第23章 報復の女神

 その晩のオレステス邸はすさまじかった。彼の落胆、激怒、恐怖は、あまりにも恐ろしくも恥ずべきものだったので、奴隷たちは誰も近づけなかった。だが夜も更けてから、腹心の秘書であるカルデア人宦官が、激昂したカトリック信徒に対する恐怖に駆られてあえて虎穴に入り、ただちに行動を起こす必要があると上申したのだった。

 オレステスに何ができただろうか。彼はのっぴきならなくなっていたが——どの程度であるかはキュリロスしか知らなかった。狡猾な大司教の目を逃れたのは何だろう。知らぬふりを装っているのは何だ。ビザンチンの宮廷に即刻告発しなかったことは何だ。
「市門を封鎖いたしましょう。誰も町から出さないように」とカルデア人は提案した。
「修道士を引き止める? 鼠を引き止めるようなものだぞ。いいや。逆の報告を送らねばならん。今すぐにだ」
「何を申しましょうか、閣下」と、自分の飾り帯から墨壷と筆をさっと取り出して筆記者は言じた。
「何でもかまわん。手頃な嘘なら何でもな。悪魔の名にかけて、いったい何のためにお前はここにいるんだ。入用なときに私に嘘を拵えるという以外に」
「ご尤も。いと貴き方」と、その傑物は従順に紙の上に身を屈めた……が、急いで続けはしなかった。
「この緊急事態に何がよいのか分かりかねまして。御恐れながらお許しをいただいて、閣下ではなくキュリロスが剣闘試合を挙行したと書き始めないことにはどうにも。しかしこれは到底、信じるに足るとは見えませんでしょうね」

 オレステスは思わずふきだした。カルデア人は人当たりよく微笑み、喉で笑って応えた。勝ちだ。オレステスはいくぶん落ち着きを取り戻し、役にも立たない己が首を守るという心奪われる一問題に立ち戻り、狡猾に企み始めた。
「いいや、それは結構すぎるな。こう書いてくれ。キュリロス側の陰謀が発覚いたしました。アフリカ全土にある管轄下の教会を巻き込んで(カルタゴやヒッポの名を挙げるのを忘れるな)、コンスタンチノープルの総大司教への忠誠を投擲せんとしたのです、ヘラクリアヌス成功の暁には、と」

 秘書は満足げに小声で賛同し、今度は安んじて書きつけた。
「ヘラクリアヌス、成功の、暁には、と。閣下」
「当然我々は、アレクサンドリアの人民を満足させようと、あらん限りの力でもって万策を尽くしました。己が義務として、法に適うあらゆる方法で、カエサルの玉座に(そこに座すのが誰かは考えるなよ)対する人民の忠心を掻き立てようと欲したのです。このような危機的瞬間にあって」
「この、ような、危機的、瞬間に、あって」……
「しかし信深きカトリック信徒なれば、必要極まる時であろうと、ウザの罪を忌み、聖別されぬ平信徒の手で教会の聖櫃に触れることを恐れました。それを守るためであろうとも」……
「それを、守る、ためで、あろう、とも。閣下」
「かくして世俗行政官として、法と慣習によって権限を認められている方法に限られるものと覚え、さればこそ、かの偉大な見世物、謀反人の公開処刑を用いた次第ですが、不幸にもこれは、総大司教聖下の(たぶん、ビザンチン聖庁の忠実なる信奉者たちに対する不満なんて名分ばかり見つけたがる)お目には、剣闘試合と事を同じくするものであり、カトリック教会の精神、ならびに敬虔なる勅命によって剣闘試合を夙に廃され列聖された皇帝方の慈悲心とは、相容れぬものでした」
「閣下はまことに偉大でおられます……ですが——奴隷ながら一言申し上げさせていただきますと——愚鈍なる私めの思いますところ、キュリロスの陰謀についてアウグスタ・プルケリアにお知らせしなかったのは何故かと問われませんでしょうか」
「こう言えばいい。三か月前に使いを送ったが、しかし……その間抜けの身に何かが起こって、厄介が残ったのだと」
「では、パルミュラ近辺でアラビア人に殺されたことにいたしましょう、閣下」
「さてどうかな……いいや。付近を捜査するだろう。海で溺死させておいてくれ。鮫には誰も尋問できないからな」
「テュロスとクレタの間で沈没。この悲しい惨事から唯一人いかだで脱出した男が、激しい悪天候に三週間も晒された後、帰路の穀物船に拾われ——ところで、いと貴き方、何と申しましょうか、その穀物船が帆走すらしていなかったことについては」
「アウグストゥスの首にかけて! それを完全に忘れていたよ。こう言ってくれ——港湾地区に疫病が蔓延しており、それを皇帝の座に伝染させるのを恐れた。明日には出帆させる、と」

 秘書は浮かない顔をした。
「お怒りを買う危険があろうと、忠心から申し上げるほかございませんが、半分がたはまた荷卸ししてしまいました。ここ二日の大盤振舞いのご用で」

 オレステスは盛大に罵り毒づいた。
「おお、大衆の喉が一つだけなら、吐き出させてやろうものを。よかろう、さらに穀物を買わねばならん。それだけのことだ」

 秘書はさらに顔をこわばらせた。
「ユダヤ人たちが、いと貴き——」
「連中が何だ」と不幸な都督は大声で言った。「買占めおったのか」
「我が精励により今日の午後に判明したのですが、食糧を買えるだけ買い上げてすべて輸出してしまったのです」
「悪党め! では奴らはヘラクリアヌスの失敗を知っていたに違いない」
「恐れながら、真実を見抜くご明察かと。先週ずっと、彼らは成功の裏目に大きく賭けておりました。カノープスでもペルシウムでも」
「先週だと! ではミリアムは知っていながら私を裏切ったのだ」。そしてオレステスは再び激しく怒りだした。
「ここに——護衛長官を呼べ。あの魔女を生きたまま連れて来た者には、金貨百枚を与えるぞ」
「生きては捕まりますまい」
「死んでいようが——何だってかまわん。行け、カルデアの猟犬。何をぐずぐずしている」
「いと貴き閣下」と、秘書は床にひれ伏し、恐怖に苛まれて主人の足に口付けしながら言った。……「思い出して下さい、ユダヤ人の一人に手をお出しになれば、全員に手だしすることに。債務証書をお忘れです。思い出して下さい——その——その、あなた様ご自身の至上の尊い声望が、つまりは」
「立て、畜生が。そこに這いつくばっていないで、人間らしく、言いたいことを私に言え。ミリアム婆が死んだとなれば、婆の債務証書もともに死ぬ。そうだろう」
「ああ、ご主人様、あの呪われた民の慣習をご存知ないのです。彼らには民全員を兄弟として扱うという忌まわしい習わしがありまして、見返りを求めずに進んで誠実に助け合います。そのおかげで残る世界をすっかり劫掠して、極小の者から極大の者まで繁栄できているのです。債務証書がミリアムの手にあるなどとお考えになってはいけません。何ヵ月も前に転送されております。実際の債権者たちはカルタゴか、ローマか、ビザンチンにいて、そこから攻撃してくるでしょう。妖婆の財産をすべてお差し押さえになろうと、見つかるのはご無用な書類ばかり。またその書類は帝国中のユダヤ人のものですから、彼らは自分の金を守るべく一丸となって決起するでしょう。請けあいますが、果てしない網です。一人に手をお出しになれば、全員に手だしすることになります。……加えて、何かこうしたご命令を予期しまして、勝手ながらすでにミリアムの居所を尽力調査したのですが、しかし明らかに——こう申し上げるのは残念に存じますが、閣下の奴隷たちの誰も、まったく知らないのです」
「嘘だな」とオレステスは言った。……「お前があの妖婆に関わりになるなと警告したというほうがまだ信じられる」
 オレステスは生涯で今度ばかりは、正確な真実を語ったのだった。

 その言葉に、ミリアムと個人的な取引きをしていた秘書は、皮膚の原子一つ一つがぞっと震える気がしたし、頭髪はまさに彼を裏切って目にも明らかに総毛立っていた。だが幸いにも短く刈リ込んでいたおかげで、しかるべきところにターバンを乗せたまま、ようよう彼はこう応えた——
「ああ。忠実なる奴隷にとって、ご威光に日々平伏する太陽に故なく疑われるよりもつらい悲痛はあり得ず——」
「迂言語法はやめろ。婆がどこにいるのか知っているのか」
「いいえ」と、あわれな秘書はとうとうあからさまな嘘を強いられて声を高めた。そしてその否認は真実だと一連の誓いでもって確証したが、オレステスはひと蹴りしてその饒舌を止めさせ、拷問するぞと脅かして、軍に下賜する金貨千枚を彼から借りつけると、果ては自邸周辺に駐屯軍を集結させた。それは、暴動の際に自分を守らせるためだったが、町の離れた地域が警備されないままになり、前述の暴動の機会が増すという二重の効果をもたらした。

「キュリロスが馬鹿なことをやってくれればな。あいつは勝利に奢って満々と膨れ上がっているから——悪党が!——アンモニウスのことでも、ヒュパティアでも、何でもいい。そうすれば、対抗するいい手がかりになるものを。結局ときには、真実は嘘より役に立つ。ああ、あいつに一服盛れたら! だがあそこの聖職者どもには賄賂は効かん。短剣はというと、修道士どもにばらばらに引き裂かれようという者など雇えまい。いや。じっと座って、運命の賽の目がどう出るかを見るんだ。まあ、アリスティデスやエパメイノンダスのような空論家は——天に感謝。あの人種はとうの昔に死に絶えた——これを属州立法の面目至極な一例とは言わんだろう。だがやはり、現に起きている、いや世の終わりまで続くだろうこととご同様。新しい道を創り出すのは期待できん。先人たちの知恵を捨てるまい。それに——おお、キュリロスは今夜にも愚行をしでかすかもしれんぞ」

 そしてキュリロスは、生涯で最初にして最後だが、その夜愚行を犯した。そして、賢者は誤ったときにはそうするものだが、そのために苦しんだ。まさにこの日、この時を。だが、敵の失着がどの程度オレステスの得になったのかは、この話が終わるまで決められない。あるいはそうなっても分からないかも知れない。

最終更新日: 2008年5月7日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com