第7章 罪来るところ

 その日一日ピラモンは、朝の仕事のことを考えては心を悩ませた。今までは彼の目にはキリスト教徒、とりわけ僧侶たちは誤りが無く、ユダヤ人や異教徒は狂って呪われていた。侮辱されても柔和であること、逆境にあろうと不屈の精神を持つこと、現世の慰安を軽んじること、貧しさを貴い財産とする信仰、これらをカトリック教会は自分だけの遺産として誇っていた。だが今朝、これらの特質を計る天秤はどちらに傾いただろうか。無一文になってぼろを纏い、自信のある微笑みをたたえて広い世界に泰然と出て行ったラファエルの姿が脳裏を離れなかった。またそれとは別にあの男には一風変ったところがあって、それもピラモンにつきまとった。これまではアルセニウス以外の誰にも認めたことの無いものだったが——悠然として優雅で、礼儀正しく己を律する、こうした様子のせいでラファエルが口にした非難はいっそう鋭く疼いた。あの非難者は何か不思議な仕方でピラモンにまさり、圧倒し、見抜き、議論にしろ計略にしろ——獣じみた力以外の事でなら何であれたぶんこちらをうち負かせただろう、そうピラモンは感じたからである。奇妙なことに——あんな短い時間にラファエルは誰よりもアルセニウスを強く思い起こさせた。アルセニウスに独特の魅力を添えたのとまさに同じ性質が、ラファエルには独特の不快さを与えていたが、しかし疑いなく同じ性質だった。あれは何だったのだろう。身分が与えるものなのか。アルセニウスは一流の人士で、ピラモンが知ったとおり——王たちの相談役だった。ラファエルは富豪であるようだった。ラファエルを厚遇していると言って、暴徒が都督を難じて叫ぶのも聞いた。では、世の傑物との親交がああした人品骨柄のもとなのだろうか。アルセニウスのなかにあろうとラファエルのなかにあろうと本当に強かった。それを前にしてピラモンは己を卑しく感じ——羨んだのだ。それがアルセニウスをより完全で魅力的な人にしたのなら、なぜ自分にも同じことをしなかったのか。どうして自分は分け前に与からなかったのか。

 そんなことを考えるうちに正午まで時が過ぎ、昼食になり、そうして、これでそんな考えから逃れられるだろうと、ピラモンが楽しみにしていた午後の仕事になった。

 ピラモンは自分の羊の革を階段に敷いて座り、まさに砂漠の子らしく、黒い石組みを素手では触れないほど熱する燃えるように輝く陽射しを浴びていた。セラペイオンの列柱を縫って飛び来る燕を眺めては、愛しいスケティスの古い谷間を思い、燕たちが短く囀りながら宙を上下に舞う様にどんなにたびたび喜びを感じたことかと考えた。訴訟や嘆願や請願にくる市民の群れが、大司教館の謁見室に出入りしては通り過ぎた。ペテロと助祭長は近くの日陰で挺身団が集まるのを待ちながら今朝の仕事について小声で熱心に話していたが、ヒュパティアとオレステスの名が何度もあがっていた。

 老僧一人がやってきて助祭長にうやうやしく頭を下げ、一人挺身僧の助けが欲しいと頼んだ。老僧は熱病に襲われた船乗りの一家を受け持っていて、その船乗りをすぐに病院に移さなければならなかったのである。

 助祭長は老僧を見て「よかろう」とおざなりに答え、自分の話を続けた。

 老僧は先よりも深々と頭を下げ、助けはすぐに必要なのだと言った。

「まったくおかしなことだな」とセラペイオンの燕たちに向かってペテロは言った。「自分の教区をろくに感化できず、大司教聖下を煩わせなければ簡単極まる仕事もろくに果せぬ者がいようとは」

 老僧はもそもそと何ごとか弁明し、助祭長はもう老僧にお目を賜りもせずに言った——「人手を見つけてやりなさいペテロ。誰でもできることだ。何と言ったかあの子——ピラモンは——そこにいるな。あの子をヒエラクス師と行かせなさい」

 ペテロはその提案が気に入らないらしく、助祭長に何か囁いた……
「いや、他の者は居ないと困る。ねだる連中はよくしてもらうまで黙らんしな。来なさい——我らが兄弟たちよ、ここに。皆で行くとしよう」
「もっとご一緒するほうがその子のためなのに」とペテロはピラモンに——ひょっとすると老僧にも——聞こえそうな大声で不平を言った。
 そうしてピラモンは彼らと一緒に進みながら、ラファエルとは何者なのかと恐る恐る仲間に尋ねた。
「ヒュパティアの仲間だ」
——この名もピラモンにつきまとった。彼はできるだけこっそりと遠回しに彼女の情報を手に入れようとし始めたのだが、用心は無用だった。その名に言い及んだだけで、一党全体に呪咀の嵐が起ったからだ。
「神があの女を挫かれよう、あのセイレーン、魔女、魔術と魔法の売人。やつはソロモンの預言された娼妓だ」
「私が思うに」と別の者が言った。「あの女は反キリストの前触れだよ」
「反キリストを産むと預言されたあの乙女かも知れない」と別の者が仄めかした。
「ちがうな。保証するよ」と不躾に嗤いながらペテロは言った。
「では、ラファエル・アベン・エズラはヒュパティアの哲学の弟子なんですか」とピラモンは尋ねた。
「何であれ、男たちの魂を惑わす手立てをあの女が見出せることの弟子だな」と老僧は言った。「哲学の実体はとうの昔に滅んだというのに、貴紳がたはまだ哲学の影は崇敬に値すると思っておるのだ」
「なかには影を崇敬するだけではない者もおりますな。あの女の家につきまとっているようなのは」とペテロは言った。「オレステスが哲学だけを目当にあそこに行っていると思うんですか」
「無情な判断をすべきではない」と老僧は言った。「キュレネのシュネシオスは聖い人だが、それでも彼女をたいそう愛しておられる」
「シュネシオスが聖い人ですって——妻帯してるのに。傲慢にも、浄福なるテオフィロスご本人に言ったんですよ、妻とともにいることが許されないなら自分は司教になる気はないとね。婚姻生活の肉の喜びと比べて聖霊のめぐみを軽視してる。『肉に居る者は神を悦ばすこと能はざるなり』と聖書に語られているのを知らないんだ。そういう輩のことをローマのシリキウスは『聖い体ならずして神の聖霊が宿り得ようか』とうまく言ったんです。シュネシオスみたいなのが、オレステスの情婦にひれ伏すのは不思議ではありませんね」
「ヒュパティアって淫蕩なんですか」とピラモンは言った。
「淫蕩に決まってるさ。異教徒に信仰や恩寵があるか。信仰や恩寵が無ければ、我々の高潔さはみんな汚れたぼろ布じゃないか。聖パウロは何と仰ったね——神もその邪なる心の随に為すまじき事をするに任せ給へり。即ちもろもろの不義、悪、慳貧、悪意にて満る者、一覧は知っているだろう。——なんで僕に訊く」
「うわ、そういう人なんですか」
「うわ、だって。なんで『うわ』なんだよ。異教徒がキリスト教徒より聖らかだというなら、どうして福音書が賛美されるんだ。あの女が諸徳を具えているように見えるとしてもだな、それはキリストの恩寵無しに徳を具えているんだから、悪徳をけばけばしく飾り立てたというだけだ。よくできた紛い物、光の天使に変身した悪魔でしかない。純潔については、これは諸徳の中の華にして王冠なわけだが——あの女は異教徒だが純潔だなんて言うやつは誰であれ、聖霊を冒涜して、永遠に呪われている。純潔は聖霊固有にして最高の賜物なんだから。我らの主よ永久に来りませ。アーメン」そしてペテロは敬虔に十字を切り、軽蔑するように若い仲間から離れた。

 主張することは証明することとは違う。それが分るほどにはピラモンは明敏だった。だが「そうあるべきだからそうなのだ」というペテロの議論はかなり面倒を省くものだったし……また彼が大変有用な情報源を持っているのも疑い無かった。それでピラモンは歩き続け、ヒュパティアというのは汚らわしい女妖術師メッサリナの類で、そのねぐらには魔道儀礼の悪臭が立ちこめ、男たちの魂を損なって、といった新たな考えを作り上げたのだが、なぜか知らずこの考えが悲しくなった。しかし彼女がそんなことしか教えていないのなら、弟子ラファエルはどこからあの不屈の精神を学んだのだろうか。言われたように哲学が完全に死滅したのであれば、ではラファエルは何なのだ。

 ちょうどそこでペテロその他の者たちは脇道に曲がり、ピラモンとヒエラクスは協同して行う用向きのために皆と離れてそのまま進んで行った。彼らはどこかに向かってゆっくり歩き、黙ってこの道を上りあの道を下った。ほかに良い話題が無いので、どこに行こうとしているのかとピラモンは尋ねた。
「とにかくわしが選んだ所へだ。いや、お若いの。わしが、司祭であるこのわしが、助祭長や読師に馬鹿にされねばならんとしても、君に馬鹿にされるいわれはない」
「悪気じゃないんです。本当です」
「もちろん悪気は無かろう。だが君は同じ手口をすっかり学ぶ。若者は年配者の手口を早々と身につける。言葉はバターより滑らかなれどまさに剣」
「助祭長や皆さんに文句を仰っているのではないでしょうね」とピラモンは言ったが、当然のことながら、自分の属する団体に寄せる血の気の多い敬意に煮えたぎっていた。

 答えはなかった。
「なぜなのですか、師よ。あの方々はこのうえもなく聖らかで献身的ではありませんか」
「ああ——聖らかだね」と連れは言ったが、「ああ——違うね」といった調子だった。
「聖らかだとお思いにならないのですか」とピラモンはぶっきらぼうに尋ねた。
「君は若い、若いよ。わしが見て来たのと同じくらいものを見るまで待つのだな。息子よ、今は退廃の時代なのだ。人々が信仰のために苦しみ死んだ古き良き時代とは違う。我々は今では栄えすぎた。けっこうな淑女たちが、自分の絹物にマグダラの女を刺繍し、福音書を首に下げて歩き回っている。今はそれで身をけばけばしく飾りたてているが、わしの若い時分には、そういうもののために女たちは死んだのだ」
「いや、挺身団のことを言ったのですが」
「ああ、挺身団の一員でありながらろくに仕事をしない者も多い。わしが言うたとは告げるなよ。だが金持ちの多くは税金の控除めあてに団員名簿に名を連ね、仕事のほうは君のような貧者に残しておくのだ。腐っとる、腐っとる。君にも分かるさ。説教師たちときたら、いや——わしにはペルシウムの誰にも劣らぬ説教の才があると——よく言われたものだし——イシドロス僧院長のなされたことも知っとるのだが。ところがここに来て以来十一年になるが、信じられるかね、自分の教区教会ですら一度も説教を頼まれたことがない」
「まったく。ご冗談でしょう」
「洗礼を受けた者として言わせてもらうが、本当なのだ。理由は分っとるぞ、理由は。——ここではイシドロス配下の者は畏れられとるのさ。配下の者はあの聖職者の直言という手法をものにしていようし——そしてアレクサンドリアの聴衆はか弱い。そういう所にはイシドロス師を許さない者もいる。彼はマロ、ゾシモス、マルティニアヌスという三人の悪玉を取り上げて、その件で手紙も来たしというのでな。わしらの知っとる別の手紙では、教会が掠奪者や高利貸しから寄附を受けていると書いておられたが、それもだな。『決して忘れない』、自分に良くした者みんなにキュリロス師は言う。……それに自分に悪くした者にもみんな。かくしてわしは下級司祭としてここで奴隷のようにあくせく働き、一方ペテロ読師のようなやつがわしを奴隷のように見下す。しかしいつだってそうなのだよ。おべっか使いも告げ口屋もいない司教なんぞいまだ決しておらん。浄福なるアウグスティヌスの他には。——ああ、僧院長の助言を受けて、ヒッポのアウグスティヌスの所に行っておったらなあ——そういう連中の最たる者があの助祭長で、司教が亡くなった暁には準備万端、激務の教区牧師の頭をとび超えて司教の座につくというわけだ。だが、それがこの世の流儀だ。一番口先の達者なお世辞の上手い者、一番声の大きな者、最も多くの金を慈善に寄附できる者。どういう金で出所はどこかなんて決して問題にならない。司教の手から面倒を最もよく除き、望むことには何でも同意し、盗み聴きし探りを入れて司教を守り、司教自身が目を使う労を省きそうな者。そういう者がアレクサンドリアやコンスタンチノープルやローマで成功するのだ。見てみたまえ。この大都市とその全僧侶に対して助祭は七人だけ。そして助祭たちと助祭長とがこの都市やわしらの主人なのだ。連中とあのペテロがキュリロス師のために大司教の仕事を取り仕切っている。キュリロス師が助祭長を司教にしたときには、助祭長がペテロを助祭にするだろう……報いられる。彼らは報いられるんだ。さらに言うならキュリロス師もな」
「何の報いなんです」
「理由か。わしが言うたとはもらすなよ。いや、わしは何を心配しとるんだ。失うものなど何もない、確かにそうだ。だが言われているとおり、アレクサンドリアで昇進する方法は二つ。一つは昇進に値すること、もう一つは昇進の代金を払うこと。それだけだ」
「無茶な!」
「おお、もちろんさ。まったく無茶苦茶だ。だがわしが知っとるのはまさにそれだけだ。マルティニアヌスめは、ご同様の詐欺師や偽善者のせいで前の司教に追い出されたのだが、その後ペルシウムに舞い戻ったときに今の司教を説きつけて彼の管財人になり、司祭に任命されたのだ——わしならただちに、あの野良犬を任命してやるがね——そして、あやつは司教から横領して彼の顔に泥を塗った——わしは、この司教が悪人だとは思えんのでな。だが悪党を用いる者が悪党呼ばわりされるのは当然だ——あやつが貧民を地べたに踏みにじって全市の暴君になったものだから、誰の財産も声望も、ほとんど命すら危うかった。何しろあやつは決算のことで呼び出されると、ぬけぬけと教会に自分の金を借しつけるかたちにしてな。わしは知っとるぞ。あらゆる無恥に加えて、司教職を買うべく大司教に莫大な金を用立ておったのだよ。……で、大司教は何て答えたと思うね」
「神を畏れぬ恥知らずを破門なさったでしょう、もちろん」
「あやつに手紙を送ったのさ。こういうことを再びやってのけようというなら、本当に事を公にせざるを得なくなるとね。それであやつめは意を強うして金を次の機会にとっておいた。世間の話では、イシドロス僧院長が抗議を書き送らなかったら、結局キュリロス大司教はあやつを司教にしていただろうということだ」
「キュリロスさまは、その男の性根を知ることができなかったのですね」とあわれなピラモンは言い訳を探して言った。
「中洲一帯に知れ渡っていたぞ。イシドロス師は何度も何度も大司教に書き送ったからな」
「それならきっと、醜聞を広めないようにして、異教徒の目に対して教会の統一を保とうとされたのですよ」

 老人は苦笑いをした。
「ああ、よくあることだ——醜聞を抱え込みながら臭い物に蓋をするだとか、些細な騒ぎよりも罪悪のほうがましだとか。まるで醜聞中最悪の醜聞でも、もみ消せば見つからんとでもいうかのように。それに教会の統一はだな、統一を欲するならディオクレティアヌスデキウスの古き良き時代に戻らねばならん」
「迫害者たちの時代にですか」
「ああそうさ、坊や——迫害の時代に戻るんだ。あの頃キリスト教徒たちは兄弟のように死んだが、それは彼らが兄弟のように生きていたからだ。今ではそんなものは、年の初めから終わりまで音信も無い、辺鄙な田舎の小さな司教区でしか見られん。だが、都市にあるのは地位と権力をめぐる一大闘争だけだ。万人がその隣人を妬んでいる。司祭たちは助祭たちを妬んでいるが、相応の理由がある。田舎の司教は首都の司教を妬み、首都の司教は北アフリカの司教を妬み、そして彼はまったく正しい。自分は不可謬だと言わんばかりに彼らは何をしようとしているのか——離教だよ、わしに言わせればまったくの離教だ。彼ら独自のドナトゥス派のぶんだけ悪いのだ。ニカイア公会議は、首都アレクサンドリアは古代の習わしに従ってリビアや五大都市に対して権限を持つべしと定めなかったか」
「もちろん、お持ちになってしかるべきです」と我が大司教職の名誉に汲々としてピラモンは言った。
「それでローマやコンスタンチノープルの大司教たちは、我らが大司教に嫉妬している」
「キュリロスさまにですか」
「もちろんだよ。だって彼は大司教たちの言いなりにはなるまいし、大司教たちをアフリカの指導者、支配者にならせてくれんだろうからな」
「ですがそういうことはきっと、公会議で決められますよね」
「公会議かい。一度出てみることだな。浄福なるイシドロス僧院長はよく仰ったものだよ。司教になったとしても——司教になる気はさらさら無かったが——司教になるには誠実すぎたからね——もし司教になったとしても会議には近寄るまい、とね。心にあまたの悪しき情を呼び覚さぬものなど一度も見たことがなく、どれもこれも言を弄しては、問題が見つかったときよりもさらに事を混乱させておったからだ。宮廷が寄越した侍従や宦官や料理人が前もって事をすっかり取り決めとらんでも、その体たらく。そういう連中が聖別された霊の器みたいに、聖なるカトリック教会の教義を定めるべく送られて来るのだがね」
「料理人がですか」
「そうとも。ウァレンティニアヌスは宮廷の見解に反対するのを止めさせるべく、カエサレアバシレウスに料理長を送りつけたぞ。言っておくが、そういう場合に見られる大闘争というのは、宮廷の賛意を得るだの、自ら宮廷に入るだのという争いだ。わしの若い頃アンティオキアの公会議は、司教たちが孤児と寡婦のための嘆願にかこつけてコンスタンチノープルに暗躍しに行くのを防ぐ法律を定めた。だがあれが何の役に立っただろう。野心に溢れたうるさい連中が転任に転任をくりかえしてローマやビザンチウムに近づき、皇帝に渡りをつけて廷臣たちの思うつぼになっているというのに」
「書かれてはおりませんか、『権ある者を謗るなかれ』と」とピラモンは能うかぎり信心ぶった口調で答えた。
「ふん、それがどうした。わしは権あるものを謗ってはおるまい。不正にその地位を占める者どものことをこぼすのなら」
「そんな教典解釈、聞いたことありません」
「なかろうな。だらかといって、それは正統な真実であるはずがないということにはならん。君は間もなくもっとたくさんのことを聞くだろうが——正統であろうとなかろうと——宮廷料理人が決めるほか無い真理をな。もちろんこのわしは、失望した不敬な不平爺だよ、もちろん。それにもちろん、若い者は買ってでも自分で経験せんとな。年寄りの経験をただでもろうてはいかん。さあ——自分で見極めなさい。そうすればカトリック教会のこういう運営方針がどういう類の聖者を育てているか分かるだろう。ほら、聖者たちの一人がやってくる。さて、わしはもう何も言わん」

 老僧が話していると背の高い黒人が二人こちらに来て、ピラモンたちが通りかかった大きな教会の階段の前に、ピラモンにとっては目新しい物を降ろした——それは輿で、長柄は象牙と銀で象眼され、上半分は薔薇色に染めた絹で覆われていた。
「あの籠の中には何が」と彼が老僧に尋ねたとき、黒人は立って額の汗を拭っていたが、ほっそりした奴隷娘が日傘と上履きを手にして進み出て、とばりの下の端をうやうやしく持ち上げた。
「聖者だよ、言っただろう」

 甲に大きな金の十字架を刺繍した靴が片方、とばりの下からそっと差し出され、跪いた婢女がその足に上履きを履かせた。
「ほら」と老いた不平屋は言った。「分かるだろう、キリスト教徒たちを牛馬のごとく使役するだけでは足りず——イシドロス僧院長はよく仰った——あの代言人のイロンに面と向かって仰ったのだ。キリストを愛する者が、万人を解放する恩寵を知る者が、どうして奴隷を所有していられるのか理解できないと」
「僕も理解できません」とピラモンは言った。
「だが、分っておろうがここアレクサンドリアでは考えが違う。か弱い足を保護するものを重ねてつけんことには、我々は神の寺院の階段を登ることさえできんというわけだ」
「書かれていたと思うんですけど。『汝の足より靴をぬげ。汝の立てる所は聖らかなれば』と」
「ああ、もっとたくさん良いことが書かれているよ。手ごろなのが思い浮かばないがね——ごらん。教会の大黒柱の一人——アレクサンドリア一裕福で敬虔な奥様だ」

 そうして歩み出た姿に、ピラモンの目はペラギアを見たときをさえ凌ぐほど大きく見開かれた。その衣装の贅沢で気取らない気品がピラモンの心にどのような考えを引き起こしたにしろ、彼は生来ギリシャ的なよい趣味をしていたからすぐに泣いたり笑ったりするたちではなかったが、人工的で衰退した文明の悪趣味な流行の見本たるこの衣装にはその向きを覚えた。うしろに詰め出された寛衣が、階段のあたりに寝そべって指の上のピスタチオで賭け事をしていた汚い少年たちの非難を招いた。聖クレメンスが説教壇から当時のアレクサンドリアの貴婦人連を咎めたのと同じ見解だった。その白絹の寛衣は、少なくとも一尺はある奇妙な赤と緑の図形でもって腰から足首まで飾りたててあった。その図形が絵であるのが徐々に分ってきた。富者とラザロの低俗で堕落しきった様式の絵だ。背中には十字架の刺繍で縁取りをした淡い青色の肩かけが垂れており、そこには陶器の破片を手にしてたヨブが三人の友に取り囲まれて座っていた。——記念品だよ、と老僧は囁いた。その貴婦人は一、二年前、大司教が座ったのとまさに同じ掃き溜めを見て口づけしようとアラビアへ巡礼したことがあり、肩かけはその記念品なのだった。

 首には五、六連も首飾りをかけ、そのうちの一本には金で縁取り宝石で止め金をした福音書の手写本が下がっていた。頭上の堂々たる真珠の冠の正面には大きな金の十字架がついている。冠の上やまわりには髪油でかためた髪が、無数の編み髪と巻き毛の間から半尺ほど縮れ出ていたが、これには誰かあわれな奴隷娘が一時間も手間をかけ、おそらくはその朝一度ならずがみがみと叱りとばされたに違いない。

 従順に笑みを作って目を伏せ、ときどき懺悔の嘆息をもらし、小首をかしげ、宝石をつけた胸に手を押しつけたりして美しい懺悔者は階段を登り、僧侶と修道士を見ると極めて深くへり下って丁寧に頭を下げ、衣の縁に口づけさせて欲しいと許しを求めた。
「ご自分の服の縁に口づけしたほうがいいですね、奥さん」とひどくぶっきらぼうにピラモンは言った。「二つの教訓を携えながら、まだお分かりでないようだ」

 たちまち彼女は高慢と激情で顔を真っ赤にした。「祝福を求めたのよ、説教は無用です。説教なら私の好きなときに聞けますわ」
「それに、お好みのをな」と老僧がこぼしたときには、貴婦人はぼろを纏った少年に小銭を投げながら階段を駆け登り、ぜったい聴罪僧に知らせてやる、野蛮な修道士どもに道端で辱められたくないわ、とピラモンによく聞こえるくらい大声でぶつぶつと独り言を言っていた。
「今あの女は中で自分の罪を告白している——外でわしらに示した罪は別だろうが。そして我が胸を打って、マグダラのマリアさながらにすすり泣くのさ。するとお偉方がこう言って慰めるだろう——やれ『なんて綺麗な鎖。それに肩かけ。——触らせて下さい。このインド羊毛の柔らかくてきめ細かいこと。ああ! 私が聖域のつとめのために強いられた借金のことをご存じでしたら——』とか。それに続く答えはもちろん、彼の期待どおりのあるべき答えだ。寺院の奉仕では最低の役にしか立てなくても当然身に余る名誉と思うばかりだ、とね。……そして相手は鎖と、ひょっとすると肩かけも我が物にするだろうし、女のほうは、慈善寄附によってまさにあの言葉、己の罪を滅ぼせという命令を果したと信じて帰宅するわけだ。そして、善良な僧侶が例の派手な安物に行き当たったのを気の毒に思うだけさ」
「本当にどうして」とピラモンは尋ねた。「そういうしつこい無心を断わらないのでしょう」
「わしのようなつまらん僧侶の無心なら、もののみごとに断るね。だがそういう人気のある聖職者の無心なら……。まえにヒエロニムスの手紙を見たことがあるのだが、彼が言うには、そういう場合上流の婦人たちは町のうわさ屋の気に障らぬようによく考えるのだ。ほかに言うことがあるかね」

 ピラモンは何も言うことが無かったので賢明にも口をつぐみ、老いた不平屋が喋り続けた。
「ああ、坊や。君はまだ都市の流儀を学んでおらん。もう少し歳をとったら、額に十字架をつけた綺麗な奥様に不愉快な真実を告げたりはせず、人気の説教壇だの、あわよくば司教区だのに近づべく彼女の無私な助けを得ようとして、彼女が頷けばヘラクレスの柱まで喜んで走るだろう。ここでは上流の婦人たちが我々の事を決めるのだ」
「女たちがですか」
「女たちがだ、坊や。女たちが何の目的もなく僧侶や教会のために財を積むと思うのか。見返りがあるのだよ。教会の説教壇に着いた説教者が、念入りに粉飾を凝らした文句の終りごとに、かの聖女が拍手しているかと不安げに目をやらんと思うのか。あの女には正統性に対する鋭敏な感覚があって、他の死すべき鼻が疑いもしないところに、ノウァティアヌス主義オリゲネス主義を嗅ぎつける。彼女は毎週自宅で、この町の極めて裕福で敬虔な女たち全員と会合して、我らの宗規を決めておる。宮廷料理人が我らの教義を決めるようなものか。あの女はアウグスタ・プルケリアにまでつてが、あって毎月コンスタンチノープルの帝姉に手紙を送っておる。彼女の聖なる意志を妨げようものなら、おそらく大司教自身に何がしかの厄介が及ぶかも知れんと囁かれておる」
「何ですって。キュリロスさまがそのような者に追従なさるのですか」
「キュリロス師はあの世代では賢い人だ——光の子としては賢すぎると言う者もいる。だが少なくとも彼は弁えているよ、そういう大家の婦人たちから救貧院や孤児院、簡易宿舎、病院、工場、そのほか何やかやの費用を得られるうちは、勝てない相手と争うのは無益だと。——キュリロスのために言わせてもらうが、この点はこの世の誰も彼には敵わない。比肩するのはミラノのアンブロシウスやカエサレアのバシレウスくらいだ——そうだな、悪しきものから最良のものを作ることについては、彼に文句は言わんが、非常に悪しきものなんだ、坊や、悪しきものであり続けてきたのだ。皇帝や廷臣たちが我らを火刑や磔刑にするのを諦めて、代わりに賄賂を送って恩を着せることにしてからずっと」

 黙って老僧の横を歩きながら、ピラモンは呆然として吐き気をおぼえた。……「つまりこれが、僕が見に来たものなのだ——『風にそよぐ葦と、王宮にしか相応しくない柔かき衣服を著たる人』。これのために慣れ親しんだラウラや簡素な喜びや子供時代からの仲間を離れて、労役と誘惑の唸る渦中に飛びこんだのだ。これが、子供の頃から教わってきた唯一無二の主と信仰と聖霊を持つカトリック教会の統一と調和の力、これが『汚点なく皺なく一体となって』『全身は凡ての節々の助けにて整ひ、かつ連なり、肢体おのおの量に応じて働くにより、その体成長し、自ら愛によりて建てらるる』不可分な一体というわけだ。この馴染みの言葉が記憶を通り抜けて、身をとりまく混乱した悪しき現実を嘲笑い、ピラモンはぞっと身震いした。夢を打ち砕いた老人に憤りを感じ、老人の不平は冷笑的な気難しさ、自己中心的な落胆からくる誇張にすぎないと必死で信じようとした。だがアルセニウスは警告したではないか。若者が見出すであろうものを——若者が実際見出したものを、一字一句違えずにアルセニウスは予言したのではなかったか。では聖パウロの偉大な理想は虚しい不可能な夢だったのか。いや、神の言葉に誤りはありえない。教会に過ちはありえない。むしろ間違っているのは教会の敵。老人の言うように教会が繁栄しすぎたことが間違いなのではなく、教会が隷従していることが間違っているのだ。すると、初めて会った時にキュリロスが言った言葉が、真正な説明としてピラモンの前に現われてきた。世俗の支配者たちが教会を抑圧し拘縛しているなら、どうして教会が自由に健やかに働けようか。異教の哲学や人間並みの虚しい知の体系が世俗の支配者たちを脅かし欺いているのなら、どうして支配者たちは僭主や反キリスト以外のものであり得よう。オレステスがアレクサンドリアの教会の災いならば、ヒュパティアはオレステスの災いである。真の咎めはあの女にある。彼女が悪の根源なのだ。それを根絶するのは誰か……

 どうして自分がやってはいけないのだ。危険かも知れないが、成功するにしろしないにしろ、栄えあることには違いない。キリスト教が進むには偉大な手本が必要だ。自分がなってはいけないのか——この考えにピラモンの若い心臓は高鳴った——いにしえのダビデが巨人に立ち向かったときのように、自己犠牲によって、信仰の神的狂気によって何か偉大な行いをやってのければ、——贅沢放題の自己中心的な人々の魂を気高い競争心へと目覚めさせ、人々の心やことによれば生命にも、エジプトの誇りであり宝であり名誉である殉教者たちを範として呼び覚ますのではないか。ただの男やか弱い女たちが誘惑や恥、拷問や死に打ち勝って口伝えされて永遠に生き、天上の宮廷で高位の人々の間に座を占め、額は殉教者の冠で永遠に照り輝いている、そんな姿が次々とピラモンの想像に浮かび彼の心臓は早鐘の如く高鳴った。やってのけて死ぬ機会を得たい。ピラモンはそれだけを切望した。

 そうしてこの望みはその機会を産み出したのだった。というのも兄弟たる巡視員たちと再会するや否や、あの心奪われる考えが話の穂を接ぎ、ピラモンはヒュパティアのさらなる情報を彼らに熱心に求めだしたのである。

 実際にはそのとき手に入ったのは新たな悪口雑言だけだった。けれども仲間たちは真の信仰が今朝得た勝利を語り、二十年前にテオフィロス大司教下で行われた異教思想の大転覆に話を進めた。オリュンピオドロスとその暴徒が、武力によってキリスト教徒に対抗し何日もセラペイオンを占拠し、町に進撃しては捕らえた捕虜を拷問し殺していたという。頭上に覆い被さるまさにこの柱の間で、セラピスの犠牲としてというより拷問されて殉教者たちは死んだのだが、最後は勝った。震えおののく暴徒の前で戦士が巨大の偶像の大きな顎を割り、異教信仰の呪文を永遠にへし折ったのだ。そんな話を聞いてピラモンの心臓は燃え立った。何かもっと疑問の余地なくキリスト教徒らしい勇気ある行いをして、その戦士のようになって良心の呵責を払い除けたい。今はもう、破壊すべき偶像は無い。だが哲学はある。——「なんで敵の心臓部に攻め込んで、まさにそのねぐらでサタンの髭をひっ掴んでやらないんです。どうして誰か神の僕が魔女の講義室に入り込んで、面と向かって反証してやらないんですか」
「やってのけるというなら君がやれ」とペテロは言った。「歳若い町の放蕩紳士どもに寄ってたかって頭を殴られたくはないよ」
「僕はやります」
「そんな馬鹿な真似を、聖下がお許しになればだ」
「言葉が過ぎます。馬鹿な真似だなんて、聖ステパノスから聖テレマコスに至る浄福なる殉教者たちを罵ることに」
「君の傲慢は聖下に報告すべきだな、まったく」
「どうぞ」とピラモンは言った。彼は新しい考えに取り憑かれていて、他には何も望んでいなかった。当面、話はここまでだった。

* * * * * * * * * * * *

「今時の若者の厚かましさときたら癪に障りますよ」とその晩ペテロは自分の長に言った。
「たいへん結構だ。若者たちは年長者を奮起させて、良い仕事をしようと競わせる。だが、今時の誰が厚かましいのだね」
「パンボ師が砂漠から送ってきたいかれた小僧です。厚かましくもヒュパティアに反対する闘士になるなどと言い出しましてね。本当にあの女の講義室に行って面と向かって議論しようと企てたのです。若者の謙遜と自己不信のこのお手本を、どうお思いになります」

 キュリロスはしばらく黙っていた。

「私はどんなお答えをいただくという光栄に浴するのでしょう。パンと水だけで一か月間ニトリアへ追放ですか。このようなことを罰せずに済ませるなんてお許しにならないと思いますが。実際、そんなことをしたら権威も規律もみんなお終いです」

 キュリロスはなおも黙っており、ペテロの眉はさっと曇った。そしてやっとキュリロスは答えた。——
「大義には殉教者が必要だ。あの子をここに寄越しなさい」

 ペテロは肩をすくめ、妬みに似すぎた表情を浮かべて下がった。そして震えおののく若者を連れて上がってきたが、若者は入室するやいなや跪いた。
「では、異教徒の女の講義室に入って行ってあの女に挑もうというのだね。そういう勇気があるか」
「神が授けて下さいます」
「あの女の弟子どもに殺されるかも知れんよ」
「自分の身は守れます」とピラモンは言い、当然だとばかりに自分の逞しい手足を一瞥した。「守れないとしても、殉教以上に栄誉ある死があるでしょうか」

 キュリロスはじつに和やかに微笑んだ。「二つ、約束してくれ」
「お望みでしたら二千でも」
「二つでも守るのは十分難しい。若者は性急に誓って早々にそれを忘れる。約束してくれ。何が起ころうと先に手だしはするな」
「だしません」
「もう一つ約束してくれ。あの女と議論はするな」
「では何をするのですか」
「反対したり非難したり無視したりするのだ。だが理由は言うな。議論すればおまえは負ける。あの女は蛇よりも巧緻だし、論理のあらゆる罠に長けている。おまえは嗤い者になって恥かしさに逃げ出すだろう。私に約束してくれ」
「約束します」
「では行きなさい」
「いつ出かけましょう」
「早ければ早いほどいい。あの呪わしい女は明日は何時に講義をするのだね、ペテロ」
「今朝は九時にあの女がムーセイオンに行くのを見ました」
「では明日九時に行きなさい。この金はおまえのだ」
「何のためのお金ですか」とピラモンはもの珍しげに貨幣を指した。これは生涯で初めて扱う貨幣だった。
「入場料だよ。哲学者の所には金を払わないと入れない。神の教会はそうではない。乞食や奴隷のために一日中開いている。あの女を改宗させれば良し。改宗させなくても」……キュリロスは声をひそめて心中言い足した「改宗させずとも良し。また——たぶんそのほうが好都合だ」

 ピラモンが出て行くのを送りながら、「ああ」とペテロは苦々しげに言った。
ラモス・ギレアデのもとで栄えるがいい、馬鹿な若造め。おまえをここに寄越して大司教さまの唯一の弱点を養おうというのは、何て悪霊なんだろうな」
「どういう意味ですか」とピラモンは大胆になれるかぎり激した調子で訊ねた。
「幻想なんだよ、説教や異議申し立てや殉教でカナン人を追い出せるんなんて。やつらはギデオンと主の剣をもってしなければ取り除けない。テオフィロスさまはキュリロスさまの叔父上なのだが、このことをよくご存じだった。さもなければオリュンピオドロスがアレクサンドリアの主となって、今日ではセラペイオンの前で香が燃えていたかも知れない。ああ、行け。そしてあの女に改宗させられるがいい。アカンのように呪われた物に触れて、そんな物を天幕に持っていたせいで一巻の終わりにならんか見てみるんだな。ミデアン人の娘たちと関わりを持って、バアルペオルに与して死者への供物を喰う羽目にならないかを」

 その夜はこれを励ましの言葉にして、二人は別れた。

最終更新日: 2001年6月29日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com