第19章 ユダヤ教徒対キリスト教徒

 アルセニウスの伝言をミリアムに伝えると、小柄な荷運人足はピラモンとその養父とを探しに戻った。だが見あたらず、半狂乱で方々を探し回ってその夕刻をすごし、あいつは正気かと界隈の人々に大いに疑わせる有様だった。しまいには腹が減って夕食に向ったが、食事の席では彼は妻をお気に入りの用途にあてて、つまり高ぶった感情の捌け口として妻を殴ったのだった。そこに彼女の悲鳴を聞きつけてミリアムのシリア人の奴隷娘が二人助けに現われ、手桶一杯水を浴びせて荷運人足を扉の外に追い出した。彼は涼しい顔で、クサッティッペにやられたソクラテスに身を擬えた。哲学的に状況に身を任せて、人慣れしたカササギのように横町の入口のあたりを二三時間ほど跳ねまわっては、ちょっとしたからかいを通行人に浴びせかけ、そのせいでたびたび身の安全を危険に晒していたが、ついにピラモンが息せき切って慌てて彼の腕に跳び込んで来た。
「しっ。おれと一緒にこっちへ。あんたは相変わらず星回りがいいぞ。あんたをお呼びだ」
「誰がです?」
「当のミリアムがだよ。墓場みたいに内緒にしておきな。あんたに会って話すそうだ。アルセニウスの伝言は拒絶したんだがな、哲学者の口から繰り返すにはおよばん言葉で。来な。だがミリアムにはいいこと言っときなよ——星々を軌道に留め、第三天の精霊に命令できる魅惑の魔女に相応しいことをな」

 ピラモンはエウダイモンと連れ立って家に急いだ。今や彼は、ミリアムに対するヒュパティアの警告を少しも気にしていなかった。……彼は姉を探しているのではないか。
 彼らがミリアムの部屋の外扉を叩くと、「帰って来たね、この恥知らず」と娘たちの一人が声を上げた。「あんたどういう了簡よ、若い人をこんな夜分にここに連れて来るなんて」
「下に行って、あんたの気の毒なおかみさんに謝ったほうがいいよ。あの人、夕方ずっと泣いて、あんたのために十字架像に祈ってたわ。あんたみたいな、恩知らずの小猿のためにさ!」
「女人は迷信深いもの——だが、おれはあいつを許してやるさ。……鎮まれ、蛮人女。おれはおまえの御主人様の御用で、この若い哲学者をここに連れて来たんだぞ」
「それじゃ、次の間で待つことね。今、紳士がお一人、うちのご主人様とご一緒なの」

 それでピラモンは、色褪せた壁掛けや壁際を囲んだ長椅子といった贅沢な家具を備えた煤けた次の間の暗がりで待った。彼はやきもきと落ち着かず、娘二人のほうは刺繍越しにピラモンを横目に見やっては、この熱い眼差しを見返す気もみせないとはつまらない人だと合意した。

 一方、中ではミリアムが薄気味悪い喜びの笑みを浮かべて、風雨に晒されて日焼けしたユダヤ人青年の話を聞いていた。
「弁えておりました、イスラエルの母よ。すべては我が足にかかっているのだと。夜に日をついでオスティアからタレントゥムに馬をとばしたものの、割礼もしていない伝令のほうが私よりもうまい乗り手でした。そこである奴隷を買収してその伝令の馬の足を挫かせ、二日目は全行程で彼を追い抜きました。それなのにその夜には、悪しき天使の御加護によって、あのペリシテ人が私に追い着いたのです。我が魂は心中狂わんばかりでした」
「それでどうしたんだい、ヨナダブ・バー=ゼブダ?」
アサエルに追われたヨアブエフドを思い起こし、その行為の合法性についてはよく考えたんです。血を好むわけではないのですよ。ですがやはり、私たちはともに闇の中でしたし、彼を襲いました」

 ミリアムは手を打ち鳴らした。
「そうして彼の服を身につけ、彼の手紙と信任状を手にして、まったくまっとうにも、自分を皇帝の伝令に仕立て上げまして、それで残りの旅程は異教徒の経費で騎行したのです。ですので浮いた差額をお返しいたします」
「差額は気にしないでおくれ。取っておおき。ヤコブの子孫たるに相応しい汝がね。で、それから?」
「タレントゥムに来るときはガレー船で入港しましたが、その船はある海賊から借りたものです。と言っても勇しい連中ですし、私への信義を本当に守りましたよ。何しろ、全力で漕いで半分ほど来たときに、うしろから別のガレー船が私たちの航跡を追って来て追い越しかけたのですが、私もアレクサンドリア人ですから分かりましたし、船長も私に請け合ったとおり、その船はここからオレステスの手紙を携えてブルンデシウムへ向っていましてね」
「それで?」
「どちらもまずいと思ったのです、追い越させるのも、こちら様や我らの長老方が負担されている費用を無駄にするのはなおさら。それで私はその血を好む男と相談しまして、契約に自腹で金貨二百枚を上乗せすると申し出たのですが、これはペルシウムの水門際にお住まいのエゼキエル師が快く用立てて下さいました。それから海賊たちは相談して、敵を突き沈めようと合意しました。何しろこっちのガレー船は舳先のとがったリブルニア船でしたが、向こうはただの伝令用三段橈船でしたから」
「で、あんたはやったんだね」
「そうでなければここにはおりませんでしたよ。やつらが我らの手に落ちましたので、力一杯艇身の半ばまで打ち付けてやると、ファラオとその軍といった有様で沈んでゆきました」
「そうだ、我らが民の敵を滅ぼせ!」とミリアムは叫んだ。「で、ここ十日は、新しい知らせは届きっこないと言うんだね」
「無理だと船長が私に請け合いました。風が強まっているし、南の嵐の先触れだからと」
「さあ、ラビ長宛てのこの手紙と、イスラエルの母の祝福をおとり。汝は汝の民の者として務めを果したのだよ。汝は奴婢に金銀、子や孫らをもち、栄誉を得て十分長生きして墓に入るのだ。異教徒どもの頭を足下に踏みつけて。アブラハムやイサク、ヤコブの祝福は、砂漠で太った鵞鳥どもを食いつくし、大海に横たうレヴィアタンは、最後の審判の日に真のイスラエルの子らの糧となるのだ」

 そうしてそのユダヤ人は踵を返して出て行ったのだが、その単純な狂信からして、おそらくそのときの彼はエジプトで一番幸福な男であった。

 彼は次の間を通り過ぎながら奴隷娘たちに横目をやり、ピラモンに顔を顰めた。そして若者はミリアムの御前へ案内された。

 彼女はとぐろを巻いた蛇のように長椅子に座って、忙しげに膝の上の書字板で書き物をしており、子供が玩具で遊ぶように弄り回していた見事な宝石が、脇の座布団の上できらきら輝いていた。数分の間彼女は顔を上げず、ピラモンは気もそぞろではあったが、この小部屋を見回しては、酒や食べ物や香水のきつい匂いの立ち込める汚らわしくも壮麗なこの部屋を、陽光に満ちた優美で清らかなギリシャ人の家と比べずにはいられなかった。壁際には風変わりな東洋風の彫りで雷紋を刻んだ箪笥や戸棚が置かれ、隅には彩色羊皮紙の巻子が山をなし、天井からは奇妙な明かりが吊り下がって、薄暗い不気味な光をある物に映じていたのだが、その物に若者はしばし血の凍る思いをした——壁の張り出し棚の上には、謎めいた印を刻んだ金の皿に入れた幼児の頭部のミイラが置いてあったのである。ピラモンにもそれと知れたが、東洋の呪術師たちがそこからお告げの答えを呼び出すと称する、ああしたテラピムの一種だった。

 ようやく彼女は目を上げて、甲高いしゃがれ声で言った。
「さてかわいい坊や、追放されたあわれなユダヤの婆に何の用だい。婆の機転でキリスト教徒の盗っ人どもから使い魔に守らせたほんのちょっとの物すら、欲しゅうてならんのか」

 ピラモンの話はすぐに済んだ。老婆は燃えるような目で彼を凝視しながら話を聞き、それからおもむろに答えた——
「で、奴隷だったら何なのさ」
「それじゃ僕は、そうなんですか。僕は、あの」
「もちろんおまえは奴隷さ。アルセニウスは本当のこと言ったんだ。ラヴェンナでおまえを買ってるのを見かけたよ、ちょうど十五年前。同じときに私はおまえの姉さんを買ったんだ。あの子は今は二十二。おまえはあの子より四つ年下だったはずだ」
「ああ天よ、じゃあ僕の姉を今もご存じなんだ! ペラギアですか」
「かわいい男の子だった」と、妖婆は明らかに話を聞いていない様子で続けた。「こんなに賢く美形に育つと思っていたら、自分でおまえを買ったのに。ゴート族の進撃の真っ最中で、アルセニウスはおまえにたった金貨十八かしか払わなかった——いや二十か——私は歳をとってすっかり忘れてしまったようだ。だがおまえの教育には金がかかったろうし、おまえの姉さんを仕込むのには私が金を出した——ああその総額と言ったら。でもあの子はその金に値しないなんてことは無かった——いやいや断じて、愛しい子だ」
「姉がどこにいるかご存じですか。おお、仰って下さい——後生ですから言って下さい」
「しかし、なんでだね?」
「なんでって、人の心が無いんですか。その人は僕の姉なんですよ」
「で? おまえは十五年、姉さん無しでうまくやってきたんだ——なんで今になってうまくやれないのさ。おまえは姉さんを覚えちゃいないし——大切でもない」
「大切じゃない? 僕は姉のためなら死んでも——あなたのために死んだっていい、姉に会うのを手伝ってさえ下さるなら」
「死んでもいいってかい。おまえを姉さんのところに連れてったとして、それでどうする。当のペラギアが姉だとして、それで? あの子はいま十分幸せだし、十分金持ちだ。おまえがあの子をいっそう幸せに、金持ちにしてやれるとでも」
「よく訊けますね。僕は姉さんを立ち直らせなくては——立ち直らせますよ、姉さんが身を染めているに違いない醜行から」
「ほほう、修道士先生。そんなことだと思ったよ。そういうご立派な言葉が何を意味するのか、私以上に知ってる者はいないね。火傷した子供は火を怖がる。だが、火傷した老婆は火を消すのさ、分かるだろ。まあお聞き。姉さんに会うなとは言わないよ——まさにペラギアが、おまえの探してる女じゃないとは言わない——だがね——おまえは私の手の内にあるのさ。しかめっ面でふくれるんじゃないよ。その気になりゃ、おまえを奴隷としてアルセニウスのところに連れて行けるんだ。私からオレステスに一言言えば、おまえは逃亡奴隷として足かせを填められるのさ」
「逃げてやるさ」と、ピラモンはかっとなって叫んだ。
「私から逃げるって」——彼女は笑ってテラピムを指した——「誰が私から逃れるものか。カーフを越えて逃げようが、大洋の深みに飛び込もうが、この死んだ唇に居所を告げさせられるし、魔物に命じてその翼に乗せておまえを連れて来させることもできるだろうよ。私から逃げるとは! 私の言うことをきいたほうがいい、そうすりゃ姉さんに会える」

 ピラモンは身震いし、そして屈伏した。その女の目に呪縛され、彼女の恐ろしい言葉を信じかけ、また渇望の苦しみに負けて、絞り出すように言った——
「従います。あなたに——ただ——ただ——」
「ただ、おまえはまだ一人前の男ではなくて、半分修道士なんだろう、ん? 手伝ってやる前にそれを知っておかんとね、かわいい坊や。まだ修道士なのかい、それとも男なのかね」
「どういうことですか」
「ははは」と彼女は甲高く笑った。「キリスト教徒の犬どもは、男が何だかご存じない。じゃあ、修道士なんだね。で、男ってもんだけはおまえの理解を超えたままってわけだ」
「僕は——僕は哲学の徒です」
「だが男じゃないんだね」
「僕は男ですよ、だと思います」
「私はそうは思わないがね。もし男だったら、男ってのはそういうもんだが、何ヵ月も前にあの異教徒の女に言い寄ってたろうよ」
「僕が——あの方に?」
「そうだ、『僕が——あの方に』だ」とミリアムは、ぎょっとしてへりくだったピラモンの口調を下品にまねて言った。「文無しの少年学徒たるこの僕が、あの方に、偉大で裕福で聡明な崇敬する女哲学者——東の風の内なる神殿を開く神聖な鍵を持つあの方に、だ——だけど僕はまさしく男、しかもアレクサンドリア一の美男。彼女は女で、アレクサンドリア一空しい女、ということは僕は彼女より強いし、指一本で彼女を一捻りして好きなときに跪かせることができる。目を開いて、自分が男だと気付きさえすれば、と。どうだね、坊や。あの女は、自分の数学や形而上学や神々や女神たちのほかに、そういうことも教えてくれたかね」

 ピラモンは真っ赤になって立ちつくしていた。甘い毒が入り込み、血管がみなその毒に燃え疼いたが、こんなことは生涯ではじめてだった。ミリアムは自分が優位と見て取った。
「さてさて——新しいお勉強にびびりなさんな。ともあれ私は、はじめて見たときからおまえが気に入っていたし、おまえのことをテラピムに尋ねて或る答えを得たのさ——おまえがいずれ知るはずの答えを。何にせよその答えが、心弱いあわれなユダヤの老婆に金を出させた。おまえは自分の月々の金がどこから来ているのか考えてみたかい」

 ピラモンはぎょっとし、ミリアムは甲高い声で大笑いしだした。
「ヒュパティアからだと思ったろ、請け合うよ。あのすてきなギリシャ女だ、もちろん——おまえは自惚れの強い子だ——あわれなユダヤの老婆からだとは決して思うまい」
「あなただったんですか。あなたが」とピラモンは息をつまらせて言った。
「だったら僕は感謝しなければなりませんね、あの不可解な大盤振舞に」
「感謝するんじゃなくて、服従するんだよ私に。いいかい、その気になれば私は、おまえがいくら借りがあるか一オボロスまで明らかにして請求できる。だが心配しなくていい。おまえは私の手の内にあるんだから、おまえに辛くあたる気は無い。手の内に無いやつはみんな大嫌いだがね。やつらを手中にした途端に、そいつらが好きになる。古き民は子供みたいに、自分のおもちゃが好きなのさ」
「じゃあ僕はあなたのものなんだ?」とピラモンは喧嘩腰に言った。
「もちろんさ、かわいい坊や」と答えながら、媚びた笑みを浮かべて彼女が見上げてきたので、ピラモンは気を殺がれた。「なんにせよ、自分の毬をそっと投げ上げる仕方は知ってるよ——この四十年、ただただ若い人たちを幸せにするために生きてきたんだ。だからこの心弱いあわれな老婆を怖がらんでいい。ところで——昨日、オレステスの命を助けたね」
「なんで知ってるんですか」
「私がかい。何でも知ってるさ。燕たちが飛び交いながら言っていることも、夏の海で魚たちが考えていることも知っている。——おまえもいつか、テラピムの助けがなくても当てられるようになるだろう。それはそうと、オレステスに仕えなけりゃ——何を躊躇っているんだ。あいつにたいそう気に入られてるのが分からないのかい。あいつはおまえを事務官にするだろうし——好運をうまく使うすべをおまえが知ってりゃ、そのうちに高官に昇進させてくれるだろう」

 ピラモンは驚きに言葉を失って立ちつくし、そしてやっと言った——
「あの人の部下? あの人やその名誉が僕に何の関わりがあるんです。どうしてそんな焦らして僕を苦しめるんですか。姉に会う以外には僕はこの世に何も望んでません」
「高級官僚の——ことによると一介の官僚以上の者の——臣の一人であれば、文無しの修道士のままでいるよりも、ずっと姉さんに会いやすくなるよ。おまえを信じてるわけじゃないが。この世で唯一の望みなんだろう、んん。それなら、あのすてきなヒュパティアにはまた会う気は無いのかい」
「僕が? なんで会わないんです? 僕はあの方の弟子じゃないですか」
「あの女が弟子を持つのもそう長くはなかろうね、我が子よ。あの女の智慧を聞きたけりゃ——それがためになるんなら——今後はあの講義室よりもオレステス邸になんぼか近づかなきゃならん。ああ、驚いたか。今おまえと議論する気になるものか。いいや——何も訊きなさんな。修道士には何も説明しないよ。だがこの手紙をお取り。明日朝三時にオレステス邸に行って、カルデア人エータンっていう彼の秘書にお訊き。国家にかかわる重要な知らせを運んで来たって堂々と言うんだ。そうしておまえは自分の星に従う。これはおまえが思うよりずっと素晴らしいよ。お行き。言うことをきくか、さもなきゃ姉さんに会えないかだ」

 ピラモンは罠にはまった気がした。だが何にせよ、この変な女が彼に何をしかねないというのか。これはペラギアに至る唯一の方途ではないにしろ、一番の近道だと思えた。また一方、彼は妖婆の手の内にいて、運命に従わざるをえない。そこで彼は手紙を取って出て行った。
「それであの子が手に入ると思うのかい」と、ピラモンが出て行くとミリアムは含み笑いをした。「あの子を悔い改めさせて——尼に、女隠者にするためにだろう、え? 首には鎖、足首には足かせを填めて二十年も、ミイラどもに混じってあの子に四つん這いでおまえの神を宥めさせては、あのナザレ人の花嫁だなんてあの子に思わせるためなんだろ? そんなことのために、ミリアム婆があの子を諦めて引き渡すなんて思うのか。いやいや、修道士先生。あの子が死んだほうがましだ。……おいしい餌を追いかけな——乗り手がずっと鼻先一寸に差し出す飼い葉に釣られる驢馬みたいに追うがいい……おまえは私の手の内にあるんだ——そしてオレステスも手の内だ。……明日は例の新しい貸付金を渡さなければ。……返ってくるあては無いだろうが。やはりあの犬畜生は私を破産させるだろうね。あれはいったい、今いくらなんだ。ええっと」……そして彼女は債務証書や約束手形の入った文箱を手探りしはじめた。「返ってくるあては無い。だが力だ——力を持つためだ。あの異教徒の奴隷どもだのキリスト教徒の犬どもは己が世界の主だと思って、謀り事をしては空威張りしているが、本当は我らに——我ら契約の子らに——我らが民に——我らアブラハムの子孫に操られる傀儡だとは、夢にも知らんのを眺めてやるんだ。あわれな阿呆ども。救い主が来って、世界の真の主が結局は誰なのか気付いたときのやつらの顔を思うと、連中を憐れにすら思えるよ。……だが、あいつは南方の皇帝になってもらわんと、あのオレステスは。そのためにはラファエルの宝石をあいつに貸さなきゃならんとしてもだ。あいつはあのギリシャ女を娶らねばならんからね。娶らせねば。あの女はもちろんあいつが大嫌い……だからこそ私にとってはいっそう根深い復讐なのさ。それにあの女はあの修道士が好きだ。庭園にいたあの女の目にはそれが伺えた。これも、それだけに私にとっては好都合。あの修道士はあの女に近づかんがために、喜んでオレステスの後ろにべったりつきまとうだろう——あわれな阿呆よ。我々はあいつを秘書なり侍従なりにしてやろう。あいつにはそれか何かになるだけの機知があるという話だ。かくしてあいつとオレステスとが、私の金鋏の一対のはさみ口になって、あのギリシャのイゼベルから私の欲しいものを絞り出してくれよう。……それに——それにあの黒瑪瑙のためには!」

 演説のこのしめくくりは一種の急落法だったのか。おそらくそうではない。というのも、最後の言葉を述べながら彼女は鎖で首から下げていた護符——彼女がああも切望していたものとたいへんよく似た護符を胸から引寄せ、それを長いあいだ愛しげに眺め——口づけし——涙し——語りかけ——子を抱く母のように腕に抱いて撫でまわし——ひと節ふた節子守歌を呟きかけたからである。彼女の険しく萎びた顔つきが和らぎ、もっと清らかで偉大になり、しばらくのあいだ気高くなって、永く見失われてきたそうあり得た姿へ、どんな魂でもこの世に携えてきたあの個人のあるべき姿へと、人生という長い悲劇の中で傷つき、損なわれ、固く蓋われてしまう前には、ほの暗く潜在的ではあっても眠れる赤子のどの顔にも輝いていたあの姿へと高まった。彼女は女呪術師で、取り持ち婆で、奴隷商人であり、虚偽と兇行と強欲に唇を浸してはいた。それでもあのつまらない石は、真実で霊的で、触れることも売ることもできない何らかの考えを——それを前にしては彼女の宝物も野心もすべて、神の天使たちに劣らず彼女自身の目からしても無価値に見えるようなものを、彼女に痛感させたのだった。

 だが、ミリアムは少しも与り知らぬことだが、ちょうどその頃、筋骨逞しい無骨な修道士がキュリロスの私室に立って、大司教のまさに御前で素晴らしい葡萄酒を一杯いただくという特別な光栄に浴しながら、大司教とアルセニウスにこんな話を伝えていた。
「そこで、そのユダヤ人が海賊船を借りたのに気付いてその船主のもとに行ったところ、船主のお目に適って、その船の漕ぎ手に雇われました。そのユダヤ人の話を耳にしたところでは確かに、船はあの知らせをできるだけ速くアレクサンドリアに運ぶことになっていたのです。そこで、聖下が私の権能にお委ね下さったお役目を果して、私は乗船して他の者たちに混じって船を漕ぎ続けました。そんな労役には慣れておらず、さんざん罵られ鞭打たれましたが教会のためです——私の頼むものは来世にあるのです。そのうえサタンが現われて、私を殺そうとばらばらに引き裂かんばかりでしたので、私は嘔吐がひどくてどんな肉も嫌でたまりませんでした。それでも、私はそういう者ですので、吐き続けながらも懸命に漕ぎまして、しまいには異教徒どもは不思議に思って私を殴るのを差し控え、憐れんで酒をくれました。私が昼も夜も懸命に漕いだのは、つまらぬこの身がわずかでもカトリック教会の大義に役立つと信じたからです」
「そうか」とキュリロスは言った。「座ったらどうだね」
「おおそれながら」と、哀れっぽいしぐさで修道士は言った。「座るというのは俗世のあらゆる快楽同様、しまいには飽き飽きいたします」
「ところで」とキュリロスは言った。「おまえのよき奉仕にどう報いたものか」
「私がよくお仕えしたと分かりましたので、それだけで十分報われます。ですが、そんな筋合いではございませんけれども、もし聖下のお気が向きましたら、ある老いたキリスト教徒、私の肉における母がおりまして——」
「明日来なさい。彼女に会おう。それにいいかね——見ていたまえ。ペテロを昇格させるときには、おまえを一介の町の助祭ではなくするから」

 修道士はキュリロスの至高の手に口づけして立ち去った。キュリロスはアルセニウスに向きなおり、たちまち喜びに愛想をさらけ出して膝を打った。
「異教徒どもを出し抜きましたぞ!」それからふだんの取り繕った聖職者口調で——「してまた、かくも慈悲深く我らの手に投げられた優位を固めるべく、我が神父殿は何をお奨め下さいますか」

 アルセニウスは黙っていた。
「私は」とキュリロスは続けた。「この知らせをまさに今夜にでも、説教で告知すべきかと」

 アルセニウスは首を振った。
「どうして。なぜです」キュリロスはいらいらと訊ねた。
「他の者が話すまでは伏せておくほうがよろしい。知の蓄えは力の蓄えというのが常。もしあの男が、そうでなければ良いが、もしも教会に悪を為す気であるなら、彼の立場をはっきりさせてから、彼に抗する知識をお使いなさい。防げたかもしれない罪を見過ごすのが真っ当かどうか、咎める良心を確かにお持ちでしょう。思いますに、罪は行いよりも意志にあり、それはときには——ときには、と言うだけですが——邪な根に結実を生み出させ、自らの策略で身を満たすすままにすることが、罪人を救う手立てともなりましょう」
「危険な教義です、神父殿」
「健全な教義は皆そうです——生の匂いであれ死の匂いであれ、感じたまま。私は多衆に語ったのではなく、見識ある兄弟に申し上げたのですよ。政治的に言っても——旗幟を鮮明にさせましょう、もし彼が本当に謀反を企んでいるのでしたらね。それから事を語って彼のバベルの塔を打ち倒すのです」
「では、奴はまだヘラクリアヌスの敗戦を知らないとお考えなのか」
「知っていたとしても、人民には伏せておくでしょうね。いきなり彼らを転向させるという我々の見込みも、同じようなものでしょう」
「よろしい。つまるところ、アレクサンドリアにおけるカトリック教会の存続はこの闘争にかかっているのだ、用心に越したことはない。そうしましょう。私の助言者にあなたがいて良かった」

 そうしてキュリロスは、極めて性急で強情な陰謀者はたいていそうだが、賢者がするべきとおりに己にまさる賢者に従い、話は伏せようと心に決めて、また修道士にもそうせよと命じたのだった。

 ピラモンは眠れぬ夜を過した後、その年代では近代の自由政よりも賢明であったローマの暴政がその被害者たちにじつに気前よく提供した公衆浴場にいそいそと出かけ、それから都督官邸に出向いて伝言を伝えた。だがオレステスは近頃はいつにないまめまめしさを示してアレクサンドリア公衆を驚かせており、既に隣のバシリカにいたのだった。若者は属官にそちらへ案内され、フレスコ画と色大理石に彩られた豪華な大広間に連れて行かれた。その大広間を囲む側廊と柱廊では下級行政官たちが訴えを聞き、ローマ法の複雑な専門的法解釈によって裁判をして罰を与えていた。不安げにそぞろ歩く人々の群れを通り抜けて若者は上端の翼廊に進んだが、そこの都督玉座は空席だった。それから向きを変えて脇部屋に入り、気付くと秘書官と二人きりになっていた。その秘書官は恰幅の良いカルデア人宦官で、つるんとした青白い顔に豚のような小さな目、そしてやたらに大きなターバンをしていた。この紙筆の人は手紙を受け取ると慎重にもったいぶって開封し、そうして跳ぶように立ち上がると、それ以上は無いほど慌てふためいて部屋を駆け出し、いぶかしむピラモンをあとに残して待たせたのだった。半時間ほどして戻ってくると、彼の小さな目は何かとてつもない考えに大きく見開かれていた。
「お若い方、君の星は上り調子ですな。君は良き知らせの良き伝え手なのだ。閣下自らのお召しですぞ」そして二人は出て行った。

 武装した男たちが扉を守る別の部屋で、オレステスはやけに興奮して歩き回っていたが、昨夜の出来事のせいでいささか具合が悪いらしく、ときおり卓上の金杯に訴えかけていた。
「やあ、誰あろう我が命の恩人その人だとは! ねえ坊や、君を幸運にしてあけよう。ミリアムが言うには、君は私に仕えたいそうだが」

 ピラモンは何と言ったものか分からず、できるだけ低く頭を下げるのが一番の正解だと考えた。
「おやまあ、優雅だね。だけど作法にぴったり適っているとはいえない。じきに教えてやってくれるね、秘書官君? さあ仕事だ。署名捺印する書類を渡してくれ。駐留軍長官に」
「こちらに、閣下」
「穀類市場長官に——おまえは何隻の小麦船に荷揚げを命じたんだ」
「二隻でございます、閣下」
「結構だ。下賜は今はそれで十分だろう。プレブスの守護者殿に——悪魔が奴の首をへし折りますように!」
「彼は信頼できましょう、いと貴き方。彼はキュリロスの影響力を苦々しく思って妬んでおります。そのうえ私ごときに大金を借りておりますし」
「よし。では監獄長たちの書類だ、剣闘士の件の」
「こちらでございます、閣下」
「ヒュパティアに。いいや。我が許嫁には敬意を払って、私自らが華々しく出向こう。生きているかぎり、頭痛に悶える男には朝の仕事があるんだ」
「閣下は七人力をお持ちです。とこしえに世におわしますよう」

 実際、仕事を熟すオレステスの能力は、その気になったときには、まったく驚くべきものだった。冷徹な頭脳とさらに冷徹な心は、多くの事柄を易々と片付けるのである。

 だがピラモンの魂はすっかりあの言葉に引きつけられていた。「許嫁!」……昨日ミリアムが仄めかして何やら手前勝手な見通しをしていたのはこれだったのか。そんな運命は彼女には——彼の偶像には——気の毒で恐ろしいことではないか。彼は五分ばかり夢見るように過したが、いっそう愛しい名の響きによって夢から醒めた。
「ではペラギアに。やってみるまでだ」
「ゴート族は閣下に気を悪くするかも知れません」
「ゴート族など呪われろ。奴はアレクサンドリア中の美女を選り取り見取り、その気なら五大都市の総督になるがいい。だが私にはどうしても見世物が要る。ペラギア以外には誰も、海から上がるウェヌスは踊れんよ」

 ピラモンの血はどっと心臓に押し寄せてからまた額に戻り、彼は恐怖と恥辱によろめいた。
「彼女が舞台に返り咲いたのを見て人民は狂喜するだろう。シレノスみたいに飲んだときですら、いかに私が人民の楽しみ事を画策したか、あのけだものどもはほとんど考えはしないがね」
「貴き方はその奴隷の福利のためにのみ生きておられますね」
「君、こちらへ。ああいう美女には美形の使いが要るんだ。ただちに私の任務に就いて、この手紙をペラギアに届けてくれ。どうした——なんで取りに来ない」
「ペラギアにですか」と若者は息をのんだ。「劇場で? 公衆の面前で、海から上がるウェヌスを?」
「そうだとも、馬鹿だな。結局君も昨夜は飲んだのか」
「彼女は僕の姉なんです」
「ふん、それで? 信じたわけではないがね、悪い子だ。それじゃ」と、オレステスはただちに事情を察して言った。「おい、属官!」

 扉が開いて護衛隊が入ってきた。
「この子はいい子なんだが、馬鹿なことをやりかねない。二三日害の無いところに留めておけ。だが傷つけるなよ。何しろやはり、昨日は私の命を助けてくれたんだから。貴様ら悪党は逃げ出したがね」

 そして不運な若者は苦もなく襟首をつかまれ、丸天井の通廊を下って護衛室に連れ込まれ、護衛隊の嘲りに囲まれた。彼らは、ピラモンの昨日の勇気に恨みがあるとしか見えず、じつにてきぱきと彼に重い鉄枷を繋いだ。そうして、彼は頭から監獄の独房に突っ込まれ、閉じ込められて、黙考のうちに取り残されたのだった。

最終更新日: 2007年4月16日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com