第20章 耐え難きを耐え

「ですが考えて下さいな、麗しいヒュパティア。大きな石で顔面を殴られ、何百人ものならず者が唸りをあげて野獣のごとく襲いかかり——ものの二分で手も足もばらばら。そんなときにどうなさるというのです」
「手足をばらばらにさせるがいいわ。私は自分が生きてきたとおりに死にます」
「いえ、ですけど——。実際そうなったら死に直面するのですよ」
「何故死を恐れなければなりませんの」
「ああいえ、死が問題ではないのですもろちん。そうではなくて死に方ですよ。実際、そんな状況で死ぬなんてちょっと認めがたいでしょう。我々が理想とする偉大なるユリアヌスだって、偽装もいくらかは必要だとお考えになって、仮面を捨てても大丈夫と思われるまでは善きキリスト教徒で居られた。それも私がキリスト教徒のふりをしている以上でさえあった。それならなんで私がそうしてはいけないというのでしょう。私はあなたに劣る身、お望みなら群畜の一匹とお考え下さい。ですが悔いる者は、お選び下さるどんなことでも必死に行って精一杯の償いをするのです。そうできるし、その気もあるのだと身を証します。ひとたびユリアヌスと同等の力を手にしましたら」

 このような会話がヒュパティアとオレステスの間に交わされたのは、ピラモンが新居を構えて半時ばかり後のことだった。

 ヒュパティアは穏やかに都督を見透かしていたが、軽蔑や懸念が混じっていなくもなかった。
「なぜ閣下はこんなに突然誠実になられたのかしら。四か月もお約束を放っておかれましたのに」。言いはしなかったが、約束がなおも放ったらかしならどんなに嬉しいことかと彼女は内心思った。
「それは——今朝知らせがありましてね。あなたへの敬意のしるしに一番にお話しするのですよ。日暮れ前にはアレクサンドリア中に知らせるようにするつもりですが。ヘラクリアヌスが勝ちました」
「勝った?」と声を上げて、ヒュパティアは跳ねるように立ち上がった。
「勝ちました。オスティアで帝国軍を完全に壊滅させました。信頼できる伝令がそう申しております。それにたとえ誤報だと分かったとしても、逆の知らせが広まるのを防ぐことはできますし、そうでなくては何で都督でおりましょう。反対なさるんですか。お分かりにならないんですか、ほんの一週間そういうことにしておけたら、我々の目的は達せられるのですよ」
「どうして」
「もう街中の役人と交渉したのですが、みな賢人らしく振る舞いまして、ヘラクリアヌスが成功すれば私に助力すると約束してくれました。私同様、坊主どもに支配されたビザンチン宮廷には飽き飽きなのですよ。そのうえ駐留軍はすでに私のもの。ナイル沿いの全軍もそうです。ああ、この四か月、私が怠けていたなんてお思いだったのですか。ですが——お忘れですよ。ご自身が、骨折りのご褒美なのです。そんな目標を目にしながら怠けておれましょうか」
 ヒュパティアはぞっと身震いしたが黙っていた。それでオレステスは続けた——
「食糧を大盤振舞するべく、小麦船を何隻か荷揚げしました。危うく例のタベンネシのごろつき坊主どもに、慈善の出端を挫かれるところでしたがね。一人二人助祭に賄賂を掴ませて連中が送り出していた備蓄分を買い上げて、再度私のものとして小売りするはめになりましたけれど。この町の半分の貧民を無料で食わせ続けるなんて、本当にこのうえないお節介ですよ、連中のは。アレクサンドリアに何の用があるというんだ」
「民衆の支持を当て込んでのことでしょう」
「まさにそう。ですが、我々の援助がなくても腹一杯なんてごろつき一味相手に、政府に何ができます」
「ユリアヌスはガラテアの高僧に同じことを訴えておられますわ、値のつけようもないあの書簡で」
「ああ、良しとなさるのでしょうね、そう、事もなげに。とはいえ私だって今はもう、キュリロスの力を恐れてはいない。喜んで申しますが、教養ある富裕層の評価という点では、ユダヤ人を追放することによって彼は深傷を負いましたからね。彼の大衆はといえば、ちょうど折好く神々は——ここには修道士がいませんから正しい源に恩恵を帰せられます——神々は恩恵を施して下さり、大衆を我々に好都合な気分にして下さった」
「どういうことですの」とヒュパティアは訊ねた。
「白象ですよ」 
「白象?」
「そうです」と、質問の口調を取り損ねたか無視したのか、彼は答えた。「生きている本物の白象。ここ百年アレクサンドリアでは見られなかったものです。二頭の馴れた虎と一緒に、ビザンチンの坊やへの贈物として送られてきたんですよ、ヒュペルボレオスタプロバーネ島だか何だか、領主の定かならぬ東の果ての、誰だか百人の妻を持つ小国の王からね。権限を使ってそれを禁輸にしまして、ちょっと議論したり拷問を仄めかしたりした結果、象と虎は我々の役に立つというわけです」
「何の役に立つというのです」
「我が最愛のお嬢様——考えて下さい……見世物なしにどうやって大衆に勝てますね。……全部にしろ半分にしろローマ帝国を掌握するのに、他に道があったことがありますか——武力によるか、謀りによるか、この二つ以外に。第三の道を思いつけますか。前者の興奮は不愉快ですし、また目下のところ実行は難しい。後者が残るわけですが、白象のおかげで意気揚々と成功するでしょう。毎週何か見せなければ。人民はあの身振り芸人に飽きてきているんです。何しろ、ユダヤ人が追い出されてからというもの、奴は観客のうち熱狂的なほうを半分失って、愚鈍な怠け者になってきましたから。競馬はというと、みんなうんざりしていますし……それで、できるだけ早いうちに告知してはどうでしょう——催し物を——当代以前には見たこともない催しを。あなたと私で——私は主催者として、あなたは——当座だけのことですが——いにしえのウェスタの乙女の代理人として——並び座すのです。……人民が大喜びして我を忘れているようなら、誰か相応しい友人が手本を示して「オレステス帝万歳!」と叫びます。……ヘラクリアヌスの勝利に気づかせる者もいれば——いくたりかは私とともにあなたの名を想い起こさせる……人民は喝采……誰だかマルクス・アントニウスといった者が進み出て——あなたのお望みのとおりに——私を皇帝、アウグストゥスとして迎える。——叫びがあがり——私はユリウス・カエサルその人のごとく穏やかに辞退するが——名誉を受けよと強いられて紅潮しつつも——立ち上がって演説する。南大陸の将来の独立——アフリカとエジプトの同盟について——帝国はもはや東西にではなく南北に分かたれたのだと。天を揺るがす喝采の叫び—— 一人あたり二ドラクマのね——誰もかれもが賛同しているのだと全員が思い込み、先導に従い……かくしてことは成るわけです」
「ですが」とヒュパティアは軽蔑と絶望とを押し殺して訊ねた。「それが神々の崇拝と何の関わりがありますの」
「それは……もう……人民の心の準備は十分とお考えになれば、ご自分の番には立ち上がって演説されるでしょうに——お考えになれましょう。説いてやって下さい、かつては帝国の誉れであったこうした催しが、ガリラヤ人の迷信のもとでいかに凋落したのかを。……もともと催事は神々の崇拝に由来しますが、耳目を存分に楽しませるには公然と神々の崇拝に戻るしないのは何故か、またそうしてこそ完全なかたちで楽しめることとはどう関係しているのかを話してやって下さい。……でも、どうなされば良いのかお教えする必要はありませんね。あんなにしょっちゅう私に教えて下さったことなのですし。まあそれで、我々の計画にとっては、催しを考えることが下賜に次いで最重要なのです。昨日私を殺しかけたあの修道士を、人民に見せてやるべきだったな。これは本当に、キリスト教に対する法の勝利となったでしょうし。奴と野獣どもは、十分ばかり人民を楽しませただろうに。だが憤怒は分別に勝るもの。奴を磔にしてもう二時間ですよ。うーんそうだな、ちょっとした剣闘試合みたいなのはどうでしょう。実際は、法によって禁じられていますけれど」
「幸いですわね、禁止されていて」
「ですが、お分かりにならないのですか。まさにだからこそ、我々の独立を表明するためには剣闘士を使うべきなんですよ」
「いいえ、あれは過去のもの。この世の恥を二度と繰り返してはなりません」
「愛しい方、そんなことをおおやけに仰らないで下さいよ、現在のお立場からしてね。キリスト教徒の皇帝や司教があれをやめさせたのだなんて、厚かましくもキュリロスがあなたに思い出させてはいけませんから」

 ヒュパティアは唇を噛んで黙った。
「いやまあ、何もご不快なことを強いたくはないのですよ。……殉教だけでもいくらか算段できればなあ——でも本当に心配なんですが、現在の輿論の情勢では、殉教を企てるまでに一年も二年も待つはめに」
「待つ? 永遠にお待ちなさいませ。ユリアヌスは——私たちが範とすべきあの方は——ガリラヤ人の迫害を禁じておられたではありませんか。彼らは自らの無信仰や身を苛む迷信によって十分罰せられたとお考えになってのことです」
「かの偉大な方の、もう一つのささやかな過ちですね。帝は想起なさるべきだった。三百年というもの大衆を何より上機嫌にしたのは、何人かのキリスト教徒、ことにうら若い美女が生きながら焼かれたり獅子に投げ与えられたりする眺めだったのです。他ならぬ剣闘士たちですらあれには劣る」

 ヒュパティアは再び唇を噛んだ。「こんなこともう聞いていられません、閣下。女にお話しになっているのをお忘れです」
「至高の智慧なる方」と、オレステスは精一杯穏やかなよい調子で答えた。「お耳を痛めようとしているとは、どうかお思いにならないで下さい。ですが、一般的な原理として考察することはお許しいただきたいのです。何らかの目的を達成せんとすれば手段を講ずる必要があり、概しては四百年の実績によって検証されてきたものが一番確実。実際的な政治家として申し上げているのですよ——きっとあなたの哲学は異議を唱えはしないでしょう」

 ヒュパティアは痛ましい考えに目を伏せた。何を答えられたろう。あまりにも正しくはないか。それにオレステスのほうには実績と経験があったではないか。
「では、どうしてもと仰るなら——でも剣闘士は我慢なりません。そう——野獣との戦いなどはいかが。あれも十分胸が悪くなりますけれど、まだしも残酷ではありません。きっと人間が怪我をしないよう対策を講じて下さるでしょうから」
「ああそれではまったく、香りの無い薔薇といったものでしょう。危険でもなく血も流れないのでは魅力が失せます。ですが今は野獣は本当に高すぎるんです。手持ちの珍獣を殺してしまったら、もう買う余裕はありません。何か金のかからないものにしませんか。捕虜とか」
「何ですって。人間を獣に劣るとなさるの」
「とんでもない。でも人間のほうが安いんです。思い出して下さい、金が無ければ無力です。神々の復興のためには資金を節約しなければ」

 ヒュパティアは黙った。
「そうだな、砂漠から連れて来たばかりのリビア人捕虜が、五、六十人ほどいます。それを同数の兵士と戦わせてはどうでしょう。帝国に反逆して、戦争で捕まったのですよ」
「ああ、では」とヒュパティアは、言い訳の糸口を掴んで言った。「どのみち命はありませんのね」
「もちろんですとも。ですからその件では、キリスト教徒は文句を言えますまい。このうえもなくキリスト教徒だったコンスタンティヌス帝は、ゲルマン族の捕虜を三百人ほど、トレウェリの円形闘技場で惨たらしく殺し合わせませんでしたか」
「ですが彼らは拒み、英雄のように死にました。各々自分の剣に身を投げて」
「ああ——ゲルマン人はいつでも始末におえない。私の衛兵も同様に手に負えませんがね。実を申しますと、あのリビア人どもに腕前を見せてやれと、すでに衛兵に言ったのですよ。すると奴らがどう言ったと思います?」
「拒んだ、と願いますわ」
「奴らはこのうえもなく横柄な調子で言いましたよ。自分たちは舞台役者じゃない、人間だ。虐殺ではなく戦闘のために雇われたんだと。こんなふうに論証を示されましたので、ソクラテス的対話になるのではと予測して、私は頭を下げて引き下がった次第」
「彼らが正しいのです」
「哲学的に見れば疑問の余地なしですが、実際的に見れば奴らはたいそうな空論屋ですし、私は主人としては不当に扱われたのです。とはいえ、不幸にも真価を認められない英雄たちなら牢獄で十分見つかります。自由の身になる好機なのですから、すこぶる雄々しく振る舞うでしょう。それに、まだ酒場でぶらふらしている老剣闘士を何人か知っているのですよ。彼らは一週間ばかり囚人に稽古をつけてやるのを誇りに思うでしょう。ですからいけますよ。さて、次には何かもっと軽めの上演を——何か多少とも演劇的なのを」
「お忘れですのね。お話しになっている相手は、権力を手にするやアテナの高僧たらんと期しておりますのよ。往時の司祭であったユリアヌスを導き手としてその命令に服しておりますから、当面はガリラヤ人を装って彼らのように劇場を嫌い、その後は彼らに倣って寡婦や異人を気遣うつもりです」
「かの偉大な方の智慧に異を唱える気などさらさらございません。ですが一言、言わせて下さい。帝国の現状から判断すれば、帝は間違っておられたと言うのが正しい」
「帝の愛された太陽神は、あまりにも早く帝をお召しになりました。英雄の死をもってですが」
「そして帝がお隠れになるや、キリスト教の波のごとき蛮行がもとの水路に押し寄せ戻ったのです」
「ああ、帝がもう二十年生きておられたら」
「太陽神はことによると、高僧としての帝のご計画の成功を、我々ほどには案じておられなかったのかも」

 ヒュパティアは頭に血が上った——オレステスは結局、袖の陰では彼女とその計画を嗤っていたのか。
「罰当たりなことを仰らないで」とヒュパティアは厳然と言った。
「滅相な。私はただ、単なる事実の有り得る解釈をひとつ申しただけです。他の解釈もありますよ。つまり、オリュンポスの神々の信仰を復興する仕事に際してユリアヌスは正道を進んでおられなかったために、太陽神は帝をその地位から退かせるのを良策とされ、そうしてヒュパティアを、帝の愚を避けてガリラヤ人たちの道徳的厳格さを——これについては真実天性の達人は彼らだけですが——これを真似ないだけの見識をもつ哲学者を、帝の代わりに送られたのだと」
「ではあまりにも有徳でおられたことがユリアヌスの過ちだと? でしたら帝に倣って同様に失敗させていただきたいわ。それなら過失は私ではなくて運命のせいですから」
「問題なのは、ユリアヌスが一点の曇りもなくアテナのごとく有徳でおられたことではなく、他の者までそうさせようとなさったことです。『食べ物と見世物を』というユウェナリスの偉大な格言の片方をお忘れだったのです、支配者たる者の例外の無い絶対の必需品を。帝は人民に競技抜きで食べ物を与えようとされた。……そしてその大盤振舞に対して帝が受けた感謝については、帝ご自身とアンティオキアのけっこうな民衆に語ってもらいましょう——『髭嫌い』を持ち出されたところですし——」
「ああ——その時代には純粋すぎた人の嘆きの歌ですわ——」
「まさにそう。ご自身が純粋だというだけで満足なされば良かったのに。清潔さについては疑問の余地のある髭をたくわえた哲学者、アンティオキアでは何年も誰も信じていなかった神に——ごめんなさい——その神に犠牲を捧げるただの高僧としてアンティオキアに赴任されたのがまずかったのです。もし一万人の剣闘士や我々の白象をつれて登場されたり、ダフネに象牙と玻璃でできた劇場を建設されたり、太陽神なり万神殿の他の神の名誉において試合を公表したりしておられたら——」
「哲学者に相応しからぬふるまいをなさったことになりますわ」
「ですが僧侶が一人で哀れにも、一羽きりの鵞鳥を抱えて濡れた草を踏み、荒れ果てた祭壇にとぼとぼ向かうのではなくて、アンティオキア中の鵞鳥を全部手にされたでしょうに——アリストパネスの洒落を拝借させていただければ——有名無名のいずれかの神を参拝しようとがつがつ突き進み——その壮観を目にしてあんぐり口を開けたのを」
「そうですね」と言ってヒュパティアは、オレステスの辛辣な議論にやむなく譲った。「ではギリシャ劇の古代の栄光を復興いたしましょう。アイスキュロスかソポクレスの三部作を人民に上演してやれば」
「大人しすぎますよ、愛しい方。確かに『エウメニデス』ならやれるかもしれません。あるいは『ピロクテテス』か。現実にピロクテテスに苦痛を与えて、本気で絶叫しているぞと観客に確信させられればね」
「吐き気がしますわ!」
「でも必要なのですよ、ほかのむかつくものと同じく」
「ああほら、『プロメテウス』はいかが」
「確かに舞台映えは見事ですね。翼ある戦車に乗った太洋の娘とか、グリュプスに乗ったオケアノスとか……ですが無難だとは思えませんね。アイスキュロスが描いたような、いささか醜い姿でゼウスやヘルメスを人民に紹介しなおすのは」
「それを忘れておりましたわ」とヒュパティアは言った。「オレステイア三部作が一番です、やはり」
「一番? いや完璧だ——すばらしい。ああこれが私の巡り会わせなら! アイスキュロスの傑作をギリシャ風の舞台で再び復興させた幸せ者として後代に伝わるのに。ですが——偉大なる悲劇詩人には申し訳ないですけれど——現代の我々の好みからすると、『アガメムノン』では控えめすぎませんか。湯殿の場面を再現して、本当にアガメムノンを殺すのならともかく——そうしろと言うのではありませんよ、それを理由に良い役者は役を拒むでしょうからね——しかしそれでも殺人はおおっぴらにやらないと」
「悪趣味な! 演劇のあらゆる作法に背くものです。ローマ人のホラーティウスですら、決まりを定めているではありませんか——メーデーアは人々の前にて子供らを殺すべからず、と」
「このうえもなく清らかにして賢明だ。私はいにしえの慕わしきエピクロスの徒でありたいのですよ、人間生活のいかなる局面でも——閨の家具でさえ。これについてはアフリカの皇后もいずれ事実だと確信なさいますでしょう。ですが今議論しているのは、詩の技法ではなく統治の技法なのです。結局は、ホラーティウスが安楽椅子に座って同郷人にけっこうな助言を与えている間に、大衆が何に感心するかホラーティウスよりもよく弁えていた私人は、自分の母親の葬儀に四万人の剣闘士の試合を見せたのです」
「ですが原理は、美の永遠なる法に根差しているのです。それは認められ、遵守されてきたのです」
「人民によってではありませんよ、人民のために書かれはしましたが。ヒュパティア先生はお忘れではないはずです。『詩学』が書かれてから六十年後に、アンナエウス・セネカだったか誰だったかが『メーデーア』とかいうおそろしくひどい悲劇を書きましたが、ホラーティウスがああ言ったというのに、何が何でもメーデーアは人前で我が子を殺すべきだと考えて、実際にそうさせているのです」

 ヒュパティアはなおも黙っていた——あらゆる論点を挫かれたのだが、かたやオレステスはぺらぺらと挑発しつづけていた。
「それにこれもお考えいただきたいのですが、たとえ思いきってアイスキュロスをいくらか改作するとしても、演じる役者が見つからないでしょう」
「ああ本当に。まったく世も末ですわ」
「実際やはり、私の名のもとになった彼が自分の母を殺して復讐の女神たちに舞台中を追い回されるなんて——とある地位への候補者という私に対する疑わしい賛辞は遠慮しまして」
「ですが、最後にはアポロンが彼を弁護し、無罪になるのですよ。何と気高い誘因でしょう。この最後の場面が人々を説き伏せ、神に対するいにしえの畏敬に立ち帰らせるのです」
「そうですね。でも今時の観客の大半がいっそう強く信じるのは、母殺しや女神たちの恐ろしさのほうでしょう、それに続くアポロンの赦しの力よりもね。ですから心配なのですよ。後々ご苦労のもとになるに違いありません」
「それもそうでしょうね」とヒュパティアは言った。だが彼女は、嬉しそうには語らなかった。
「それに、どうお思いになります」と誘惑者は続けた。「ああいう古い悲劇は我々が再び取り入れ——失敬、再び崇拝したいと思っているあの神々について、何だかあまりにも陰鬱な感じを与えませんか。アトレウス家の歴史は美しいですが、裁きの日に関するキュリロスの一講話よりも楽しいとはとうてい言い難い。幸薄い裕福な人々にはタルタロスが待っているのです」
「それなら」とヒュパティアはますます気乗りのしない様子で言った。「まずは古い神話のもっと美しく雅な面を見せたほうが慎重でしょうに。実際、アテナイの悲劇の偉大な時代には、陽気な反面もありました。古喜劇がそうです」
「それに何でしたか、名は無いはずですが、ディオニュシアの競技や行列もですね。アイスキュロスやソポクレスの値打ちが分からない者たちに、神々へのしかるべき信心を呼び起こすためのものです」
「悲劇詩人たちを再紹介なさらない気ですか」
パラスに誓ってそんな。そうではなくて、できるかぎり見事な代用を見せるんですよ」
「多衆が低劣だからといって、自らも低劣になるのですか」
「そんなことは少しもありません。私としてはこの仕事全体が、週替わりの身振り芝居を提供するようなもので、大いにうんざりなのですよ。ユリアヌスご本人だってご同様だったでしょう。ですが、愛しい方——『食べ物と見世物』は——上機嫌にさせるに違いありませんし、他に手はないのです——とあるガリラヤ人が由緒正しいローマの方法と正しく定義した——『肉の慾、眼の慾、所有の誇』による他には」
「上機嫌にさせる? 私は彼らを浄化して新たな気持ちで神々に仕えさせたいのです。喜劇を上演しなければならないのなら、悲劇との併演しかあり得ません。アリストテレスが定義しているように、悲劇は恐怖と憐憫によって感情を浄めるでしょう」

 オレステスは微笑んだ。
「確かに、そういう良い効果には反対できません。ですが、剣闘士とリビア人の戦いが予め充分に浄めるとはお思いになりませんか。これ以上にその目的に適うものは考えつきませんよ。他には、当の観客のところに護衛兵を遣ってアレナの野獣の間に投げ落とさせるというネロ帝の方法くらいだ。小商人様方全員が、恐怖と憐憫によってどんなに完全に浄められたことでしょう。己の太った女房の後を追って、最寄りの獅子の鈎爪に落ちるかどうかも定かならずに尻餅をついているとなれば」
「言葉遊びをお楽しみですのね、閣下」と、嫌悪をほとんど隠せずにヒュパティアは言った。
「愛しい許嫁よ、女主人の範に倣って私はプラトン主義者なのですよ。アリストテレスのとある抽象的な公理にはたまたま同意しておりませんので、その公理に極めて無害な背理法を適用しただけのこと。ですがどうかお願いです、私にではなくご自身のお智慧に従って下さい。ご計画の真価を一目見るなり人々に理解させるなんてことは、おできにならないのです。あなたは彼らには賢すぎ、純粋すぎ、気高すぎ、先見がありすぎる。ですから彼らを服従させる力をお持ちにならなければ。ユリアヌスはやはり、服従させる必要があるとお考えでした——もう七年生きておられたら、迫害する必要があるともお考えになったでしょう」
「神々が禁じておられますわ、そんな——そんな必要は、ここには決して生じません」
「それを避ける唯一の方法が、魅惑と耽溺だと思うのです。結局、それが彼らのためなのですよ」
「そうね」とヒュパティアはため息をついた。「お好きになさいませ」
「信じて下さい、次はそちらの良いようにいたしましょう。今は私に従って下さるようにお願いしますが、そうなさってこそ先々、私やアフリカを支配する地位に就くことにもおなりでしょう」
「アフリカなんて! 確かに、地上的に産まれた低劣な者たちであれば、そのように扱うべきだと思います。そうした必然は自然の責任であって、私たちのせいではないわ——とはいえ極めて品位を穢すものですが。——ですが依然として、少数の哲学的な者が自らの権能を引き受けて、神の任じたこの世の統治者となるにはそうするしかない、良かれと統治してやる一層低劣なあの者たちのご機嫌をとるしかないのだとしたら——そうね、そうだとしましょう。こうした時代に神々のしもべが忍ばなければならない必要は多いし、他の必要よりも悪いわけではないわ」
「ああ」とオレステスは、ため息を聞かぬふり、説を語る唇の苦さを見ぬふりで言った——「それでこそヒュパティアその人、私の助言者、哀れな私には狐のごとく小狡く跳びついて勘繰るのが関の山の万物に、天上的な深い根拠を与える方です。さて、私たちの軽めの娯楽。これはどうしましょうか」
「お望みのことは——そうでなければ良いのですが——そういう大半のものと同様、穏健な女の目には不適切です。愚行を供する技能など私にはございません」
「では身振り芝居では? 好きなだけ雄大で意味深いものにできるでしょうし、財貨をすべて飾り物や野獣に費やすこともできます」
「お好きなように」
「ちょっとこれも考えて下さい。神話を学ぶどういう機会を、身振り芝居で与えますかね。何がしかの神の祝賀行列はどうでしょう。これ以上きっぱりと神々への奉仕に関われましょうか。そうだな——どの神にしましょう」
「パラスは? ——察しますに、閣下のアレクサンドリアには、穏健で謹厳すぎるというのでなければ」
「ええ——パラスの真価が理解されるとは思えません——とにかく目下のところは。アプロディテはどうでしょう。アプロディテなら、いにしえの神々の信徒に劣らずキリスト教徒にもすっかり分かるでしょうし。それに、パラス役を演じてもかの処女神を貶めない人なんて一人も心当たりが無いのですよ。ただし、寄り添わせていただくなんて奴隷には過ぎた名誉ですが、例のあの役に就いて下さると——と期待しておりますが——承諾しておられる某貴婦人は別ですけれど。パラスはどんな劇場でも一時に一人で充分ですしね」

 ヒュパティアはぞっと身震いした。彼はそれを当然だとして——条件つきの彼女の約束に最大限のものを要求しているのだ。逃げ道は無いのか。彼女はぱっと立ち上がって通りへ、砂漠へ逃げ出そうと——自縄自縛の忌まわしい網を破る何かを切望した。だが——それは神々の復興のため——人生の唯一の目的のためではないか。そして結局のところ、この忌ま忌ましい男が皇帝になれば、自分はともかく皇后になる。そしてやることをやるのだ——半ばは皮肉、半ばはやるしかないことにやむを得ず身を投じて、活動することで惨めさを忘れようと、できるだけ快活に彼女は答えた。
「では我が女神よ、この卑しき者らの愉楽をお待ちあれ。ともあれ若いアポロンは、彼らにでも魅力があるでしょう」
「ああ、ですが誰がアポロン役を? 惰弱な当代ではピュラデスやバテュロスのような容姿は生まれません——例のゴート族以外にはね。おまけにアポロンは金髪でないと。我々ギリシャ人はたいへん恥ずかしいことに当地のエジプト人と混血してしまって、劇団一座はアンドロメダなみに色黒ですし、またしてもあの忌ま忌ましいゴート族に依頼するはめになります。彼らはほぼ」(少し身を屈め)「全員が美形で、ほぼ全員が金も力も持っていますし、私がこの邪悪な世を無事に逃れるまでに、その他のものも手にする気がします。何しろほぼではなく全く、全員が勇敢ですからね。さて——ゴート族にアポロンを踊るよう頼みましょうか。誰も見つからないんですから」

 ヒュパティアはその考えに我知らず微笑んだ。「それでは面目無さすぎます。無様な蛮人の姿で見るくらいなら、光の神そのものを止すべきです」
「それなら、見下され却下された私のアプロディテはいかがですか。アプロディテの祝賀行列をやって海から上がるウェヌスの舞で締めくくってはどうでしょう。本当にじつに優美な神話です」
「神話としてはね。ですが実際に舞台で?」
「このキリスト教都市が何年も眺めてきたものよりはましですよ。風紀紊乱のおそれが無いのは確かです」

 ヒュパティアは顔を赤らめた。
「それなら私の助けはお求めにならないで」
「催事へのご臨席をですか。間違いなく重要な点です。最愛のご主人様、あなたは大物すぎますから、ここの良き人々の目からすると、そんな席におられないなんて許させれませんよ。私のささやかな戦略が成功するとしたら、それは半ばは、私に戴冠させればヒュパティアも戴冠するのだと、人民が事実弁えているおかげでしょう。……さあですから——お分かりになりませんか、何が何でも臨席なさらなければ。無邪気なちょっとした神話です。信仰を復元しようとしている当の神々の、疑いも無く真正な歴史に取材した神話なのですよ。ご自身の慰安のためにも喜んで賛成なさり、準備にあたってはお智慧を貸して下さいましょう。さあ考えてみて下さい、アプロディテの祝賀行列。クピードーに引き鎖をつけられた野獣だの白象だの何だのを先ぶれにご入場——何という造形美術の技! 何かソポクレス劇みたいに完璧な、浅浮彫りさながらの華やかさで千度も群れては離れ、また群れてというふうにしなくては。すみません、紙と筆を取らせて下さい」

 そして彼は群舞を次々に手早く素描した。
「無様ではないでしょう、ね?」
「たいへん綺麗です。否定できません」と哀れなヒュパティアは言った。
「ああ、愛しい皇后様。ときおりお忘れになりますが、私も、私のごとき俗な虫けらでもギリシャ人でして、美への激しい愛は御身にすら劣りません。真正な趣味へのあらゆる冒涜が、ご自身ほどには私を痛烈に苛むことはないなんて思わないで下さい。いつかは、あるべきこととありうることとの間のみじめな妥協を哀れみ、許すことを覚えて下さるものと期待しております。その妥協点で我々不幸な政治家はあがくしかないのです、ほとんど曲芸といった有様で、完全に誤解されて——ああ、そうだ! 見て下さい、舞台上の潅木の間にこういうファウヌスドリュアスたちがいて、音楽が最初にばっと鳴り出して、神殿から女神がお出ましになるのを告げると、それに驚いてはっとして動きを止めるのです」
「神殿? いったいどこで上演なさる気」
「劇場ですよ、もちろん。どこで身振り芝居をするんです」
「はるばる円形闘技場から移動する時間が観客たちにあるでしょうか、あの、あれの後で——」
「円形闘技場? リビア人たちのも劇場でやるんですよ」
ディオニュソスを祀る劇場で戦闘を?」
「愛しいかた」——と改悛したように——「演劇の作法に反するのは分かっているんです」
「おお、もっと悪いわ。考えて下さい、神に対する何という不敬虔。神の祭壇を殺戮で穢すなんて」
「このうえなく正しい帰依者で居られる。ですが思い出して下さい。この極端な用のためにディオニュソスの祭壇をお借りするのは、やはり公正でしょう。だって私は、執政官たちがローマの蛮風に沿ってオルケストラパトリキイ席で埋めつくすのを防ぐことによって、当の神の存続を保ったのですから。それにここ四百年というのも、帝国中のあらゆる劇場で、正邪あわせてあり得る限りのどんな演目が上演されてこなかったというのです。ありませんでしたか、軽業師に手品師、諷刺、殉教者、婚礼、象の綱渡り、学者馬に、マダウラのアプレイウスを信じるならば学者驢馬もですし、それに、ウェスタの乙女の御前では口にできないほかのたくさんの結構な見世物も。ひどい趣味の時代なのです。それに応じたことをしなければ」
「ああ」とヒュパティアは答えた。「演劇の堕落の第一歩は、ソポクレスやエウリピデスの合唱が木霊した劇場を、厚顔にもアレクサンドロスの後継者たちが冒涜し、ディオニュソスの祭壇を身振り芝居の舞台に格下げしたときに始まったのです」
「純な御心はきっと、ささやかな戦闘よりも大してましなものではないとお考えに違いない。ですが結局、プトレマイオス朝はそうするほかなかったのです。ソポクレスの劇はソポクレスの時代にしかない。あの時代は我らの時代よりましどころではなく、だから演劇は自然に死んだのです。人であれ事であれ死んだときには、そうしたければそのために泣くことはできますが、結局は埋葬して、その身代わりを得なければなりません——もちろん、神々の信仰はべつですよ」
「少なくともそれは別にして下さって嬉しゅうございますわ」とヒュパティアはいくぶん苦々しげに言った。「ですか両方の見世物に円形闘技場をお使いになれば」
「私に何ができますね。私はすでに首まで借金浸り、先の皇帝の剣闘士に反対する狂信的な勅令のおかげで、円形闘技場は半ば廃虚。修理する時間も費用もありません。そのうえ二千人用に建てられたアレナで、哀れな百人の闘士を見るとは、なんと不憫なことでしょう。考えてください、最愛のかた。我々が生きている時代がどんなに凋落しているかを」
「よく考えております」とヒュパティアは言った。「ですが祭壇が血に穢れるのは見たくありません。冒涜ですわ。すでに行われて神の怒りを招き、詩的霊感を奪われているというのに」
「それは疑いません。今時の詩人にはきっと天の呪いか何かが降りかかっているんでしょうね、彼らの並はずれた低劣ぶりからすると。実際、酒も飲まない修道士や修道尼の気狂いじみた奇行ときたら、あのアルゴスの女たちみたいな、天の怒りのせいにしたくなりますよ。ですが、戦闘を舞台に制限すれば、祭壇の神聖性は保たれるでしょう。それに、次の身振り芝居については、アプロディテの祝賀行列という私の思いつきに賛成していただけさえすれば、ディオニュソスがご自身の祭壇を拒むことはまずありますまい。ご自身の恋人の祝賀式のためなんですから」
「ああ——それは後代の神話で、私の考えでは貶められたものですわ」
「そうだとしましょう。ですが思い出して下さい。別の神話はアプロディテを、理由が無くもないですが、生あるもの一切の母だとしているのですよ。アプロディテが我が子らにご自身の圧倒的な力を感じさせる。このことには、ディオニュソスであれ他の神であれきっと異論は無いでしょうし、見過ごして下さいますよ。だって神々は皆よくご存じですからね。もしひとたび我々がここでアプロディテを篤く崇拝させるようにできれば、全オリュンポスがかの女神の裳裾に連なるのだと」
「それは天上のアプロディテの話です。家庭の平穏と貞節の徴であるを象徴とする女神のことであって、万人向けの低劣なアプロディテのことではありません」
「それなら祝賀行列では亀の大群を見せて、何を敬っているのか人民に分からせてやりましょう。ですから手ずから賛歌をお書き下さいな。その間にそれを歌うに足る合唱隊を見つけておきますよ。ピーピー鳴るただの双笛だか一対の童だかではなくて、優美の女神とキュクロプスの全軍勢といった最高声部と低声部をね。宮殿にいるキュリロスの耳をじんじんさせてやる」
「賛歌ですって! 気高いつとめなのですよ、私には本当に。それが、参列するとは誰も夢見たことも無いと仰る、あの馬鹿げた見世物のまさにその一部。決めるべきことはすべて、ご相談下さる前にご自分で決めておられたようですわね」
「そんなことを申しました? きっと誤解なさっているに違いない。ですが、誰だか賃雇いの三文詩人の賛歌なんぞは無視されるとしても、アテナとポイボスとディオニュソスとの三重の霊感に輝くヒュパティアの雄弁と学識をもってなされたこととなればどうでしょうね。それに、予め案配してあったという件については——愛しいご主人様、これ以上に精妙な賛辞などどうすばお送りできるとというのでしょう」
「そう思えるとは申せませんわ」
「どうして。舞台効果は私の才覚には荷が勝ちすぎますし、資力もありませんけれど、できるかぎりあらゆる厄介事からあなたをお守りしたうえで、私自身の頭脳の産んだ愛し子たちをこちらに持ってきたのです。そうして、生きるか死ぬか、気高く手抜きの無いご批評の裁きの座の前に我が子を無慈悲に打ち捨てたのではありませんか」

 ヒュパティアは罠にはまった気がしたが、今は逃げ場が無かった。
「お願いです、それで誰が、当人や私の面汚しになりますの。海から上がるウェヌスとして」
「ああ、私の演目一覧すべてのうちでも一番みごとな項目なんですよ。寛大なる神々がある人の約束を取り付けられるようにして下さったのならね——誰だと思います」
「何が問題ですの。何を申せまして?」と、何か言うことになるのではと予感し恐れつつ、ヒュパティアは尋ねた。
「ペラギアその人ですよ」

 ヒュパティアは怒りが込み上げた。
「これは、閣下、いくら何でもあんまりです! 条件つきのお約束を、こうも横柄に、こうも無慈悲に、盾にとったりないがしろにしたりするだけでは飽き足りなかったようですわね——私の大望を先々助けて下さるだろうと虚しくも期待して、心弱くも為した約束でしたのに、それを何か月もほったらかしになさっていたのですよ——これでは、共感して下さっているとは信じられませんわ。——昨日までは自分はキリスト教徒だと公に宣言しておられたのに、きっぱりお捨てになっていた神々の信仰を向こう十日で果敢にも復興なさろうなどと、今朝からは虚しい希望を抱かせようとなさる。それだけでは飽き足りなかったのですね——私抜きでそういう活動を計画しておきながら、私をその計画の対等な助言者だなんて——それがご自分で提案なさった条件ですのに。餌として、傀儡として、犠牲者として、神々の目にも人々の目にも適わない光景に身震いして赤面しながらあの劇場に座れと、そうお命じになるだけでは飽き足りなかったのですね。——ですがこうした全部のそのうえに、私の講義を鼻で笑い、私の学生たちを誘惑し、他ならぬ私の講義室で私に歯向かった女の祝賀行列の復元を手助けしなければならない——あの女は四年も、あのキュリロスすら凌ぐほどに、私が苦労して——虚しく苦労して——広めたあらゆる徳と真理を破壊してきたのですよ。おお、愛しい神々よ、責め苦はどこで終わるのでしょう。その責め苦によってあなたの殉教者は人種の堕落の目撃者となり、あなたのために証言することになるのです」

 そして自尊のすべてをもってしても、オレステスがいるにも拘わらず、彼女の目には熱い涙が溢れた。

 正当にして猛烈な彼女の憤りを前にしてオレステスは目を伏せた。だが彼女がもっと柔らかい悲しげな口調で最後の文句を付け加える前に、彼は、悔やみ嘆願するような目つきで再び目をあげた。彼の心がこう囁いたからだ——
『愚かな——狂信的だ。だが美しすぎる。この女をものにしなければ。ものにするんだ』
「ああ誰より愛しい気高いヒュパティア。何をしたんだ私は。私は考えの足り無い馬鹿者でした。ご面倒を避けようとして——私の計画が上首尾なのをお見せして、私の実際的な政治手腕は高雅なお智慧に連れ添う値打ち無しというわけでもないのだとお見せできたらと思って——哀れにも私は、お気に障ってしまったのです。それに私は、誓って申しますが、神々のためならあなたにすら劣らず我が身を犠牲にする覚悟でしたのに、その神々の復興を無にしたのです」

 最後の文句の効果は期待どおりだった。
「神々の復興を無にした?」と彼女はぎょっとした調子で尋ねた。
「お力になって下さらないのに無にならないと? お言葉から察しましたのはまさに——不幸な男だ私は——私と神々は見捨てられて、この先はお力添えもなく徒手空拳だということです」
「助けなど無くとも神々のお力は全能です」
「そうだとしましょう。ですが——ヒュパティアではなくキュリロスが今日のアレクサンドリア大衆の主人であるのは何故でしょう。まさに、キュリロスやその手の者が、彼らの神、彼らが全能だと信じる神のために戦い、苦しみ、そしてそのうちの何百人もが死にさえしたからではありませんか。いにしえの神々が忘れられているのは何故です——わが美しき論理学者よ——忘れられているせいではありませんか」

 ヒュパティアは頭から足までおののき、オレステスは常にもまして穏やかな調子で続けた。
「この質問の答えを求めはいたしません。ただお許しを乞うばかりです——何をしたのか分かりませんが、私が悪かったのですし、それだけで充分です。私が不躾すぎたり——性急すぎたとしても何だというのでしょう。私はあなたというご褒美欲しさに必死になっているのではありませんか。勝者の栄冠がこんなに素晴らしいのですから、そのためにいささか性急にあがいたって無理も無いではありませんか。ヒュパティアはご自分が何者なのか、神々によって何者とされたのかをお忘れなんだ——ご自分の鏡に相談さえなさらずに、御身を崇敬するおびただしい者どもの一人を出過ぎた振る舞いだと非難なさる、でもそれはむしろ彼に具わった徳のせいなのです」

 そしてヒュパティアが赤くなって顔を背けるのを、オレステスは崇敬の眼差しといった様子でおとなしやかに盗み見た……所詮は女だった……それに狂信的だったし……皇后となるべき身だった。……そしてオレステスの声は心地好く、振る舞いは優美で、いつでも女心を魅了した。
「ですがペラギアは?」と、彼女はやっと我をとりもどして言った。
「あんな女、見なくて済んだら良かったのにな。でもやはり、実際私は思ったのですよ。私がしたことをやれば、お喜びいただけるに違いないと」
「喜ぶ?」
「よく言うように復讐は甘いのだとしたら、これ以上に心くすぐる満足など滅多に無いでしょう——つまり貶めてやる相手が——」
「復讐だなどと、閣下。そのような悪しき情熱の余地が私にあるなどとお思いなのですか」
「私が? とんでもない」と、オレステスはまた道を間違えたことに気付いて言った。「ですが思い出して下さい、この見世物の上演を許せば永遠にご不快を——敵手だなんて言う気はありませんが——あのご不快を始末できるかも知れませんよ」
「どうしてです」
「舞台を軽蔑すると思いあがって公言したくせにまた舞台に立つとなれば、あの女は生まれ持った本来の身の程へと貶められたのだと、醜聞好きなこの小さな町の目に映ることになりませんか。そうなれば、神の血を引く半神のつれあいよとこれ見よがしに練り歩くだの、執政官令嬢みたいに招かれもせずにヒュパティアの御前にでしゃばるだの、なんて気は起こしますまい」
「でも、できません——あの女にであろうとそんなことはさせられませんわ。だってオレステス、あの人は女性なのですよ。それを私が、哲学者である私が、あの女が既にいる位置から一段低い程度にしろ、貶められまして?」

 ヒュパティアは「私だって女なのですよ」と言うところだった。だが新プラトン主義哲学は彼女にもっと善いことを教えたのだった。それで彼女は性急な主張を思いとどまり、こうも対極的な二者の間に、性として、あるいは人間として何か通ずるものがあるなどとは言わなかった。
「ああ」とオレステスは応じた。「貶めるというのはまずかったな。毎度のことながら、私は考え無しにも忘れておりましたよ。あの女は「親愛なるマケドニア人諸君」の喝采を活力にして何年も生きてたんだし、またそれを聞いたところで当人にしろ誰にしろ、尾羽根を見せびらかす孔雀ほどにも貶められた気はしないでしょうね。抑えがたい虚飾や自惚れというやつは、結局その犠牲者にとってそう不愉快な受難でもないんだな。やはりあれはそういう女なのですし、あれがあんななのは、あなたのせいではありません。そう、そうですとも」

 可哀相なヒュパティア。あまりにも精妙な囮、あまりにも老獪な誘惑者だった。それでも彼女は、己が心の諦念と慰藉とに一条の光を投じる哲学的ドグマを——即ち、より低劣なる自然本性を持つものらが「自然」の定める方向に自ら自由に発展するままにしても結局は無害であり、彼らは全宇宙の多様性におけるあるべき異種であって、彼らが自らの在り方の原則を満たし得るのはその方向でしかないのだと——そう彼女に思い至らせるドグマを口にするのを恥じた。それで彼女は面談を手短に切り上げた——
「それが必然なら、それなら……もう下がらせていただいて、賛歌を書きますわ。ですが、いかなるものであろうとお付き合いは一切お断わりです——あの女の名を思うだけでも恥ずかしい。閣下に賛歌をお送りしますから、あちらが踊りを極力賛歌に合わせるべきです。あれの趣味、というより妄想に私が従うものですか」
「では私は」とオレステスは、夥しい感謝をもって言った。「下がらせていただいて、“作戦計画”に手腕を酷使することにしましょう。来週のこの日には、我々は上演し——打ち勝つんだ! さようなら、知恵の女王様。自らそれ自体で美しいものを、相対的かつ実践的な意味で美しいものに従属させるとは、かくも賢明にして優美。これ以上にあなたの哲学を優位ならしめることはありません」

 彼は立ち去り、そしてヒュパティアは自ら考えることをいくらか恐れて、ただちに座って賛歌に取り組んだ。確かこれは崇高な主題だった。天上天下のあらゆる語源、宇宙生成論、寓意、神話、象徴性を、彼女は導入したことだろう——もし彼女が、そのすべてを舞うペラギアの姿を消すことができたのであれば。だがそれは消えるどころか、彼女の創意の背景に亡霊のように浮かび上がった。彼女はまずペラギアに、それからペラギアのことを考えてしまう弱い自分に、本当に怒りを覚えはじめた。かくも冒涜的なものの姿を追わせるとは、自らの心を明らかに冒涜することでないか。彼女は祈祷と瞑想によって己の思考を浄めようとした。だがよろずの神々のどなたに呼びかければいいのか。とりわけ愛敬するアテナ様に? あんな見世物に出席すると約束したこの自分が? おお、何と弱く産まれついたことか。だが彼女はその罠にはめられたのだ。罠にはめられた——それは間違いない——自ら誘導して己の大願に沿わせられると夢想していた、まさにあの男によってだ。あの男が彼女を誘導し、いまや彼女自身の自尊や、同情や、生来の正義感に反することに沿わせたのである。もはや彼女は彼の道具だった。確かにそれに甘んじたのは大願のためだ。だがこれからもまた——今後は常に甘んじなければならないのだとしたら? 彼が正しいと分かっていたからこそ、こうした考えはいっそう痛切だった。何をなすべきか、そして如何にしてなすべきかを彼は知っていた。彼の手際や、機敏さ、実践的洞察には感心せずにはいられなかったが、それでも彼女は彼を軽蔑し、信用せず、ほとんど憎んでいた。だが彼のものが、成功するよう運命づけられた特質なのだとしたら? 彼女のより純粋で高尚な意図が、即ち、最も深く神聖な指針にのっとり、最も神聖な手段によるのでなければ決して行うまいという彼女の決意が——ああ! いまや砕け——かくも惨めな策略や甘言と結託しないかぎり決して現実に力を発揮しない運命だとしたら? 哲学や宗教ではなく政略が、人類の指導者を決めるのだとしたら? 忌まわしい考えだ! だが——彼女は自分の人生すべてを創意ある自立したものにしようとし、敵対的な俗衆に真っ向から立ち向かって環境や因習を破壊しようとしてきたのだ。キリスト教や堕落した時代とまさに身一つで戦ってきた彼女が——重大で決定的な行動の最初の機会にあって、口もきけず、定見もなく、受け身で、果ては、撲滅すべきまさにその堕落の犠牲になるとは、これはどうしたことだろう。彼女は分かっていなかった。腐敗した時代を改めようにも、二度と帰らぬ死んだ過去に関する衒学的ドグマ以外に手立てを持たない人々は、実践に際しては不本意ながら、自分の蔑む当の新時代の武器を借りてそれを不器用に用いるしかなく、そして「古い衣裳に新しい布をつぎあてる」ことによって、借り物のはずが根っからのお家芸になるのがおちなのだ。だが同時にそうしたあるゆる瞑想が、アテナのことも賛歌のことも哲学のこともその日はすべて彼女の心から追い出し——蓮っ葉なペラギアのことだけになった。

 そうするうちにもアレクサンドリアの政情は、いつもどおり純然粛々と進行していた。公共建築にはヘラクリアヌスの勝利の知らせが掲示されたが、一群ののらくら者たちはまったく声高に、ローマだの——ビザンチンだのを誰が支配しようと毛頭意に介さないと言い放った。ヘラクリアヌスでもホノリウスでも皇帝にさせておけ、首都には餌をやらねばならん。アレクサンドリアの小麦貿易には害が無いというのに、誰が税を受け取ろうと何が問題だというのだ。確かにオレステスの友人の誰だかが手立てを見つけて思い至らせたように、見合う見返りも無いのに税をローマに送る代りに、それをエジプトの国庫に取っておいて、高くつく軍隊を駐留させておけるとしたら、それはエジプトにとって悪いことではなかろう。……アレクサンドリアはかつて独立した帝国の母都だった。……母都に返り咲いてみては。そこで莫大な穀類が下賜され、船主よりも大衆にとっては一層嬉しいことだが、エジプトの小麦は国外よりも国内で消費するほうが良いことを証明した。いいや、囚人全員に対する全面大赦の噂すらあった。そしてもちろん、悪事をなす者にはおしなべて、彼を虐待された殉教者だと考える友人がいるものだから、あらゆる徒党が、少なくとも自分の都合では、そうした動きに大いに満足したのである。

 そうしてオレステスの幻想は泡のごとく膨張増大して、日々新たな虹色の光に煌めいたのだが、他方ヒュパティアは心重く家に座って、天上のウェヌスへの賛歌を書き、オレステスの日参に甘んじていた。

 都督は政治屋には馴染みのただの応急処置によって、ひとりでにそんな色にはならない空を明るく糊塗して麗らかに見せていたのだが、実は、風雨をもたらす疾風を伴わなくもない一片の雲に損なわれていた。というのは、アンモニウスの処刑後一日二日して、都督の衛兵たちが知らせてきたのだが、磔刑にされた男の屍体がぶら下がっていた十字架ごと消えたというのである。歩哨たちのまさに目の前で、ニトリアの修道士たちが屍体を下ろして持ち去ったのだ。歩哨たちは賄賂を取って盗みを見過ごしたに違いないと、オレステスにはよく分かっていた。だが敢えてそう言いはしなかった。自分の命はこの男たちの気分次第なのだ。それで最大限の忍耐でこの侮辱を忍んで、キュリロスに対する復讐を改めて誓い、己が道を進んだ。だが見よ! ——盗まれてから二十四時間のうちに、アレクサンドリアの非道の一切に、信心の一切がつき従ったのだ——千を数えるニトリア出の修道士たちが——僧侶たちが、助祭たちが、助祭長たちが、そして司教祭服の飾りを余さずつけたキュリロス本人が、無くなった屍体を豪華な棺架にのせ、中空高く支えて行列祈祷したのである。釘を打ち込まれた手足は、哀れむ会衆によく見えるよう剥き出しだった。

 当分引っ込んでいたほうがいいとオレステスが思っていた、まさにその官邸の窓の下、埠頭に出て、カエサレウムの階段を上り、あの新たな凶兆が汚していた。もう半時間して、奴隷が息せき切って人民の牧者に知らせに来たのだが、彼の犠牲者は正式に列聖された殉教者として——もはやアンモニウスではなく今後はタウマシウス、死に至るほどのその英雄的な徳と英雄的な篤信において驚くべき者として身廊に安置され、早くもキュリロスは説教壇から評しては、キション河畔のシセラや、ニスロクの家の中のセナケリブ、その他空しく果てることになる現世の王子たちを仄めかすごとに、雷鳴のごとき喝采に取り巻かれていた。

 嵐だった。教会に入って屍体を持ち去れと歩兵隊に命じるのはまったく容易だったが、間違いなく死に直面するとあっては、それを実行させるのはそれほど簡単ではなかった。そのうえ、教会を冒涜することになる自暴自棄な動きをとるには、まだ時期尚早だった。……そこでオレステスは、いずれ払わせる気でいる大司教への貸しの長い一覧にこの新しい項目を付け加え、一時間半ばかり、キリスト教徒、異教徒を問わず、あらゆる神々や聖者たちや殉教者たちの名にかけて呪った。そして虐待と受難の痛ましい物語を、まさに彼が謀反を企てていた当のビザンチン宮廷に向けて書き捨てたのだが、あらゆる点でこれと矛盾対立する反対陳述を、キュリロスが同じ便で送ったものと快く確信していた。……大丈夫。……謀反に失敗しても、この書状は同様に、可能なかぎり近い日付に遡って彼の忠誠を証明してくれる。二つの陳述がいっそう完全に対立すればするほど、そこから真実をふるい分けるには長くかかるだろう。そうして時間を多く稼げばそれだけ、その間、政治屋のあのシビュラの託宣の新しい紙葉が——不時の章が——捲られる機会も多くなる。さしあたっては名士や穏健派一般に悲愴に訴えよう。アレクサンドリアには結構な関わりがあって、数十万の小商人や商店主が財産を失うことになるのだから。

 名士連はその訴えに即座に応じた。各方面から忠義な声明や代表者の遺憾の意があふれ出て、最近の市民秩序の動乱や法で定められた権威に対して示された遺憾極まる軽蔑に対して市民が抱く甚だしい悲しみを表明した。とはいえ、遠慮なくこう言いもした。一定の階級をさらに憤慨させれば財産が非常に危うくなるに違いなく、気持ちはそちらに傾きがちだが、積極的に沈静化に踏み出すのは障りがある。尊い大司教の敬神と知恵は周知のことで、大司教の目下の振る舞いについて何か意見を奏するのは憚られる。都督が大司教を慕い敬っておられるのはよく知られたことなのに、不幸にもそうした心情について大司教は偽りを吹き込まれていらっしゃるのだと、固い信念を申し上げるのがせいぜいだ。だから、思いきってささやかな希望を述べさせていただけば、お互いにいくらか歩み寄られて、お互いの不当介入の境界をお定めになれば、めでたく和解が成立して、法や財産やカトリックの信仰の安定性も保たれるだろうと。……すべてをオレステスは極めて穏やかな微笑でもって聞きはしたが、彼の心は呪咀で真っ黒だった。そしてキュリロスは、非常に暴力的だが非常に真実で実際的でもある大演説をして、聖句に基づいて答えたのだった。『富ある者の神の國に入るは如何に難いかな』と。

 そうして名士や穏健派は常ながらの不幸な運命に出会い、両方の党派にいい顔をしようという試みも虚しく両方から激しく呪われたのだが、賢明にも力のあらかたは我が事を処理するのに残し、そして来るべき祭のおかげで、その週はずっと商売はたいへん繁盛したのである。一人の不運な酒場の主人だけは、実際には自分の同業組合の代表者がじつに能弁に唱導した原則を実行しようとしただけだったのだが、朝にはニトリアの修道士たちにパンを、夕方には都督の衛兵たちに葡萄酒を配るに違いないと目されてしまい、彼が調停してきた両党派が共同で定めた平民制定法に基づいて、彼の居酒屋は掠奪され、彼の頭は叩き割られたのだった。それから少しは戦い合ったが、全般の平和にとっては好運なことに、その後は互いが互いから逃げ去ったのだった。

 いっぽうキュリロスは、やっていたのは愚行であるにしろ、それを充分賢明に行っていた。カエサレウムの壮大な列拱回廊を揺るがすあの夜の説教を、オレステスは呪い、名士連は非難したにしろ、しかし彼らはその説教に答えることはできなかった。キュリロスは正しかったし、また自分が正しいことを知っていた。オレステスは悪党であり、神にとっても神の敵にとっても有害だった。中層階級は無関心で貪欲で臆病だったし、行政機構全体が詐偽的で不正だった。人心はみな「主よかくて幾何時をへたまふや」の叫びに狂った。獰猛な司教は新約、旧約の聖書のあらゆる書からひたすら次々と聖句をとどろかせては、常識と良識だけでなく、大衆の狂暴性や頑迷も自分の味方にしようとした。

 善きアルセニウスはキュリロスに対して、彼の行った新たな列聖は醜聞であるばかりか罪深いことだと述べたが無駄だった。「私は焚き付けねばならんのです、我が善き師父よ」というのが彼の答えだった。「そうして熱狂の炎を燃やし続けなければ。ヘラクリアヌスの敗戦を伏せておくべきだというなら、他の刺激を与えなければなりません。あの敗戦を聞かせたときに、それについて事を行わせるのに適した気分にしておくような刺激を。オレステスが憎まれているのなら、憎まれるだけのことがありはしませんか。たとえオレステスが、目下のこの場合には、そう思われているほどには完全に間違ってはいないとしても、さらに憎まれるに足る罪悪が他に千もあるではないですか。いずれにしてもご自身で仰ったように、彼に帝権を宣言させないと、我々には対抗手段が無いでしょう。我々が真実に気付いていると知れば、彼はあえて帝権を宣言はしますまい。して、真実を伏せておくのなら、その一方で何であれその代りになるものが無ければなりません」

 そして哀れなアルセニウスは、キュリロスが善い結果になると思って魅惑的な悪事の道に新たな一歩を踏み出しているのを見て、ため息をついて譲歩したのだが、その道は後年、キュリロスを多くの恐ろしい罪へと導くこととなった。そして、彼の闘争を支えた獰猛な信仰も彼が対抗して戦った万魔殿も同程度にしか知らず、そのため自分よりも善くはないにしろ悪くもない男の一時の暴行や誤りを、理解することも許すこともない幾世代もの判ずるところでは、その名は不名誉なものとして、おそらくは永遠に残ることとなった。

最終更新日: 2008年4月14日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com