第11章 ラウラふたたび

 音も、動きも、スケティスの谷の静けさを破るものはなかった。刻々と曙が広がり青みゆく時ではあったが、険しい岩々の陰が渓谷全体を闇で覆っている。小川の流れのうえで靄がひとすじ眠ったようにうねっている。羽状の棕櫚の木の葉はうな垂れて動かず、来るべき日の風ひとつない炎光を諦めて待っているかのようだった。ようやく僧院の菜園の緑の畝の間に、灰色の人影が二つ膝を延ばして立ち上がり、ゆっくりと弱々しく鍬をふりあげ、小石の間をざくざくいわせて静寂を破り始めた。
「この豆はよう育ちましたな、兄弟アウフグス。神のお恵みで去年より一週間も早く二度目の作つけができそうじゃ」

 話しかけられたほうは応えを返さなかった。友は彼をしばらく黙って見みつめ、また話しかけた——
「どうしたのです、我が兄弟。このまえも言うたが、気鬱は神の僕にはとんとふさわしゅうない」

 答えは深い嘆息だけだった。話し手は鍬を置くと、愛情をこめて相手の肩に手を置き、また尋ねた——
「どうされた、我が友。私は僧院長だから、お心の秘密を知る権利があるなどとは言いません。だが胸に秘めたものを話すのは無駄でもありますまい。私は聞くに値せぬ身かも知れんが」
「どうして悲しまずにおれましょう、我が友パンボ。ソロモンは仰ったではないか、泣くに時ありと」
「いかにも。だが笑ふに時ありとも」
「懺悔者にはひとときも無い。多くの罪の過ちを担う身には」
「思い出されよ、浄福なるアントニウスさまの仰ったことを——『汝を義と頼むなかれ、過ぎたるものを悔やむなかれ』と」
「どちらもしてなど、パンボ」
「そうですかな。なおも己を頼むがゆえに、過去を悔やまれるのではないか。喜び誇れよう己ではないと、己に示す過去を」
「我が友パンボ」とアルセニウスは厳粛に言った。「すべて申し上げよう。私の罪は未だ過去のものではない。我が弟子ホノリウスは未だ存命、ローマの惰弱と悲惨とが彼のうちに生きているとあっては。我が罪が消えたと。ならばどうして夜ごと表れるのです。闘争で殺された者たちの幽鬼や亡霊、寡婦や孤児、蛮人どもに捉えられて悲鳴をあげる主の乙女らが、枕辺に立って叫ぶのですぞ。『汝つとめを果したりければ、我らかくあらぬものを。神より委ねられし至高のつとめは何処に』と」……老人は手で顔を覆い、苦しげにすすり泣いた。

 泣く人の肩にパンボは再び優しく手を置いた。
「そこに傲りがありませんかな、我が兄弟。王たちの王の手中にある民のさだめや皇帝の心を変えようとは、汝は何者ですかな。汝が力及ばずつとめ至らぬゆえに——請合って、決してつとめに背くがゆえにではなく——至らぬからこそ神が汝をそこに置かれたのであれば、それは生じたとおりに事を起こすためだったのです。汝は己が荷のみを負う身——それも汝がではなく、神が代わって負うて下さる」
「ならば何故、夜のあの幻影に苛まれるのです」
「恐れるな、友よ。それは悪しき霊、ゆえに偽りの霊です。善き霊であればただ憐れみ、許し、励まして語るはず。それが責めるとなれば、亡霊か悪魔か、聖人方を責めた悪魔王のごとく邪なものに違いない。悪魔王は偽りの父であり、その子は父に似ておろう。浄福なるアントニウスさまは何と仰いました。修道士たるもの幽鬼を思うに専心すべからず、さもなくば己を失うと。むしろ救われたと知る身ならば、悪魔王も害をなせぬ神の御手のうちにあるのだから、朗らかであれと。『何となれば』とよう仰った、『悪魔どもは我らを見出すがままにふるまうゆえ。我らが消沈して信を失っていると見れば、悪魔は我らをますます脅かし、絶望に陥れる。だがもし我らが信に満ち、我らの魂があるべき栄光に満たされ、主のもとで朗らかであると見れば、悪魔は当惑して縮こまり、惑乱して逃げる』。気強くあれ、友よ。そのような思いは夜のもの、魔王と闇の力のもの。夜明けとともに逃げ去ります」
「だが事は寝床で、夜の思いのなかであらわになります」
「そうだとしましょう。どのみち寝床で見せられるのは、とうに魔王よりようご存じのこと、すなわち罪人でおられることだけじゃ。だが思いますに、友よ、そうしたことを疑ごうてはおらんが、啓示をもたらすのは夜ではなく昼ですぞ」
「どういうことです」
「昼ならば書物を読めますからな。シナイ山で与えられた律法のごとく神の指によって石板に記されたあの書物を」

 アルセニウスは怪訝そうにパンボを見上げた。パンボは微笑んだ。
「ご存じのとおり、いにしえの聖なる人々もそうだが、私は学者ではなく、汝の兄弟のごとく篤い教えを受けるまでギリシャ語すら知らなんだ。だがお聞きではないか、書物を知らぬと申して咎めたある異教徒にアントニウスさまが仰ったことを。『霊が先か、文字が先か』とお尋ねになり——『霊なり、と汝は言おう。ならば健やかなる霊に文字は要らぬ。眼前に広がる被造物一切が我が書物。欲すればそこに神の御言葉を読める』と」
「学びを軽視しすぎておられんか、我が友よ」
「修道士らの間で老いた身、そのやりようはよう見た。そのなかで愚かな身にはこう思われました——多くの人々が学びに身を削り、あれこれの教えのいずれを信ずるのが正しいかと魂を苛んでおるが、ソロモンの『学び多ければ嘆き多し』を知らぬ。文字となった神の御言葉に悩むにつれ、霊はいっそう素速く神から遠のくのだと」
「どうしてそのような者のことをご存じに」
「見ましたからな。神学を学ぶにつれてますます正説の字面に汲々としながら、愛や憐れみ——神への信や、我と我が兄弟への望みに満ちた考えをますます失い、争いを産むばかりの討論で己の全霊を闇に沈め、浄福なるアントニウスさまが足れりとされたあの書物に書かれた言葉をすっかり忘れるに至った者を」
「その言葉というのは何のことです」
「見なされ」と言って、老いた僧院長は東の砂漠のほうに手を伸ばした。「賢者らしゅう自ら見極められよ」

 彼が話すうちに、光の長い矢が渓谷の岩から岩へとむらなく輝きくだり、岩棚や割れ目をみな生き生きと目覚めさせた。大きな深紅の太陽が仄暗い砂漠の夜霧を貫いてぐんぐん昇り、その光輝を渓谷に注ぐにつれて、細い筋になった靄が立ち昇って消え、岩のまわりで耀く水流が残った。まるで生きた目、すべての光景を見る煌めく目のようだ。断崖からは燕たちが何百と飛びひらめき、その日の空中舞踊を始めた。トビネズミが長い足でこっそりと跳ねて、修道院の菜園で盗み食いをして帰ってくる。石の陰にいた茶色いサバクトカゲたちは、おのおのまぶたを開けて明るくなったのを喜び、太った体と鞭のような尾を引きずって、できるだけ日の射す所を見つけて砂利に潜り、互いに寄り添ってさらに寒さから身を守りながらすぐにまた眠り込んだ。谷間の主なりと自負するノスリが目覚め、怒ったような長い叫びをあげると、夜の眠りの後で伸びをするべく二三度大きく輪を描いて高く昇って行き、断崖でさえずる雲雀をみな眺めながら、動きもせずに空に浮かんだ。遠く離れたナイル川からはペリカンの關々たる目覚めの声や鵞鳥の鋭い鳴き声、オグロシギやダイシャクシギの吹鳴がうねる渓谷に響いてきた。そうして一切の後に朝の賛美歌を詠唱する修道士たちの声が、いくぶん荒涼とした東方の空気に昇って来た。スケティスの新しい一日が始まった。これまでそうであったように、そしてまたこれからもそうであるように、何週間も何週間も、何年も何年も、眠ったように静かに働き、祈るのである。
「汝には何を教えていますかな、我がアウフグス」

 アルセニウスは黙っていた。
「私にはこう教えていますぞ。神は光だと、神のうちには闇は少しも無いのだと。いのちは神のうちにあり、いつも喜びに満ちている。神は贈り主で、その恵みを愉しんでおられる。神は愛であり、その慈愛は神の御業すべてを覆っている——どうして汝を覆わんものか。おお、汝、信無き者よ。あの何千もの鳥を見られよ——我らの父の許しなくばその一羽も地に落つること無からん。汝があまたの雀にも劣るとでも。汝のために神はその子をお遣わしになったというのに。……ああ、我が友よ、あたりを見回して神がいかにあるかをご覧にならねば。目を内に向け続けて、己が身の至らなさをしげしげと覗き込むときにこそ、神を己が姿に似せることを覚え、我らの暗く険しい心を神の光と愛の雛形だと妄想するのです」
「カトリックの懺悔者というより哲学者のようなことを仰いますな。私は自己の内部から目を背けるのではなく、いっそう内に目を向けたい。ここでなし得た以上の深い自己吟味、より完全な脱俗、これが私の望むものです。私の切望は——許されよ、我が友——だが日々いっそう切実に求めるものは孤独な生活なのですよ。人の罪に呪われたこの世、そんなものはなるべく見ないほうがいい」
「私は哲学者か、あるいは異教徒のように語っておるのかも。よう存じませんが。だが思うに、よう言うように半切れでも無いよりはまし。賢明な人間は己の持ちものをより良う用いましょうし、書物がいくらかいたんで汚れているとて学びを投げ出しはすまい。この世はもうこんなにも教えてくれている。被造物には明らかに神が顕れており、いつの日か今よりいっそう明らかに神を示すだろうに、神の潜むこうしたものに目を閉ざすべきか。しかしさらなる脱俗のほうはと申せば、このスケティスの我らはさように俗ですかな」
「いやいや、我が友。本当に人にはそれぞれ天命があり、それぞれある生きかたが別の生きかたより修養になるのです。私はと申せば、世俗で得た心のならわしが、我知らずここでさえ身から離れません。他人のすることが気になってならず、他人の人柄を探っては、彼らに対してたくらんだり画策したり、彼らの未来の運命を予知しようとせずにはいられない。我らのささやかな家族のちょっとした言葉も仕種も、私の心を必要事から逸らささずにいないのです」
「自房にいる隠修士は心を乱しにくいなどどお思いか」
「日々の必要を満たす以外に何ができます。そうした用も、木の根や野草をいくらか集める程度に制限できましょうし。人はすでに獣のように生きてきた。同時に天使のように生きようとして——どうして私もそうすべきでは」
「汝はこの世の賢者——他人の心を探り——己が心を腑分けする者ではないか。胃が餓えれば心は腐れるとお気づきにならなんだのか。私は何人も見て来た。慌てふためいて夢中で悪魔から飛び逃れながら、すでに心に入り込もうとしている邪な悪魔に心の扉を閉ざすのを忘れていた者を。友よ、何人もの修道士が所を変えながら魂の痛みは変じなんだ。孤独のうちに心を養うことを強いられて、己の思いから逃れんと焦がれ、自棄になって崖から身を投げたり、我が身を切り刻んだりした者たちを知っておるのです。一人の友、一つの優しい声があれば救われたろうに。また、己を低うするためのまさにその苦行にすっかり自惚れ、我をすでに全き者と恃み、恩寵という手立てをすべて見下していかなる聖体も拒み、悪霊の見せる自惚れた夢の景色に生きた者もおりました。知ったうちの一人は、自尊にかけては気違いじみておりましてな、死すべき人間のどんな助言も受けつけず——誰をも師とする気はないと言うておった。この人がどうなったことか。水も食べ物もなしに一日砂漠をさまよい、野草と聖餅だけで三月やそこからは生きられると常々誇っておった者が、内なる火にとりつかれて自房から劇場や見世物小屋や居酒屋に飛び戻り、一切は幻に過ぎんとして、己自身の存在も神の存在も否定し、大食によってその惨めな日々を終えたのです」

 アルセニウスは首を振った。
「さもありなん。だが私はまた違う。ほかにも告白することがあるのです、我が友よ。逃れてきたあの世界の記憶に日に日にますます取り憑かれているのです。戻ったところであんな虚飾には何の喜びも感じないのは承知。それを貪っていたときですら軽蔑しておりましたから。もう歌女歌男の声を聞けましょうか、飲むもの食べるものを味わえましょうか。それでも——あの七丘の宮殿が、その政治家や将軍が、その陰謀や敗北や勝利が——いまに興隆して勝つかもしれませんから——ひとときも脳裏を離れません。私に戻れと誘わない時はないのです。まるですでに身を焼かれながら灯火に寄り行く蛾のようだ。結局私のようなあわれな身では、危険な呪文にとらわれて意に反してほしいままにされるか、それがいやなら、戻ることのできない砂漠の果てへ逃れて呪文を破るしかない」

 パンボは微笑んだ。
「もう一度申しましょう、これぞ世俗の賢者、心の探り手と。かような賢者は、ささやかなラウラをやむなく逃れたところで、ここでは空しい夢想に考えが向くのはときおりでも、一人になればひとときも夢想から逃れられまい。さても友よ——汝がときおりこの兄弟あの兄弟を不安に思い悩むとて、それが何です。己を案ずるより他人を案ずるほうが良い。愛するものを持つことは——そのために泣くとしても——どこか孤独な洞窟で、自分が世界に——ことによると、私の知っておった者以上に、己が神になるよりは良い」
「何を仰っているのかお分かりか」とアルセニウスはぎょっとした調子で尋ねた。

「孤独に逃れれば、己をキリスト者たらしめるあらゆるものから自らを切り離してしまうと申すのです。宗規や、服従や、友愛、自己犠牲——聖者方との交わりから」
「またどうして」
「汝が愛を示せぬ者と、どうして交われます。また愛の働きによらずに、どうして汝の愛を示せましょうや」
「少なくとも、日に夜に人類のために祈ることはできる。そこに聖人方との交わりの余地はないだろうか——というよりそれこそ最大では」
「目の前の兄弟、その罪や惑いを知る兄弟のために祈れぬ者は、我が友アウフグス、目の前におらぬ兄弟のためにも、ほかの何者のためにも強くは祈れません。兄弟のために働けぬ者は、兄弟のために祈ることも兄弟を愛することも、すぐに止めてしまうでしょうな。それに、何と書かれておりますね。『既に見るところの兄弟を愛せぬ者は、未だ見ぬ神を愛すること能はず』と」
「もう一度申しますが、ご自分の議論の行き先がお分かりか」
「不調法で、議論のことは何も知りません。ことが正しいならその望むところに導かせるが良し。それは神のお望みになるところに導きますからな」
「しかしそれでは、人にとっては、妻子を持って肉の愛欲という動乱に巻き込まれるほうが良いかのようです。できるだけ多くの人を愛し、彼らを心配し、彼らのために働くためには」

 パンボはしばらく黙っていた。
「私は修道士で、論客ではありませんな。だが善かれと思って、ラウラから砂漠に去るなと申すのです。それより望みとしては、お知恵がどこかもっと首都に近いところに据えられたのを見たいものじゃ。——たとえばトロイかカノープスか——そこならいつでも主の戦いに赴かれよう。教会のために用いるためでないなら、なんで世俗の知恵を学ばれたのか。もう充分。参りましょう」

 そして二人の老人は谷間を横切って家路を進み、パンボ僧院長の房に戻ったのだが、自分たちの議論に対する現実的な答えが、厳めしい長身の聖職者の姿で用意されていようとはつゆも思っていなかった。彼はナツメヤシとキビでせっせと空腹を満たし、客人への礼遇としてのみ出される修道院唯一のごちそう、椰子酒も決して辞退しなかった。

 厳粛で礼儀正しい東方流のもてなしからも、修道院キリスト教の慎みある厚意からも、僧院長は客人の邪魔をすることを自らに禁じ、客人が健康的な食事を平らげてから、名前と用向きを尋ねた。
「身に余ることながら読師ペテロと呼ばれております。キュリロスさまから兄弟アウフグスに書状とお言づてをお持ちいたしました」

 パンボは立ち上がると恭しく身を屈めた。
「お噂はかねがね承っておりました。カトリック教会の大義に篤く魅せられた方とのよし。お差し支えなければ、私どもとアウフグスの僧房へお運びいただけますか」

 ペテロはまったく尊大な様子で、小さな庵まで二人について行き、そこで懐からキュリロスの書状を取り出してアルセニウスに渡した。アルセニウスはじっと座って何度も読み返し、眉を曇らせた。パンボはただ畏まってアルセニウスを見ているばかりで、はかりがたい深遠なことを熱心に考え込んでいる彼を、質問で妨げようとはしなかった。
「まさに裁きの日々」とようやくアルセニウスは言った。「衆多の者跋渉らんと預言者の語られあの日々だ。それで、ヘラクリアヌスは本当にイタリアへ出帆したのですか」
「ヘラクリアヌスの軍を、アレクサンドリアの商船が公海上で三週間前に見ています」
「そしてオレステスはますます心を固めているのか」
「ああ、やつはファラオです。というより、異教徒の女が心を固めさせているのですが」
「私は常々あの女を恐れていた。異教徒のあらゆる学派のうち何よりも」とアルセニウスは言った。「だがヘラクリアヌス総督のことは、極めて賢明なばかりか極めて心正しい人だと思っていたのに。ああ——ああ——いかなる徳なら抗するのか、心に入り込んだ野心に」
「げき恐ろしきは」とペテロは言った。「まさにあの権勢欲というやつです。ですが彼については、私は決して信用しておりませんでした。彼がドナトゥス派を野放しにしだしてからは」
「まったくだ。そうして一つの罪はまた別の罪を招く」
「また思いますに、罪人を見てみぬふりというのは、あらゆる罪の中でも一番の悪です」
「よもやあらゆる罪の中でということはありますまい、尊師」と、パンボは慎ましやかに応じた。だがペテロはこの妨げを一顧だにせず、アルセニウスに向って続けた——
「さてでは、お知恵からどんなお答えをいただいて聖下のもとへ戻りましょうか」
「ううむ——そうだな。たぶん聖下は——これは熟考を要することだ——党派の状況をもっとよく知らなければ。もちろん聖下は、アフリカの司教に連絡して麾下に統一しようとされたでしょうな」
「二ヶ月前に。だが強情な宗派分立論者は聖下を妬んで傍観しています」
「宗派分立論者とは穏やかならぬ言葉です、我が友よ。だがコンスタンチノープルには使いを遣られましたか」
「宮廷に通じた使者をお求めでして。それで、あなたのご経験からしてこの任務をお引き受けいただくことは可能だろうとお考えになったのです」
「私ですと。私が何者だというのやら。ああ、ああ、日々新たな誘惑! 誰なりとお望みの者の手でお送りになればいい。……だが——私だったら——せめてアレクサンドリアにおれば——日々に助言申し上げるものを。……きっと道をもっとはっきり見通せたはずだ。……不測の変化も生じるだろうし。……我が友パンボ、大司教聖下に従うのは罪深いことだと思われますか」
「おや」とパンボは笑って言った。「半時前には砂漠に逃げ込むと仰ったのに。遠くの争いをひとたび嗅ぎつけるや、今は、老いたる軍馬のごとくこの谷を掻いておられる。行きなされ、神のご加護を。これで悪うなるものは何もなかろう。恋に落ちるには老いすぎておられ、司教職を買うには貧しすぎ、与えられたものを取るにも高潔すぎる」
「本気ですか」
「菜園で何と申しました。行きなされ、そして我らの息子に会うてあの子のことを知らせて下さい」
「ああ、俗事にかまける己が恥ずかしい。あの子のことを訊くのをすっかり忘れていた。あの若者はどうしておりますか、尊師」
「誰のことを仰っているのですか」
「ピラモンです。我らの霊的な息子で、三月前にそちらに下って行ったのですが」とパンボは言った。「きっと今は名をあげておりましょうね」
「彼か。行ってしまいましたよ」
「行ってしまった?」
「ああ、ユダの呪いのかかったあの恥知らず。私たちのもとには三日もいないうちに、大司教館の庭で公然と私を殴りましてね。キリスト教の信仰を捨てて異教徒の女、ヒュパティアのもとに逃げました。あの女に夢中ですよ」

 二人の老人は、呆然として恐れにうちひしがれた顔を見合わせた。
「ヒュパティアに夢中とな」とついにアルセニウスが言った。
「そんなことはありえん」とパンボはむせび泣いた。「不当なひどい扱いを受けたに違いない。誰かがあの子につらく当りましたな。あの子はいつも優しくされておって、そんなことには耐えられなんだのに。ひどい人たちだ、世話役の任に背いて。主は子の血をそちらの手にお求めになろう」
「ほう」とペテロは激して言った。「これが世の正義だ。私を非難し、大司教さまを非難し、罪人以外のありとあらゆるものを非難する。興奮した頭とさらに興奮した心、これでは事情を説明するには足りない、馬鹿な若造が綺麗な顔に惑わされたためしはないとでも」
「おお友よ、我が友よ」とアルセニウスは叫んだ。「どうして理由もなく罵り合う。私だ、非難さるべきは私だけだ。私があなたに助言したのですよ、パンボ——私があの子を送り出した——弁えているべきだった——自分が何をしているのかを。老いぼれた俗人だ、私は。かわいそうな無垢な子を、誘惑のバビロンに押し出したのだ。すべては私の策略やたくらみのせい。今や子の血は私の頭に落ちよう——既に負う罪では足りぬかのように、あらゆる罪にこれを、私のヨセフ、我が老境の息子をミデアンびとに売った罪を加えに行かねば。さあ、共に参りましょう——今——すぐに——あの子を見つけるまで休むまい。あの子が私の白髪を憐れんでくれるまで、あの子の膝に縋ろう。ヘラクリアヌスとオレステスには、何や知らんが自分の道を行かせておくがいい——私はあの子を探し出して言うのだ。嗚呼アブサロム、わが子よ、われ汝に代りて死にたらんものを、と」

最終更新日: 2004年6月21日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com