ユニークな旗指物と逸話!

 本を見ていて、こんな旗指物あったの?って言うような物、面白い逸話を持つ旗指物を集めてみました。こうやって並べてみると、ほんといろんな旗指物があるな〜って感心します。まだまだあるので、第二段で紹介いたします。とりあえず七種類です。

戸田半平重之 (酒井家)

 酒井忠次のの家臣。長篠の合戦の折り、酒井隊は軍議の結果、鳶が巣山に奇襲をかけることになった。武家閑談抄、三州長篠合戦記によると、「夜討ちには旗指物は意味がない。また道無き道を進む故に、指物はじゃまになるから誰もが持っていかなかった。しかし戸田の半平は、夜の短い季節ゆえ、夜が早めに明けると考え、旗指物は有った方が良いと考え持参した。天野総次郎は、鳶が巣山での夜討ちで一番槍をしたが、旗指物がなかったため後ろより見えなかった。そのかわり、銀のしゃれこうべの旗指物をしていた戸田半平の働きは非常によく見えた。半平は二番槍であったが、逆転し、一番槍になった。」と言う話が伝わっている。これは、悪路をいとわず旗指物を持参した、半平の武士としての心得を誉めている逸話である。

松根新八郎弘親 (仙台伊達家→伊予宇和島伊達家)

 伊達家の家臣であったが、政宗長子の秀宗が伊予宇和島に移る際に同行した。ある夜、武者たまりで顔面蒼白の男から一つの生首を受け取った。その夜の夢枕で、男が現れ、「あれは私の仇であった男の首である。これで自分は成仏できるが、その首を葬ることが出来ない。よって私の変わりに葬ってもらいたい。そのかわり、貴家の隆盛は必ず見守る」と言う頼み入れであった。

 元和元年、金剛山大隆寺に葬り、松根は約束を果たした。その後、松根は出世した。松根は兜の前立てから旗指物に至るまで、すべて人間の生首をかたどったものをしていたのは、このような理由からである。

初鹿野伝右衛門昌久 (武田家→徳川旗本)

 武者物語に、「武田信玄公の御内には、お使い武者十二人あり。指物がいずれも白き白半に黒百足を描きたる指物なり。然るにその中に、初鹿野伝右衛門という武者は百足無しの白き四半をさして出る。信玄公御覧あって、十二人の使い番の中に白き指物はいかなる者とお尋ねあるに、初鹿野伝右衛門と申し上ぐる。信玄公ご立腹あって、何とて軍法を背くとある時、伝右衛門申しあぐるは、御軍法はかつて背き申さず候。指物の乳の脇に一寸百足を付け申すとて御目にかくる。それは何としたることと仰せらるれば、伝右衛門申しあぐる。人並みに百足を付け候らえば、当座において武者ぶり、余人に紛れ候ゆえ、かくのごとくしてと申しあぐれば、信玄公御笑いなさるることなり。」とある。伝右衛門の性格が伺い知れる。またこの性格を裏付けする話として、武田軍の小田原遠征時の次のような逸話も伝わっている。

 「初鹿野伝右衛門という侍、子細あって御勘気を被りいたりしが、忍びに出陣の御共仕り、申し訳には、兜を着ず菅笠を着て、香車という字の指物にて出る。信玄御とがめありければ、伝右衛門申すは御勘気のゆえに笠を着て出で候、香車の指物は成らずんば帰らぬの印にて候と申す。信玄、然らば酒匂の瀬ぶみ仕れとあるゆえ、初鹿承って先陣をしけるゆえに、味方疑を去って推し渡れり。かようの故例あれば、私として異なる指物は覚悟あることなり」と写本軍法要法にある。伝右衛門は勇猛果敢で、負け嫌いな性格がどちらもよく表していると考えられる。

落合左平次道久 (武田家→徳川旗本→紀州徳川家)

 鳥居強右衛門勝商は、天文9年(1540)、三河国市田村(現在の豊川市市田町)の農家に生まれ、幼名を平蔵といった。作手亀山城主奥平貞能に仕えたが、天正3年(1575)2月、貞能の嫡子貞昌が長篠城主になったとき、貞昌に従って長篠城へ移った。同年5月、貞昌が守る長篠城は、武田勝頼が率いる武田軍に包囲され落城寸前であった。この危機に城主貞昌の命令を受けた勝商は、城の運命を背負って城を脱出し、岡崎城の徳川家康のもとに走り、織田・徳川連合軍の援軍を得ることに成功した。その帰途、勝商は再度入城するところを武田軍に捕らえられ、有海の篠場野において磔の刑に処せられた。時に勝商36歳であった。そのとき何かと面倒をみたと言われるのが、落合左平次である。強右衛門の壮絶なる最後をみた彼は、非常に感銘を受け、武田家滅亡後、家康公に仕えて以後、この指物を使うようになった。
 雑兵をいう低い身分の勝商が、主君奥平貞昌を想う忠誠心から「援軍は来るぞ、城中の者がんばれ」と叫んで死んでいった彼の功績は、三河武士の鑑として、後生までたたえられた。
 勝商の子孫は、貞昌の内室となった亀姫の進言により、貞昌と亀姫の4男松平忠明の家臣として迎えられ、末代まで栄えた。

強右衛門勝商辞世歌碑
 我君の命に替る玉の緒を
     などいとひけん武士の道

前田慶次郎利太 (前田家→上杉家)

 ご存じ、戦国-江戸時代初期の歌舞伎者の代名詞。彼の行動は「一夢庵風流記」に詳しい。常山紀談によると、「慶次、旗指物に大ふへん者と書きたりしに、人々余りの事よ、と言えば、慶次汝は武辺と読みたるや、我落ちぶれて貧しければ、大不便者ということなり、と戯れしとかや」と上杉時代の彼の行動を物語っている。

 慶次は、遊び心も持ち合わせる反面、上杉家のように武門の誉れ高い家に仕えても、自分の武辺は天下に隠れもないと言うことをアピールしていたものと考えられる。

 

牧野伊予守成重 (滝川家→豊臣秀次家→石田家→徳川家)

 滝川一益の家臣で、その後秀次、三成、家康に仕えた。島原の乱で一手の将として出陣し、銀板に「いろはにほへと」と書かれていた。これを馬印とし、その次に続く「ちりぬるをわか」に掛けたものであった。すなわち、「散りぬるを」の決意を持って戦場に赴いたと伝わっている。

矢部虎之助 (紀州徳川家)

 明良洪範に面白い記事が載っている。以下抜粋です。

「大坂の陣のとき、紀伊頼宣卿の家士、矢部虎之助という者、大力にて長さ二間の指物、三尺余の太刀、立物は大位牌に一首の歌有り、「咲く頃は花の数にも足らざれど 散るには漏れぬ矢部虎之助」と記したり。右の出で立ちに諸人目を驚かしけれども、余り重すぎて馬進まざりしかば、とかく人より後れて、ついに功もなかりしば、残念がりしに、なお家中にて武運不案内者との評判に合い、心中に恥じ憤り、食を断ちて、二十日ばかりのうちに自滅せり。誠に惜しき士なり。」とある。当時は、他人より目立つことで、自分の功をアピールすることがあった。同じ功なら旗指物が目立った侍の方が、大将や同僚に認められ易いのである。

赤備え旗指物     旗指物     面白い旗指物  武田二十四将旗指物

参考 高橋賢一「旗指物」、笠間良彦「日本合戦図典」、口語訳三州長篠合戦記