第13章 奈落の底

 「ついにここまで来た」とラファエル・アベン・エズラはひとり言った。「まっとうにも滞りなく、底無しのまさにどん底に降り来ったわけだ。泳ぎ始めた子どもみたいに原始的無の固い床の上ではしゃいでいるうちに、我が新要素もそう実行不可能でもないのが分かってきた。人も天使も悪魔も今は、おまえは弱いから地上もしくは天上の現象なり理論なりを信じるんだとか、信じないんだとかと僕を責められはしない。あるいは天地や理論や現象が存在するか——しないかさえもだ。……あれで自分の考えを十分に論じ尽したなんて僕は信じているのか?……あれこれ感覚が存在するってことを……夥しすぎて慰めどころじゃないが——否定したり——あるいは力説するほど実際僕は教条的じゃない……というか演繹と帰納、分析と綜合によっていくらかでも前進するなんて、アラクネーの仕事なんぞまったくお断わりなんだ。もうこれ以上自分の内面に——そんなものがあるとしてだが——蜘蛛の巣を紡ぐ気はない。感覚だって? 自我の一部にほかならない——もし自我があるとしたらな。感覚を生じさせるものが外部にあるなんて、こんな子供じみた妄想がどうして頭に浮かぶんだろう。夢のなかでもまったく同様に感覚はあるし、それには対応する実在が無いのは分かっている——いや、分かってないな。そんなことをあえて肯定するほどどうして教条的になれるのやら。夢が覚醒時の思考と同様に現実的であったらなぜいけない。どうして夢が現実で、覚醒時の思考が夢ではだめなんだ。何か問題があるか。

「実際何が問題なんだ。僕がこの世で何年も見てきたものといったら——何やらありそうなことだが、あれも夢だというのでなければ——あらゆる山師『主義』が飛んだり跳ねたり哲学的な綱渡りをやる様だ。どれもこれも死んだ木製の操り人形で、先決問題要求の虚偽という針金で動いていた。……どの哲学者も手にした問題を自明だとして、そのうえで凱旋式みたいに勇ましく前進して意気揚々だ——論証はみんなあとまわし。自説に合わせて宇宙を切り取ってりゃ、その説が宇宙に合致するのは当たり前だよ。僕はあれこれ手をつけないで——これも誰も否定できないことだが、最小限に切り詰めて始めたんだ……だって、単なる『我は我なり』より低いところからは始められないと思うし……いや——同様に明白な——『我は我ならず』は別だが。思い出すよ——あるいは夢見ているのか——ヒュパティアというあの甘美な夢に僕は申し出たりしたっけ。ヒッパルコスの天文学から大天使の翼の羽根の数にいたるまで、天上地上の一切を一つの単純な前提から演繹いたします、我が倒立角錐の頂点となる一種のプー・ストーとしてまずその論証さえお書き下されば、なんて。でもあの人は馬鹿にしてたな……自分にできないと分かっていることは侮りがちなものだ……『一たす一は二みたいな公理です、それは』だった……あの甘美な夢がどんなにおかんむりだったことか、あの人にこう言ったらさ。一個の物と一個の物が二個の物になるように見えるから、それは実際に二であって三百六十五ではないなんていうのは、ある人が正直そうに見えるが故に彼は悪党ではないと証明するようなもので、どちらも公理なんてものじゃないと思うんです、とか。そのうえ訊いたりもしたし。普遍的経験に訴えるに際して、阿呆全員の愚昧を合わせると知恵になるというのをどう立証なさるんですか、とか。

「『我は我なり』は実際、公理というもんだ。何の権利があって僕は、自分は他の誰でもないと言えるんだ。僕に代るはずなのない誰かが存在するなんて、どうして僕に分かる。僕が、というより何かが数々の感覚を感じたり、欲したり、考えたり、妄想したり——偉大な悪魔がみんな持ち去るんだが—— 一瞬ごとに新たなものが生じて、それぞれ必死に他のすべてと争う。そうして僕にしか分からないこの途方もない多様性と矛盾のおかげで、僕は立ち上がって『我は我によって我なり』なんて言うほど非論理的になるわけだ。そして大胆にも、自分は一個だなんて宣言する。気づいているのは、何個なのかは悪魔しか知らないってことだけなんだが。経験に基づくあるゆる怪態な演繹のうちでも、怪態の極みだよ。むしろこう結論するほうが、まだ哲学的じゃないのか。自我なんて呼んでるものを僕は見たことも感じたことも聞いたこともないし、僕というのは、僕が見たり聞いたり感じたりしたもの——あの馬、あの死んだ男、あの雄驢馬と僕が呼んでいる感覚であって——それ以上でも以下でもない——この四万人もの二本足の雄驢馬どもがそれぞれ、己の存在は一個だというこの同じ観念を持っていて——と想像したがるのは僕の馬鹿げた癖だな。自分に見出したのと同じ思考の病を彼らにも負わせているわけだが——連中は己が命が大事とこの前を逃げ回っているように現象して——言葉に無理があるよ——我が祖先の愚昧のせいで——僕に先祖がいたとしてだが——僕はぜんぜんましな表現ができない。……どうして僕は自分が感覚する一切——あの空や、あの雲や——全宇宙であってはならないんだ。ヘラクレス! 僕の感覚器官はなんともすごい創造的天才に違いない。——僕は詩を作ろう——七十二巻の風刺詩、題して『宇宙、あるいはラファエル・アベン・エズラ』。ホメロスの『マルギテース』を手本にして。ホメロスの? いいや僕のだ。どうしてマルギテースが、他のものと同様僕の感覚の所産であってはならないんだ。ヒュパティアはよく言っていたな、ホメロスの詩は自分の一部だ……ただ証明できないだけだって……だが僕はマルギテースは自分の一部だと証明した……自分の論証を信じるわけじゃないが——懐疑主義が許さないし。おお、この不愉快ないわゆる全宇宙なんか消滅すればいい。その結構な実験によってしか、宇宙が消えても主である『我』はいくらか残るのかどうかはっきりしないのなら。禿鷹野郎の教条主義者め! それではっきりするってなぜ分かる。分かるとしても——なんではっきりさせる必要があるんだ。……

「あえて言うが、こうしたすべてに適う答えはある。半時間ほどで僕はちょっとしたものを書けただろう。だが僕はそれを信じないし……それに反論もしないし、さらにそれに抗弁もしない……そう……僕は眠いし腹も減っている……というより眠気と空腹が僕。どっちなんだ。やれやれ……」そしてラファエルは大きなあくびをして思索を終えた。

 この希望に満ちた演説は、それにふさわしい講義室で述べられた。ローマのカンパーニアにある、茶色く乾いた草の丘の上、煙に黒ずむ不気味な数本の枯れ松に囲まれた、焦げ跡のある陰鬱な塔のむき出しの壁の間。そこにラファエル・アベン・エズラは座って、世界の大問題——「神を見出す所与の自己」に関する最後の原則を考えだしていた。扉のない石造りの拱道越しに平原の眺めを見渡せたが、平原は折れた木々や踏みつけられた作物、煙をあげる村々といった先頃の戦争の醜い傷跡に覆われ、はるか彼方の紫に霞む静かな山と銀色の海に向かって、蠢く点の長い列が遠くから続いてもがいていた。その点が一緒になって流れたり、ばらばらになったり、ちょっと止まったり、後退りしては何か新しい流れによって前方へうねり寄せたりしているところに、時々鋭い白い光が黒く密集した群れを貫いて煌めき渡った。……アフリカ総督が世界帝国に身を投じ——そして負けたのである。

 「凛々たる老いた太陽!」とラファエルは言った。「なんて陽気にあそこの白刃を煌めかせるんだ。ちっぽけな火花のたびに断末魔の悲鳴が続くことなんて決して気にかけない。なんで気にかけよう。太陽とは関係無いことだ。占星術師は阿呆だな。太陽の仕事は輝くことで、全体としては僕に満足できる稀な感覚の一つだ。おやおや。これは楽しいか疑問だぞ!」

 こう言ううちに、一縦列の軍隊が平原を横切って、彼の隠遁所に向って進軍して来た。

「僕の新たなあの感覚がここで僕を見つけたら、彼らは間違いなく、さらなる感覚をすべて不可能ならしめる新たな感覚を、僕のうちに生じさせるだろう。……さて、どんなご親切をして下さることやら。ああ——だが彼らがそうするだろうって、どうして僕に分かるんだ。もし二本足の心象が固い鋼色の心象を僕の諸感覚の間に押し込んだら、それが僕の最後の感覚になるだろうって、可能な証明が何かあるかな。僕が青ざめてじっと横たわり一日二日で烏の餌に変るという事実は、僕に感覚はないはずだということの何らかの根拠になるのか。またそれが起こるだろうって、なんで分かる。なにがしかの感覚が僕の眼球に——あるいは何にだっていいんだが——生じたようだ。あれを僕は兵士と呼んでいるが、しかし、兵士と呼ばれるあの単一の感覚に起こるらしいものと、僕が僕と呼んでいるもの、僕の感覚すべてを一緒にしたものに起こるだろうもの、あるいは実際には起こらないだろうものとの間に、どんな可能な類比があり得るのか。ある心象が僕に近づいて僕を植えるように見えたら、僕は林檎を実らせなければならないのか。だったら、別の心象がやって来て僕の脇腹を突くように見えたとして、どうして僕が死ななければならない。

「まだそれを否定する気はない。……僕は教条主義者じゃないからな。明らかに、あの心象はまっすぐこの塔に向っているぞ。さて、機を見て逃げたほうが安全だろうか。しかし感覚の喪失については」と続けながら彼は立ち上がって、黴の生えたパンの耳をいくらか頭陀袋に押し込んだ。「何でもそうだが、あれは後知恵だ。どうして——もし今、自分は一個の場を占める一個のものだと思う口実が何かある場合に、僕が自分の無数の感覚に狂わされているのだとすると、では僕が食われて否定しがたく多くの場を占める多くのものになった場合はどうなるんだろう。……それによって感覚は増大させられるんじゃないのか——やりきれんな。僕はこの考えを呪うよ、もし僕に誓う何かがあるならな。死肉を漁る不潔な四十羽別々の烏、それから二三の狐と、大きな黒い甲虫の感覚器官に変容するとは。逃げよう、誰でもやってるみたいに……誰なんてものが存在するとしてだが。おいで、ブラン」

* * * * * * * * * * * * * * *

 「ブラン、どこにいるんだ。不幸にも離れがたい僕の感覚は。こういう死んだ兵士からもう夕食を頂戴してるのかい。さてもあわれなのは、愚かにも矛盾した僕のこの趣味だよ。一方では僕を空腹にしながら、おまえの手本に従うのを禁じている。どうして僕は、自分の犬ではなくて、自分の兵士の心象から教えを受けるんだ。非論理的だよ。ブラン! ブラン!」そして彼は進み出て犬に口笛を吹いたが、無駄だった。

「ブラン! 夜も昼も消えようとせず、夢のなかでさえ我が胸に横たわる不幸な心象よ。僕を消滅させて問題を解決しようとすらしない——僕は問題の存在を信じちゃいないがね——どうしておまえはオスティアの海から僕を引き上げたんだ。どうして僕を一群の蟹にならせなかった。おまえは、というより僕もだが、蟹どもはそんなにご機嫌な連中ではないとか、哲学的懐疑に少しも悩まされないとか、どうして分かる。……いや、居たのは蟹ではなくて、蟹の心象だけか。……また逆に、蟹という心象がご機嫌な感覚を与えるのなら、烏という心象もそうであっていいはずだ。それならどちらになろうと問題ではないし、ここで待って烏になったように見えるのでも、実際にそうなるのでも結構だ。——ブラン!……なんであいつを待たなきゃならんのだ。あの四つ足でまだらで垂れ耳で、蛙みたいな口をした、僕の足だと思われるものの間にいつもいる感覚を持つのは、僕にとってどういう楽しみでありうるのか。ああ、いた。どこにおいでだったのかな。僕がもう杖と頭陀袋を背負って、行進準備万端なのが見えないのかい。おいで」

 だがその犬は、犬にしかできないまなざしで彼の顔を見上げると廃墟の裏に走って行き、また彼に駆け寄っては引き返し、彼がついて来るまで続けた。

「何だよこれは。ここにはとんでもない新たな感覚があるな。おお、物質的現象の雨あられ! まだ十分じゃないのか。これも数に加えなきゃならんのか。ブラン、ブラン! 今年の今日以外の日が見つからなかったのか—— 一 ——二——三——九匹の目も開いていない仔犬の鳴き声を、僕の耳に聞かせるにしても」……

 ブランはその答えとして、自分の新たな家族が転がって鳴いている穴に駆け込むと、そのうちの一匹を咥えて来て彼の足元に置いた。

「断言するが、無用だ。事の次第はもう完全に分かった。何だって、もう一匹かい。馬鹿なやつ——おまえはけっこうな奥さま方みたいに、己の貴重な自己に似た騒々しいものを世界に背負わせるのは誇るべきことだなんて思ってるのか。なんで一腹の子を全部持って来るんだよ!……僕が最後に考えていたのは何だっけ。ああ——その議論は自己矛盾する、自分が否認したまさにその用語を使わずには議論できないのだから、ってやつだった。さて……で——どうして矛盾してはいけないんだ。なぜだ。結局あれにも直面せざるを得ない。どうしてあるものが真かつ偽ではいけないのか。あるものが偽だったら何がまずい。真であるべき何の必要がある。真? 真理って何だ。なんで非論理的だと悪いんだ。そもそもなぜ何らかの論理性があるべきなんだ。小さな獣が背中に『論理』なんて札をつけて飛んでるのを見たことあるか。僕自身の心の感覚——を持っているとしてだが——としてという以外に、論理について僕は何を知っているんだ。僕が論理に従うべきで、論理が僕に従うのではないって、いったいどういう証明なんだ。もし一匹の蚤が僕を刺したら、僕はその感覚を取り除くし、またもし論理が僕を悩ませるなら、僕はそれも取り除くだろう。慇懃に消滅することを心象は教わるべきだ。慰安を得る唯一の希望は、自分自身のうんざりするような思念と感覚の暴政を弱々しくも蹴飛ばすことにある——と、どの哲学者も告白しているが——では唯一の例外たるべき論理とは何の神なんだ、どうか……何だよ、おばちゃん。公正に警告しておくぞ。どんな尼でもそうだが、おまえは今日、家族の絆か務めの絆か、どちらかを選ばなければならない」

 ブランは彼の裾を咥えて仔犬のほうへ引いて行った。仔犬のうちの一匹を取り上げて彼のほうに持ち上げ、それからまた、ほかの仔犬についても同じ動作を繰り返した。

「難儀な老獣だな。僕がおまえのために仔犬を運ぶなんて、厚かましい期待はしてないよな」彼は出かけようと背を向けた。

 ブランは尾を敷いて腰を降ろし、遠吠えし始めた。

「さらばだ、老犬よ。おまえはやはり楽しい夢だったよ。……だけど、おまえが心象すべての道を行く気なら」……そして彼は歩み去った。

 ブランは彼と一緒に走り、跳んだり吠えたりした。それから自分の家族を思い出して駆け戻った。仔犬たちを一匹ずつ咥え、次には彼らを全部一度に運ぼうとしたがかなわず、座って遠吠えをした。

「来いブラン、おいで、おばちゃん」

 犬は途中までは彼と一緒に急いだが、また途中で仔犬たちのもとに引き返し、それからまた彼のところに向った。それからふいに諦めてしっぽを垂れ、責めるように深く唸りながら、目も開いていない哀願者たちのもとへのろのろと歩いて戻って行った。

 「* * * * *!」とはなはだ罰当たりに罵って、ラファエルは言った。「やはりおまえが正しいよ。ここには世界に出てきた九匹の新しいものがある。心象にしろそうでないにしろ、あるんだ。それは否定できない。仔犬は何かで、おまえも何かだ、老犬よ。ともかく代わりに何をやっても同じだ。おまえは僕じゃないが、僕と同様だし、仔犬もそうで、よくは知らないが僕同様に仔犬にも生きる権利はある。七つの惑星とそのほか諸々に誓って、仔犬を連れて行くぞ」

 そして彼は引き返すと、自分の毛布に仔犬たちを包んで先へ進んだ。ブランは激しく喜んで、吠え、鼻をならし、しっぽを振り、とび跳ね、彼の足の間を走って彼を転倒させた。

「進め! どこでも好きなほうに、おばちゃん! 世界は広い。おまえは僕の案内人にして教師、哲学の女王になるんだよ、おまえのこの単純な良識のためにね。進め、おまえは新しいヒュパティアだ。今日からはおまえの講義にしか出ないと約束するよ」

 進むのはひと苦労で、彼はときどき屍体を跨ぎ越したり、いなないて突っ込んで来る馬や、軍のあとを徘徊して殺された人から早くもはぎ取って略奪しているいかがわしい群れを避けるべく、道から外れて壁によじ登ったりした。……あげくに彼は、今は黒々とくすぶる残骸となった大きな別荘の正面で壁を跳び越え、屍体の山に着地したのに気がついた。……屍体は庭の柵に向って何間も積み上げられていた。三時間ほど前に、すさまじい苦闘があったのだ。

「楽にしてくれ。後生だから殺してくれ」と足下でうめき声がした。

 ラファエルは見下ろした。その不運な者はめった斬りに手足を切断され、まったく望みがなかった。

「分かった。お望みなら」そして彼は自分の短剣を取り出した。あわれな者は喉を晒し、青ざめた微笑みをうかべて一刀を待った。その目をとらえると心が身を裏切り、ラファエルは立ち上がった。

「どうしたもんかな、ブラン」だが犬はずっと先でとび跳ね、もどかしげに吠えていた。

「いま行くよ」と言ってラファエルは犬に続いたが、怪我人のほうは痛ましくも咎めるように彼を呼んでいた。

「あいつは長くあるまい。掠奪者どもは僕ほどお上品ではなかろうし……。まったく、おかしなことだな。アルメニアの思い出からして、カナン人殺しの先祖たちみたいに、こんな柔弱さは自分には無いはずだと思ったんだが。……ところが、単に何か矛盾した気分のせいで、僕はあいつを殺せなかった。何しろ当の本人にそうしてくれと頼まれたんだから。……あれには、『我は我なり』の偉大な倒立角錐に収まり切らないものがありそうだ。……いいさ、まずはあの犬の教えを暗記しよう。今度は何だいブラン。ああ、変容は信じうるか、か。どうしてこれが、まさに昨日の朝に通り過ぎたあの小綺麗な別荘なんだ。年若いお嬢さま方が今しがた席を立ったばかりといった、花壇に囲まれた庭椅子があって、孔雀と銀色の雉がそこを走り回りながら、どうして可愛いご主人さまは餌やりに来てくれないのかしらといぶかしんでいたのに。その娘たちがあえてローマから戻ったとしたら、ここがさんざん壊され腐って踏みにじられているのを見つけて文句を言うぞ。戦争ってなんて恐ろしいの、私たちの潅木をみんな駄目にするなんて。よく懐いた私たちの可愛い雉鳩を、かわいそうに殺して料理するなんて、なんともむごい兵士に違いないわ、とね。どうしてそうじゃないんだ。なぜその娘たちが他のものを悼まなきゃならん——自分には少しも直せないし——たぶんもう直す必要のないものなんか。ああ、あの果樹の下に伊達者が横になっている!」

 ラファエルは輪をなす死者に向かって歩いて行った。その真ん中には、大人になったばかりの長身の高貴な将校が、木の幹にやや腰掛けるように横たわっていた。金で豪華に象眼された兜と鎧は、何百回も切られめった打ちにされ、盾は完全に真っ二つで、剣は折れていたが、硬直した腕にまだ握られていた。彼は自分の隊から孤立し、晴やかな夏の花々に膝まで埋もれながら木の下で最後の抵抗をしたのだ。彼が横たわった所には、まるで何か母なる自然のあざけりか——あるいは哀れみのように——彼の最後の必死の苦闘によって枝から落ちた金色の果実としおれた薔薇が散り敷いていた。ラファエルは悲しげな冷笑を浮かべて彼を眺めて立っていた。

「さて——人格なんて空想は処分したんだね、君は。死んだのは何人だ……九……十一人! 自惚れ屋め。君の命一つが君の奪った十一人の命に価するなんて誰が言ったんだ」

 ブランはその屍体に近づくと——たぶんその腰掛けた姿勢からしてまだ生きていると思ったのだろうか——冷たい頬を嗅ぎ、そして悲しげに鼻を鳴らした。

「おや? それがこの現象を眺める正しいやり方なのか。そうだな、結局僕は君を気の毒に思うよ……ほとんど君が好きなくらいだ……全部向こう傷だね、男はそうでなくちゃ。あわれな洒落者君。ライスやタイスが君のために、可憐な巻き毛に巻き癖をつけることはもうあるまい。盾の浅浮彫りは何だい。神々の住まいにプシューケーを受け入れるウェヌスか。ああ君は今はプシューケーの翼のことはすっかり分かったんだ。……どうしてそんなことが僕に分かる。しかしまたなんだって僕は自分の常識に反して——もし僕にそんなものがあるとしてだが——君として君に話しかけたり、好んだり、悼んだりしているんだ。もし君が今は何ものでもなく、またひょっとするとかつて何ものかであったこともないとしたらどうだ。ブラン! 何の権利があって、ちゃんと型どおりに根拠づけもせずに彼を悼むんだ。ヒュパティアなら根拠づけたろうに。お許しを閣下、でも——君が存在していようといまいと、君の首をとりまく頚章をそのままにして、野営荒しどもにきつい酒に換えさせるわけにはいかない」

 そうして彼は話しながら身を屈め、じつにそっと豪華な首飾りを外した。

「自分のためじゃないのは保証する。これは、アーテーの金の林檎のように、最もふさわしい人のもとに行くべきだ。おいでブラン」

 そして彼が宝石をマスチフ犬の首にかけると、犬は自分の目にも明らかにこの荷物に得意になり、とび跳ね吠えて再び進んだが、当然のように明らかにオスティアに向かって海からここまで通ってきた道を戻っていた。そして彼は行き先も気にせずついて行きながら、自分に不満で落ち着かない者の流儀で、口に出して独り言を言い続けた。

 ……「それなら人間は、己の重要さと知性について大口をたたいているわけだよ、天に出自を持つ身だとか、自分が渇望しているのは見えざるものだとか、美しいものだとか、限りなきものだとか——自分自身とは似ていないあらゆるものだと。どうやったらそんなことを証明できるんだ。どうしてだ。ここらに転がっているこういう哀れな下衆どもが、まさに人間性のいい見本だよ。——生まれてこのかたこいつらが何回、限りなき何かへの渇望に悩まされてきたというんだ。限りなく酸っぱい葡萄酒への渇望は別としてだ。食べて、飲んで、同種の者が作ったいくつかのものを破壊しては、また同じものをいくつか作り直し、三分の二は子供のうちに死ぬだろうし、その母たちの悲嘆と、推定上の雄親の経費が空費される……それなら——ソロモンは何と言った? 人間に起こることは獣たちにも起こる。一方が死ぬように、他方も死ぬ。つまりみな一つの生気を持つのであって、人には獣に優る卓越性などない。すべて空しい。行く先はみな一つ。一切は塵から成り、再び塵へと還る。人の生気は上へのぼり、獣の生気は地上を下に向かうなんて、誰が知る。誰なんだ実際、僕のいと賢き先祖よ。僕ではないのは確かだ。ラファエル・アベン・エズラ、如何にして汝は獣に優るや。この犬のみならず、汝がかくも不当にも悪罵せし蚤に優る如何なる卓越性を汝は持つや。人は苦労して家や服や火を得なければならない。……どの蚤も、自分では何の苦労もせずに僕の毛布を住み家にする機転がある。それなら蚤には、僕に宿っているのよりずっと優れた可愛らしい知恵が宿っているという証拠だ。人が服をつくり、蚤はそこに住む……二者のどちらがより賢明だろう……。

「ああだが——人間は堕落する。……さて——そして蚤は堕落しない。それなら蚤は人に優る。だって蚤は意図されたとおりにあるのだから、まさに徳の定義を満たしている。……赤茶色の血管をした我々については誰もそんなことは言えない。またたとえ古い神話が真実で、人は蚤よりも高度な仕事を割り当てられているが故に人だけが誤るのだとしても、それが何を証明する——そんな仕事はできないという以外に。

「でも人間の技芸や学芸はどうだ。……うせよ! まさにそういういい歳した子供のぺちゃくちゃ声が、僕をむかむかさせるんだ。……一匹の自惚れた驢馬野郎は一代で労役と悲哀を増大させながら、結局は阿呆と同様に死ぬし、一千万の獣や奴隷は、まさに先祖がそうだったとおりに、自分たちの後では子孫もそうなるだろうとおりに、茶番を終える。……これまであったことが、これからもある。日の下に新しきものなしだ。……

「宮殿だの都市だの寺院だのは……このカンパーニアを見ろ、そして判断するんだ。虫刺されはしばらくすればおさまるが——あれもそうだ。あれは、我々人間という蚤が老いた地球の皮膚に作ったこぶに他なるまい。……作った? 我々はその原因にすぎないよ、蚤が虫刺されの原因であるように。……人間の産物はみんな、この病んだ地表のある種の皮膚疾患にほかならず、我々は比較的大型種の蚤で、自分たちが木と呼ぶ地球の毛皮の間を走り回っているのでは。地球が動物であるはずがないってなぜだ。どうして違うと分かる。地球は大きすぎるから? ふん。何が大きくて、何が小さいんだ。地球は一定の形を持たないから?……漁師の網を見たまえ、どんな形をしているね。地球は話さないから?……もしかすると忙しすぎて話すことが無いのかも知れない。もしかすると我々以上の感覚は語れないのかも知れない。……いずれにせよ地球は、舌を控えることによって知恵を示している。地球は必然によって一方向に動いているから?……どうしてそんなことが分かるんだ。今この瞬間に、地球が七つの天球すべてと同時にぴょんぴょん跳び回っていないって、どうして言えるんだ。だがもし一方向に動いていていて——それが地球にとって最良の方向であるなら、そのほうがより賢明だ。おお、我々自身と我々の公正や適合の概念とに対するなんと卑しい諷刺だろう、蚤や我々のように揺りかごから墓場までぴょんぴょん跳ねたり、方法も秩序もなく上へ下へと奇想天外に飛び動いたりしないで、ただ堅実に自らの道を進んでいるというだけの理由で、それは生きていないし知性もないと言うなんて! 加えてこの世の他の連中に同調して、蚤たちは我々に寄生しているから我々ほど高貴ではないと考えるなら、それなら我々は地球に寄生しているから地球ほど高貴ではないと認めるはめになる。確かに、僕が何日も見て来たどんなものより蓋然性は高そうだが。……ついでながら地震や洪水や悪疫というのは、狡猾な老獣である地球が人間という蚤やその虫刺されである宮殿や都市に苛立って体を掻くいろいろな方途にすぎない、ということであってはなぜいけないんだ」

 道の曲がり角で、彼は悲鳴によってこの有益な思索から呼び覚まされた。その甲高さが、女のものだと彼に告げていた。見上げると間近に見えたのだが、煙をあげる農家の残骸の間で、二人のならず者が年若い娘を後ろ手に縛って自分たちの前に引きずり寄せており、哀れな者のほうは、残骸の間の何かを痛ましい様子で振り返って、縛られているのに捕縛者から逃れて戻ろうと、空しくあがいていた。

「とある蚤どもの不正なふるまい——そうだろう、ブラン。だけどどうしてそんなことが分かるんだ。どうしてこれがあの子の素晴らしい幸運の一つであるはずがないと。それが分かるだけの諦観があの子にあればだが。どうして? あの子はどうなる? ローマに連れて行かれて奴隷として売られるだろう。……そして、転身のちょっとした難儀や、頭から足まで最小限の服で身売り台に一時間立って商われることに対してある人々が持つ偏見をよそに、極めてありそうなことだが、あの子は百匹中九十九匹の姉妹蚤よりもずっと良い家に住んで、良いものを食べて、良いなりをして、己が心の欲望を十分に満たすだろう……年をとり始めるまでは……いずれにせよ年はとるしかない……それまでに首尾よく旦那に取り入って自由の身になったり、ちょっとした財産を蓄えていなかったとしたら——なんだい、それは自分が悪いんじゃないか。なあブラン?」

 だがブランは、この件に関する彼の見解に決して同意しなかった。なにしろ一二分の間首を傾げて二人のならず者を眺めたあと、突然マスチフ犬の流儀で音もなく彼らに跳びかかり、一方を地面に引き倒したのである。

「おお、この件ではこれが、アレクサンドリアで言われている『適切にして美なる』方法なのか。よし——分かった。おまえはヒュパティアよりも、少なくとも実践的な教師ではあるな。あの残骸の中に、これ以上連中の仲間がいませんように」

 そして彼は二人目の掠奪者に突進して短剣の一撃で死なせて倒し、それから次に、ブランが喉を捉えて押え込んでいた第一の掠奪者を振り向いた。

「許してくれ、頼む」と哀れな者は悲鳴をあげた。「どうか命だけは」
「八町ほど前には、殺してくれって頼むやつがいたよ。君たち二人のどちらの頼みに同意すべきかな——だって君たちがどちらも正しいなんて無理だからね」
「どうか命だけは!」
「克服することを学ぶべき俗な欲だよ」と言ってラファエルは短剣を振り上げた。……一瞬で事は済み、ラファエルとブランは立ち上がった。——あの娘はどこだろう。彼女は廃墟に駆け戻り、ラファエルも続いてそちらに向った。ブランのほうは、ラファエルが石の上に乗せておいた仔犬たちのもとへ走り、母親としての世話をし始めた。

「何がしたいんだ、かわいそうなお嬢さん」とラファエルはラテン語で尋ねた。「僕は君に悪さをする気はないんだよ」
「お父さんが、お父さんが」

 彼は、彼女の腫れて痣のできた手首を解いた。すると彼女は、立ち止って礼を言いもせずに、崩れ落ちた石や梁の山に駆け寄り、息もつがずに「お父さん」と呼びながら、ささやかながらの全力で必死に掘り始めた。

「これが蚤から蚤への感謝というやつだ。さて、他の人物を父とか主人とか奴隷とか呼ぶのが習いだという単なる事実、これがこうした激情を生じるに違いないが、この事実のうちに何があるのか。……獣じみた習慣だよ!……自分を価値づけるどんな奉仕をそういう者はやれるのか、あるいはやってきたのか——よしよしブラン。……これについてはどう思う? 我が女哲学者どの」

 ブランも座って眺めた。哀れな少女の柔らかい手は瓦礫で血が出ていたし、金の巻き毛は目に垂れかかり、彼女のもどかしげな指に絡まったが、しかし彼女は半狂乱で作業を続けた。ブランは突然事態を理解したらしく、助けに走って自分も全力で掘り始めた。

 ラファエルは肩をすくめて立ち上がり、作業に参加した。

* * * * * * * * * * * * * * *

「こんな獣じみた本能は呪われろ。これが人を高ぶらせる。何だあれは」

 瓦礫の下から微かなうめき声がした。人の腕が現われた。少女はその場に伏して父親の名を呼んだ。ラファエルはそっと彼女を下がらせ、全力をふりしぼって、瓦礫の下から上級将校の身なりをした屈強な年配の男を引き出した。

 彼はまだ息があった。少女は彼の頭を抱え上げて、狂ったように口づけで覆った。ラファエルは見回して水を探した。泉水とせとかけを見つけてきて、怪我人のこめかみを濡らすと、やがて彼は目を開けて一命を取り留めたしるしを見せた。

 少女はじっと彼のそばに座って甦った宝をなで、灰色の顔を聖い涙で濡らした。

「僕には関わりの無いことだ」とラファエルは言った。「おいでブラン」

 少女はぱっと立ち上がると、彼の足元に跳び寄って手に口づけし、神に遣わされた救い主、解放者と彼を呼んだ。

「ぜんぜんそんなじゃないよ、いい子だね。君は僕じゃなくて僕の先生に、この犬に感謝しなくちゃ」

 すると彼女は彼の言葉を真に受け、柔らかな腕をまわしてブランの首に抱きついた。ブランは意図を察してしっぽを振り、優しい顔を懐こくなめた。

「耐えがたい不条理だ、これはまったく」とラファエルは言った。「僕は行かなきゃ、ブラン」
「私たちを置き去りにはしませんよね。本当に老人を置き去りにしてここで死なせるなんて」
「どうして? お父さんに起こるそれよりいいことって何だい」
「何も」と、それまで話さなかった将校が呟いた。

「ああ神さま。父なんです」
「そう?」
「この人は私の父なんですよ」
「それで?」
「助けて下さらなくちゃ。助けるべきだって言ってるんです!」そして彼女は、激情から傲然とラファエルの腕を掴んだ。

 彼は肩をすくめたが、しかしなぜか分からないが妙なことに、彼女に従おうという気になった。

「ほかのことやってもこれと同じだろう。やるべきことなど無いし。さてどちらへ、閣下?」
「どこなりとお好きなところへ。我らの隊は名誉を失った。鷲章旗を奪われたのです。戦争の権利からして我々は貴君の捕虜。貴君に着いて行きますぞ」
「おやおやありがたい。新たな責任か。なんだって僕は、蚤からそれ以上のものまで、生き物を伴わずに動けないんだろう。背中に背負った目も開いていない九匹の仔犬と、足下に続く老獣だけでは足りないのか。彼女は僕が生きているかぎり着いて来るだろうに、そのうえまた立派な年配の反乱兵とその娘まで抱えなきゃならんのか。どうして運命は、自分以外誰の面倒もみないことを許してくれないんだ。お二人に自由をお与えします。世界は僕たち全員にとっても十分広い。身代金は本当に結構ですので」
「哲学的なたちのようですな」
「僕がですか。とんでもない。僕はあの泥濘をまっすぐ抜けて、まったくの反対側に来たんです。最後までぐずつく哲学の痕跡を身から拭い去ったのは、硫黄や悪魔払いではなくて、閣下の兵士たちや彼らの朝の仕事のおかげと感謝しなければ。阿呆だらけのこの世では、哲学なんて余計です」
「ご自分もその肩書きに含めるのですかな」
「何よりも確実に、ですよ。閣下。僕が何か例外をもうけるなんて思わないで下さい。何らかの方法で己の愚昧を証明できるなら、お見せしましょう」
「では私と娘を助けてオスティアに連れて行って下さらんか」
「じつに適切な例だ。そうだな——たまたま僕の犬はその道を進んでいるし、またやはり閣下は、我が友とするにふさわしい人間的痴愚の分け前を十分お持ちのようですし。でもご自分を賢者とされないと良いのですが」
「神がご存じのとおり——ちがいますぞ。私はヘラクリアヌス軍ではないか」
「まことに。またこちらの年若いお嬢さまは、閣下のことではあまりにも馬鹿になって、実際、犬すら感染する始末」
「では我ら三馬鹿はともに進まん」
「して常ながら一の馬鹿が、他の者を助けねばならんと。でも僕にはすでに九匹の仔犬が家族にいるんです。どうやって閣下と仔犬を運びましょう」
「仔犬は私が持ちます」と少女が言った。ブランはいくらか疑わしげな顔で受け渡しを眺めた後、大丈夫だと納得したらしく、満足そうに少女の手の下に頭を差し入れた。
「おや、この子を信用するんだね、ブラン」とラファエルは小声で言った。「おまえのような率直さを僕に要求するなら、僕は本当におまえの教えから身を解かなきゃならん。待って! 誰も乗っていない騾馬がぶらぶらしてる。あいつに仕事をさせてもかまわんだろう」

 彼はその騾馬を捕まえて怪我人を鞍に乗せ、そして行列は先へ進み、本街道から脇道へと方向を変えた。これは、この地方を隅々まで知っているらしい将校が、オスティアまで行ける人跡まれな経路だと請け合ったものだった。
「日暮れまでに着ければ、無事に済む」と彼は言った。
「それまでは」とラファエルは答えた「犬とこの短剣で、掠奪者から身を守れるでしょう。念入りに毒が塗ってあるのが、来る者みなに分かるよう気を配りますし。しかしなんてお節介な阿呆なんだ僕は」とラファエルは心中で続けた。「この割礼もしていない反乱兵が、僕の何の得になるというんだ。一番ましでも、じつにありそうなことだがもし捕まったら、僕は逃亡幇助で磔刑にされるはずだ。だが逃げきったとしても——僕とこの兄弟蚤たちの間には新たな縁がある。これが嫌さに物乞いになって飢えることを選んだのに。この結末が誰に分かる。ふん。この男は他の者と似たようなものだ。きっと彼は、この日が終るまでに、恩知らずだと証明するか、山師じみた英雄的行為を目論むか、別れを告げる何か他の口実をくれる。それはそうと、ご立派な人士がそうも大まじめに、年若い娘まで連れて、海を超えてこんな無駄足を踏みに来たのを発見したという事実には何やら面白味があるし、彼をさまざまな蚤のどれに分類するべきなのか興味がわくよ」

 だがアベン・エズラは父親のことを思う一方で、どういうわけか、娘のことも考えずにはいられなかった。何度も何度も彼女を見た。彼女が極めて美しいのは否定できなかった。顔立ちはヒュパティアほど完璧に整ってはいないし、背丈もさほど立派ではない。けれども表情は晴れ晴れとした喜ばしい決意と、優しく穏やかな思いやりに輝いており、そのようなものが一つに結びついているのを彼はかつて見たことがなかった。彼女が父親の横でしっかりと軽やかに歩を進め、歩くにつれてほつけた巻き毛を輪にまとめたり、彼女の騒々しい荷物がもがくと笑ったり、そしてだんだん明るくなる父親の顔を彼女が大喜びで見上げたりすると、ラファエルはちらちら盗み見ずにはいられなかったし、また彼らが明るく誠実な感謝の微笑みを返し、取り澄ましもせずこびもせずじっと彼を見つめているのに気づいて驚かずにはいられなかった。……「お嬢さまだな」と彼は心中言った。「だがあきらかに都会っ子じゃない。自然か——何でもいいけど何か、人間のどんな付け足しも美化もない、純粋で生一本なものがある」眺めるうちに彼は、ただ彼女を眺めることに、倦んだ心が長年知らずにいた喜びを覚え始めた……

「確かに、やはり他の蚤たちを微笑ませることには、馬鹿げた愉楽がある……僕は驢馬野郎だ。まるで数年前に、こういうどぶ水の杯を滓まで飲み尽したことが無いかのようだぞ」

 彼らはしばらく黙って歩き続けたが、やがて将校が彼を振り返った——
「お尋ねしてもよろしいかな、風変わりな命の恩人のことを。この馬鹿げた目眩さえ無ければとうにお礼を申しておったところですが、今は目眩は去りました。貴君はどういうお方でしょう」
「蚤ですよ閣下—— 一匹の蚤——それにすぎません」
「だがパトリキイ蚤ですな、確かに。お言葉や物腰からして」
「そうでもありませんよ。実際僕は裕福だったという話で、また裕福になるだろうという噂ですが、そんな選択をするほど馬鹿ならば、ですし」
「ああ私たちがお金持ちだったら!」と少女はため息をついた。
「それなら君はとても不幸だっただろうね、お嬢さん。すっかり経験し尽した蚤を信用したまえ」
「ああでも。兄の身代金を払えたのに。今お金を工面できないんです、アフリカに帰らないと」
「帰っても何もないぞ」と将校は小声で言った。「忘れとるんだな、かわいそうに。部隊を組織するために地所はすっかり抵当に入れたんだ。ありのままにものを見るのを恐れてはならん」
「ああそれに兄さんは捕虜よ、奴隷に売られる——たぶん——あっ、ひょっとしたら磔刑に。だってローマ人じゃないもの。ああ磔にされる」そして彼女はわっと泣きだした。……ふいに彼女は涙を振り払い、またもう一度晴れ晴れと明るく見上げた。「ううんごめんなさい、お父さん。神さまはご自身のものを守って下さるわ」
「お嬢さん」とラファエルは言った。「もし本当に、兄上に関するそういう見込みが嫌で、それを防ぐのに汚れた貨幣がいくらか要るのなら、たぶん僕がオスティアで御用立てできると思うよ」

 彼女はいぶかしげに彼を見てそのぼろ服に目を走らせ、そしてそれから赤くなって、口には出さなかった自分の考えを詫びた。

「さて——お好きなように考えたまえ。だけど僕の犬はもうこんなに君に懐いているから、こいつの首飾りを君に贈ってもたぶん反対はしないだろう。僕はラビのところに行くつもりだし、すっかりうまく行くよ。だから泣きなさんな。泣くのは大嫌いだ。目下の悲劇には仔犬のコロスで十分だよ」
「ラビ? ユダヤ教徒なのですか」と将校が尋ねた。
「ええユダヤ人です。そして閣下は、お見受けしたところ、キリスト教徒ですね。偏屈で不信心な人種から何か受け取るなんて——奪うぶんにはご宗派一般は問題無しですが——たぶんお気が咎めましょう。ですが良心に脅えないで下さい。請け合いますが僕は精神的には、キリスト教徒でないのと同様にユダヤ教徒でもありません」
「では神が貴君をお救い下さる」
「誰かがあるいは何かが、たっぷり助けてくれましたよ、勝手放題の三十三年間。いや、すみません。キリスト教徒には縁のない話です」
「善きユダヤ教徒でおられるに違いない、善きキリスト教徒たり得るという前に」
「どうかなあ。僕はどちらにもなる気は無いし——善き異教徒であろうという気も無いんです。親愛なる閣下、この話は止しましょう。僕の手には負えませんよ。もし僕がこの犬くらい善き獣であり得るなら——善くあることは善いと先に証明されているとしてですが——それで足れりとすべきでしょう」

 将校は、厳めしくも情のある悲しげなまなざしで彼を見下ろした。ラファエルはその目を見て、この人は普通の人とは様子が違うと感じた。
「これは言葉に気をつけないと。さもないと、僕はたちまちいつものソクラテス的対話に巻き込まれそうな気がするな。……さてところで、こちらもお伺いしてよければ、どちらさまでしょう。見切りをつけて、カエサルだのアンティオコスだのディグラトピレセルだのその他の蚤喰い蚤に引き渡そうというのではありませんよ。……連中は閣下の血がなくても十分に太るでしょうしね。ですから単に、宇宙とか言う偉大なる無一般の学徒として伺うだけです」
「今朝はある部隊の長官でした。今はというと、私と同様にご存じのとおり」
「それが僕には分からなくて。ご機嫌でおられるのを拝見して深く驚いているのですよ。あらゆる蚤のためしからすれば、ステュクス河畔のアキレウスさながらに己が悲運を泣き喚くか、僕が遊び半分ストア主義をかじったときに教わったように、笑ってこらえるふりをするはずなのに。あの学派のかたでないのは確かですし。たった今、自分は馬鹿だとお認めになったのですから」
「ストア派に認めさせるのはてこずられたのでしょうな。さて、いいでしょう。私は馬鹿だ。ですが神がオスティアまで助けて下さるならば、どうして上機嫌にならずにいられます」
「どうしてですか」
「愚者が自分を賢者中の賢者と思っておる場合、その愚者にとって、自分は愚者だと神に教わる以上のどんな良いことが生じ得ましょう。お聞き下され。四ヶ月前には私は、健康にも、名誉にも、土地にも、友にも——人の心が望みうるすべてに恵まれておった。そのすべてを私は、野心という狂気ゆえに危険に晒すことを選び、最も誠実な友の、この神の世を行く最も賢明な聖者の真剣な警告に背いたのです。それならたとえこのような訓戒によってであれ、こう証明されたのを——私は喜ぶべきではないですかな。これまで私を欺いたことの無いあの友は今回も正しかったと。それに、私を止めて四十年の野戦と戦闘から転向させて下さった神は、我が目に正しく見えることをするかぎり、私をお忘れになったり、私を教育するという報われない仕事を諦めたりはなさらないのだと」
「その無二の親友というのはどなたですか。お差し支えなければ」
「ヒッポのアウグスティヌスです」
「へえ。あの偉大な弁証家がヘラクリアヌス本人に説得術をふるってくれていたら、世界にとっては概してもっと良かったでしょうに」
「説得したのだが、駄目でした」
「そうでしょうね。あのあしらい上手な総督を知ってましてね、彼の狡猾で滞りない決断に説教が及ぼす効果くらいは判断できますよ。……神の手の内の道具か、やれやれ。……我々は神のお召しに従うしかない、たとえ死へでも」云々。そしてラファエルは苦笑いをした。
「総督をご存じですかな」
「誰にしろ知る気になった程度には」
「ならば貴君の眼力は遺憾ですな」と長官は厳しく述べた。「あの威厳あふれる人柄に、その程度のことしか認められんとは」
「親愛なる閣下、総督の優秀さは疑っておりませんよ——いや、というより機を見る目を。彼がどれほど見事に完璧にふさわしい瞬間を見抜いて、古い仲間のスティリコを刺したことか。いや本当に、この世の二人の人間として、賄賂の効かない者は無いことにもう気づかなければ」……
「ああ、しーっ、しっ」と少女は囁いた。「どんなに父を苦しめているかお分かりにならない。父は総督を崇敬しています。父はそんなふりをしていますけど野心ではなくて、総督への忠誠のためだけに、気は進まないのにここに来たんです」
「ごめんね、お嬢さん。君のために黙るよ」……
「この子のため! 僕にしちゃ可愛らしい言い種だな。次は何だ」と彼は心中で言った。「ああブラン、ブラン。みんなおまえが悪いんだぞ」
「私のため? おお、どうしてご自分のためじゃないんですか。悲しいです——人が、おじさまみたいな方が、せせら笑って悪く言ってばかりなのを聞くなんて」
「おやどうしてだい。阿呆は阿呆だし、阿呆を阿呆と呼んでも差し支えないなら、なんでそうしないのかな」
「ああ——神はご自身の御子を人々のために死なせにお遣わしになるほど慈悲深かったのですよ。それなら私たちは、人々の過ちをきびしく裁かないくらいには慈悲深くないと」
「お嬢さん、人間学の新理論はよれよれ哲学者に取っといてね。今夜中にオスティアに着きたいなら、もっと急がないと」

 しかし、何か理由があったのか、ラファエルはたっぷり半時間ほどは冷笑しなかった。

 けれどもオスティアに着くずっと前に夜になってしまい、状況は安全かどうか疑わしいどころではなくなった。ときおり、おぞましい饗宴に向う狼がこそこそと道を横切り、痩せさらばえた幽鬼のように闇からすべり出ては、ブランのうなり声に白い歯を光らせて応じながら、また闇に消えて行った。次には何か掠奪者の一党のような、粗野な大声が夜の静寂を貫いて響き、一行は躊躇してしばらく立ち止まった。そしてついに、なかでも最悪のもの、帝国軍の縦隊と思しき重い足音が、下の平原に沿って遠雷のようにとどろいた。それはオスティアに向っていた! 敗走軍が結集する前に帝国軍がそこに着いて、敗走軍の再乗船をさんざん妨げたとしたら?……もし——千もの物騒な可能性が群がりだしたら。

「オスティアの門は閉鎖、帝国軍が外で野営なんて分かったら」とラファエルは、独り言半分に言った。
「神さまはご自身のものを守って下さいます」と少女は答えた。彼女の希望を奪う気はラファエルにはなかったのだが、彼の見るところ見込みは一瞬ごとにますます小さくなっているようだった。哀れな少女は疲れきっていた。騾馬も疲れきっていた。彼らは這うように進んでおり、その速度では、急ぎ行く縦隊が彼らの一時間前に到着し、追っ手の先兵と合流して町の包囲に助勢するのは必至だった。少女は何度も何度もラファエルの腕に寄りかかった。彼女の靴はこんな荒っぽい道行きには向かず、とうにぼろぼろになっており、柔らかい足は一歩ごとに血を流していた。彼女のおぼつかない足どりからラファエルはそれを察していたが、彼女の唇からはため息も不平もこぼれないのにも気づいていた。だが彼女を助けることはできない。そして彼は、犬儒派の自立にふさわしからぬとしてサンダルすら自分に控えさせた夢想を呪い始めた。

 そうして這い進みながら、ラファエルと長官は互いの恐ろしい考えを推測しあっては、自分たちの絶望の表情をうら若い少女から隠してくれる闇に感謝した。少女のほうは笑わんばかりに朗らかに、黙り込む父親に喋りかけていた。

 ついにこのあわれな娘は、並外れて尖った石を踏み——急に身を捩って悲鳴をあげ、地面に倒れた。ラファエルは彼女を引き起こし、彼女は進もうとしたがまた倒れた……どうしたものだろう?

 「思うのだが」と長官は重々しい声でゆっくりと言った。「聞いて下され。ユダヤ教徒であれキリスト教徒であれ哲学者であれ、神は貴君に、信に足る心をお授けになったようだ。この子はお世話に任せます——私と同様、戦争の権利による貴君の所有物ですからな。この子を騾馬に乗せて、急いでこの子と——お望みのところへ。神もまたそこに居られましょう。貴君がこれからこの子を扱うとおりに、神も貴君を扱われるでしょう。老い恥を晒す兵士には、死ぬよりほかにできることは無い」

 そして彼は騾馬を降りようとしたが、怪我のせいで気が遠くなり騾馬の首に倒れ込んだ。彼の娘とラファエルが彼を腕に捉えた。
「お父さん、お父さん。できないわ。ひどい。おお——アフリカからここまで、お父さんの懇願に逆らってまでついて来たのに、今さら見捨てるなんて思う?」
「娘よ、わしが命じとるのだぞ」

 少女はがんとして黙ったままだった。

「いつからわしの言いつけに逆らうことを覚えた。老い恥を晒すこの男を降ろしてここに捨て置かれよ。あるべきところで——己の将軍に派遣された戦場で死なせて下され」

 少女は道に突っ伏して激しく泣きだした。「分かった。己の始末は己がつけねばならん」と言いながら、父親は地面に落ちた。「老年と恥辱の前に権威は消える。ウィクトーリア! おまえの父にはすでに贖なうべき罪は無いのか。おまえは我が首ばかりかおまえの血まで持たせて神の前にわしを送る気か」

 少女は地に伏して泣き続けており、ラファエルのほうは機知もまったく尽き果てて、自分とは関係無いことだと、懸命に自分に言い聞かせようとしていた。

「僕はどちらか、あるいは両方のお役立にちますよ。生きるのにも死ぬのにも。ただ、どちらにするか早く決めたほうが良いですね。……くそっ! 決まりましたよ、まさしく」

 話しているうちに、重い足音と馬具の音が脇道沿いに響いて、急激に近づいてきた。

 とたんにウィクトーリアはぱっと立ち上がった——弱気も痛みも消えていた。
「いい手があるわ——お父さんには一つ手が! 父をあの土手に引き上げて下さい! 私は走って行ってあの人たちに会うから、その間に持ち上げて。私が死ねばあの人たちは足留めされるし、その間に父を助けられます」
「死ぬ?」とラファエルは叫んで、彼女の腕を掴んだ。「そんなことしたらみんな——」
「神さまはご自身のものを守って下さいます」と、自分の唇に指を当てて、彼女は静かに答えた。それから掴む手を英雄的な力でふりほどくと、夜の内へと消えた。

 父親は彼女を追おうとしたが、うめいて前のめりに倒れた。ラファエルは彼を担いで、急勾配になった土手に引き上げようと奮闘したが、膝はがくがくとして、気を失いそうな汗に四肢が溶けたようだ。……一瞬が何年にも思われた。……踏みにじる足音はますます近づいてきた。……ふいに煌めいた月光が、馬の頭の右側に腕を広げて立つウィクトーリアを照らし出した。天の栄光が、頭から足まで彼女を浸しているようだった。……それとも彼自身の目に輝く涙のせいか。……それから一隊が急停止し、馬の蹄が道を打って鳴った。……彼は顔を背けて目を閉じた。
「何者だ」声がとどろいた。
「ウィクトーリア。マヨリクス長官の娘です」

 その声は小さかったが、穏やかではっきりしていたので、耳鳴りのするアベン・エズラの耳にも一語も残らず響いた。……

 叫び——高笑い——大勢の戸惑った囁き声……思わずラファエルは見上げた——騎手が地面に飛び降り、ウィクトーリアを腕に抱き込んだ。何年も眠っていた肉ある人の心が、ラファエルの胸中で狂おしい活力となり、彼は短剣を引き出すと群れに突進した。
「悪党! 地獄の犬め、そうはさせるか。いっそこの子を死なせてやる」

 輝く刃がウィクトーリアの頭上にひらめき……彼は打ち倒されて——目が眩み——いくらか気を失いかけたが——狂気の力でまた立ち上がった。……何だこれは? 柔らかな腕が巻きついて……ウィクトーリアのではないか。
「やめて! この人に手を出さないで! 私たちを助けて下さったのよ。おじさま、これは私の兄なんです。私たち助かったんです。おお、その犬に手を出さないで。お父さんを助けてくれたわ」
「お互い勘違いしていたのですね、まったく」と快活な若い指令官が、喜びに震える声で言った。「父はどこでしょう」
「二、三間向こうです。ブランおすわり! 静かに。おお、我が祖先ソロモンよ、こんなとんでもない愚行をひとりでにしでかすのを、なんで止めて下さらないのか。どうして僕は、言い訳しながら茶番をやりつくすはめになるんだろう」

 続く五分間に起きたことは語っても仕方がないが、終いには、気づくとラファエルは立派な軍馬にまたがり、前にウィクトーリアを乗せた若い指令官と並んでいた。一方、二人の兵士が驢馬に乗った長官を支え、葡萄酒の水薬と二本の剣先を併用した論法によって、速足は思ったほど無理でないと頑固な運び手を納得させながら、彼らの大将に山と祝福を捧げ、手足に口づけした。
「兵士たちはお父上に恩義を感じているようですね。一番いい逃げ場所に連れて行ってくれるから、ではないのは確かだ」
「ああ、あわれな連中です」と指令官は言った。「現に我々は、アリアノスポリュビオスで読むように狼狽しました。ですが、父は兵士たちにとって将軍というより父親でした。一老人にまだ息があるという望みのために、二十人の偉丈夫が志願して、敗走軍から外れて敵の横列のなかに駆け戻るなんて、そうそうありません」
「じゃあ、兄さんはどこで私たちを見つけられるか分かってたの」とウィクトーリアが言った。
「知ってる兵士がいてね。昨日僕らが陣を構えたときに、父さん自身がまさにこの脇道を示して、ことによると役に立つかもと言ったんだが——かくしてそのとおりだったのさ」
「でも私は、兄さんは捕虜になったって言われたのよ。おお、兄さんのせいで苦しんだあの責め苦!」
「馬鹿な子だね。我らが父の息子が、生け捕りにされたなんて思ったのか。僕と第一隊は庭壁を超えて脱出して、道を切り開いて三時間前に平野に出たんだ」
「言ったでしょう」と言いながら、ウィクトーリアはラファエルのほうに振り向いた。「神さまはご自身のものを守って下さるって」
「言ったね」と彼は答え、そして長い間黙って瞑想に沈んだ。

最終更新日: 2005年5月5日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com