横に結びつけられていた (会津陣物語)。この火車は、地獄へ亡者を運ぶと言われる火車であり、自分の姓である「車」と掛けていたという。家康はこの話を聞いて、惜しい武将を無くしたといって惜しがったという話が伝わっている。そのため息子は徳川家に仕えるようになったと考えられる。その後の詳細な話はこちら! 右の絵はへたです。本当はもっと恐ろしそうに見えたことでしょう! |
|
| 11 | |
| 参考 高橋賢一「旗指物」、稲垣史生「戦国武家辞典」、笹間良彦「日本合戦図典」、歴史群像「徳川四天王」、加野厚志「本多平八郎忠勝」、別冊歴史読本「真田一族」 | |
|
|
|
