■ 福原の夢4 |
兵庫の港は、古代から「大輪田泊(おおわだのとまり)」と呼ばれる良好な港として知られていました。清盛は、日宋貿易の拠点として大修築工事を行い、人口の島「経ヶ島」の築造に着手し、港湾としての機能を強化させました。大輪田泊は鎌倉時代以降、兵庫島・兵庫津と呼ばれるようになります。 清盛の墓はいずこ? 養和元年(1181)閏2月4日、清盛は九条河原口の平盛国邸で波乱に満ちた生涯を終えます。語り本系『平家物語』では、清盛の遺体は愛宕(おたぎ)で火葬され、遺骨は円実法眼が頸にかけて運び、経の島に納めたと書かれています。経の島がどこにあったのかはわかっていませんが、能福寺の東北にあたる築島寺(来迎寺)付近、または清盛が造営した八棟寺の境内とも伝えられています(八棟寺は現存しませんが、現在切戸町の清盛塚がある辺りだろうとされています)。このことから、下に紹介する清盛塚(兵庫区切戸町)、能福寺の平相国廟が清盛の墓所であると考えられてきました。 能福寺
能福寺(兵庫区北逆瀬川町)は、寺伝によると伝教大師最澄の創建で、平家一門の帰依により隆盛しましたが平家滅亡の後、暦応4年(1341)兵火により全焼。慶長4年(1599)明智光秀の臣長盛法印が堂宇を再建したと伝えています。 清盛塚、琵琶塚
兵庫運河にかかる清盛橋のそばに、清盛塚(兵庫区切戸町)と呼ばれる十三重石塔が建っています。この石塔は古くから清盛の墓と伝えられてきました。清盛塚は、大正12年(1923)、都市計画道路工事のため移転されることとなり、それにともなって発掘調査が実施されました(もとは現在地より南西約10メートルの場所にありました)。調査の結果、墳墓でないことが明らかになりました。石塔には弘安9年(1286)の銘があり、兵庫県指定文化財となっています。 築島寺(来迎寺)
築島寺(「来迎寺」が正式名称。兵庫区島上町)には、経の島の築造に関わる伝説が残され、境内には「松王丸の墓」、「妓王・妓女の墓」があります。寺伝によると、清盛が経の島を築くとき、難工事であったので、竜神の怒りを鎮めるために松王丸という少年が人柱に捧げられました。この松王丸の菩提を弔うために建立されたのが築島寺であったといいます。同じく寺伝によると、平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後、清盛の愛妾であった妓王・妓女は、平家ゆかりの八棟寺(清盛塚のあたりがその跡とされています)に住持して平家一門の菩提を弔ったとされています。 萱の御所跡 薬仙寺(兵庫区今出在家町)は、746(天平18)年に行基が開山したと伝えられる時宗の寺です。境内には「萱の御所跡」の碑があります。「萱の御所(かやのごしょ)」とは清盛の邸宅で、清盛がここに後白河法皇を幽閉したことから「牢の御所」ともいわれたところです。この石碑は、もとは寺の北、新川運河の地にありましたが、運河の拡張工事によって水中に没っしてしまったため、薬仙寺の境内に再建されました。 【参考文献】 |
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