第21章 領主司教

 防壁を固めた家郷屋敷の上階の、粗末な調度の小部屋に、キュレネの司教シュネシオスは座っていた。

 卓上には、脇に葡萄酒の杯を置いていたが、口はつけていなかった。ゆっくりと悲しげに、灯火のわずかな光をたよりに一つ二つ詩を書き続けていたが、やがて両手で顔を覆うと、指の間から熱い涙を紙に滴らせた。そこに従僕が入ってきて、ラファエル・アベン・エズラの来訪を告げた。

 シュネシオスは驚いた様子で立ち上がり、急いで戸口に向かった。「いいや、こちらへ来るように頼んでくれ。こんながらんとした部屋を夜に通り抜けるなんぞ、俺には耐えられん」。そして彼は部屋の扉のところで客を待ち受け、そして客が入ってくると、彼の両手を手にとって話そうとした。だが声が詰まって出なかった。

「仰いますな」とラファエルは穏やかに言って、彼をもう一度椅子へと導いた。「すべて知っていますから」
「全部知っているのか。世間の他の者とは本当に違うな。君くらいだよ、不幸のうちに打ち捨てられた鰥夫を訊ねて来るとは」
「僕も世の余人と同様ですよ、結局は。だって、慰めていただこうなんて手前勝手な用向きでお訪ねしたんですから。代りに僕がお慰めできればな。でも下で従僕たちが全部話してくれましたから」
「それなのに初志貫徹して会いに来たのか。まるで俺が助けてやれるみたいに。ああ、今は誰の力にもなれんのだよ。このとおり、結局最後は俺一人で、何の助けもない。母の腹から出たからには、俺はまた還ってしかるべきだ。最後の子は——最後の一番いい子が——他の子に続いて逝ってしまった。——神よ感謝します、たった一日でも平和を得て、あの子を母や兄たちの傍らに埋葬してやれましたことを。故人の墓がいつまで盗掘されずに済むかは、神のみがご存知にしろ。まったく恥ずかしい。ここで一人塔に座ってスパルタ人の先祖たちの、ヘラクレスご自身の息子らの遺灰が、我が栄光、我が誇りが、蛮人に掠奪されて風に散るのを見るとはな。俺は愚かな罪人だ! いつ終わらせて下さるのでしょう、主よ、いつになったら死なせて下さるのですか」
「お気の毒な息子さんはどうして亡くなったのです」と、言葉という捌け口に悲しみを誘導することによって悲しみが安まればと望んで、ラファエルは訊ねた。
「疫病でな。——屍体に汚染された空気を吸いながら、屍肉を喰う鳥どもに暗む空の下に座す者に、他にどんな運命を期待できる。だがね、もし自分で働けたのなら、力になってやれたのなら、俺はそれにだって耐えられたんだ。それなのにここに座って、この呪われた塔の間にもう何ヵ月も閉じ込められている。燃える家屋敷に赤く染まった空を夜毎に眺め、殺され囚われる者らの悲鳴を日毎に耳に響かせて——何しろ奴らは、今では男はみんな、胸に抱かれている嬰児にいたるまで殺しはじめたからな——自分がまったく無力で縛られている気がするんだよ、腰を抜かした白痴よろしくここに座って、己が果てるのを待っているとは!——駆け出したい、剣を手にして戦いに跳び込みたくて堪らんよ。だが俺は彼らの最後の、唯一の希望なんだ。統治者たちは我等の嘆願など意にもかけん。不幸にあっても俺の中で麻痺はしなかったなけなしの雄弁でもって、ゲンナディウスインノケンティウスに嘆願書を出したが無駄だった。だがこの土地には決意も総意も残ってはおらんのだ。軍隊は小編成の守備隊にしてばら撒かれて、みんな指揮官の個人的財産を守るために雇われている。それを侵入したアウストリアニ族がだんだん敗って掠奪品で武装してな、じつは、防備を固めた町を包囲し始めているんだ。もう我々には何も残ってはおらん。ウリクセースのように、自分が貪り食われるのは最後でありますようにと祈るだけだ。何をやっているんだ、俺は。そちらのは聞かずに、身勝手にも己の悲しみを浴びせたりして」
「いいえ我が友よ、お国の悲しみを語っておられるのです、ご自身のではなくて。僕はといえば、悲しみは無いんですよ——絶望しているだけでね。これは不治の病で、よく待ってくれる。でもあなたは——ああ、あなたはここにいらしてはいけない。なんでアレクサンドリアにお逃げにならないんです」
「俺は自分の持ち場で死にたいんだ、そうして生きてきたように一族郎党の父としてな。破滅も極まってキュレネ自体が包囲されたら、今いる前哨地からそちらへ戻るから、征服者どもは司教館の祭壇の前で司教を見つけることになる。ここで何年も流血なき犠牲を神にお捧げしてきたが、神はたぶん、流血の犠牲をお求めなんだ。神の司祭の殺人に穢れた祭壇の有様が、五大都市の悲痛をすべて終わらせ、そうして殺された羊の復讐へと神を立ちあがらせるのだ。まあ、この話はもう止めにしよう。少なくとも、君を歓待する程度の力は残っておるよ。夕食の後で、何でここに来ることになったのか話してくれ」

 そして人の善い司教は従僕を呼ぶと、侵略者たちから残された精一杯の力で客をもてなすよう仕事をさせた。

 まったく取り乱してほとんど本能的にシュネシオスのもとに直行したときでも、ラファエルのいつもの洞察は彼を見捨てはしなかった。キュレネの司教は、彼が残した魅力的な私信から判断すると、多芸多才で熱中しがちなじっとして居られない質であり、深く永続はしないにしろ喜びや悲しみを、豊かに情熱的に味わう男の一人だった。彼はラファエルがオレステスに語ったとおり善行の竜巻のなかで生きており、ただそうすることが楽しくて骨を折り、世話を焼いていた。そして、後になるまで彼には滅多に起きないことだったが、することがなくなるや否や、過ぎ去った興奮のつけを払って憂鬱に囚われたのだった。大仰な美辞麗句の文体の人で、独り善がりのきらいが無いでもなかった。だが同様にまた思いやりや生き生きした諧謔、肉体的にも道徳的にも不屈の勇気に溢れていた。非常に明晰な実際的能力と、また非常に曖昧な思索的能力を持ち——尤も当然ながら、世間の余人と同様にことさら自分の最も弱い側面を誇って、哲学的思索に対するこの上無い情熱的な愛着を公言していた。他方、彼を誹謗する者たちのほうは、一片の根拠が無くもなかったのだが、彼は見えざる世界の神秘よりも、軍務や犬の訓練にはるかに熟達していると仄めかしていた。

 なぜ彼のところに来たのか、ラファエルはまるで分からなかった。哲学の慰めのためでないのは確かだった。もしかすると、ラファエルがよく言っていたように、健やかに笑うのを聞いたことがある唯一のキリスト教徒がシュネシオスだったからかも知れない。もしかすると、自身にすら告白しない理不尽な望み、即ち、そこから逃げて来たばかりの当の道連れに、シュネシオスの家で会えないかという望みを持っていたせいかも知れない。夕食後自ら城主に告白したとおり、彼は灯火をめぐる蛾のように、ウィクトーリアの真新しい不思議な煌めきに心震えていた。そして今、もう一度自分の羽を焼き焦がせないかと期待して、こちらへ来たのである。

 その告白は、善良な老人に向かって大して苦もなく絞り出されたわけではなかったが、彼はすぐさま、ラファエルが心に何か重りを抱えており、それを話したくて堪らないのに、猜疑心や自尊心がありすぎて話せずにいるのだと見て取り、自ら秘密を探り出しはじめた。そして善くしてやれそうな相手を見つけるや否や、一時、自分の悲しみをすっぱり忘れたのだった。だがラファエルは不思議なほど意固地で、彼らしくなかった。流暢で浅薄な軽口はおろか、明敏な諷刺的諧謔さえも消えていた。何か内なる熱によって渇いているようだった。落ち着きがなく、不機嫌でつっけんどんで、喧嘩腰ですらあった。そして、自らを患者としてまさに医師に診せて相談することをラファエルがかたくなに拒み続けるにつれて、期待が外れたせいでシュネシオスの好奇心は高まった。
「お話ししたところで、何をして下さるというのです」
「では愛しき友よ、これは訊かせてくれ。俺自身のために訪ねてくれたのではないと言うのなら、何のために俺のところに来たんだ」
「訊くまでもないでしょう。五大都市一の洗練された紳士との交友を楽しむためですよ」
「それは、たえず死の危険に晒されながら一週間も旅するに値するものだったのかね」
「死の危険については、命に無頓着な人間には大した重みは無いですね。一週間の旅程については、道中ある夜夢を見まして、そのせいで自問することになりました。僕のような哀れな人間、つまり娶ったり嫁いだりする者にしか関わりのないいくらかの思想や質問で、キリスト教の司祭を煩わせるなんて賢明だろうかと」
「忘れているな。話している相手は、娶り、愛し——そして失った者だぞ」
「忘れませんでしたよ。ですが、僕がどんな無作法者になったかは、ご覧のとおり。あなたとは、あるいは誰とも付き合うには相応しくない。終いには盗賊の親玉に転向して、アウストリアニ族の一党を率いるのがおちだと思っています」
「だが」と辛抱強いシュネシオスは言った。「自分の夢は、今までずっと忘れておったわけだ」
「忘れていました!——それをお話しするなんて約束しませんでしたよ——でしょう」
「ああ、しなかった。だが俺の度量に対する何がしかの非難が含まれとるようだしな、非難されている相手に何のことなのか言うのがまっとうだとは思わんか」

 ラファエルは微笑んだ。
「そうだな、じゃあ……。これは僕が夢で見たんだと思って下さい。とある哲学者で学究の徒、誰一人、何一つ信じていない者が、ベレニケでユダヤのとあるラビたちに会ったのです。そして彼らがソロモンのとある書——雅歌を——読んで解釈しているのを聞いたのですよ。学がおありですから、ラビたちがそこからどんな類のくだらない寓意を捻り出すかご存知ですね。やれ、水を湛えるヘシュボンの池のごとき花嫁の目とは、知恵を湛えた律法学者のことだ。椰子の木のように広がる彼女の立ち姿は、民を祝福する際に彼らの手を広げる僧侶たちの謂いだ。彼女の頭の下には左手があるはずで、それはあの手の老いた衒学者が左手首につけた聖句箱だ。彼女を抱いているはずの右手は、悪霊避けに戸口の右側に掛けてあるメーズーザーだとか、何とか」
「確かに聞いたことがあるな、そういう馬鹿げたカバラ主義」
「お聞きに? では続けますから思い浮かべてみて下さい。夢の中で、他ならぬこの学究の徒にして懐疑家が、どんなことをしたのかを。彼は自分自身もヘブライ人の中のヘブライ人であるものですから、ラビの手から巻き物をひったくりましてね、かの書が実際に意味するところを知りもしないうちから、ことによるとかの書が意味しているかも知れない程度のことを述べようとするなんて、阿呆の一団だなと言ったのですよ。あの飾らない言葉を真っ正直に見てこそ、ソロモンがその言葉で何を言っているのか分かるのだと。想像して下さい。まさにこのユダヤの背教者、サタンのシナゴーグの一員は、肉慾の無法な想像の中で悪魔の雄弁術で蝋のごとく雄弁を磨きあげ、そして彼らに述べたのです。見る目を持つ者にかの書が語るのは、六十人の妃と八十人の側室と数知れぬ乙女たちのいる後宮や贅沢を、たった一人の穢れなき者への純粋で高貴な愛のなかで偉大なるソロモン王がいかに忘れ果てたかだと。そして彼の目がいかに開かれ、エデンの園においてすらそうであったように、一人の男を一人の女のために、一人の女を一人の男のために、神がお作りになったことを見て取って、心と思考がいかにすっかり純粋に、穏やかに、簡素になったかだと。彼が自分の葡萄作りや奴隷たちと分かち合う鳥たちの歌や葡萄の香りや南風の匂い、レバノンの谷間の簡素な田舎の喜びのすべてが、彼の目には、自分の宮殿や作り物の華やかさの一切にまさって、いかにいっそう貴重になったかだと。そしてその男はこう感じているのだと。彼は生涯で初めて、神の宇宙や季節の神秘と調和しているのだと。彼の内でも外でも冬は過ぎ去り、雨は上がって過ぎたのだと。花々が地上に現われ、キジバトの声が田園に聞こえ……想像して下さい、僕が夢に見たラビたちの様を。こうした邪な言葉を聞いていっせいに耳を塞ぎ、肉慾じみた解釈によって聖書を冒涜したというので、あのベリアルの息子に出くわしたのだとして、彼を追い払ったのです。想像して下さい——想像してくれと言っているだけですよ——僕は夢に見たのですが、あの哀れな男は心中こう言ったのです。『キリスト教徒のところに行こう。彼らはこの同じ書の神聖さを知っているし、彼らが言うところでは、彼らの神は「はじめに神は人を、男と女を作った」と教えたという。この雅歌が、獣じみた多妻婚から、彼らがああも厳格に命じている一妻婚への道を示しているのかどうかを、彼らは語ってくれそうな気がする。そして、こういうことを説いているから雅歌は聖なる書の間に場を占める資格があるのだと同意してくれるのでは』と。キリスト教の司祭でいらっしゃるのですから、そういう男がどんな答えをもらったかお分かりでしょう。……黙っていらっしゃるんですね。では僕が、彼がどんな答えをもらったのを夢に見たか申しましょう。『おお、冒涜的な肉慾の男よ、あたかも聖書が人間の持つ官能への悪しき執着を語っているかのごとく、聖書を汝自身の放蕩へと歪める者よ、知れ。この書は魂とその創造者の婚姻として精神的に解釈されるべきであり、聖なる純潔と独身生活の栄光を支持する最強の議論を、まさにこの書からカトリック教会は引き出しているのだ』と」

 シュネシオスはまだ黙っていた。
「またどうお思いになるでしょうね、その男がしたことを。僕は夢で見たのですが、彼が命からがら逃げてきたまさにその新プラトン主義から根拠のない大げさな隠喩をキリスト教徒たちが借用して、信仰だけでなく実践にも不可欠な条項だとして押しつけているのに気付いたときのことです。彼は自分が産まれた日を、彼の父が『汝は男児を得た』と告げられた時刻を呪い、そしてこう言ったのですよ。『哲学者たちよ、ユダヤ教徒たちよ、キリスト教徒たちよ、永久にさらばだ。あなた方が夢想するとおりだというなら、あなた方の最も神聖な書の最も明瞭な言葉には何の意味もない。日の下には真理も道理もない。その民の例に従って、彼の前には父すらそうであったとおりに、自分の番には高利貸しや金稼ぎ、阿呆どもの幇間になるより良いことなんぞあるものか』と」

 シュネシオスはしばらく深く考えに沈んだままだったが、ついに——
「それなのに俺のところに来たのか」
「来たのです。だってあなたは愛し、娶った方ですから。現代のこの奇妙な狂気に雄々しく抵抗して、司祭にされたときにも、神の与えた妻を捨てることを拒んだ方ですから。僕のために謎を解ける人がいるとしたら、それはあなただろうと思ったのです」
「いや近頃では、謎を解く力を自分で疑い始めてな。そもそもなんで謎を解かねばならん。不思議に満ちた世界に、さらにもう一つの謎があるから何だというのだ。『たとひ妻を娶るとも罪を犯すにあらず』というのが聖パウロご自身の言葉だ。それで我々には充分だとしようじゃないか。対論しろとは言ってくれるな。むしろ、力になってくれと言って欲しい。深淵な問で悩ませて、私的判断に誘い込まんでくれ。教会の見解に反対する判断を、あまりにも頻繁にしてきたからな。それより自分のことを話してくれ。俺の知性より、共感を試して欲しいんだ。君を思い、君のために働くぞ、間違いない。なんでそうするのか説明はできないがね」
「では僕の謎は解けないんですか」
「手伝わせてくれ」とシュネシオスは優しく微笑んで言った。「自分で解決するのをな。俺を騙そうなんてしなくていい。かわいい人が、純潔な唯一の人がいるんだな。その子を得れば、自分の雅歌の解釈が正しいかどうか、いっそうよく分かるだろう。そのうえでなおもそう思うのなら、少なくともシュネシオスは反対して言い争いはせんよ。私的に哲学する権利を常に己に要求してきたんだ、大衆が許そうと許すまいと、同じ自由を君に許そうさ」
「では同意して下さいますね。もちろんそのはずだ」
「それが公正なことか。つい五分前に聞いたばかりの、何やら修辞的で短兵急に開陳された新解釈を受け入れるかどうか迫るなんて」
「質問をはぐらかしていらっしゃる」とラファエルは喧嘩腰に言った。
「だったらどうだというんだ。単刀直入に言ってくれ、俺は我が身を苛んででも、誰よりも実際に力になれる。君を一人思索に沈ませておくことにしたとしてもだ」
「うーん、ではお聞き下さいな。僕のことをお話ししたら、ご自身でキリスト教徒の良識を判断して下さいよ」

 そして、まるで自分の告白を恥じているかのように慌ただしく、だが我知らず胸の内を打ち明けずにはいられないかのように、ウィクトーリアに初めて会ったときのことから、ベレニケで彼女から逃げたことまで、洗いざらいシュネシオスに語ったのだった。

 アベン・エズラが驚いたことに、人の好い司教は一切を非常に愉快なことだと思っているらしかった。くすくす笑って膝を打ち、一息つくごとに頷いて賛同した。それは——たぶん話し手に勇気を与えるためだが——もしかすると本当に、ラファエルの展望は思ったほどにはひどく絶望的ではないと考えたからかも知れなかった……。
「笑うんなら話しませんよ、シュネシオス。いいですよもう。僕を——不当にも——十六歳の小僧か何か扱いする相手に話すなんて屈辱を忍ぶとは」
「笑うって——それは共に笑うってことかね。尼僧院? 匂うな。老長官は我が子の良縁を拒絶しないだけの分別はある。俺が保証しよう」
「お忘れですが、僕はキリスト教徒たる名誉を持っていないんです」
「だったら我々がキリスト教徒にしてやろう。俺の手では改宗させてくれんだろうな、分かっているぞ。いつでも俺の哲学を馬鹿にしてからかっておったからな。だが明日、アウグスティヌスがみえるんだよ」
「アウグスティヌスが?」
「そうだとも。それで、召集できるかぎりの男たちに武装させて、みんな引き連れて夜明けに発たたなければならないんだ。アウグスティヌスをお迎えして護衛するためと、それからもちろん行き帰りに狩りをするためだ。何しろこの半月、犬と弓で調達するもののほかには、食糧が無くなってしまったからな。彼の手で、君のユダヤ教を一週間で完全に治してくれるさ。そこで残りは俺の仕事だ。何としてでも案配する。きっとうまくいく。いや、恥ずかしがることはない。何もやることが見つからない哀れな生ける屍にとっては、本当に楽しいことなんだ——ああ、やれやれ。俺に借りを作るというなら、ほら、三、四千も金貨を貸してくれたんだから——あれは本当に入り用なんだ!——それで相殺できるじゃないか。あの金に再会することがないのは確実だからな」

 ラファエルは、今度は彼のほうが笑わずにいられなかった。
「やはりシュネシオスだなあ。ご先祖様がヘラクレスというだけのことはあると思いますよ。アウゲイアスの牛小屋のごとき僕の魂を浄めるのは尻込みなさるにしろ、それよりましな労苦は僕のために引き受けてやろうとお望みになって、谷間の軍馬のようにひづめをかいていらっしゃる。ですが、僕の豪気な司教様、この件はもっと厳粛ですし、その主人公たる僕もまた、想像しておられる以上に厳粛になってしまったのですよ。よく考えて下さい。スパルタ人のご祖先様方、アギスブラシダスやその他の人々の穢れない名誉にかけて、早まったご親切で、何かいわゆる悪党じみた振る舞いに僕を誘おうなんてお考えではないでしょうね」
「いったいなんでだ、愛しい君。君が抱いているのは、誉れ高い賞讃に値する願望だぞ。俺は喜んでその成就に力を貸すよ」
「これまでに自分で成就する手立てを一つならず画策しなかったとお思いですか。善き方よ、もう十二回も、キリスト教に改宗しようかという気になりました。でも、良心と名誉に関する奇妙な幻想が沸き上がったのです……確かに以前は節操無しでしたし——今も節操が固すぎるわけではありませんが——この件は別です。あの子には本心を隠せません。右手に嘘を持ちながらあの顔を見る勇気はない。……彼女は見通し——畏るべき炯眼の女神のように——見入るのです。……あの子と目を合わせるまでは、自分の人生を恥じたことなど無かった」
「だが本当にキリスト教徒になるのだったら?」
「できません。僕は自分の動機を疑うに違いない。魂を検分するこういう馬鹿げた良心の咎めがまた別に生じているんです。自分が変えたいと思って宗旨変えしたんだと僕は考えるでしょう——まるで、自分を騙しながら彼女を騙してはいないみたいに。惚れていなければ話は別だったでしょうけれど、ですが今は——愛しているからこそ、アウグスティヌスの議論にしろその件に関する自分の考えにしろ、聞き従いはしませんよ。そんな気にはなれません」
「本当に意固地だな」と、シュネシオスはいくらか喧嘩腰に大声をあげた。「逃げ場の岩に登ったとたんにまた波間に飛び込むなんて真似に、何やらひねくれた喜びでもあるみたいじゃないか」
「喜び? 悪魔に掴まれて死ぬ思いなのに、何の喜びがあるんです。悪魔の存在なんて何年も信じるのを止めていました。……ですが、いいですか、何か気高く正しいものに気付いた瞬間に、自分の喉元に昔ながらの蛇がしっかり生きていているのが分かったのです。彼を、あなたを、自分を僕が疑うのは不思議ではありません——先週は一時間ごとに、悪魔になろうという誘惑にかられたこの僕が。ああ」と声を高めて話し続けるにつれて、東洋人の火のように激しい気性が彼の黒い目に閃いた。「悪魔であろうとしたんだ! 子供のときから今までずっと分からずにいたのですよ、所有することではなく、欲することが悪魔なのだと。葡萄園欲しさに誰だか哀れなナボテを始終苦しめてきたわけではありませんけれど、僕がその気になったときにはいつでも、葡萄園を明け渡したほうが賢明だとナボテは気付いたものです。そして今も……身のうちに閃く地獄のような十二の計略を、先週抱かなかったなんてお思いなのですか。これを見て下さい。彼女の父親の地所一切の抵当証書です。買ったんですよ——唆したのが悪魔であれ神であれ——ベレニケの銀行家であれ、あの人たちから別れたその日にね。今やあの一家も、一家が所有する藁屑もみんな意のままだ。破産させて——奴隷として売ることも——密告して謀反人として死なせることもできるし——果ては何より、それなりの人士を十二人も雇ってあの子を連れ去れば、ゴルディアスの結び目をいともあっさり断ち切ることができるではありませんか。でもとてもそんな気になれません。純粋なものに近づくためには純粋であるべきですし、高潔の踵に口付けするためには高潔であるべきだ。この新しい良心がどこから来たのか分かりませんが、来てしまったんです。神がいるなら神に対してやってのけることでも、彼女に卑劣なまねをしようなんて気には、なおさらなれません。この抵当証書はまさに——こんなものを持っていることを今は憎み、呪っていますけど——悪魔の誘惑です」
「燃やせ」と、シュネシオスは静かに言った。
「たぶんね。少なくとも、使うことは決してありません。無理強いする? 高慢すぎるのか高潔すぎるのか、何やかやで乞い願うことさえできないのに。僕のものにならなくては。自分の口から言ってくれなくては、僕を愛している、僕を選んで彼女に相応しい男にしてやると。自由意志で情けをかけてくれなければ——さもなければあの子はあの忌まわしい牢獄でやつれて死ぬことになる。そのときには馴染みの頼もしい短剣のひと振りで、彼女の父親はさらなる邪教から、僕自身はさらなる哲学的懐疑から救われることになりますね。僕らが——思うに彼は雄ロバとして、僕はヒヒとして——再び新しい生を始めるまでの、何世代もののちょっとした永劫の間はね。何か問題でも? 正々堂々と彼女をものにしないなら、神が僕にそうさせるんです。卑劣な手を使うのなら、それ以上のことも」
「気高い闘いにあって神がともに居ますよう、我が息子よ」と、シュネシオスは優しい涙を目に浮かべて言った。
「気高い闘いなどではありませんよ全然。意気地なしの卑しい恐れです。それが、これまで人も悪魔も恐れたことのない男の中にあるとはね。今は寄る辺ない小娘を恐れるまでに落ちぶれましたけど」
「そうじゃない」と今度はシュネシオスが声を上げた。「気高い神聖な畏れだよ。その子の善性を畏れているんだ。善性とは何か、善性とはいかに畏怖すべきものかを知らせる神の光が内在しないとしたら、彼女の善性を見ることが、まして畏れることができるか。もう言うな、ラファエル・アベン・エズラ、神を畏れていないなどと。徳は神の似姿であり、徳を畏れる者は神を畏れるのだから。進め——進むんだ……勇気を持て。そうすれば己の弱さのなかに神の力が現われる」

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

 夜も更けてシュネシオスは強いて客を休ませたのだが、その前に、家は厳重に守られているから警鐘が鳴るのを聞いても気にするなと注意し、水時計を整えた。その時計で自分や従僕たちの警備時間をそれぞれ計るのだ。それから人の好い司教は歩哨たちを配備し、塔の頂上で警鐘の傍の自分の持ち場についた。先祖伝来の広大な土地を見渡しては、この荒廃がついには終わるようにと祈り、また、下で眠っている客の荒んだ心のために、自分がここ何週間も味わったものよりも健やかで幸福なまどろみをと祈ることも忘れなかった。ラファエルはというと、その夜床に着く前にマヨリクスの抵当証書をずたずたに裂き、狡猾な誘惑が一片また一片と灯火の炎に焼き尽されるのを見るにつれて、自分がいっそう身軽に、善良な男になったように感じたのだった。そうして心身ともに疲れきってシュネシオスもウィクトーリアもその他の者も忘れ、蔓に覆われたレバノンの谷から谷へ、百合の園や芳しい花壇のただなかを一晩中彷徨ったようだった。羊飼いの音楽が延々と彼を魅惑し、彼の偉大な祖先の神秘的な牧歌を詠唱する少女らしい声が、疲れた頭の中で切れ切れに柔らかく響いていた。

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

 翌朝、日の出の前にラファエルは完全武装で馬に乗り、シュネシオスと並んで勇壮に出発した。後にはふさふさした尾の大型猟犬四、五つがいと、忠実なるブランを連れていたが、立ち耳で尖り鼻のこの地方では、ブランのような垂れ耳やがっしりした顎は珍しく、司教に続く二十人ほどの機敏な従者たちの間で興味深い話題になっていた。彼らは武装して半ば餓死しかけた痩せ馬に乗っていたが、狩猟や戦闘が好きで、最小の食糧で最大の成果を上げるべく荒れ地や悪条件で訓練を積んでいた。

 最初の十里ほどは黙々と騎行して、荒廃した村や荒れ果てた農園を通り抜けた。そこではそこかしこで住人が一人びくびくと覗き見し、自分の苦難の物語を不幸な司教の耳に注ぎ込もうとしていた。それから施しを求めるどころか、掠奪者の手から逃れた穀物や家禽のわすがな残りを、いくらかでも受け取ってくれと司教に懇願したのだった。司教の手を握りしめて、自分たちの唯一の希望であり支えだと彼らが讃えると、哀れなシュネシオスは何度も何度も同じ詮ない苦難の物語を辛抱強く聞いては彼らと共に涙し、それから、自分にはどうすることもできない悲惨な光景から逃げようとするかのように、いらいらと馬に拍車をかけた。そのうちにラファエルは、心の中で一つの声に問われた気がした——「富が汝に与えられしは、ただ一日なれども、かくのごとき涙を渇かさんがためにあらずや」と。

 そして彼は、時期に適えば実りが無くもない瞑想に沈んだまま、やがて囲われた土地を離れ、なだらかな低い丘陵の坂道を登っていた。道はそこを越えてはるばると海まで続いていた。だが戦闘の形跡を後にして遠ざかるにつれて、人の好い司教は快活な気分になっていった。自分の猟犬を撫で、従者たちと喋り、最も獲物を発見できそうな方向を論じ、夜に何か食べ物があるかどうかはまったく昼の力量次第だとして、男らしく振る舞うようにと至って陽気に勧告した。

「ああ」とついにラファエルは、痛ましい思考の連鎖を断ち切る口実を得て、喜んで言った。「丘の塩の一脈がおありですね。みんな昔は海底にいらしたんじゃないかと思いますよ。それで大地を揺るがす老ネプトゥヌスがひどい振る舞いにうんざりして、ある朝あなた方を陸地に置いて厄介払いしたんだな」
「実際そうかもしれん。アルゴ船の乗組員は南の海から戻るときにこの地方を通ったというから、南の海は今よりずっと近かったはずだ。彼らはあの神秘の船をまさにこの丘を超えてシュルティスから運んだという話だぞ。だがその時以来我々は、海のことは何もかも忘れてしまったんだな。よく覚えているが、アレクサンドリアのガレー船を初めて見たときは驚いたよ。ムカデそっくりだと、当たっていなくもない寸評を述べて、御挨拶にも学生仲間に大笑いされたものさ」
「じゃあ僕が前にお宅の家令と言い争いをしたのも覚えていらっしゃるかな。エジプトからお持ちした魚の酢漬けの件ですけど。壷を開けるや、従僕たちが悲鳴を上げて右往左往。魚の骨を毒蛇の背骨だと言いきったあの様」
「まったく、海水に対する不信にかけては、あの爺さんはあいかわらず頑固だぞ。俺が難破した話を聞かせろと言ってずっと俺を悩ませているんだ。十二回も聞いているのに、ぜんぜん信用せんのだよ。君が帰ったあとで、彼は重々しく言ったものさ。『だんなさま。あの風変わりな紳士は、私を説得なさろうなんておつもりなのでしょうか。あちら様のアレクサンドリアの大きな池から、何か食べられるものがとれるなどと。あの地方では一番いい水場にも蛙と蛭以外何も育ったためしが無いのは、誰でも分かりますのに』とね」

 そう話すうちに最後の野原を離れ、潅木や藪が斑に生えた、一面に広がる風通しのよい広々とした丘へと入って行った。あちこちで岩がちな谷に分断されていたが、かつては農園や家屋敷が密集していた肥沃な谷地で終わっていた。

「ここが」とシュネシオスは声を上げた。「我々の狩場だ。さあ、一時ほかのことは忘れて高貴な技を楽しめ! これを半神たちの栄誉の営み、人を輝かしめる営みに数え入れるのを忘れておいて、何を老ホメロスは考えられものか。そのくせまさにあの言葉でフォルムを賞讃できたとは」
「フォルム?」とラファエルは言った。「あそこで悪党以外のものになった人など見たことが無いですね」
「鉄面皮の悪党どもだ。代言人なんて手合いはみんな大嫌いだ。会えば必ず笑い者にしてやる。女々しい揚げ足とり屋は、鹿の焼き肉を見ては、それを手に入れる際の危険を思って身震いするんだ。しかし惰弱な時代だよ、君——惰弱な時代。そのことは忘れて、我も忘れよう」
「哲学やヒュパティアのことさえ?」とラファエルはいたずらっぽく言った。
「哲学はやった。あとは、ヘラクレスの後裔らしく戦い、司教らしく死ぬだけだが——ヒュパティアは、あの完全なる賢者はべつだ。言わせてもらうが、悲惨のどん底でも慰められるんだよ、この腐敗した世界にでもまだあんな神々しい人がいるかと思うと——」

 そして自分の偶像に対する大げさな讃美をひとくさり続けているのを、ラファエルが遮った。
「その件では、我々共通の共感がいささか弱まっていないか心配なんです。ここのところ僕は、あの人を疑いだしたんですよ。哲学を疑うにつれて」
「あの人の美徳は疑うまい?」
「ええ。あの人の美しさでも知恵でもなくてただ、より善い人間にしてくれる力をね。手前勝手な基準だと仰るでしょう。それはそうだ。……何とも立派な馬ですね、お宅のは!」
「以前はな——以前は。だが今はよれよれ、主人やその繁栄と同じだ」
「そんなことはありませんよ本当に。かたじけなくも乗らせて下さったこの雄の若駒」
「ああ、せがれが可愛がっていてな、かわいそうに……跨がったのは君が初めてだ、あれ以来——」
「お宅で繁殖されたのですか」と、話を変えようとしてラファエルは尋ねた。
「君が送ってくれたニサイアの白馬と、うちの雌馬をかけあわせたんだ」
「悪くない交配ですね。お宅のアフリカ馬の、牡牛みたいな頭や猟犬みたいなわき腹を継いではいますが」
「そのほうがいい。骨格が欲しいんだ——この荒れた丘陵地向きの骨格と耐久力がな。君の華奢なニサイア馬は、エジプトのあの平坦な砂地を数分行くには申し分ない。だがここでは、でこぼこだろうが平らだろうが昼は二十里を行き、夜にはあざみを有り難く正餐とする馬が要るんだ。ああ、哀れなちび助!」——トビネズミが一匹、彼の足元の潅木の茂みから跳び出した——「恐ろしいことに、お前さんを汁鍋の足しにせねばならんのだよ、こういう厳しい時勢では」

 そして立派な司教は長い鞭を巧みにひと振りすると、トビネズミの長い脚に絡めてさっと鞍頭に持ち上げ、馬丁に渡して獲物袋に入れさせた。
「さっさと殺れよ。キーキー鳴かさんでくれ、お前——子供の泣き声に似すぎだ」…… 「可哀想なおちびさん!」とラファエルは言った。「さて、どんな権利があるものやら。そのちびさんが我々を喰うのより、我々がちびさんを喰うほうに」
「ああ? 我々を喰えるというなら、やってみればいいさ。マニ教徒とはどれくらい一緒にいたんだ」
「その件についてはご心配なく。ですがお話ししたように、犬のブランのおかげで素晴らしい改宗をしてからというもの、物言わぬ動物に敬意を抱くようになりましてね。まったくたぶん自分と同じくらいに良いものだと」
「なら更なる改宗が必要だな、我が友ラファエル。そして人間の尊厳とは何かを学ぶのだ。そうなれば、俺と同じく信じるようになるだろう。地表にいるどんな獣の命も、最低の者であろうと人間の命と引き換えれば安いものだと」
「そう、食糧として求めるのなら。でも実際には、楽しみで殺しています」
「なあ君、まだ異教徒だったころ、無花果の木の呪いの話について自分がどう論じたてていたかよく覚えているよ。だが人間とは何かを知って、人類の本性の一部について生涯ずっと間違えていたことが分かったんだ。人間はもとは神の似姿として作られたし、また再び似姿であり得るのにな。そうして分かってきたんだよ。この世の無花果の木が一本残らず呪われようと、それによって一人の男の魂が一つの教えを学べたならそれでいいのさ。そこでこのお気に入りの野外競技について本を書いたわけだが、知ってのとおりそれを恥じたことはないぞ」
「本当にすてきな本です。でも思い出して下さい、あの本を書いたときにはまだ異教徒でいらしたのですよ」
「異教徒だった。だからあの頃は、単なる本性と好みで狩りをしていたんだ。だが今は、狩りをする権利があるのを知っている。なにしろ狩りは、健康や快活さばかりか、忍耐力や、敏捷さ、勇気、自制も与えてくれるからな。従って——ああ! 駝鳥の真新しい足跡だ」

 急停止して、シュネシオスは丘の斜面にゆっくりと耳を澄ませた。
「下がれ」と、彼はついに囁いた。「静かに、音を立てるな。俺みたいに馬の首に伏せろ。さもないと首の長い悪たれどもに見つかる。連中はきっと崖の向うのすぐ近くにいる。お気に入りの草深い古い斜面を俺は知っているんだ。あそこの丘のふもとを回れ。そうしないと匂いを嗅ぎつけられる。そうなればあいつらとはおさらばだ」

 そしてシュネシオスと馬丁は、腕と脚で馬の首にしがみついて駆足で走らせた。そのやり方をラファエルは真似ようとしたが無駄だった。

 二、三分かそこら息を殺すうちに丘の端に来た。シュネシオスはそこで止まると、しばらくじっと見下ろした。それからラファエルに顔を向け、喜びに震える腕を差し延ばして指を二本立てた。鳥の数のことだ。
「弓は届かん! 犬たちを放せ、シュファクス!」
 次の瞬間、気付くとラファエルは真っ逆様に全速力で丘を駆け下っていた。片や二羽の見事な駝鳥は、大羽を広げて眩しい微風に揺らし、首を地面ぎりぎりに曲げて長い足をひらりと後に見せると、猟犬が来る前におよそ馬なら十分も保たない速度でさっと走り去った。
「俺はまだひよっこだ」とシュネシオスは叫び、興奮の涙を目に光らせた。……ラファエルのほうは、息もつかずに岩や潅木、砂丘や水流を駆け越えるうちに、喜びに没入してウィクトーリアのことすら忘れた。
「涸れた川床に気をつけろ。止まれ、老馬よ。二分やそこらしか続かんだろう。この風に逆らってあの速度は保たん。……よくやった、お前はいい犬だ、あいつをし損じたとしてもな。ああ、俺の坊やがここにいたらな。おい——戻ってくるぞ。左右に散れ、ものども。すれ違いざまに駆け寄るんだ!」

 シュネシオスの言ったとおり、駝鳥たちは風に逆らって速度を保つことはできず、追跡者たちに向かって急転回すると翼を広げて空を打ち、前にも増す勢いで風に乗って迫って来た。
「そっちに馬をとばせラファエル——そいつに駆け寄ってあの茂みに向かわせろ!」とシュネシオスは叫んで、矢を弓につがえた。

 ラファエルが駆け寄ると、鳥は急に向きを変えて低い潅木に向かった。よく訓練された馬が猫のように駝鳥に跳び掛った。ラファエルは自分の弓の腕をあてにする気になれず、駝鳥が死に物狂いですり抜けるところを、長い首を鞭で打ち、立派な獲物を地面に倒した。獲物を逃すまいと飛び降りようとしたまさにそのとき、シュネシオスが大声を上げて彼を止めた。
「気が触れたのか。心臓を蹴り潰されるぞ。犬に取り押さえさせろ」
「もう一羽はどこです」とラファエルはあえぎながら言った。
「しかるべきところにな。俺はここ数か月、馬上弓をし損じたことはない」
「まったくコンモドゥス帝その人の好敵手でいらっしゃる」
「ああ、帝の好んだ三日月矢を一度試して、何とかまあ一、二羽は駝鳥の首を刎ねたがね。だがあれは円形闘技場にしか合わんな。馬上のえびらに無事に収まっていそうにないのが分かった。しかしあれは何だ」。そして彼は、半里ばかり谷を下ったあたりの、白い塵の雲を指した。「羚羊の群れか。だとしたら、神は本当に我々に慈悲深いぞ。下れ——あれが何であるにしろ無駄にする時間は無い」

 シュネシオスはちりぢりになった部隊をかき集め、注意を引いた対象に急いで向かわせた。
「羚羊だ」とある者が叫んだ。
「野馬だぞ」と別の者が叫んだ。
「いや飼馬だな」とシュネシオスは怒った仕種で叫んだ。「武具のきらめきが見える」
「アウストリアニ族だ!」と一隊全体から怒号が響いた。
「着いて来るか、ものども」
「死ぬまで!」と彼らは叫んだ。
「分かっている。ああアブラハムのように、俺にもお前たちが七百人いたら。あの悪党どもが一週間でケダラオメルと運命を共にせんものか、見てやるものを」
「幸せなかただ、ご自分の奴隷を本当に信頼できるとは」とラファエルが言ったときには、一党はすでに紐を締めて武器を取り、全速力で馬を走らせていた。
「奴隷? 手前の面倒を見るだけの知恵があるとは思えん者を一人二人を売る権利が、法律上は俺にあるにしろ、そんな事は俺も連中もとうに忘れている。彼らの父親は俺の父の食卓で白髪になったし、彼らが俺の食卓で白髪になることを、神よお認めて下さい。我々はとも食い、働き、狩り、戦い、笑い、泣く。神よ我々みんなをお助け下さい。我々は一蓮托生だからな。さて——敵を見分けられるか、ひよっこども」
「アウストリアニ族です、尊師。先週ミュルシニティスを襲ったのと同じ一党ですね。マルコマンニ族から奪った兜から察するに」
「で、相手は何者だ」

 誰にも見えなかった。交戦しているのは確かだが、犠牲者たちはアウストリアニ族の向こう側にいたのである。一党は襲歩で駆けた。

「ミュルシニティスのは利口なやり口だった。アウストリアニ族は、朝の祈祷の最中に現れたんだ。兵隊どもはもちろん、命が大事と逃げ出して洞穴に隠れたさ。あとの始末は僧侶に置き去り」
「あなたの司祭館にいるお坊さん方ならきっと、自分の教区に相応しい身だと示してみせたでしょう」
「ああ、俺の僧侶がみんなああならな、いや我が民が!」とシュネシオスは、全速力で襲歩しながらも真の鞍の子らしく平静に話をした。「僧侶たちは勝利を祈ると百姓の先頭に立って反撃したんだが、狭い小道でムーア人どもに出くわしたんだ。ここで心が少しくじけた。助祭のファウストゥスはみなに語って、盗賊の親玉に跳びかかった。若きダビデのごとく石で脳天を叩きのめすと、まったくホメロスさながらに剣を奪い取り、親玉の剣でアウストリアニ族を総崩れにしてやった。戦利品を正式な古典的方法で掲げて戻って来て、そうして谷全体を守ったのさ」
「彼を助祭長になさるべきだな」
「できることなら彼とその町民に月桂冠を戴かせて、属州中に送って市場ごとに顕彰してやりたいよ、『これが神の僕だ』とな。アウストリアニ族と渡り合えているとは、あれは何者だろうな。百姓ならとうの昔に皆殺しだし、兵士ならとうの昔に逃げただろうし。この地方では、十分も戦闘を見るなんてまったく驚くべきことなんだよ。いったい誰だろう。見えてきたぞ、雄々しく薙ぎ倒しているのも。二人を除いてみんな徒歩だな。この界隈には、歩兵隊は一隊も配備しておらんのだが」
「分かった、誰なのか」とラファエルは大声を上げると、突如として馬に拍車を入れた。「千人いても誓ってあの鎧だ。まんなかに輿がある。行け、戦うんだ、みんな。生まれてこのかた戦ったことがあるならな」
「そっと行け」とシュネシオスは叫んだ。「老兵を信じろ、ことによると——ああ、こう言えば良かったか——こんな惨めな地方に残った一の者をな。窪地を回って、いきなり蛮族どもの脇を取ってやれ。あと二十歩に近づくまで見つかるまい。ああ、まだ一つ二つは学ぶべきことがあるぞ、アベン・エズラ」

 戦闘を見通して忍び笑いをし、豪気な司教は小隊をまわした。五分かそこらで木立から駆け出すや、叫びを上げて矢を射かけながら、乱戦の一番混んだところを急襲した。

 騎兵隊の小競り合いはどれも似たに寄ったりになるものだ。馬は倒れ、剣の刃が煌めき、見分けもつかない乱戦が五分も続くと、隣の者の膝蹴りを食らって鞍から落とされたり、敵の首のつもりで自分の馬の首を刎ねたりしなかった者たちは、気づくとどうやったのかも分からないまま逃げているか、逃げられたかで——どちらの側も十回攻撃しても一度も効きはしない。それでもラファエルは何人かムーア人を斬り伏せようとしたものの、無駄だった。そして気づくと、これ以上はあり得ないほど半狂乱に動きまわる無数の馬の脚の間で、無様に逆さまになっていた。一脚避けても、別の一脚の適地になるばかり。そこで彼は哲学者然と座ったまま、自分の脳味噌が蹴り潰される感覚について思索していたが、やがて馬脚の雲が消え去って、気づくと一頭の騾馬の鼻面に向かって、奴隷のように卑屈に跪いていたのだった。その騾馬の背に微動だにせず乗っていたのは背の高い聖職者で、司教の身なりをしていた。ラファエルは声をあげて笑いだしたが、見知らぬその人は、代わりに重々しく手をかざしてラファエルを祝福した。そんな礼儀は一顧だにせず、このユダヤ人が跳ねるように立ち上がってあたりを見回すと、アウストリアニ族たちが散り散りの群れになって、丘を襲歩で駆け上がって行くのが見えた。シュネシオスが自分のすぐ側に立って、血塗れの剣を拭っているのを見た。

「輿は無事ですか」と彼はまず言った。
「大丈夫、全員無事だ。あの鎗で突かれたのを見たときには、君は殺されたものと諦めたがね」
「突かれた? 革のおかげで鰐みたいにまともですよ」と言ってラファエルは笑った。
「たぶんやつは慌てて、穂先ではなく石突を使ったんだな。騎兵の争いはそういうもんだ。君が剣の平で、走りざまに連中を三、四人打つのを見たよ」
「ああ、それは説明になるでしょう」とラファエルは言った。「どうして僕が、自分はアルメニアの辺境では一番の剣士だと思っていたのか」……
「ムーア人以外の誰かのことを考えていたのかと思うが」とシュネシオスはいたずらっぽく言って、輿を指した。そしてラファエルは、長年の間ではじめて十五歳の少年のように赤くなり、それから横柄にそっぽを向くと、自分の馬に跨がりなおしながら言った。「無様な阿呆だったな僕は」
「むしろ血を流さずに済んだことを神に感謝なされよ」と見知らぬ司教は言ったが、その声は柔らで思慮深く、発音はことに明瞭で細やかだった。「この勝利を神がお与え下さったのなら、我々の他にも、ご自身のいかなる被造物にも情をお示しくださるのを何故に惜しまれよう」
「なるほど被造物の大方は残されておりますな、拉致し、焼き払い、殺害するために」とシュネシオスは答えた。「とはいえアウグスティヌスと論争しようなどという気はございませんが」

 アウグスティヌスだって! ラファエルはその男をまじまじと見た。背の高い、品の良い顔立ちの人物で、幅の狭い高雅な額には頬と同様に、多くの懐疑と苦悩のせいで深い皺が刻まれていた。きつく結ばれた薄い唇や静かに澄んだ目には、穏やかだが不屈の決意が表れている。しかしこの力強い落ち着いた静穏は、休火山の静穏だ。地震の地割れを優しい土が満たして、火山灰の斜面に鮮やかな草花が育つまでには、何世紀もの時が過ぎたに違いなかった。他方ユダヤ人の思考は、マヨリクスとその息子の心のこもった抱擁によって、すぐに別の方向に向きを転じた。

「また捕まえましたよ、ふらふらさん」と若い指令官は言った。「やはり我々から逃げられませんでしたね、ご覧のとおり」
「というより」と父親は言った。「わしらはまたも救われて、第二の恩を負うたのです。駆けつけて下さったときには、本当に苦しい形勢でしたからな」
「現れるときはいつだって善いことしかもたらさない。そのくせ凶兆の鳥を気取るんですからね、この人は」と心も軽く言いながら、指令官は自分の鎧をなおした。

 内心の秘密ではラファエルは、自分の身勝手を旧友たちが根に持っていないと分かって遺憾だとは思わなかったが、しかしこう答えただけだった——
「感謝の祈りなら他の誰かにどうぞ。僕は毎度のことながら、己を阿呆よと証明したわけだ。ですが何でここに。まるで機械仕掛けの神だ。蓋然性に反します。こんな仰天の偶発事、いまどきの芝居だってありません」
「いかなるものにも反しはしませんよ、友よ。ベレニケでアウグスティヌスをお訪ねしたら、シュネシオスの御許に向かわれるところでしてね。我々は——というかその一人は——そちらであなたと会えるに違いないと思ったのです。そこでアウグスティヌスの護衛を務めさせていただくことにした次第。何しろ腰抜けの駐屯隊ときたら、誰一人として事を構えようとしませんでしたから」
「その一人」とラファエルは考えた——「どの一人だ」。そして気位を抑えて、極力さりげなくウィクトーリアのことを尋ねた。
「あの輿の中ですよ、かわいそうに」と彼女の父は深刻な調子で言った。
「まさか。病気だなんてことは」
「ああ、何か月も英雄さながら必死に気を張ってきたのが、無事と分かって糸が切れてしもうたか、あるいは神が下されたことなのか——……何の罰ならわしに相応でないと、誰が言えましょう。——いや、あの子は身も心もすっかり疲れ果てておるのです。わしらがベレニケであなたとお別れしてからずっと」

 鈍感な戦士は、自分の言葉の意味を少しも考えなかった。だがラファエルは、それを聞くや心が激痛に打ち抜かれた気がした。あまりにも痛すぎて、歓喜の痛みなのか絶望の痛なのみか、自分でも分からなかった。

「さて」とシュネシオスが明るい声で叫んだ。「さあ、アベン・エズラ。君はもう跪いてアウグスティヌスの祝福を受けたんだ、今はその成果を愉しむべきだぞ。ほら、哲学者二人はお互いを知らないとな。至聖なる方、切にお願い申し上げます。私のこの友を唱導してやって下さい。この上なく聡明にしてまた極めて愚かなこの男を」
「後者なだけです」とラファエルは言った。「でもアウグスティヌスのお話を伺う気はありますよ。少なくとも、僕らが無事に帰宅して、かつシュネシオスの新しいお客様方に足るだけの獲物をしとめていたなら」

 そうして背を向けると黙然と鞍に座し、マヨリクスとその兵の今後を協議しはじめた仲間を横に、むっつり黙り込んでいた。

 まもなくラファエルは、我知らずアウグスティヌスの話が気になってきた。彼はキュレネの失政と荒廃を主題にし始めていたが、この世のどんな人より洞察に満ち、心が籠っていた。そして他の者がみんな途方に暮れると、難事を片付ける実際的な示唆が即座に、必ず彼から発せられるのだった。彼の助言で、マヨリクスは自分の兵をここに連れて来たのだ。属州のこの遠く離れた南の国境で一定期間守備に従事すると良い、と彼は提案した。短兵急なシュネシオスを抑え、絶望するマヨリクスを元気づけ、兵士たちには名誉とキリスト教信仰を訴え、あらゆる人にかける言葉を——正しい言葉を——彼は持っているようだった。しばらくするうちにアベン・エズラは、彼独特の頑なさや慎重さが消え、意見を提示するごとに聖書の文句を例証にこじつけるという妙な用法もすっかり忘れた。はじめは単なる気取りに見えた。だが、従わせんがために用いられたにしろ議論自体はまったく穏健で理性的だったので、ラファエルはだんだん分かってきたのだが、アウグスティヌスは一見衒学的だが、それはただあらゆる物事を、最も卑俗なものですら、深淵で神的な善悪の何らかの秩序に関連づけたいと望んでのことだった。
「ですがこの間ずっと忘れておいでだ、皆さん」とマヨリクスはついに口にした。「謀反人だと公布された者を匿っているせいで、危険に陥っておられるのですよ」
王たちの王はあなたの謀反を許しておいでだ。土地と名誉を失わせて罰し、この避難所の町にいる被害者のために命を永らえさせたことで。改悛の、遥かに実りある成果をあげるという仕事が残っているのですよ。これについては洗礼者ヨハネがいにしえの兵士に命ぜられた、『人を劫かすなかれ、己が給料をもて足れりとせよ』にまさるものは知らない」
「謀反人や謀反というのは」とシュネシオスは言った。「我々には縁の無いものでしてな。王が居なければ謀反もあり得ません。アウストリアニ族に対抗して助けて下さる方なら誰でも、我々から見れば愛国者です。政治的信条については我々はまったく単純でして——つまり皇帝は不死でありその名はアガメムノン、トロイアで戦った彼だと。私の従者なら誰でも、三段論法で証明してご覧にいれますよ。アウグスティヌスご本人をも満足させるに足るほどだ。こういうふうに——
 『アガメムノンは王たちのうちで最も偉大にして最良であった』
 『皇帝は王たちのうちで最も偉大にして最良である』
 『ゆえに、アガメムノンは皇帝であり、逆もまた真なり』と」
「同じ教義を」とアウグスティヌスは、おごそかに微笑んで言った。「我々の友人の誰だかが、論理を費やしてでも奉じてくれれば良かったのだが」
「あるいは」とシュネシオスは答えた「我々と同じくこう信じて下さっても良いですな。皇帝の侍従は利口な老人で、私のような禿頭、名をウリクセースといい、二年前にキュクロプスの目を潰した功に報いて、地中海北岸の全域の長官職を与えられたのだと。いや、もうたくさんだ。だがお分かりでしょう、密告者だの陰謀家だのといった甚だしい危険のうちには居られないのですよ。……本当に難しいのは、どうすればアウグスティヌスが仰ったとおりに己が給料をもて足れりとできるか、です。なにしろ」と彼は声を潜めた。「文字どおりの無給になるでしょうから」
「我々にはそれが相応でしょう」と若い指令官は言った。「いや、私の部下たちには食べてゆく方策はあります——」
「では、捕れるかぎりの鹿や駝鳥はみんなお好きになさるといい。ですが私は文無しというばかりか、ライストリュゴネス族さながら肉の他には何も食わずに生きるはめになりました。ここら何里か四方の作物や貯えはみんな、焼かれたか持っていかれたかでね」
「無からは無、か」と返事のしようもなくアウグスティヌスは言った。だがここでラファエルははっと気がついた——
「五大都市の穀物船はローマに行ったんでしょうか」
「いいやオレステスが止めたぞ。アレクサンドリアの護送艦を止めたときに」
「それなら穀物はユダヤ人たちが握っているな、まちがいなく。そして彼らのものは僕のもの。なにがしかの僕の金が利子つきで海港に転がっているんです、一月二月もすれば事情は良くなりますよ。明日護衛を手配して下さい。そうすれば穀物をご用意できるでしょう」
「友達のうちでも一番の太っ腹だな。だがね、俺は利子も元金も返せんぞ」
「それでいいんですよ。この三十年間、多額の金を悪いことにばかり費やしてきましたからね、善いことにはついに少しも遣わずにおくなんてことが難しいほどの金額を。——尤も、異教徒の善意を受けるなど以ての外だと、ヒッポの座下がお考えになるなら別ですが?」
此の三人のうち」とアウグスティヌスは言った。「いづれが強盗にあひし者の隣なるぞ、その人に憐憫を施したる者なり。まこと、我が友ラファエル・アベン・エズラよ、汝、神の国より遠からず」
「どの神のです」とラファエルはこずるく訊いた。
「汝の祖先アブラハムの神の、ですよ。それについては今日の夕べの礼拝でお聞きになるといい、神がお望みならね。シュネシオス師、私が夕べのお勤めを果たしてこの我が子らに説教できる教会はおありですか」
 シュネシオスはため息をついた。「廃墟ですよ、先月は教会でしたが」
「まあ一つはありますな。神はいます所を定めず、散ずることもまた不可能」
 そこで狩猟隊を右に左に送り出して、動物と名のつくあらゆるものを追いかけ、日暮れまでにはそれなりの獲物をたっぷりかき集めて一行は帰途についたのだが、そこでウィクトーリアはシュネシオスの老婢の世話に委ねられ、兵隊たちはまっすぐ教会に向かった。他方、ラテン語の勤行は理解できそうにないシュネシオスの従僕たちのほうは、まだ温かい獲物の調理に没頭した。

 まったく奇妙なことにその夕のラファエルの耳には、あの煙に煤けた柱や崩れ落ちた垂木の間から空高く響く彼の民の荘厳な古いヘブライの詩篇は、エルサレムの神殿での礼拝で詠われていたとラビの伝えるまさにその詠唱に聞こえた。……その詠唱も、祈祷も、謝恩も、祝福も、儀式の見た目自体がすべてヘブライ風で、彼自身の祖先たちの言葉や思想の香りがした。箴言の書からの読唱を、アウグスティヌスの助祭はラテン語で読み上げていたが——この言葉を書いた人の血がアベン・エズラの体には流れていたのだ。……これは上辺だけの、間違ったものなのか。それとも彼らがそう思っているように、己が父祖と対面して語った古きものを、人間の範型を、アブラハムとイスラエルの友を、本当に信仰していたのだろうか。

 さて説教が始まった。アウグスティヌスは荒れ果てた祭壇の前に立ってしばらく祈り、疲れきった彼の顔の皺がみな、壊れた屋根から差し込む一条の月光に照らし出されていた。ラファエルは待ちきれない思いでアウグスティヌスの談話を待った。彼は洗練された弁証家であり、異教の修辞学の古来の教師であり、たしなみのある学識豊かな学者であり、禁欲的な独身主義の神智論者である。その彼が、戦いに疲れたこんな荒くれ者の兵士たちに、まじめで悲しげな顔をしてそこに座って見ているトラキア人やマルコマンニ族、ガリア人やベルガエ人たちに、何を言おうというのか。アウグスティヌスとその会衆に一つでも、どんな共通する考えや感情が有り得よう。

 ようやく十字を切って自らを祝福し、彼は話し始めた。読み上げられたばかりの詩篇の一つ——モアブ人とアマレク人、パレスチナの昔の国境紛争に関する戦いの詩篇が主題だった。これをどう扱うのだろう。

 声は優美で話し方や言葉遣いは洗練されており、どの文もきびきびとした警句になっているにもかかわらず、はじめはまったく無様に思えた。何分かかけて詩篇の題辞を——寓意化し——何か作者の心中には決して無かった意味にしていたが、そんな意味では決して有り得ないことをラファエルは良く知っていた。何しろその解釈は、まったくの誤訳に基づいていたのだから。彼はラテン語訳で掛詞を言い——ヘブライ語の言葉の意味を、ラテン語の語源から導き出していた。……そして詩篇本文に進むにつれて、ダビデの良識が神秘主義へと霧消してゆくように思えた。極めてありふれた対象から引き出された極めて狂信的にこじつけた例示と、神秘的な神智学的教義とが交錯した。……彼の名を世に知らしめたあの学識がどこにある。彼が我がこととする古代ヘブライ語聖書に対するあの畏敬の念が、どこにあるというのか。ヒュパティアがつねづねホメロスを曲解していたのに劣らずダビデを曲解していて——昔の大司教たちの家庭生活やモーセやヨシュアの奇蹟のわざに、世を捨てた神智論者の個人的宗教体験に都合のいい霊的寓意しか見出さないときては、昔のフィロンにも増してひどかった。ラファエルは席を立って出て行きたくてたまらなかったが、それにも増して言いたくてたまらなくなった。微笑んで「ひとはみんな嘘つきだ」と性急に……。

 ところが最後の例示は何としたことか。単なる夢想ではない。霊的な見えざるものの象徴としての物質的宇宙の働きに対する、真に深い一瞥だった。しかもヒュパティアとは違って何か荘厳で厳粛な現象ばかりか、犬だの、湯沸かしだの、魚売り女だのからも引き出されており、いにしえのソクラテスその人にも匹敵する衒いのない洞察によるものだった。それに、彼は何と親しみ深いものになっていることか。……延々と噴き出す雄弁ではなく、劇的な対話や質疑応答、思いも寄らない名文句や副次的な暗示によって、ごくふつうの兵士の欠点を次から次へと突く……そのくせ叱責はどれも意味深く、普遍的、包括的なかたちになってラファエル本人をもたじろがせた——こんなふうにしてどんな男でも女でもたじろがせるのだろうと彼は思った。そう、万人の真理を知ろうと知るまいとアウグスティヌスは、少なくとも万人の罪は、聴衆の罪に劣らず己の罪をも知っていた。これを否定するものは何も無い。正しかろうと間違っていようと、彼は本当に人間だった。他の人々について叱責した欠点を自分自身にも感じて、死に物狂いでそれと戦っていることが、あの疲れた顔を過ぎる震えに現れていた。……それなのになぜ、部族名をまったく間違った掛詞にしてエドム人は或る罪を表し、アンモン人は別の罪を、アマレク人はまた別のを罪を表すなどと。昔の詩篇に何の関わりがある。今の聴衆に何の関わりがあるのだ。これではヒュパティアの講義室の、あの非現実的に純化された神秘的な衒学を、粗雑最低なかたちにしたようなものだ。あの衒学にはずっと前にうんざりしていて、まっとうな実際的現実のために、犬のブランに走ったのに。

 いや。……アウグスティヌスの仄めかしがますます実際的で辛辣になるにつれて、徐々にラファエルは分かってきた。真偽はともかく彼の考えでは、初めはただの恣意的寓意と思えたものにも、この上なく現実的な有機的連関があったのだ。アマレク人、個人的な罪、アウストリアニ族の略奪者や強姦者は、彼にとっては同一の悪の、かくも多様な異形態に過ぎなかった。そのいずれかに与する者は義なる神に抗して戦ったのであり、それらに抗して戦う者は神のために戦ったのだ。外なるアマレク人を征服しようというなら、内なるアマレク人を征服しなければならない。内なる強欲や色欲に心を囚われた軍団兵が、自らをとりまく強欲や色欲を恒常的に打ち倒せたというのか。それを剣で討つふりをしながら、その実例となることで加勢したのではないか。それはまやかしであり、偽善ではなかったか。そこに神の祝福が有り得ただろうか。自らの内に統一も平和もないのに、国の統一と平和を取り戻せただろうか。内なる無力と弱さ以外の何が、人民の無力や軍隊の愚行を生み出したというのか。彼らがムーア人に対して弱かったのは、ムーア人以上に致命的な敵に対して弱かったからだ。内において神に逆らって戦いながら、どうして外において神のために戦えただろう。神は軍と共にお進みにはならなかった。軍におられなかったというのに、どうしてお進みになれたというのか。神を、霊を、自らの霊にいまさねばならない。……それなら天帝の叫びを身のうちにして、一騎当千となったはずだ。……あるいはそうでなかったのなら——人民も兵士たちもさらに懲らし挫く必要があったのなら——懲らされ挫かれてよかったではないか。彼らの顔が困惑し、そうして追い詰められて唯一の真理であり、光であり、命である神の御名を求めたのなら、何が問題なのだ。全滅したところで何だ。内なる敵を征服させたのだ。外なる敵につかのま制圧されるように見えたからといって何がいけない。己に勝利し死を受け入れたのなら、義なる人々の復活の際に報いられるはずである。さてここからして、義なる神の目からすれば本当に勝ったのは彼ら——神の下僕、平和と正義の守り手であるのか、アウストリアニ族、敵であるのかが分かるだろう。……それから彼は、何だかこの上なく妙な発想の転換によって、野蛮なムーア人略奪者にさえ希望と憐れみの言葉を述べ始めた。これまでの成功は彼らにとって良かったのかも知れない。彼らは苦難に浄められたキリスト教徒捕虜から真理を学んだかも知れないのだから。それまでは繁栄のなかで捕虜たちも忘れていた真理だが。さらにまた略奪者たちが挫かれ、風前の籾殻と化すことは、キリスト教徒に劣らず彼らにとっても良かったかも知れない。それによって彼らもまた神の御名を学ぶだろうから……云々、すべて奇想や寓意や無理のありすぎる解釈だったが、それにもかかわらずアウグスティヌスは詩篇からも、過去からも未来からも所説を引き出し続け、生きておわします神は不和と不正と邪悪に対する永遠の敵であり、奴隷にされ魂や体を拉がれ者たちの永遠の助け手にして解放者であると説いた。……それはすべて、ラファエルにとっては奇妙至極だった。……プラトン主義者であれヘブライのであれ、これまでに聞いたどのような教えにもまったく似ていないのも奇妙だったが、それにもまして奇妙なのは、そうした教えと一致していることだった。それらの教えはみな何らかの一つの考えであり——実際そうなのかも知れないが——だから統一があり正当に思えるのだという護符には本能的な安心感があり、彼のユダヤ的偏見はその見方を妨げることはできなかったが、しかしそれに同意することも許しそうになかった。だが、ヘブライの誇りからどれほど紅潮しようとも、アウグスティヌスが穏健で当を得た実際的なものを構築しているにしろその基礎はまったくの虚偽なのだと必死に自分に言い聞かせようとも、粗野な兵士たちの顔が徐々に晴れやかになり、揺るがぬ配慮を、快活にして厳粛な決意を表すにつれて、始めは羨望でもって、次には素直な喜びでもって見つめずにはいられなかった。

 「何という驚きだ」とラファエルは内心言った。「何とも驚いたよ、しかし。賢者や聖者に語るみたいに、こんな野獣どもに語るとはね。神は預言者たちや詩篇作者たちに劣らず彼らとともにあるのだと語りかけていたな。……ヒュパティアだったら、あの美貌のすべてをもってしても、彼がしたほどに兵士たちの心に触れられたかどうか」

 そしてこの奇妙な説教が終わって立ち上がったときにはラファエルは、乳母の膝に座ってソロモンとシバの女王の伝説を聞いてよりこのかたに以上に、いにしえのヘブライ人を身近に感じていた。アウグスティヌスがやはり正しかったとしたらどうだろう。もしも旧約聖書のエホバが、ラビたちが考えているような、アブラハムの子孫だけの単なる民族の保護者ではなかったとしたらどうだろう。フィロンが考えたように、異教徒であろうと僅かな選ばれた賢者たちにだけは神的知性が霊感を与える、というに留まらないとしたら。この世のすべての主ならばしかし、従って諸民族の主なのでは。——突如、詩篇や預言の書からの諸節が生まれて初めて身を貫いて閃き、こう断言する気がした。他の何を、ダニエル書のすべてやネブカドネザルの歴史は意味しているというのか——そうでなかったとしたら。そのバビロニアの征服者を受肉せる悪魔とみなすラビふうの考えは、哲学による宗教的寛容によってとうの昔に改め、彼より前にセンナケリブがしたように、トペテに捧げてしまっていた。その人は彼にはアレクサンドロスにもユリウス・カエサルにもまして公正に見えたし、偉大な人物だとして永い間ひそかに尊敬してきた。……この敬意を正当化できるような示唆を、アウグスティヌスが与えてくれたのだとしたらどうだろう。……いやそれより……アウグスティヌスが正しく、フィロンやヒュパティアの先を行っていたとしたらどうか。エホバ、知性、ロゴス、それをどう呼ぶにしろ、この同一のものがすべての肉の身体の神であるのと同様に、諸霊の神でもあるとしたら。もしその神が——アウグスティヌスが言ったように——アウグスティヌス自身の心に劣らず、あの粗野なマルコマンニ族や、ゴール人や、トラキア人の心にも近くいますのなら。もし——アウグスティヌスが言ったように——最も貧しい者、最も粗暴な者、最も罪深い者の魂を教化し、我が家となるご自身へと導こうと切望しておられるとしたら。——寵愛する一種族や寵愛する一階級の心だけでなく、人を人として愛しておられるなら。……こうした仮定に照らせば、カルバリの十字架の奇妙な物語はやはり、それほど有り得なくもない気がする。……しかしそれなら、独身主義だの禁欲主義だのといったまったく非人間的なものからすると、人間である神という理論はどうなるのだろう。

 疑問だらけになっていたラファエルは、その問題がちょうどその夕べにシュネシオスの居間で話題になったのを、残念には思わなかった。マヨリクスは兵士らしくぶっきらぼうに、ラファエルとアウグスティヌスを単刀直入に論じ合わせた。はじめはにっこり笑ってその主題を鼻であしらおうとしていたラファエルだったが、アウグスティヌスの見掛け倒しの不合理な奇想を笑ってやりたくなり——しかし真剣で注意深い論理家の揚げ足をとるのは思ったより難しいことが分かって自若を——おそらくは懐疑派としての健康回復のしるしを——少々失い、やがて気づくと必死に論戦していた。シュネシオスは援護してはくれるものの明らかに、論戦を見物して楽しもうという腹でしかなかったし、マヨリクスはというと、ゴルディアスの結び目を次から次へと教条的な盲信によって叩き切っては、ラファエルをますますご機嫌斜めにしており、友人たちから我が身を守らなければならなくなるに至ってアウグスティヌスは、やんわりと人の良い長官の揚げ足をとって論客たちのはるか後方に置き去りにしたのだった。論客たちは延々と議論を続けていたが、やがて夜明けの光が差し込み、地上の荒れ果てた光景に、一党は皆もっと物質的な武器や苛酷な戦闘を思い出した。

 だが、ラファエル・アベン・エズラがそこに座って機知や学識のありとあらゆる資産を動員し、意地悪半分だがその実半ばは恐る恐る、ヒッポの賢者をやり込めたいものよと自分に匹敵する者と戦う喜びに全天地を忘れていたとき、彼は思いもしなかったことだが、隣の小部屋では柔らかな腕を床に延ばし乱れ髪に顔を埋めて、ウィクトーリアが横たわっていたのである。苦い涙にくれてひと晩中彼のために祈りあがきながら、そばだてた耳に忙しないくぐもった声が届くと、その言葉の意味を捕らえようと空しくこがれていた。いまやその言葉に望みと喜びのすべてが——どれほど完全にかかっていたことか。自分にすら告白したことは無かったのに、祈りを捧げる人の子には——父や兄や、母にさえ優って乙女の恥じらいや乙女の悲痛を優しく洞察して思いやる一者には、あえてこれを告白したのである。

最終更新日: 2008年4月28日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com