■ 福原の夢4
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 兵庫の港は、古代から「大輪田泊(おおわだのとまり)」と呼ばれる良好な港として知られていました。清盛は、日宋貿易の拠点として大修築工事を行い、人口の島「経ヶ島」の築造に着手し、港湾としての機能を強化させました。大輪田泊は鎌倉時代以降、兵庫島・兵庫津と呼ばれるようになります。
 「福原の夢4」では、2003年12月、平家物語研究会の見学会に参加させていただいた時に歩いた史跡を中心に紹介します。

※位置について別ウィンドウで案内図を用意しました。必要に応じてクリックしてください。

清盛の墓はいずこ?

 養和元年(1181)閏2月4日、清盛は九条河原口の平盛国邸で波乱に満ちた生涯を終えます。語り本系『平家物語』では、清盛の遺体は愛宕(おたぎ)で火葬され、遺骨は円実法眼が頸にかけて運び、経の島に納めたと書かれています。経の島がどこにあったのかはわかっていませんが、能福寺の東北にあたる築島寺(来迎寺)付近、または清盛が造営した八棟寺の境内とも伝えられています(八棟寺は現存しませんが、現在切戸町の清盛塚がある辺りだろうとされています)。このことから、下に紹介する清盛塚(兵庫区切戸町)、能福寺の平相国廟が清盛の墓所であると考えられてきました。
 もっとも史実に近いであろうと思われるのは、『吾妻鏡』の記述に出てくる「播磨国山田法花堂」です。『吾妻鏡』の養和元年閏二月四日条には、「三ケ日以後葬の儀あるべし。遺骨においては播磨国山田法花堂に納め、七日ごとに形のごとく仏事を修すべし。毎日は修すべからず。また京都においては追善をなすべからず。子孫はひとえに東国帰往の計を営むべし。」と清盛の遺言を伝えています。この記事でいう「播磨国山田」とは、平家没官(もっかん)領のうちの播磨山田領のことで、現在の神戸市垂水区西舞子町付近です。『延慶本平家物語』には、「花見の春の園の御所、初音尋る山田御所。月見の秋の岡の御所、雪の朝の萱の御所、嶋の御所、馬場殿、泉殿、二階桟敷殿」と、「山田御所」の名前が見られ、『高倉院厳島御幸記』に「はりまの国山だ」の山荘で昼食をとったことが知られています。

能福寺

能福寺
能福寺
能福寺平相国廟
能福寺平相国廟

 能福寺(兵庫区北逆瀬川町)は、寺伝によると伝教大師最澄の創建で、平家一門の帰依により隆盛しましたが平家滅亡の後、暦応4年(1341)兵火により全焼。慶長4年(1599)明智光秀の臣長盛法印が堂宇を再建したと伝えています。
 能福寺には、昭和55年、清盛の八百年忌を記念して作られた「平相国廟」があります。清盛塚の塔を模造した「十三重石塔」を中心に、向かって右側に円実法眼の供養塔である宝篋印塔(鎌倉時代)、左側には平教盛の子息で円実法印の弟子でとなった忠快の供養塔である九重石塔(同)がすえられています。

清盛塚、琵琶塚

 清盛像と琵琶塚
清盛塚   清盛像と琵琶塚

 兵庫運河にかかる清盛橋のそばに、清盛塚(兵庫区切戸町)と呼ばれる十三重石塔が建っています。この石塔は古くから清盛の墓と伝えられてきました。清盛塚は、大正12年(1923)、都市計画道路工事のため移転されることとなり、それにともなって発掘調査が実施されました(もとは現在地より南西約10メートルの場所にありました)。調査の結果、墳墓でないことが明らかになりました。石塔には弘安9年(1286)の銘があり、兵庫県指定文化財となっています。

 現在、清盛塚の石塔が建っている場所は、もともと「琵琶塚」と呼ばれていました。伝承によると、平経正の塚で、仁和寺の覚性法親王から拝領した琵琶の名器「青山」をともに埋葬したとされています。しかし、もとは前方後円墳で、その形が琵琶に似ていることから琵琶の名手経正と結び付けられたようです。

築島寺(来迎寺)

松王丸と妓王・妓女の墓
    松王丸の墓           妓王・妓女の墓

 築島寺(「来迎寺」が正式名称。兵庫区島上町)には、経の島の築造に関わる伝説が残され、境内には「松王丸の墓」、「妓王・妓女の墓」があります。寺伝によると、清盛が経の島を築くとき、難工事であったので、竜神の怒りを鎮めるために松王丸という少年が人柱に捧げられました。この松王丸の菩提を弔うために建立されたのが築島寺であったといいます。同じく寺伝によると、平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後、清盛の愛妾であった妓王・妓女は、平家ゆかりの八棟寺(清盛塚のあたりがその跡とされています)に住持して平家一門の菩提を弔ったとされています。

萱の御所跡

萱の御所跡石碑

 薬仙寺(兵庫区今出在家町)は、746(天平18)年に行基が開山したと伝えられる時宗の寺です。境内には「萱の御所跡」の碑があります。「萱の御所(かやのごしょ)」とは清盛の邸宅で、清盛がここに後白河法皇を幽閉したことから「牢の御所」ともいわれたところです。この石碑は、もとは寺の北、新川運河の地にありましたが、運河の拡張工事によって水中に没っしてしまったため、薬仙寺の境内に再建されました。
 なお、実際の「萱の御所」の位置については、夢野にあった平教盛邸とする説が有力です。

【参考文献】
『兵庫県史』(1975)
角田文衞『平家後抄』下(朝日新聞社 1981)
元木泰雄『平清盛の闘い〜幻の中世国家』(角川書店 2001)
神戸史談会編『源平と神戸〜福原遷都から800年』(神戸新聞出版センター、1981)
歴史資料ネットワーク編『歴史のなかの神戸と福原』(神戸新聞総合出版センター 1999)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』
『兵庫県の地名』(平凡社)

福原の夢1 福原の夢2 福原の夢3 福原復元図


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