第22章 万魔殿

 だがその週の間中、ピラモンはどこにいたのだろう。

 監禁当初の一日二日は、罠にかかった野獣のように喚いていた。新たに見出した生き甲斐と活力はこうして突如堰き止められ抑えられて、狂信的激情となって煮えたぎった。監獄の柵にすがって涙し、床に転がって金切り声をあげた。ヒュパティアや、ペラギアや、アルセニウスを空しく呼んだが——神だけは呼ばなかった。祈れなかったし、あえて祈らなかった。だって何に祈るというのだろう。星々にか——「混沌」や「永遠」にか。

 ああ、アウグスティヌスがかつてじつに苦々しい思いで自分のマニ教徒の教師たちについて述べたように、ヒュパティアは生きた神を取り去って、代わりに彼に四元素を与えたのだ。……困惑しきって、望みの無い恐怖のうちで、看守や獄卒が通路を過ぎるたびに憐れみを請い、父として、兄として、人として助けてくれと嘆願した。彼の苦悶と並外れた美しさに、荒っぽいトラキア人たちはすぐさま動かされ、また犠牲者の無実を信じるのにいささかの困難も無いほど自分の雇い主の人柄を存分に知ってもいたので、彼らはピラモンに耳を貸し、問い質した。しかし、乞い願っていたまさにその助けが与えられ、何があったのか話すように言われたとき、あわれな少年の舌は上顎に張り付いた。どうして姉の恥を晒せよう。それなのに彼女は自らそれを晒そうとしている。……言葉の代わりに哀れをさそう新たな苦悶を目にして、獄卒たちはこいつは狂っているのだと諦めるに至った。そして暴れまわるピラモンに疲れ、罵ったり殴ったりして、静かにするよう強制したのだった。こうしてその週は、まさに白痴状態すれすれで震えるぼんやりと麻痺した失望のうちに尽きた。夜も昼も彼には同じだった。格子越しに押し込まれた食事には、手をつけないままだった。何時間も、何日も頭を抱えて地べたに座り、ただ心身の消耗からのみ半ばまどろむだけだった。どうして目覚め、食べ、生きることを案じるべきだというのか。全天地に生き甲斐は一つしか無い。だがその生き甲斐は不可能なのだ。

 ついに独房の扉の蝶番が軋んだ。「起きろ、気違い小僧」と荒っぽい声が叫んだ。「起きろ。神々の恩恵と、我らの高貴な——えへん——都督様の寛大さに感謝せよ。本日、囚人全員に自由が与えられた。俺が思うにお前さんみたいな美少年は、もっと不細工な悪党だってそうだが、仕事にとりかかれるぞ」

 ピラモンは獄卒の顔をぼんやりと見上げたが、言っていることは半分しか分からなかった。
「聞いているのか」とその男は大声で罵った。「放免だ。さっさと起きろ。さもないとまた扉を閉めるぞ。そうして唯一の好機は失せるのさ」
「海から上がるウェヌスを踊ったの?」
「誰が」
「姉さん。ペラギアだよ」
「現役時代に踊らなかったものは、天のみぞ知る。しかし今日またもう一度踊るって話だ。早くしろ。出ろ。その見世物に俺の仕度が間に合わなくなるだろうが。一時間後に開演だ。今日は全員ただで劇場に入れる——悪党も正直者も、キリスト教徒も異教徒もな。——くそ、この小僧。いつもに増しておかしいぞ」

 確かにピラモンはそう見えた。というのも突然跳び上がるように立つと、獄卒のわきを駆け抜けて通路にまろび出たのである。そして獄から放たれたごろつきどもの人群れにしゃにむに逃げ込み、監獄から家へ、家から浴場へ、浴場から劇場へと駆け巡り、そして間もなく、礼儀に構わず人を押しのけて最前列の座席に向かっていた。なぜだか自分でもまるで分からなかったが、恐れ忌み嫌うまさにその光景のできるだけ近くに身を置こうとしたのである。

 運悪く、彼が入って来た通路は州都督席のすぐ近くに続いていた。そこにはオレステスが公務用の豪華な長衣を着て座っており、その横には——ピラモンが驚き慄いたことに——他ならぬヒュパティアがいたのである。

 かつて無いほど美しかった。宝石の高雅な宝冠に輝く額はユーノーさながら、イオニア風の白い長衣を真紅の肩かけで半ば覆って、ウェスタの乙女が、哲学者がそこに座っていた。ここで何を。だが少年の熱っぽい目はその顔をよく知っていたので、そこを過ぎるどのような感情の陰影も見逃さず、すぐに表情が弱々しくやつれているのを見てとった。強要され、半ばは脅されて、自ら殉教を決意したという様相だった。だが、疑惑の余地無き殉教者というのではない。というのも、ピラモンの侵入騒ぎにオレステスが振り向き、この有様に怒りをちらつかせて荒々しい手振りで下がらせようとしたときに、ヒュパティアも振り向いたのだが、弟子と目が合うと真っ赤になって身を震わせ、そぶりで同様に彼を下がらせようとするように見えたのだ。それから我に帰ってオレステスに何かささやいたのだが、それでオレステスは憤怒を鎮め、彼女自身も我を取り戻した、というより最悪の事態を甘受する決心をしたように、再び座席に身を沈めたのである。

 陽気な若い紳士の一群、ピラモンの学生仲間が彼を群れに引っ張り込み、笑って歓迎した。そして気が落ち着かないうちに舞台正面の幕が落とされ、見世物が始まった。

 背景には砂漠の山が遠景に描かれ、舞台自体の上には、一群れの仮小屋の前に、リビアの黒人捕虜が群れ集ってぎっしり立っていた。けばけばしい羽根やふさのついた革帯でどぎつく飾り立てた五十人ほどの男女や子供で、鎗や小盾を見せ付けるように振り回しながら、子供じみた恐れと驚きに白目をぎらつかせて、目の前の奇妙な光景を睨みつけていた。

 舞台前面に沿って網代組みの胸壁が立ち、一方下の奈落は岩を模して塗ってあり、かくしてリビアの丘陵にある一村の、粗雑な模造品が出来上がっていた。

 息詰まる沈黙の中、布告官が進み出てこう宣言した。この者どもはローマの元老院と人民に対して武器をとった虜囚であり、従って即刻死刑に値する。しかし都督は虜囚に対して甚だ情け深く、またあり得る限り最大の娯楽をアレクサンドリアの従順にして忠実な市民に供するべく特別に気遣われ、虜囚をただちに野獣に与えてしまう代わりに、自らの命のために戦うことを許可し、勇敢に振舞った場合は生存者を放免すると決定した、と。

 舞台上の不幸な者たちは哀れにも、この宣言が彼ら向けに訳されると喜びの蛮声を上げ、鎗と小盾を常にも増して荒々しく振り回した。

 だがその喜びは短かった。攻撃の喇叭が鳴った。二つの広い花道の一方から、蛮人と同数の剣闘士の一団が歩み出て、観客の喝采に敬礼をすると、攻城はしごを舞台正面に立てて攻撃にとりかかった。

 リビア人たちは虎のごとく戦った。だが最初からヒュパティアには、またピラモンにも見てとれたことだが、彼らに約束された生存の好機はまやかしに過ぎなかった。軽い投げ矢やむき出しの腕では、残忍な攻め手の重い剣や鎧一式に敵うはずがなく、面頬つきの兜に守られた頭や顔に嵐と降りかかる攻撃を、攻め手は意にも留めずにやり過ごしていた。とはいえリビア人たちは勇猛果敢で、二度は退いたが、二度はまた攻城はしごを投げ落とし、その際一人ならぬ剣闘士が下に伏して、死の苦悶にのたうつはめになった。

 そうして、獣と化したあの大群衆の胸に眠る悪魔が躍り出た。攻めたり避けたり、猛攻撃退のたびに、広大な輪をなす客席のどの列からも、野蛮な勝利の叫びや、それにもまして野蛮な失望の叫びに叫びが重なった。贅沢で洗練された哲学的教養というものが、流血嗜好に染まる歯止めにならないのを見て、ピラモンは驚愕し戦慄した。明朗繊細な貴婦人たちが——三日前にはヒュパティアの天への憧憬に喜ばしげに微笑んでみせていたのを見かけたし、また誰だかはキリスト教の教会にいたような覚えのある人だが——席から跳ね上がって手や手巾を振り回し、剣闘士たちに拍手喝采していたのである。何しろ、ああ! 観客の愛顧がどちらにあるかは疑い無い。嘲りや野次、喝采や嘆願が、雇われたごろつきどもを血を見る仕事へと急き立てていた。哀れなことに、不幸な者たちは支持してくれる声が上がるのを一つも聞かず、無慈悲な千の目にぎらつくものは、軽蔑や嫌悪、血への渇望以外には何も無い。失意と絶望で一人また一人と気力を失い、たじろいだ。剣闘士たちは胸壁を登り越えて舞台を踏み、勝利の叫びに迎えられた。不幸な黒人たちは散り散りになり、隅から隅へと飛びまわって必死に逃げ道を探したが無駄だった……。

 それから、殺戮が始まった。……五十人ほどの男、女、子供たちがその狭い所に一まとめに押し込められた。……だがヒュパティアの自若は揺ぎなかった。なぜ動揺しなければならない。こんな数が何だ。あの帝国の円形闘技場で、遥かに酷い死に方で何世紀にもわたって年々死滅していった何千もに比べれば。その信仰を再建すると誓ったのだ。これは大きな枠組みの一部なのだ。耐えなければならない。

 何も感じなかったのではない。やはり彼女も、女なのだから。大衆の獣じみた興奮を遥かに超越した心を、身を切るような激しい憐憫に晒して泰然と苛ませていたのである。何度も何度も、悲鳴をあげる女やもがく子供のために慈悲を請いかけた。だが唇が言葉を成せないうちに攻撃が降りかかったり、殺戮する者とされる者の見分けもつかない密集した群れの中へと不幸な者が急に視界から消えたりしたのだった。そうだ、始めてしまったのだ。最後まで見なければ。……それに結局、たったあれだけの半獣どもの命が、そこから跳ね出て来たもとの泥に数年早く戻ったからといって、世界の再創生と比べれば何だ。……数分やそこらで終わるだろう。のたうちまわるあの黒い堆積は永遠に静まり、そして幕が下りる……。それから、海から上がるウェヌスのために、すなわち学芸と歓喜と平和、いにしえのギリシャの学芸の優雅な知恵と美のために、万人の心を静まらせ、文明化し、和らげて、いにしえの栄光の日々に彼らの父祖たちに霊感を与えた不死なる神話、不死なる神格にひたすら献身させ……だが黒い堆積はまだのたうっていた。嘔吐をもよおす光景を見るまいとして、遠くを見晴し、上を見、下を見、あらゆるところを見まわした。そして彼女の目は、戦慄と嫌悪の眼差しで彼女を見つめるピラモンを捕らえたのだった。……恥ずかしさに震えが心を駆け抜け、真っ赤になって顔を伏せるとオレステスにささやいた。

「慈悲を——あとは助けて」
「いえ、至上なるウェスタの乙女よ。大衆は血を味わったのです、心ゆくまで味わわせなければ。さもないとたぶん我々に向って来ますよ。獣を抑えるほど危険なことはありません、馬であれ犬であれ人であれ一旦気分を掻き立てた以上はね。はは! 逃げたぞ。あの小さい悪がきが上手に走ることといったら!」

 そう言ううちに、ただ一人生き残った少年が舞台から跳び出し、オルケストラを横切ってこちらに走って来た。野良じみた猛犬が後に続いている。

「あの子を助けやって。ここまで来られたら」

 ヒュパティアは息詰まる思いで見つめた。オルケストラの中央の祭壇に辿りついたまさにそのとき、剣闘士が身に迫っているのを少年は見た。ごろつきが腕を上げて一撃しようとしたそのとき、劇場中が驚いたことに、追い詰められた少年と、犬が剣闘士に跳びかかって雄々しく反撃し、自分たちの間の地面に引き倒したのである。ひと時の勝利だった。手がいくつも上がり、「放してやれ」と叫びが上がったが遅すぎた。男は倒れざまに子供の華奢な体に剣を突き刺しており、それから起き上がると冷淡に花道に歩いて戻ったのだが、あわれな猛犬のほうは小さな亡骸を覆うように立ってその手や顔を舐め、悲痛な鳴き声を建物全体に響かせていた。使丁が入ってきて、次々と遺骸を鉤棒で引っ掛けて見えないところに引きずり出し、その道が砂上で長い赤い畝になった。犬もついて行き、その不吉な遠吠えはやがて遠くの通路に消えていった。

 ピラモンは眩暈がして吐き気をもよおし、逃れようと少し立ち上がりかけた。だが、ペラギアが。……いいや、最後まで座って最悪のものを見なければ。これより悪いものがあり得るのならば、だが。彼は辺りを見まわした。みんな涼しい顔で葡萄酒をちびちびやり、菓子を食べながら、幕の美しさや大きさを賞讃して談笑していた。舞台を隠すように下がった幕には、牛に運ばれてボスポラス海峡を超えるエウロペが深い青海原を背景に描かれ、そのまわりではネレイスたちトリトンたちが遊んでいた。

 幕の中で単管笛の音が、まるで遥かな森林や渓谷を通り抜けるように遠く幽かに、蠱惑的な調子で響き始めた。そして花道から、布告官の標杖を携えた説得の女神ペイトーが、優雅の三女神を先導しながら登場した。彼女はオルケストラの中央にある祭壇に近づくと、観客にこう告げた。ある偉大な軍事遠征が、間もなくローマの帝位と、エジプトとアレクサンドリアの自由、繁栄、そして覇権を決することになるが、この遠征に加勢してアレスがご不在である間は、アプロディテは法に適った献身に立ち戻られ、当面は夫であるヘパイストスの命に服される。ヘパイストスは工匠の神として、世界の工房たるアレクサンドリア市の福利には並ならぬ関心を寄せておられ、その格別の御愛顧のしるしとして、このたびは、美しさを会衆に示すよう御好配を説得して下さった。お生まれになったばかりの女神が海から上られ、女王として君臨されることを今は誰もが認めるその天地の素晴らしい広がりを初めて眺め渡されたときの情動を、言葉無き詩というべき所作によって示すようにと。

 この告知は熱狂的な喝采の叫びに迎えられ、ただちに舞台の反対側の袖から、金槌と鋏をかついだ跛行の神自身が足を引きずって現われ、後には巨人キュクロプスの一団が、鍍金をしたさまざまな金物を肩にかついでお供に続いた。

 ヘパイストスは、壮大な身振り芝居に滑稽な要素を提供するべく馬鹿げた無様さでよろめき出て、笑いの咆哮に包まれた。祭壇を見まわし、滑稽なしぐさで軽蔑を表すと、巨大な金槌をふりあげてひと打ちで粉微塵にし、そして従者たちに、破片を拾って何かもっと我が神々しき好配に相応しいものにしろと合図した。

 見事な早業によって金属の透かし細工がそこに現われ、一つに合わされて珊瑚の枝の枠になり、いるかやネレイスたちやトリトンたちと混ざり合った。それから四人の巨大なキュクロプスが、完全に磨き上げられて鏡になった緑の大理石の厚い円盤をかついで重みによろめきながら近づいて来て、その厚板を枠の上に据えた。優雅の女神たちがその周りを海草や貝殼や珊瑚で囲み、模造の海が完成した。

 ペイトーと優雅の女神たちは数歩退いてキュクロプスたちと群れたが、キュクロプスの薄汚れた逞しい腕や恐ろしい一つ目の仮面は、対照的に姿美しい乙女の細やかな色合いを際立たせた。他方、ヘパイストスは幕のほうに向きなおり、待ちきれない思いで女神の出現を待っているようだった。

 笛の音が高まり近づくにつれて、誰もが期待に息を飲んだ。角笛とシンバルが相和した。そして意気揚々と音楽が鳴り出して幕が上がると同時に、一万の歓喜の叫び声がどっとわき上がった。

 背景には大きな神殿が描かれ、舞台に溢れる人工の南国の樹々や茂みのうしろに見え隠れしていた。ファウヌスたちドリュアスたちが枝の間から覗いて笑い、その梢では、見えない糸で繋がれた華やかな鳥たちが羽ばたき囀っていた。中央には、神殿の扉から舞台の前まで椰子が屋根をなす道が続き、舞台からは模造の胸壁が消え、あのわずかな時間で、オルケストラまで通じる滑らかな緑の芝生の広い斜面に置き換えられており、銀梅花や薔薇、林檎の木、ひなげし、そしてアドニスの生き血で汚れた真っ赤なヒヤシンスで縁取られていた。

 神殿の折り扉が静々と開き、中から楽の響きがこだました。そして楽士たちを先導にして、アプロディテの祝賀行列が出て来て、斜面を下り、オルケストラの外周を廻った。

 白牛の曳く豪華な車には、けばけばしく珍しいことこの上無い異国の花々や果物が積まれ、それをホーラー即ち四季の女神たちに扮したうら若い娘たちが、行列の先頭で観客にまき散らした。

 花冠を戴き、紫の薄織りの飾り布を纏った美しい乙女と若者が、二人ずつ長い列になって続いた。どの組も、美の力に征服された虜として野の獣を引いたり抱いたりしていた。

 役者たちの手首にとまって先頭を運ばれているのは、この女神にとってはことに神聖な鳥たち——鳩と雀、アリスイと燕だった。愛らしいニュンペーを各々乗せた巨大なインドののつがいは、未来の花嫁の望みを、少なくとも一つは、オレステスが忘れていないことを示していた。

 その後にインドからきた奇妙な鳥、インコや孔雀、金鶏に銀鶏が続いた。野雁や、それぞれ小さなクピードーの跨がる駝鳥たちが金色の引き綱で引かれ、後には羚羊や角羚羊、ドナウ川を越えてやって来たへら鹿、ヒュペルボレオスの大洋の小島から来た四つ角の雄羊、そして観客の誰もが牛馬半々だと信じた、リビア丘陵の奇妙な雑種動物が続いた。それから、黄金の重い鎖に繋がれた熊や豹や獅子や虎が——祭典のために麻薬で大人しくさせられていたのだが、美しい引き手に従ってのそのそと斜面を歩み下ると、嬉しげな畏れのささやきが劇場を駆け抜けた。その後には、遥か南から来た、不格好な二本角の巨大なサイが二頭。その上方には、ほっそりと首の長い、柔和な大きな目をしたキリンのひとつがいがそびえており、そんなものはここ五十年以上アレクサンドリアでは見られたことがなかった。

 「オレステス、オレステス! 輝かしい都督さま、健やかなれ! 施しをありがとう」と叫びが一つ上がった。そして観客に混じったさくらが一人二人、叫んだ。「オレステス万歳! アフリカ皇帝万歳!」……だが反応は無かった。

「薔薇はまだ蕾ですね」とオレステスはヒュパティアに作り笑いをした。彼は立ち上がって群衆に頭を下げ、静かにするよう手振りをした。それから感謝と謙遜を短い身振りで熱狂的に示したあと、意気揚々と椰子の道を指すと、その木陰に本日の驚異——白象御本尊の巨大な牙と鼻が現われた。

 ついに来た! 間違いない。本物の象で、それに雪のように白い。アレクサンドリアにはかつて無く——また二度と無い見物だった。「おお、マケドニア人は多幸の極みだ」と高い所で誰か名士が叫んだ。「本日の神々はじつに恵み深い」。そしてすべての口と目が、尽きぬ歓喜と壮観を飲み込むべくますます広く開き、その意見を認めたのだった。

 象が厳かに歩むにつれて重い足音が劇場中に響き渡り、ファウヌスとドリュアスたちは恐れて飛び退いた。ニュンペーの合唱隊が手に手をとって象の周りを巡り、獣と人と神々の調教師である美の力の勝利を歌い踊った。小さな翼のあるクピードーの一党が散兵となってオルケストラ中に広がり、左へ右へと、香りつきの砂糖菓子を観客たちに投げ、香り高い白檀の矢を小さな弓で客席に射込んだり、くゆる吊り香炉を振って、酔い心地にする匂いで空気を満たした。

 行列が斜面を下り、象が観客のほうに近づいた。牙は薔薇と銀梅花の花輪で飾られ、耳には豪華な耳飾りが刺してあり、両目の間には宝石をちりばめた飾り帯が下がっていた。象の首には翼のある愛らしい少年、エロース自身が座り、金色の矢の先で象を御していた。だがその背に乗った貝殼型の車にはどのような貴重なものが収まっているのだろう。女神なのか。ペラギア・アプロディテその人なのか。

 そうだ。雪のような白象よりも白く——桃色の縁の貝殼よりも薔薇色をした女神がその中に身を横たえ、真紅の座布団と銀色の薄布の間で輝いていた。優美な微笑や内気だが楽しげな眼差しに劇場中の心臓が震え、皆が一斉に立ち上がって下方の比類無い愛らしさに一万の目を注ぐと、彼女は謝意を示して小さな手を振った。

 行列はオルケストラの外周をぐるりと二度廻り、それから斜面のふもとに向き直って、ヘパイストスを囲んで舞台正面の左右に広がっている中央の一群に向かった。獅子や虎は花道に導き出された。若者や乙女たちはもっと大人しい動物と群れ混じって舞台中央から袖へと徐々に姿を消し、期待が高まるなかを象が進み出て、女神が下り立つべき舞踊壇の背後に跪いた。

 貝殼の両片が閉じた。優雅の女神たちが車の留め具を外した。象は鼻を背中にまわし、娘たちの手に導かれて貝殼を掴むと、それを宙高く持ち上げて壇の後ろの階段に降ろした。

 ヘパイストスは至って無様な身振りで足を引き引き進み出ると、アレクサンドリアの彼の忠実なる工人たちにこのようなものを見せて、女神の霊妙な舞に期待される言い様も無い享楽を授けることに対する喜びを述べた。そうして優雅の女神たちを残して退場し、女神たちのほうは舞踊壇の正面に進んで、手を取り合って輪になると、ヒュパティアの顕現祈願の歌を歌い始めた。

 旋舞歌の初楽章が消えてゆくにつれて貝殼の両片が再び開き、中に片膝をついて屈んでいるアプロディテが見えた。彼女は頭を上げると、広大な客席を見渡した。軽く驚いた表情だったがそれはすぐに嬉しげな感嘆に変わり、新たな歓喜と新たな力の感覚が恥じらいと鬩ぎ合っていた。我が身を見下ろし、その愛らしさに驚きの笑みを浮かべた。それから空を見上げ、荘厳な歓喜でもって限りない虚空に飛び込まんばかり。全身が伸び広がった。自分をとりまく大きな宇宙の中で出会うすべてのものから力を吸収しているかのようだ。翠玉と真珠でできた太幅の花綵を纏って、神秘的な帯を腰のまわりに煌かせながら、貝殼と海草の間からゆっくり伸び立ちきると、香水の滴る巻き毛をしぼりながら大理石の海底へと歩み出た。いにしえのアプロディテさながらに。

 最初は一時、群衆は喜びに息が詰まり、喝采しようとも考えられなかった。だが女神は受けてしかるべき敬意を望んでいるようだ。交差させた腕を胸に重ねて、宇宙の崇拝を求めるかのように彼女が一瞬立ちつくすと、皆の舌が解き放たれて、「アプロディテー!」の雷鳴がアレクサンドリアの屋根屋根にとどろき渡り、セラペイオンの自室にいたキュリロスや、遥か遠い砂丘の疲れきった騾馬追いや、海の遠方でまどろんでいた船乗りをも驚かせたのだった。

 そうして驚異の技が始まった。思うままに肉体を完璧に訓練し、凋落の極みの時代においてさえ、あのいにしえのギリシャ人の繊細な審美的意識を保つ者にしかできない技だった。動きのすべてが言葉であり、静止も運動と同様に雄弁な舞。姿勢のすべてが純粋派極まる彫刻家のための新鮮な主題であり、最も高度な身体の動きは、滑稽粗雑な身振り芝居のように奇妙に飛び跳ねたり、わざとらしく身をよじったりするのではなく、精妙な不断の抑制と、自制の利いた荘重な優美をもって表された。その瞬間、芸術家は女神に変貌した。劇場も、アレクサンドリアも、背後の絢爛たる行列も彼女の脳裏から消え、従って彼女の技の霊感に制御されている観客の脳裏からも消えて、彼女と同様観客にも、キュテーラ島を囲むひと気無い海岸と女神のほかには何も見えなかった。女神は翠玉の鏡面を漂い歩き、海に、大気に、海岸に、美と喜びと愛とを語りかけていた……

 ピラモンは羞恥と恐怖で頭から飛び出さんばかりに目をむいた。そのくせ彼女を憎めず、軽蔑すらできなかった。道徳感覚の何がしかの萌芽が生き永らえていることを示す人間的感情の痕跡が、ほんのわずかでも彼女の表情にあったのなら、憎み、軽蔑できたかも知れない。だが劇場に登場したときのわずかな紅潮と伏し目すら消え去り、彼女の顔にあるのはただ、自分の動きと技に対する熱烈な喜びと、甘やかされた子供のような虚栄を満たされた表情だけだった。……彼女に責任を問えるだろうか。理性ある魂になら、ともかく善悪は問えるが? 彼は期待しなかった。……信じようとしなかった。……ペラギアは舞い続けていた。苦悶の時の間ずっと見えていたのは、天にも地にも、大理石の鏡に映る白い鏡像の上に閃く白い足という当惑の迷路だけだった。……ついに終わった。急に四肢の力が抜け、自己満足の柔らかな疲労にうなだれて彼女は立っていた。彼女の待ち受ける喝采がどっと響いてピラモンの耳を貫き、力強い喇叭の吹鳴となって姉の恥辱を天地に告げ知らせていた。

 象が立ち上がって厚板の脇に進み出た。背は真紅の座布団で覆ってあり、アプロディテは貝殼を残してそこに戻るらしい。彼女が腕を交差させて胸に組み、微笑んで立っていると、象は彼女の腰にそっと鼻を巻きつけ、背中に乗せようとゆっくり厚板から持ち上げた……。

 小さな足が半ばこわごわ合わさって大理石から持ち上がったところで——象はぎょっとして華奢な荷物をそろそろと厚板に置くと、見下ろして前足を持ち上げ、そして鼻を宙に投げ出して、恐怖と嫌悪に甲高く叫んだ。……

 足は血で赤くなっていた——うら若い少年の血が——新しい砂に沁み込んで泡立っており、象が歩んだ所が丸い、暗い、葡萄酒色の染みになっていた。……

 ピラモンはもう我慢できなかった。次の瞬間には密集した観客の群れを抜けて駆け下り、まったく狂ったような力で列から列へと座席を通り抜け、下のオルケストラに向かって手すりを飛び越し、舞踊壇の足元の空所を横切って急いだ。

「ペラギア! 姉さん、僕の姉さん。どうか僕を許して、自分のことも。匿うよ、僕が助ける。こんな忌まわしい所、悪魔の世界から二人で逃げよう。姉さんの弟なんだよ、来て!」

 ペラギアは一時取り乱し、目を見開いて彼を見ていたが——真実が閃いた——
「おまえだったの!」

 彼女は舞踊壇からピラモンの腕に跳び込んだ。……アテナイの高窓から見渡した、広い橄欖畑や庭園、ペイライエウスの輝く屋根と入江、広大な青海原の眺め、そのすべての彼方にはアイギナ島の紫の峰々……そして黒い目の少年が彼女の首に抱きついて、遠い港にまたたく帆柱を指して笑い、彼女を姉と呼ぶ……。死せる魂が身のうちに目覚め、恥辱の苦悶に猛る叫びをあげて彼女はピラモンから跳び退き、両手で顔を覆って血に汚れた砂にうずくまった。

 地獄の蓋が開いたような叫びが起こり、広大な桟敷に響き渡った——
「やっちまえ!」「追い払え!」「磔だ、あの奴隷め」「蛮人を野獣に食わせろ」「あいつを野獣とやらせて下さい、貴い閣下!」。使丁の群れが彼に駆け寄り、観客の多くが席から跳び出して、今にもオルケストラに跳び入りそうだった。

 ピラモンは追い詰められた獅子のように彼らに向き直り、暴徒の叫びを貫く大声を上げた。
「ああ、殺せ! 聖テレマコスを殺したローマ人みたいにな。呪われた酔っ払い奴隷どもめ、お前たちの呪われた酔っ払い暴君と同じだ。虐殺に使われる野獣よりも下劣だよ。殺人と肉欲がぴったり手に手を取って、無辜の血の上に姉さんの恥辱の玉座をすんなり据えたんだ。僕を殺して悪魔の犠牲の仕上げにしろよ、そうして己の非道の杯を満たすがいい」
「野獣にやれ!」「象に踏み潰させて粉々にしろ!」

 巨大な獣は使丁に棒でつつかれて若者に向かって突進し、エロースのほうは象の首から飛び降りて、泣きながら斜面を駆け上がった。

 象はピラモンを鼻で捉えると、宙高く持ち上げた。一瞬のうちに人々の頭がとよもす大洋となってぐるぐる回った。祈りを一つ唱えようと彼は目を閉じた——激しい苦悶のなかでさえ、ペラギアの声はくっきりと愛しく響いた——
「放して! 弟なのよ。この子を許してやって、マケドニアのみなさん。ペラギアのお願いです——みなさんのペラギアの。一生のお願いです——どうかこれだけは!」

 そして嘆願するように観客に向かって腕を伸ばし、それから象の巨大な膝を抱きしめると、狂ったように嘆願と愛情の言葉で呼びかけた。

 人々は迷った。獣は迷わなかった。象は大人しく鼻を下げ、ピラモンを自分の足下に降ろした。修道士は助かったのだ。息がきれて目眩がし、我に返ると暗い通路を抜けて使丁たちに追い立てられており、耳には入らぬ呪詛と、警告と、祝福でもって道に放り出されたのだった。

 だがペラギアは顔を手で覆ったまま立ち上がるとのろのろと歩き戻り、何か途方もない畏れの重みに押し潰されてオルケストラを横切り、斜面を上った。そして、罪に塗れた奴隷の大群の喝采にも、嘆願にも、野次にも、脅迫にも、呪詛にも一顧だにせず、椰子と夾竹桃の間に消えたのだった。

 一時、この予期せぬ破局によってオレステスの魔法はすっかり解けたようだった。嫌悪にしろ失望にしろ、どの眉にも暗雲がかかっていた。一人ならぬキリスト教徒が、好き好んでひどいものを見たことを心底悔やみ、恥じて、そそくさと立ち去った。後方の平民たちは一切の見物に好奇心が食傷し、その異教性と残酷さにあからさまに文句を言いはじめた。ヒュパティアはすっかり狼狽して、両手で顔を覆っていた。オレステスは一人、危機に立ち上がった。行動の時は今しかない。歩み出ると至って優雅に一礼し、静かにするようにと手を振って、よく考えた演説を始めた。

「おおマケドニアの諸君、踊り子の気紛れ程度の些細な偶発事のせいで、諸君の為政者然とした自若が乱され得るだなどと思わせないでいただきたい。誉れと喜びをもってお見せした見世物を——(どよめきと喝采が釈放された囚人たちや若い紳士たちから上がった)——もったいなくも好意皆無というのではない目でご覧下さったことと存じますが——(新たな喝采が起こり、気を和らげたキリスト教徒群衆がそれに和しはじめた)——これはさらに重大な件への単なる喜ばしい序曲に過ぎません。その重大事のために諸君にここにお集まりいただいたのです。これもまた私の善意の証しでありますが、無辜の受難から解放し、大量の食糧も欠かしてはおりません。エジプトに生い育つこの自然の恵みを、先の暴君は遠い宮廷の贅沢を満たすべく送り出していたのです。……誇るわけではありません。——今でさえこの頭は疲れ果て、手足は役に立ちません。諸君の福利と厳格極まる正義を執行するべく、不断の尽力に困憊しております。なにしろマケドニア人の時が来たのですから。マケドニア人の誇る絢爛たるアレクサンドリア市が、かつて保っていた政治的優位に返り咲き、再び世界の三分の一の統治者となる時が。その統治者によって自由民として、市民として、英雄として、つまり自らの統治者を選び雇う権利を持つ者として扱われるべき時が。——統治者と、申しましたか。そのような言葉は忘れましょう、そして代わりに、より哲学的な、公僕という用語に置き換えましょう。諸君の公僕——万人の下僕であること——我が身を、余暇を、健康を、必要ならば生命をも、アレクサンドリアの独立確保という一大目的に捧げること——これが私の仕事であり、希望であり、誉れであり——何年も困憊しながら切望してきたことですが、今はじめて可能になりました。ローマの、先の傀儡皇帝の失脚によって、です。よろしいですか、マケドニアの諸君。もうホノリウスの治世ではないのです。あるアフリカ人が、カエサルの玉座につきます。ヘラクリアヌスが決定的勝利をおさめ、御加護——そう、天の御加護によって帝位の紫衣を得たのです。世界の新時代が始まります。ローマの征服者に、ビザンチンの宮廷と拮抗する経済力を持たせましょう。地中海をまたぐ富や文明という我々の悪夢とはおさらばです。自由独立かつ統一されたアフリカを、アレクサンドリアの官邸や埠頭に集結させ、そこに繁栄と政治の本来の中心を見出しましょう」

 さくらの喝采がとどろき、彼を遮った。少なからぬ者がそれに和したが、半ばは巧言令色のおかげであり、また半ばは正しい側に——つまり、たまたま当面は上り調子にある側に——つきたいという自然な望みからだった。……市のお偉方は今にも「オレステス帝!」と叫ぶところだったが、それについてもっとよく考え、誰かが最初に叫ぶのを待った——それが真っ当だった。親衛隊長は冷静な人物で、またどうあってもまともではなく、港湾長官に短剣の先を突きつけて恐ろしい脅迫をし、逆賊をいかに演じるかに気を遣えと命じた。そのお偉い市民は——愛国心にしろ痛みにしろ——抑えきれずに叫びを上げ、居並ぶお歴々は皆——深遠に跳び込もうとするクルティウスといった者を見つけて満場一致の合唱に加わり、オレステスを皇帝として迎えたのだった。一方ヒュパティアは貴族層の門人たちの叫びに囲まれ、内心では恥辱と絶望に悶えながら立ち上がってオレステスの前に跪き、ギリシャの通商、覇権、そして哲学の後見を受け入れるようにと懇願したのだが、拝まんばかりの満場一致の声がオレステスにそれを強いていた。……

「違うね!」と、下層階級の女性に当てられた最後列から叫び声がして、誰もが狼狽して振り向いた。
「間違いだよ、間違い。あんたたち騙されてる。奴は騙されてるんだ。ヘラクリアヌスはオスティアでボロ負けしたんだ。カルタゴに逃げたのを、皇帝の艦隊が追ってるよ」
「嘘つき女め。あの畜生を引きずりおろせ!」と、突然の衝撃に完全に平静を失ってオレステスは叫んだ。
「女だと? 男さ。修道士たるこの私が、知らせたんだ。キュリロスさまはご存知だったし——三角州のユダヤ人も誰だって先週から知ってたさ。こうして主の敵は皆、自ら罠にはまって滅びるんだ」

 そうして周りを囲む女たちをすり抜けて必死に駆け出し、修道士は姿を消した。

 聴衆全員に恐ろしい沈黙が降りかかった。しばらくは誰もが隣の者の顔を見つめ、まるでその喉を切って自分の謀反の目撃者をせめて一人は消そうとでもいうようだった。それから動乱が沸き上がり、それをオレステスは抑えようとしたが無駄だった。修道士の言葉を大衆が信じたにしろ信じなかったにしろ、真実かもしれないという単なる可能性だけでも彼らは恐慌をきたした。否定し、抗議し、懇願して声をからしながら、皇帝志望者は何とか自分とヒュパティアのまわりに衛卒を呼び集めて劇場からの退路を作ったが、彼にできたのはせいぜいそれだけだった。群衆のほうは雨にうたれる雪のように融け去り、渦巻いて唸りを上げる流れとなって通りに溢れ出し、どの教会にもキュリロスによって、ヘラクリアヌスの破滅の詳細を記した紙が貼り出されているのを見つけたのだった。

最終更新日: 2008年5月6日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com