第6章 新ディオゲネス

 翌朝五時頃。ラファエル・アベン・エズラは寝床に横になったまま、ユダヤのフィロンの手写本にあくびをしたり、ブリタニア種の大きなマスチフ犬の耳を引っ張ったり、中庭の噴水の煌めきを眺めたり、いつになったらあの怠け者の童僕は風呂が沸いたと言いに来るのだろうといぶかしんだり、いくらか声に出して瞑想したりしていた……
「ああ、あわれなやつだ、僕は。またここに来たか——まさに出発点に逆戻り。……どうしたらあの異教徒のセイレーンから逃れられるんだ。彼女に災いあれ。結局彼女に惚れることになる……もう盲目の少年の矢を身に受けていないとは分からない。この間はばかばかしいほど嬉しかったしな、あの人のささやかな申し入れも受け入れる気概が無いってあの阿呆が僕に言ったあのときは。ははは。荒れ寺嫌いの高僧ヒュパティアをセラペイオンの廃墟に据えて、そんな木石にオレステスが跪拝するのを眺めるなんて、いい冗談だったのに……さて今は……いいさ。僕が雄々しく戦ったことは全天地が証人だ。やんちゃな小さいエロースに、大人らしく鞭を手にして立ち向かったんだ。事の一切を厭うべく、誰でもいいから彼女を娶わせようとする、それ以外にあわれな男に何ができよう。そう、蛾には皆それぞれ蝋燭があり、人には皆自分の運命がある。しかしあの馬鹿な小物の大胆さ加減といったら。ヒュパティアはなんとも途方も無いことを空想したもんだ。あの人はゼノビアさながら、ではオレステスはオダエナトゥス、ラファエル・アベン・エズラはロンギノスの役を演じて……斧か毒か、ロンギノスの報酬を受け取るかも知れないな。あの人は僕のことなんてどうでもいいのさ。冷血で熱狂的な大天使だよ。僕を、いや千人の僕を犠牲にして、打ち捨てられたぼろ布や壊れた人形の新寺院とやらの礎を血で潤すだろう。……おお、ラファエル・アベン・エズラ、なんて馬鹿なんだおまえは。……分っている、いつもどおり彼女の講義室に行くことになるんだ、まさに今朝も」

 この告白の山場に童僕が入って来て知らせを告げたが、それは風呂ではなくミリアムのことだった。

 仕事柄この老婆は、アレクサンドリア上流社会のあらゆる小間に内々に立ち入ることができた。彼女はせかせかと入ってきたが、いつものように腰を落ち着けて雑談はせず、立ったまま童僕を部屋の外に去らせた。
「おや、優しいお母さん。お掛けください。ああ、分かった。悪餓鬼め、ご婦人用のお酒を持って来なかったな。まだこの方のことを少しも分ってないのか」
エオスが戸口に来ていますが、もちろん」と徳を傷つけられたといった生意気な調子で童僕は答えた。
「出ておいき、サタンの悪童め」とミリアムは叫んだ。「今は大酒を飲んでる場合じゃない。ラファエル・アベン・エズラ、何でここで寝そべってるのさ。夕べ手紙を受け取らなかったのかね」
「手紙? 受け取りましたけど、眠すぎて読めなくて。そこにありますよ。おまえ、それをここに持って来なさい。……何なんです、これ。エレミア書の抜書き? 『立て、そして汝の命のために逃げよ。なんとなればイスラエルのすべての家に災いが定められてあるが故に。』——ラビ長が寄越したんですか。いつも尊師を冷静な人だと思ってたんだが……んん、ミリアムさん」
「馬鹿たれが。預言者の聖なる言葉を笑うとらんで、起きて言葉に従え。その手紙は私があんたに送ったんじゃ」
「なんで寝床の中では従えないんです。僕はここでカバラを、つまり——もっと馬鹿げてますけど——フィロンを熱心に読んでますよ。まだ何か?」

 老婆は焦りを抑えられず、歯ぎしりしながら文字どおりラファエルに襲いかかり、気づくとラファエルは寝床から床に引きずり出されて、次には何をされるのかと怪しみながら、そこに大人しく立っていた。
「どうもありがとうございます、お母さん。日々の生活の一拷問から守ってくださって——自分で苦労して寝床から出るのは拷問ですよね」
「ラファエル・アベン・エズラ。哲学者だの異教徒だの怠惰だの神や人への軽蔑だのでそこまで腑抜けになったのかい。あんたの民が餌食にされ、あんたの財産が異教徒の犬に略奪されるのをただ見てるのか。言ってあげるよ、キュリロスが宣誓したのさ。神のおぼしめしだ、明日のこの時間にはユダヤは一人もアレクサンドリアに残すまいとね」
「それはユダヤ人にはいいことですよ、僕の半分でもこの騒々しい伏魔殿にうんざりしているならね。だけど僕に何ができます。僕がエステル王妃で、ここでは都督邸にいるアハシュエロスの元へ赴いて、彼の金の王笏を自分に渡させるというわけですか」
「馬鹿たれ。夕べのうちに手紙を読んどれば、あんたは私らを守って第二のモルデカイとして名を代々伝えたかも知れんのに」
「大好きなお母さん、あのアハシュエロスはとっくに寝てたか、僕の話を聞くには飲みすぎていたかですよ。どうしてご自分で行かれなかったのですか」
「行けたのに行かなかったと思うのかい。私があんたみたいにものぐさだなんて思うのか。あんたを救う間があればと、命がけでぎりぎりここに来たんだよ」
「さて、着替えるとしますか。今何ができますかね」
「何も。通りはキュリロスの暴徒が封鎖してるし——ほら。聞こえるかい、叫び声や悲鳴が。あいつらはもうこの地区の向こうのほうを襲ってるんだ」
「何だって! 殺してるんですか」とラファエルは、毛皮つき外衣を羽織りながら尋ねた。「だって実害のある悪ふざけになってるのなら、大喜びでそいつの抗刺激剤を使いますからね。おい、おまえ。剣と短刀を。早く」
「違うんだ。偽善者めが。略奪させるままにして抵抗しなければ血は流さないって言うのさ、あいつら。キュリロスとやつの修道士たちは、暴行や何やを防ぐためにそこにおるんだとさ。……主の天使がやつらをまき散らしたんだ」

 会話は遮られた。激しい恐怖にかられて家中が浮き足立ったからだ。ラファエルはようやく完全に目を覚まし、通りを見下ろす窓に寄った。大通りには、悲鳴をあげる女たちや泣き叫ぶ子供たちが溢れていた。男たちのほうは老人も若者も、真のユダヤ的な不屈さで自分たちの財産が略奪されるのを見ていた。彼らは抵抗するには分別がありすぎ、しかし不平を言うには男らしすぎた。その一方で窓という窓から家具が飛び出し、門口から門口へと悪漢がきりもなく流れ込み、貨幣や宝石や絹、ユダヤの高利貸しが何世代も経て蓄積したあらゆる宝物を持ち出していた。けれども略奪者と略奪品の海のとどろきのただなかに、キュリロスの霊的お目付け役があちこちに不動で立っていて、ローマ兵なら鎗の元口でひどく殴ってやっとかなうような服従を一言のもとに強いていた。暴行はあってはならず、よって暴行は無かった。何人か僧侶の長服を着た者が暴徒を急いで通り抜け、じつに優しく手を引いて迷子になった子供の親を探していたのも一度ならずだった。

 ラファエルは静かに眺めて立っていたが、ついて上って来たミリアムのほうは激怒に我を忘れて部屋の中を行ったり来たりしては、話すなり行動するなりさせようと虚しくラファエルに呼びかけていた。
「一人にしてください、お母さん」とついにラファエルは言った。「連中が来るまで十分やそこらで一杯一杯でしょう。その間に何ができますね、このちょっとした『出エジプト』の捗り具合を見ているほうがいい」
「最初の出エジプトとは違う。あのとき我らは紅海の勝利を歌い鼓を打って進んだ。あのときは、我らが隣の妻たちから銀の飾物、金の飾物および衣服を拝借したんだ」
「そして今、彼らにそれをまた返している……。それでいいんだ、結局。僕らは千年前にエレミアの言うことを聞くべきでした。こんなに深い負い目のある国に馬鹿にみたいにもう一度戻るべきではなかった」
「呪われた土地じゃ」とミリアムは叫んだ。「不幸にも我らの先祖は預言者に背いた。そして今我らがその罪の実りを刈り取っている。——我らの息子たちは異教徒の哲学のせいで先祖の信仰を忘れ、部屋をいっぱいにしておるのは」(と軽蔑をもって周りを見回し)「異教の像。そして我々の娘たちといえば——あっ、そこをご覧」

 ミリアムの言ったとおり、隣家から美しい娘が悲鳴をあげながら跳び出してきた。半分酔っ払ったごろつき風の男があとを追い、その娘がユダヤ女の習いどおりに豪勢に飾り立てている金の鎖や飾り物を握っている。悪党は片手で娘の流れる黒髪を掴み、もう片方の手で娘の首に巻かれた重い金の首飾りを握った。そのとき僧侶が近づいてと、静かに男の肩に手を置いた。男は猛り狂っていて従わず、抑える腕を振り返って殴り……そして一瞬で若い修道士に地に倒された。
「汝、主に聖別されし者に触るるや。神を畏れぬ卑劣漢よ」とその砂漠の人は叫び、例の男は戦利品を手にしたまま舗道にうずくまった。

 修道士は男の拳から金の首飾りをもぎとると、未開人が文明産業の不可解な産品を見るように、子供っぽい驚きをもってちょっとの間それを眺めた。それから軽蔑して首飾りに唾を吐きかけ、地面に叩きつけて泥の中に踏みつけた。
アカンの金のくさびに倣え、イスカリオテの銀に倣え、汝諸悪の根源よ」。そして彼は叫びながら駆けて行った。「割礼者を倒せ。冒涜者を倒せ」——あわれな娘のほうは暴徒の間に消えた。

 ラファエルは一風変わった物思わしげな微笑みを浮かべてその修道士を見ていたが、ミリアムのほうは高価ながらくたが破壊されるのを見て大きな金切り声をあげた。
「あの修道士は正しいですよ、お母さん。キリスト教の連中がああいうやり方を続けるなら、きっと僕らを打ち負します。そもそもあれが僕らの破滅の原因なんですよ、泥土をぎっしり背負い込もうなんて思いつきが」
「どうする気なんだい」とラファエルの腕をしっかり掴んでミリアムは叫んだ。
「お母さんはどうなさるんですか」
「私は大丈夫だよ。庭の門の所の運河に小舟を待たせてる。私はアレクサンドリアに残るよ。ミリアム婆を意に反して一歩でも動かせるキリスト教の犬畜生はおらん。宝石は全部埋めたし——女の子はみんな売った。保管できるものは保管して私についといで」
「お優しいお母さん。どうしてこんな特別に僕の幸福を気にかけて下さるんですか。ほかのユダの息子たちよりも」
「それは——それはだね——いいや、ほかのときに話すことにしよう。だが、私はあんたのお母さんが好きだったし、あの人も私を好いてくれた。おいで」

 ラファエルはまたしばらく黙り込んで下の動乱を眺めた。
「なんて規律正しく手下を整えておくんだ、あのキリスト教の僧侶たちは。運命に抵抗しても無駄ですよ。結局彼らが時代の強者ですし、どうしたってこの小『出エジプト』になりますよ。ヨナタンの娘ミリアム——」
「私は男の娘じゃない。私には父も母も夫もおらん——もう一度私を母と呼んでおくれ」
「何とでもお呼びしますよ。アレクサンドリアの半分を買えるほどの宝石が戸棚にあります。お持ちください。僕は行きます」
「私と一緒にかい」
「広い世界に出るんですよ、大好きなかた。富にはうんざりだ。あの野蛮な若い修道士は僕らユダヤ人より富というものを理解していますね。僕はやることはやります。物乞いになりますよ」
「物乞いだって」
「どうして駄目なんですか。議論はよしてください。あのならず者どもが、好むと好まざると僕を物乞いにするでしょうし、その前に行くんです。暇乞いをするものは少しも無い。この犬という獣がこの世で唯一の僕の友。僕はこいつが大好きです。何しろ本当に頑固で、意地悪で、狡猾な、古いマカベアの不屈の精神を内に持ってますからね——こういう精神がまさに今僕らに少しでも残っていたら、小『出エジプト』なんて無かったでしょうに。なぁ、ブラン。僕の別嬪さん」
「あんたは私と一緒に都督の所に逃げられるし、あんたの財産の大半を守ることもできるんだよ」
「そのとおりですけど、そうしたくないんです。都督は嫌いだ。らくだの死骸やそれを喰らう禿鷲と同じくらい嫌いだ。それに実を言うと僕はかなり好きになってしまったんですよ、ここの異教徒の女性で——」
「何だって」と老婆は金切り声を上げた——「ヒュパティアかい」
「お望みでしたら。ともかく、問題を断ち切るには国を去るのが一番だ。キュレネ行きの始発船に乗る船賃を乞うことにします。出かけて行って、ヘラクリアヌスの遠征を受けたイタリアの生活を研究しますよ。急いで。——宝石をお持ちください。それで新たなる厄介事を育むといい。僕は行きます。僕の解放者がもう外から扉を叩いてる」

 ミリアムは戸棚から金剛石や真珠、紅玉や翠玉をがつがつともぎとり、ゆったりした長服の間に隠した。——「お行き、お行き。あの女からお逃げ。私があんたの宝石を隠して置く」
「ああ、隠してください。母なる大地が万物を森羅万象にわたるその胸に隠すようにね。僕らが再会するまでに宝石を二倍にしてらっしゃるのは間違いないな。さようなら、お母さん」
「だけど永遠にじゃないよ、ラファエル。ずっとじゃない。約束しておくれ、大天使の名にかけて。もし厄介事や危険が起きたら私に手紙で知らせておくれ。エウダイモンの家宛てにね」
「ヒュパティアの講義室の所にいる小男の荷運人足哲学者?」
「そいつだよ、そいつ。あいつが手紙を届けてくれるだろう。あんたに誓うよ、カーフの山を超えてでも都合する——あんたに全部払い戻すからね。アブラハムにかけて、イサクにかけて、ヤコブにかけて誓う。最後の一銭でも明細を出さなかったら、私の舌は口の中で上あごにくっつくがいい」
「そんなに慌てて誓わないで、愛しいかた。貧乏が嫌になったらラビにいくらか借りて行商できますしね。本当に、返してもらうつもりで預けるわけでなし、返って来なくてもがっかりしません。なんで落胆しなきゃならんのです」
「だって——だって——ああ、神さま。いいや——気にするまい。あんたはみんな取り戻すことになるのさ。エリヤの霊よ、黒瑪瑙はどこ。どうしてこの中に無いんだ。——黒瑪瑙の魔除けの、半分に壊れたやつ」

 ラファエルは青ざめた。「どうして僕が黒瑪瑙を持ってるのをご存じなんですか」
「何でって? 私が知らんはずがあるか」とミリアムは叫び、ラファエルの腕を掴んだ。「あれはどこだ。すべてはあれ次第なんだよ、馬鹿」。はっと疑惑に刺されたようにラファエルを腕一杯押しのけ、彼女は続けた。——「あんた、あれをあの異教徒の女にやったんじゃなかろうね」
「我が父祖の魂にかけて、だとしたら不思議な老魔女でいらっしゃる。僕がやったことはまさにみんなご存じらしい」

 ミリアムは両手を荒々しく打ち鳴らした。「おしまいだ、おしまいだ、おしまいだ。いいや、あの女の心臓からもぎ取ってでも、手にしてやる。あの女に復讐してやる。——言葉で媚びる変な女、お人よしはあれにはまって、そこに亡者がいるのにも、あの女の客が地獄の深淵にいるのにも気づきやしない。神のおぼしめしだ、あの女もあれの妖術も十二か月後にはこの世にいるまいぞ」
「黙れ、イゼベル。異教徒であろうとなかろうとあの人は日の光のように純粋だ。石についている護符が気に入ったというからあげただけだ」
「あれで魔法をかけて、あんたを破滅させる気なんだ!」
「奴隷商人のけだもの! 皆が皆、あんたが醜行用に売買するあわれな者たちのように卑しいとでも思うのか。あの子たちならあんたは、できれば自分と同様に地獄の子らにするだろうが」

 ミリアムは彼を見つめ、大きな黒い目を見開きぎらつかせた。彼女は一瞬、自分の短剣に触れたが——急に激しい悲しみに駆られ、萎れた手で顔を覆って部屋から駆け出した。と同時に大音響と叫びがして、扉が押し破られたことを知らせた。
「女は僕の宝石を持って行く。そして、若い僧侶を先頭にして客たちがここに来る。—— 一方が沈めば他方が昇る。ご立派なディオスクーロイの一対だ。おいで、ブラン。……おい、奴隷たち。どこにいるんだ。みんな当たり次第に何か盗んで裏門から逃げなさい。自分の命のためにな」

 奴隷たちはとうに命令に従っていた。ラファエルは微笑みながら誰一人いないところを階下に降りて行き、正面廊下で暴徒たちと顔と顔とをつき合わせた。修道士や行商人や沖仲士、魚売り女や物乞いたちの群れが狭い玄関に押しかけ、右や左の扉に突進していた。そして彼らの先頭は、ああ、首飾りを泥中に踏みにじったあの若い修道士……実にほかならぬピラモンだった。

「ようこそ。我が良きお客さま方。どうぞお入りください。ご自分独特のやり方で、現世の利得を思い煩うなと命ずる教えを実行なさいませ。……飲み食いするならうちの厨房と食糧庫をご自由にどうぞ。着る物なら、どなたか傑出の名士が聖なる粗衣を僕とありがたくも交換してくださるのでしたら、このインドの毛皮つき外衣と絹のズボンがお役に立ちましょう。たぶん融通してくれますよね、男前な若い隊長さん、この預言者たちの新学派のコレーゴスさん」

 呼びかけられたのはピラモンだったが、彼は見くびって押し抜けようとした。
「すみませんが、僕がご案内します。この短剣には毒が塗ってある——ひっかき傷で君は死ぬよ。この犬は純粋なブリタニアの血統だし、襲えば骨の砕ける音を聞くまで、灼熱した鉄でもこの犬を引き離さないだろうな。誰かが僕と服を取り替えてくれるなら、僕の持ち物はみんな君の自由。そうでなければ、最初に動いたのが死人になる」

 話者の育ちの良い物静かな決心は明らかだった。相手が激怒したり喚き立てたりしたのなら、ピラモンは自分の土俵で応戦できただろう。けれどもラファエルには泰然自若とした軽蔑があり、それが若い修道士と彼に従う悪党全体を完全に恥じ入らせたのだった。
「俺があんたと服を取り替えてやろう、ユダヤの犬畜生」と暴徒の中から汚れた男が大声を上げた。
「恩に着るよ。次の間に入ろう。親愛なるみなさんは、階段をお上りくださいよ。気をつけてね、君。——その陶器は無傷なら金貨三千枚の値打ちだけど、壊れていれば三文の値打ちもない。君の分別に任せるから相応に扱ってくれ。さてでは、我が友よ」。そして運べる物はすべてひったくり、運べない物は壊そうとしている掠奪者たちの激しい渦巻のただなかで、ラファエルは静かに自分の華やかな服を脱ぎ、男が渡したぼろぼろの木綿の上着と使い古された麦わら帽子を身につけた。

 ピラモンは端から掠奪する気などなく、唖然と驚いてラファエルを見ながら立っていた。暴徒が絵を引き裂き彫像を地面に叩きつけるのを見て、なぜか知らず後悔に貫かれてピラモンは身を震わせた。あれは異教のものだ。それは疑いない。しかしそれでもニュンペーウェヌスは、このように冷酷に破壊されるには愛らしすぎるように見えた。……壊れた手足が舗道に横たわっているのは、何か人間的に痛ましいほどのものがあった。……そんな考えをピラモンは自分で笑った。けれども笑い捨てることはできなかった。

 ラファエルは笑い捨てるべきではないと考えたようだった。彼は破片を指さして、一風変わった目つきで若い修道士を見たのである。——
「乳母に言われたものだよ。
     『自分で作れないのなら、
     壊すべきではありません』」
「僕には乳母などいない」とピラモンは言った。
「ああ——それで分かるよ——これやあれやが。さて」と、ラファエルは極めて挑発的な穏やかさで続けた。「君は正道にいるよ、男前な若者君。仕事仲間や修道生活という尊い技の見習いを楽しんでくれたまえ。君の二十歳の夏の暴動と略奪、悲鳴をあげる女たちや家を失った子供たち。これがタルソスのパウロみたいな聖者への確実な道だ。彼はまったく変人だが、実際そんな気はぜんぜん無くても紳士だった。ポイボス・アポロンがいろいろ変身するのは聞いてたけど、狼の皮を被ったアポロンは初めて見たよ」
「あるいは獅子の皮をな」と恥じながらも気の利いたことを言おうとしてピラモンは答えた。
寓話の驢馬みたいにね。さらばだ。道を開けてくれ、我が友よ。牙や毒に気を付けて」

 ラファエルの短剣とぶちの友に暴徒は十分な敬意を表して道をあけ、ラファエルは暴徒の中に消えた。

最終更新日: 2001年6月9日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com