第24章 迷える仔羊

 さてピラモンは?

 彼は劇場を出た道に永い間立っていた。気が高ぶりすぎて、何をしたものか決められなかった。そして落ち着きを取り戻さないうちに、どの出口からも群衆が出て来て通りに溢れだし、人波に彼は押し流されたのだった。

 それから、群衆の怒りの叫びに姉の名が、憐れみ、蔑み、恐れるように混じっているのを耳にして夢から醒め、群衆を突き抜けてまっすぐペラギアの家に向かった。

 門は固く閉じられていた。それをひたすら叩き続け、ずいぶん長く待った挙句にくぐり戸から覗いたのは、無愛想な黒人の顔だけだった。

 彼は知らないうちに、必死にペラギアのことを尋ねていた。もちろん彼女はまだ戻っていなかった。ヴルフは。不在だった。それから彼は門のそばに身を据えたのだが、希望と恐れに心臓が激しく打っていた。

 ついにゴート族が、ぴったり一列になって群衆を押しのけながらやって来た。輿は一緒ではなかった。ではペラギアと、取り巻きの娘たちはどこだろう。また憎きアマールや、ヴルフとスミッドの姿もどこに。男たちはゴデリックとアギルムントを先導に、腕組みして眉をしかめ、目を伏せてやって来た。どの顔にも、羞恥が混じっていなくもないひどい嫌悪が浮かび、姉の醜行を改めてピラモンに語っていた。

 ゴデリックがすぐそばを通り、ピラモンは勇気を奮ってヴルフのことを尋ねた……ペラギアの名を口にする勇気はなかった。

「失せろ、ギリシャの犬畜生。おまえら嫌ったらしい民なんか、今日見たのでもうたくさんだぜ。何だ。俺たちと一緒に中に入る気か」。鞘から閃き出た若者の剣はあまりにすばやく、ピラモンは道に跳び退るのがやっとで、扉が再び一つに閉じて家が元どおりに静まるのを、失望と不安に苦しみながら見ているしかなかった。

 惨めな思いで彼が一時間待つ間に、群衆は流れ去るどころか密集してきて、あちこちでざわついていた人々の群れはひとかたまりになると、「異教徒をやっつけろ!」「偶像崇拝者を倒せ!」「罰当たりな売女に復讐を!」と大声を上げながら道を行進し始めた。

 やっと軍団兵たちの足並み揃った足音がして、武装した男たちの煌めく列の真ん中に——おお、嬉しいことに——輿の列が!

 彼は跳び出すと、何度もペラギアの名を呼んだ。一度は返事を聞いた気がしたが、兵士たちに押し戻された。

「ペラギアは無事にここにいる、馬鹿な若造め。見るのも見せるのも、この女は今日はもう十分やった。退け」
「話をさせて下さい」
「それはこの女の問題だな。我々の目下の務めは、無事に家に送ることだ」
「中にご一緒させて下さい。お願いです」
「入りたければ、我々が帰ってから自分で門を敲け。あの家に用があるなら、開けてくれると思うがな。退け、邪魔な犬っころ」
 槍の石突で胸を一突きされて彼は道の真ん中に転げ戻り、兵士たちのほうは荷を引き渡すと、無関心な様子で冷淡に帰って行った。ピラモンは戻って門を叩いたが無駄だった。黒人の罵りと脅しが、受けた応答のすべてだった。ついには疲れ果てて絶望し、ふらふらと立ち去ると、或る道を上っては別の道を下り、何をすればいいのか自分で考えようと、空しくあがくうちに日が暮れた。

 疲労困憊してついには家に向かった。ミリアム、という考えが一度は心を過ぎった。姉の恥辱の元をつくった張本人に助けを求めるのは気分の悪い選択だった。しかし彼女は、ともかくペラギアに会わせてくれることはできるし、そう約束したのだ。だがその場合に——彼女が助力につけた条件ときたら! 姉さんに会いながら姉さんを放置する——恐ろしい背反だ。でも、自分の目論見にミリアムを利用することはできないか——裏をかいて——騙して——望みを果たすのは。強烈な誘惑だった。しかしつかのましか続かなかった。こんな純粋な目的を、偽りによって穢せようか。そして、また誘惑に駆られやしないかと、ユダヤ女の戸口をほとんど見ないようにして急いで通り過ぎ、二階の自室に駆け上がって大慌てで乱暴に扉を開け、そこで驚いてぱっと立ち止まった。

 女が、大きな黒っぽい薄衣で頭から足まで覆って、小部屋の真ん中に立っていた。

「どなたです。ここはあなたの所じゃありませんよ」と、しばらくして彼は大声を上げた。女は身を震わせ、すすり泣きで応えただけだった。……薄衣の襞の裾に、知りすぎるほど知っているサフラン染めの肩掛けを見てとるや、仔羊に跳びかかる獅子のように女に跳びつくと、彼は我が胸に姉を抱きしめた。

 薄衣が美しい額から落ちた。彼女はしばらく探る眼差しで脅えたように彼の目を見つめたが、そこにはただ愛情しか見えなかった。……そして心と心を固く結んで姉弟は聖らかな口付けを交し、互いが親族なのか最後まで残っていた疑念を晴らそうとするかのように、ますます強く抱き合った。

 何分もが喜びのうちに過ぎた。……ピラモンはあえて何も言わなかった。なぜあのようなことになったのか、彼女に尋ねようとはしなかった。——過去のことを、長らく忘れていた両親や、自分たちの家やその歴史を尋ねることによって、恐ろしい現在を思い出させるのは忍びなかった。……それに結局のところ、ついに彼女を抱きしめたというだけで——自分の意志で彼女が——迷子の仔羊が戻って来たというだけで、十分ではないか。そうして互いに頬を寄せ合い、涙を交したのだった。

 ついに彼女が言った。
「分かってたはずなのにね——初めて会った日からおまえなんだって分かってたと思うの。おまえはあたしと似てるってみんなが言ったとき、胸のなかで心臓がどきっとして、声がしたのよ……でもそれに耳を貸さなかった。恥ずかしかった——恥ずかしかったの。あたしが何年も探して思い焦がれてた弟だって認めるのが……弟がいるって思うと恥ずかしかったのよ。……ああ、神様。恥ずかしくないはずが無いでしょ」

 彼女は急にまた彼から離れ、床に突っ伏した。
「踏みつけて。あたしを罵って——何でも! でも彼から引き離すのだけはやめて」

 ピラモンには彼女に答える勇気は無かった。だが無意識のうちに、悲しげに異を唱える仕種をしたのだった。
「いいえ、あたしをそのとおりに呼んで——ついさっき彼がそう呼んだみたいに——でもあたしを連れて行かないで。叩いてよ、彼が叩いたみたいに——でも引き離すのだけは」
「叩いた? あいつ、神に呪われろ」
「ああ、呪わないで——彼は呪わないで。殴ったんじゃないのよ、ほんとに——ちょっと小突いただけで——当たったっていうか——それにあたしがいけなかったの——全部あたしのせい。あたしが怒らせたの——彼を責めて——あたしどうかしてたわ。……ああ、なんであたしをだましたの。なんで踊らせたの——なんで踊れって命令したの」
「命令したって?」
「言ったのよ、俺たちは言ったことは必ず守んなきゃいけないんだって。あたしたちは約束を破れるって言っても、言うことを聞かなかった。お酒を飲んで約束したことは守らなくてもいいんだって言っても。……そんなもの守る人なんて聞いたことある? オレステスだって飲んでたのよ。だけど彼は、ゴート族に何を教えようとあたしの勝手だけど、嘘をつくのだけはだめだって……。おかしな話じゃない?……ヴルフが彼に強く言って、そのことで彼を褒めたの」
「彼は正しいよ」とピラモンはすすり泣いた。
「それで、言うこときいたら好きになってくれると思って、嫌だったけど——ああ、神様。どんなに嫌だったか……。だけど、それを彼が嫌がってたなんて、そんなこと分かるはずないじゃない。嫌なことを好き好んでやろうなんて人、誰が聞いたことあるっていうのよ」

 ピラモンは再び嗚咽に咽んだ。文明化された蛮人があわれにも、彼女の道徳的な闇を巧まずして開陳してくれたからだ。何を言えよう。……言うべきことは分かっていた。キュリロスのもとならどの学童でも治療薬を提供できるほどに、病弊は明々白々だった。だがどう言おう——何よりもまず言いたいと切望していたことではあるのだが、アマールと結婚する望みは無く、従って彼から離れなければ平安は無いのだと、彼女にどう言えばいいのだろう。

「じゃあ姉さんは嫌になったんだ、あの——あの——」と、彼はついに何やら一条の光を捉えて言った。
「嫌ですって。あたしは身も心も彼のものじゃない——彼だけの。……でも……ああ、おまえには全部話さなくちゃね。女の子たちと練習を始めたら、すっかり昔の感じに戻ったのよ——感心されて、拍手してもらって、声援されたくてたまんない。それに踊るってすごく素敵なの。すごく素敵で、なんか完璧に綺麗なことしてる感じで、誰よりもいいって感じがするわ。……でもあたしが踊りたがってるのを見ると、彼はそのことであたしを見下したのよ。裏切り者!——ちっとも考えてくれなかった。あたしがどれだけ苦労して彼を喜ばせて、彼の前でできるだけのことをして、賞讃を勝ち取ったのか。それも、家に持って帰って、愛しい彼の足下にみんな投げ出すためだけによ。何度も世間に言わせたわ、『彼女はアレクサンドリア中に崇められているのに——何にも増してあのゴート族一人にしか気が無い』って。なのにだましたのよ、まったく男って! 最後の最後まであたしの微笑みを楽しんでおいて、ひとたびあたしに口実ができれば捨てる気だったんだわ。……あたしを責めるなんてずるい。あたしに自滅させて、自分で破滅させる手間を省いたのよ。ああ、男なんて、男なんて、みんな同じ。男は自分の得になるから女が好きなのよ、女はただ好きだから男を大事に想うのに。好きだから生きて、好きだから死ぬのに、決して想ってはもらえない。愛のふりした身勝手だけ。……そうしてあれに馴染むのよ、このあわれな、情の深い、目を瞑る生き物は——まわりは毒の心だらけなのに、自分にこう言い聞かせるの。今度の毒蛇の卵だけは鳩が孵る、男がみんな嘘つきでもあたしの暴君は変わりっこない、だって彼は男以上のものなんだから、って」
「だけどあいつは騙したんだよ。姉さんは間違いに気づいたんだ。あいつとは別れなよ。当然の報いなんだから」

 ペラギアは、何とも優しく微笑んで見上げた。「かわいそうな子。人を好きになるってことを何も知らないのね」

 ピラモンはこの新奇至極な人間の様相に当惑しきって、切れ切れにこう言うことしかできなかった——
「だけど、僕のことは好きじゃないの、姉さん」
「好きじゃない? でも彼が好きなのとは違うわ。ああ、もう黙って——おまえにはまだ分からないことよ」。そしてペラギアは顔に手をあてると、引き攣るように四肢を震わせた……。
「やらなくちゃ、やらなくちゃ。何だってやるし、何にだって頭を下げるわ、恋のためなら。あの人のところに行って——あの賢女——ヒュパティアのところに。あの人はおまえが好きよ。好きだってあたしは分かるの。おまえの言うことなら聞いてくれるでしょう。あたしではだめだでも」
「ヒュパティア? じっと座ってたのを知ってるの。あそこに——劇場に」
「無理強いされたのよ。オレステスがやらせたの。ミリアムさんはそう言ったわよ。あたしもそういう顔に見えたわ。下を通るときに見上げたら、象牙みたいに真っ白になって、手足がみんな震えてて。目は落ちくぼんで虚ろだったし——泣いてたみたいに見えた。あたしは気違いみたいにうぬぼれて、あざ笑って言ったの、『まるで磔にされるみたいね、結婚するんじゃなくて』って。……だけど今は、今は!——ああ、あの人のところに行って。話して。あたしの持ってる物はみんな差し上げますって——宝石も、お金も、服も、家も! あたしは——あたしが——許しを乞うているって伝えてよ。そうしろって言うなら、足下に這いつくばってお願いするわ——ただどうか教えて下さい——あたしを教育して、あの人みたいに賢くて立派で、評判が良くて、尊敬されるようにして下さいって。心の傷ついたあわれな女に秘訣を話してくれるように頼んで。あの人はヴルフ爺にも、彼にも、オレステスにだって、執政官方にも自分を尊敬させることができる。……あたしに教えるように頼んでよ、どうすればあの人みたいになって、もういちど彼に重んじてもらえるのか。そうしたらみんなあの人にあげる——何もかも!」

 ピラモンは躊躇った。何かが、ソクラテスにいつも警告していた神霊的なもののように、無駄足を踏むぞと身の内で警告していた。劇場のことを考えた。固く結ばれた唇のことを考えた。そして、そこに伴う落ちくぼんだ惨めな目のことは、最近まで崇敬していた偶像に対する怒りから忘れ捨てたのだった。
「ああ、行って行って。言っとくけど、あの人嫌々だったのよ。あたしに同情してた——見たのよ——ああ、神様——あのときあたしは自分をかわいそうだと思ってなかったのに。それで憎んだのよ、あたしがあほくさい祝賀行列にいるのをばかにしてるみたいだって。みじめな今のあたしを、ばかにはできないわ。……行って行って。そうじゃないとおまえのせいで、自分で行きたくてたまんなくなるわ」

 なすべきことは一つしかなかった。
「じゃあここで待っててくれる? もう僕から離れたりしないよね」
「ええ。でも急いで。あたしが出かけたのに気づいたら、彼は疑うかも知れない……ああ天よ! 彼に殺されてもいい、でもあたしのことでやきもちは焼かせないで下さい。さあ行って、今すぐに。これを手付にして——あたしがつけた恋の帯よ。いまいましい。見るのも嫌だわ。でもこのために持ってきたの、さもなきゃ運河に投げ捨てたわよ。さあ。手付の品だって言ってね——ほんの手付だって——差し上げる物のうちの」

 十分ほど後には、ピラモンはヒュパティアの広間にいた。家人たちは恐怖ですっかり取り乱しており、広間いっぱいに兵士がいた。やっとヒュパティアのお気に入りの婢女が通りかかって、彼に気づいた。女主人はどなたともお話しになれないという。ではテオンはどこだろう。彼も面会謝絶だった。かまうものか。話さなければならないのだ。ピラモンは話す気だった。そして彼が熱意を籠めて魅惑的に懇願したので、心優しい娘は美貌の哀願者にあらがえず、用向きを引き受けて彼を図書室に案内した。そこではテオンが死にそうに青ざめてあちこち歩き回っており、恐れのあまりいくらか我を失っているのが明らかだった。

 ピラモンの切れ切れの伝言は、最初は上の空の耳には入らなかった。
「新しい弟子とはね、君。弟子を取っている場合かね。家が、娘の命が危ないというのに。何という奴なんだ私は。私があの子を罠に填めたんだ。私が、私の空しい野心と貪欲のせいで! ああ、我が子よ、我が子よ、私の唯一の宝よ。ああ、私に降りかかるのは二重の呪いだよ、もし——」
「姉は面会を求めているだけなのですが」
「娘とかね、君。ペラギアが! 私を侮辱する気か。たとえ娘本人が身を貶めようとするほど慈悲深かろうと、あの清らかさを穢すことを私が許すなどと思うのかね」
「無礼なお言葉は、ご心痛のあまりということにしておきます、先生」
「無礼だって? 君。無礼なのはこんなときに押しかけてきた君のほうだぞ」
「それでは、ともかく先生のお目からすれば、こちらの無礼は、これでお許しいだけるかも知れません」。ピラモンは恋の帯を差し出した。「これがどれほどの物かは、僕より先生のほうがよくご存知です。ですが、こう申し上げるよう言い付かってきたのですが、これは姉がお納めしようとしている物のほんの手付で、先生のお嬢様の弟子になるという名誉のためなら財産の半分でもただちにお納めするということです」。そして彼は、宝石付きの飾り帯を卓上に置いた。

 老人は足を止めた。翠玉と真珠が銀河のように煌いていた。彼はそれを見て、そして再びゆっくりと歩き始めた。……いくらになるだろう。これでできないことはあるか。少なくとも借金はすっかり払えるだろう。……そしてさらに一分、餌の前でうろうろと逡巡したあげく、彼はピラモンに向き直った。「もしこのことを誰にも言わないと約束するなら——」
「約束します」
「それに娘がだね、そうしてくれるものと期待するのがまっとうだが、もしあの子が断ったら——」
「宝石はそちらでお持ち下さい。それの持ち主は、神のおかげで、こういう物を軽蔑し嫌うようになりましたので。お持ちになればいい、宝石も——僕の恨みも。神がそうさせるんだから、もう一度あの方にお目にかかることがあるなら、これ以上のことだって」

 老人はピラモンの後半の言葉を聞いていなかった。鰐のように貪欲に餌に喰らいつき、それを持ってヒュパティアの部屋に急いだ。ピラモンのほうは恐ろしい疑念を新たに抱きながら、そわそわと立っていた。「身を貶める」って。「清らかさを穢す」って! そんな考えが彼女の哲学の全成果だとしたら? 自己中心的で、高慢な、パリサイ人流儀が所産のすべてだとしたら? いや——疾うからこういう結末だったではないか。見捨てられた不幸な人を彼女が助けているとか、いや憐れんでいるところすら見たとがあっただろうか。悲しむ者、罪ある者に対する心からの同情の一言を、いつ聞いたというのだろう。……じっと没頭して考えていたとき、テオンが手紙を持って戻って来た。

 「ヒュパティアから最愛の弟子へ。
「貴君を気の毒に思います——当然でしょう。それにもまして、このたびのご依頼をありがたく思っています。今日の忌まわしい見世物に心ならずも出席したせいで、このうえなく高貴な希望として慈しんできた魂、それのために気高い運命を思い描いてきた魂との縁が切れはしなかったことが、ご依頼のおかげで分かりましたから。ですが——どう申しましょう。お目にかかるかどうか以前に、ご依頼の方に変化が——明らかに不可能なことですが——生じるかどうかを考えてみて下さい。このようなことを依頼されたからと言って、貴君を難じるほど私は非人間的ではありませんし、あのような女だからと言って彼女を難じることさえいたしません。彼女は己が本性に従っているだけです。ある生物をあまりにも卑しく低俗な本性によって特徴づけているのが、かくも公正な運命であるのなら、誰が立腹できましょう。どうして彼女のために泣くのです。彼女は塵であり、塵に還るのです。ですが貴君は生まれながらにいっそう神的な才知を配分されたのですから、上昇しなければなりません。泣き言を言わずに、血の繋がりなどというつかの間の偽の絆で結びついているにすぎないものを、己の下に置き去らねば」

 ピラモンは手紙をぐしゃぐしゃに握りつぶすと、言葉もなく大股に家に向かった。

 では哲学者には、売春婦に伝える福音は無いってわけだ! 罪深い者、卑しい者にかける言葉は無い。なるほど運命だ。彼女は己が運命によって悪く、惨めで、自ら罪に堕ちている。良識と理性の声が身のうちに生じるたびにそれを押しつぶし、縛られてはいないと分かっているはずのものに縛りつけられていると思い込もうとしてきたのだ。神ご自身の声によって伝えられる明白な悲惨に目を瞑り、罪の報いは死であることを見ようとしなかった。彼女は塵であり、塵に還るだろう。おお、彼女にとって、彼にとって、栄えある希望であることよ。そのせいで新たに見出された宝から引き離されるのなら、天上の永遠の歓喜も無価値に思えるというのに。彼女は塵であり、塵に還るしなかない。

 不幸なヒュパティア。ヘブライの聖書のあちこちから一句二句濫用せずに済まないのは学派の流儀にしろ、そのような句を引用するとは何という自殺的な夢想だろう。このときピラモンの記憶に、何か月も忘れていた古い言葉が光明の書となって閃き——ほどなく彼は、激しい調子で声に出して繰り返している自分に気づいた。『罪の赦し、体の復活、永遠の生命を信ず』……そうして、パリサイ人の家で食事の席についている神人と、涙でもっておみ足を洗い、自らの髪でおみ足を拭った女の姿が、ありありと眼前に浮かんだ。……そして苦悶する心の深淵から祈りが湧き起った。『祝福されたマグダレナ、彼女に許しあれ』

 そうして彼は立ち直れたのだが、乗り越えられたわけではない。神の力には神の愛があるのを忘れている世代、神人の神性を教義として熱心に主張するあまり、実際にはその人間性を見失っている世代の心においては、神人というその概念は、ますます果ての見えない畏い高みへと速やかに遠のいていたからである。またピラモンの心には、その年頃の精神がこだましており、自分のような背教者が当の根源に何か光や救いを乞い求めるのは図々しいとも感じていた。主を否定した自分、自らの意志でカトリック教会との繋がりを断った自分が——どうしてもとに戻れよう。どうすれば十字架上で死んだ神の怒りを宥められるというのか。何年ものつらい嘆願や自己懲罰によって?

「馬鹿だよ。愚かな空しい野心家だった。こんなことのために、子供の頃からの信仰を投げ捨てたなんて。こんなことのために寒気のする言葉を聞いて、自分の疑いや嫌悪を打ち砕いたなんて。あんな言葉とキリスト教を調和させられる——虚偽と真実を一致させられるなんて、自分に言い聞かせようとしたんだ。このせいで他とは違う者になろうと——そう、自分の種を超越した者になろうだなんて、空しい望みを抱くほどのぼせ上がったのさ。神の似姿として作られた人間というだけでは飽き足りず、何がなんでも善悪を知って自分自身が神になろうとして——そのあげくがこの体たらくだ。実際の人間として現実にあがいて、結構な哲学にただ一度助けを求めているのに、哲学は腕をこまねいたまま静座して、惨めな僕に黙って微笑んでいる。ああ、馬鹿だ、馬鹿だ。汝、己が計らいの果実に満てる者よ。かつての信仰に戻れ。家に帰れ、汝、放浪者よ。だがどうやって家に。門は僕には閉じられていやしないか。ことによると姉さんにも……。もし姉さんが、僕同様、洗礼を受けたキリスト教徒だったとしたら?」

 良心の嫌悪によって子供時分の信仰に完全かつ無条件に飛び戻った矢先に、かくも絶望的な恐ろしい考えが身を貫き、当時一般的であったあらゆる陰惨な理論が恐怖の限りとなって彼の前に沸き上がった。無垢で簡素なラウラではそんな理論に力があるとは思わなかったが、今はそれを感じていた。もしもペラギアが洗礼を受けた女だとしたら、絶え間無い贖罪のほか前途に何があろう。彼女の前にあるのは、また同じく彼の前にも、凍えと飢え、うめきと涙と孤独の人生、魂を病ませる恐ろしい不確実性。どちらにとっても今後の人生は牢獄だった。それならそれでいい。他には信じられるものなど何も無い。天にも地にも希望の拠り所は他には無い。それは少なくとも、許しと改心、美徳と報い——いや、永久に朽ちることのない祝福と名誉の可能性という望みはくれる。たとえそれを逃そうとも、砂漠の独房のほうが、当人は満足している淫らな生活よりも彼女のためになる。ヒュパティアの言うように、淫らな生活が彼女の運命なのだとしても、少なくともそれに抗い、戦い、運命を呪って死ぬべきなのだ。地獄の美徳は天国の罪にまさる。ヒュパティアは、天国の望みすらペラギアには無いとした。肉の復活は、ヒュパティアの洗練された高尚な教義にとっては俗すぎる概念だった。かくして彼は、四か月の夢を一瞬にして吹き払われ、急いで自分の小部屋に戻ったのだが、前途は一つの考えに凝り固まっていた——砂漠。ペラギアの独房と、自分の独房だ。そこで並んで悔い改め、祈り、人生を嘆こう、もしも神が二人の魂に慈悲をかけくださるのなら。いや——ことによると彼女はやはり洗礼を受けていないかも知れない。それなら大丈夫だ。彼女は異教からの他の改宗者のように洗礼志願者となって洗礼に至り、そこで神秘の水が一瞬のうちに過去をすべて洗い流す。彼女はしみ一つない無垢の長衣で新たに人生を始めるだろう。だが、自分が洗礼を受けたのは、アルセニウスの話では、アテナイを去る前だった。しかもペラギアは年上だった。無理なことだったが、それでも望んでしまう。不安と興奮に息詰まりながら狭い階段を駆け上って行き、表にミリアムが立っているのに行き当たった。彼女は手を閂に掛けており、明らかに彼が通るのを阻もうとしていた。

「姉さんはまだ中ですか」
「だったら何さ」
「入れて下さい。僕の部屋なんですから」
「おまえの? この四か月、誰がおまえの家賃を払ってたんだい。おまえが? あの子に何を言える。あの子に何をしてやれるんだ。学者気取りの青二才が。あわれな恋する子を助けようってのなら、自分で恋をしてみるんだね」

 だがピラモンに猛然と押し退けられて老婆は道を譲らされ、不吉な笑みを浮かべて続いて小部屋に入って来た。

 ペラギアは弟に駆け寄った。
「いいって? あたしに会ってくれるって?」
「もうあの人の話は止そう、大好きな姉さん」と言ってピラモンは、震える彼女の肩にそっと手を置き、真っ直ぐに彼女の目を覗き込んだ……。「僕ら二人、自分は自分で助けたほうがいいよ、他人の手なんか借りないで。僕を信じてくれる?」
「おまえが? おまえが助けてくれるって。教えてくれるの?」
「うん、でもここじゃ……。僕ら逃げないと——ああ聞いてよ、ちょっとの間だから。誰よりも愛しい姉さん、僕の言うことを聞いて。姉さんはここだと幸せすぎて、もっといい所を想像できないんだよね? それに——それに、おお神よ、どうあっても本当ではありえませんが——地獄なんていう後生は無いとかって?」

 ペラギアは手で顔を覆った——「歳取ったお僧さんに、そんなこと警告されたわ」
「ああ、その人の警告を聞いてよ」……そしてピラモンは、パンボやアルセニウスからよく聞かされた火と硫黄の湖や何やの話をどっと語りだしたのだが、ペラギアは彼を遮った。
「ああ、ミリアムさん。本当なんですか。そんなことありなの。あたしどうなっちゃうの」と、あわれな子供は悲鳴を上げんばかりだった。
「本当だったら何だい——そこからどうやっておまえを救うつもりか言わせておやり」と静かにミリアムは答えた。
「福音によって救われないとでも?——信無きユダヤ教徒め。反論は止せよ。僕は姉さんを救えるんだ」
「この子がどうやれば?」
「姉さんは悔い改められないとでも? こんな悪しき愛着を克服できない、許されはしないって? ああ僕のペラギア、許して。少しの間にしろ僕は寝とぼけていたよ、姉さんを哲学者にできるだなんて。姉さんは神の聖者かも知れないのに——」

 洗礼のことが脳裏をよぎり、彼は急に言葉を切って、ためらうような調子で尋ねた。「洗礼を、受けた?」
「洗礼?」と用語さえ分からず、彼女は尋ねた。
「ほら——司祭が——教会で」
「ああ」と彼女は言った……「今思い出したわ……四つか五つくらいの時だった……水槽があって、女の人が服を脱いで……あたしも洗ってもらったっけ。お爺さんがあたしの頭を三回水に浸けて……あれって何だったのかしら、忘れちゃったわ——ずっと昔のことだもん。そうそう、そのあと真っ白い服を着たわね」

 ピラモンはうめいて跳びのいた。
「かわいそうに。神がお慈悲を下さいますように」
「それって、神はあたしを許さないってこと? おまえは許してくれたわ。神は?——神はおまえと比べたってもっと善いはずよ——許さないはずないわ」
「神はこだわりなくお許し下さったんだよ、姉さんが洗礼をうけたときに。だけど二度目は許されないんだ、例外は——」
「好きな人と切れれば別だっていうのね!」とペラギアは甲高く叫んだ。
「主は、祝福されたマグダレナをこだわりなくお許しになって、信仰によって彼女は救われたのだとお告げになったけど、そのとき——彼女は罪にまみれて、いや世俗の喜びのなかですら生きていた? いいや、神がお許しになろうと、自分が自分を許せなかったんだ。荒野に逃れて、自分の髪を纏っただけの裸に裸足で、死ぬ日までそこで野の草を食べて飢えながら、祈っていた。人とは決して会わなかったけど、天使さまと大天使さまがお訪ねになって慰められた。堕落を繰り返したわけでもない彼女に、身を救うために長い贖罪が必要だったのなら——おおペラギア、洗礼の誓いを破って白衣を穢した姉さんにも、神はお望みになるんじゃないかな。その穢れをもう一度清められるのは贖罪の涙だけだよ」
「だけどあたし知らなかったのよ。洗礼してくれなんて頼まなかったし。ひどい。ひどい親よ、あたしにそんなことさせるなんて。ああ神さま。なんでそんなにさっさとあたしを許したりしたの。それで荒野に行かせるだなんて。そんなことできない。無理。見てよ、あたしがどんなに華奢でか弱いか。飢えと寒さで死んじゃうわ。怖くて寂しくて気が変になるわよ。ああ、それがキリスト教徒の福音なの? どうやったら賢く善くなって敬われるのか教わろうと思ってここに来たのよ。なのに、永遠の拷問を逃れる機会を得るためには、ここでこんな拷問みたいな恐ろしい暮らしをするしか、あたしにできることはないなんて言う。助かるなんてどうして分かるの。存分に惨めになるべきだなんてなんで分かる? 神さまが最後は許してくれるなんて、なんで分かるのよ。これって本当なんですか、ミリアムさん。答えて。でないとあたし、気が狂うわ」
「そうさ」とミリアムは冷笑して静かに言った。「これが救いの福音、善き知らせなんだ。ナザレ人の教えによるとね」
「一緒に行くよ」とピラモンは大声で言った。「僕も行く。絶対姉さんから離れたりするもんか。僕には僕で、清めるべき罪があるものね——そうできたら、僕も幸せなんだ——僕の独房の近くに姉さんのを建てよう。親切な人たちが僕らに教えてくれるよ。昼も夜も一緒に祈ろう、自分のために、お互いのために。辛い人生を共に嘆き暮そう——」
「今すぐ死ぬほうがましよ」と、ペラギアは絶望した身振りで言って、床に突っ伏した。

 ピラモンがペラギアを起こそうとすると、ミリアムは彼の腕を掴んで慌てて囁いた——
「気が狂ったのかい。自分の目論見をご破算にする気かね。なんだってこの子にそんなこと言ったのさ。なんで待って——希望を——我に返る時間を——恋人から引き離す時間を与えてやらんの。こんな、初手から脅して絶望させないでさ。おまえ、人の心ってのがあるのかい。このあわれなやつを慰める言葉は何も無いなんて、地獄、地獄、地獄ってだけ——まずは自分の後生を考えな。自分で思ってるより、地獄行きの可能性は高いよ」
「有り得ないよ、僕が思ってる以上だなんてこと」
「なら見るがいい。なんでこの子に望みを持たせてやらない、ああ可哀想に——私らユダヤ人ですら、ユダヤでないおまえらはみんな等しくゲヘナ行きだと知っとる者ですら、教えを知らぬそういうあわれなやつになにがしかの望みは持たせてやるのに」
「だったらどうして姉さんは教えを知らないんだ。恥知らず! あんたが姉さんを仕込んだんだろ。あんたが罪と恥に連れ込んだ。あんたが洗礼の記憶を忘れさせたんだ」
「忘れたほうがいいのさ。記憶があったってこのとおり、ぜんぜん幸せにならないんなら。死んでから思いがけずゲヘナで目覚めるほうがいいんだ、そのうえにこの世でもゲヘナに怯えて暮らすより。教えを知らないままっていうのも、おまえが見せつけるもんだから、もう教わりすぎってもんさね。この子に洗礼を受けさせた両親を呪うんだね、トペテの穴に行くまえに十年の快楽を与えたからって私を呪うより賢いよ。さあ、私に腹を立てなさんな。このユダヤの婆はおまえの友、そうしたけりゃ罵るがいい。この子は例のゴート族と結婚するのさ」
アリウス派の異端者と!」
「この子があいつを改宗させるさ、お好みならカトリックにね。何にせよこの子が欲しけりゃ、私の流儀で勝ち取らにゃ。機会はあったのに、おまえはそれを台無しにしたのさ。私のものは返してもらうよ。ペラギア、いい子だ。お立ち、女におなり。下で惚れ薬を見繕って、あの恩知らずに盛ってやろう。その日のうちにあいつはおまえに恋狂い、おまえがあいつにいかれたのよりもっとね」
「嫌!」と言ってペラギアは見上げた。「媚薬はだめ。薬はだめよ」
「薬だよ、馬鹿な子だね。この婆の腕を疑うのかい。去年カリスピュラが恋人にやったみたいに、あいつの知能を失わせるとでも思うのかい。あれはあの子が、私のところに来ずに、メガエラ婆の薬なんか信用したせいじゃないか」
「だめよ、薬はいや。魔法もいやよ。本当に愛してくれるんでなくちゃ。そうでなきゃ愛して欲しくない。あたしだから、愛される値打ちがあるから、あたしを素晴らしいと思って崇めて愛してくれるんでないと。——でなきゃあたしを死なせてよ。どん底のときだってそんなずるい手ぜんぜん要らない、アプロディテみたいに実力で勝てる女王だ、っていうのが自慢だったのよ。あたし自身に愛の魅力があった。それを無くしたんなら死なせて」
「こっちもあっちみたいに狂ってる」と、困惑しきってミリアムは声を上げた。「しーっ。何、階段を上がってくるあの足音」

 このとき、重い足音が階段を上って来るのが聞こえた……。三人ともぎょっとして動きを止めた。ピラモンは、自分を追う修道士たちが来たと考え、ミリアムは、オレステスの衛兵が自分を探しに来たと思ったのだった。そしてペラギアは、漠然と何かを、何もかもを恐れたのだった……
「奥に部屋は」とユダヤ女は訊ねた。
「無いよ」

 老婆はぐっと唇を結んで、短剣を引き出した。ペラギアは衣で顔を覆い、さらなる一撃待ち受けるかのように立ちつくして震えていた。扉が開き、入ってきたのは、修道士でも衛兵でもなく、ヴルフとスミッドだった。

「お盛んだな、若僧」と後者の名士が大声で言って、笑い声を上げた——「薄衣もか、んん? お馴染みの商売ってやつか、結構な地獄の門番女だよ。さて、今は出てってくれ。俺たちゃ、この若い紳士にちょっと用があるんでな」

 そこで、何も疑っていないゴート族のわきを通り抜けて、ペラギアとミリアムは階下に急いだ。
「少なくとも若いほうは、自分の用向きがちっとは恥ずかしいようだな。……さて、ヴルフ、小声で話せよ。俺は扉のとこで誰か立ち聞きしてないか見て来る」

 ピラモンは怒った様子で予期せぬ訪問者たちに対峙した。彼らにしろ誰にしろ、何の権利があってこんな惨めな恥辱の時に押しかけるのだろう。……だが次の瞬間には、何も間違ってはいないという表情でじっと彼を見つめて進み寄る老ヴルフに気を和らげた。ヴルフは日に焼けた分厚い手を差し伸ばした。

 その手をピラモンは握り、それから顔を覆うとわっと泣き出した。
「ようやった。勇敢な子だ。あれで死んどったとしても、何人たりともそういう死に方を恥じるには及ばん」
「では、あそこにいらしたのですか」とピラモンはすすり泣いた。
「いた」
 「それどころか」とスミッドは、その告白に悶える哀れな少年に言った。「俺たちは、飛び降りてって活路を切り開いてやろうと激しく思ったんだぞ、俺たちの何人かはな。少なくとも一人は、俺の知ってる奴だが、老いた血が一分で四歳のときみたいに熱うなった気がしたもんよ。むかつく野良犬どもめ。あの女を野次ろうってか、結局は。死ぬ前にいっぺん一時間たっぷり、あいつらをぶった斬ってやりたいもんだぜ」
「やってもらおうじゃないか」とヴルフは言った。「ぼうず、おまえの姉ちゃんに言うこときかせたいか」
「望みなしです——望みなし。離れる気が無いんですよ、姉さんの——アマールから」
「確かか」
「自分から僕にそう言いました、十分も経ってない。入っていらしたときに出て行ったのが姉です」

 驚きと後悔の呪咀をスミッドはほとばしらせた……
「そうと知ってりゃなあ! 我が父祖の霊にかけて、もう一回家に帰るよりここに来るほうが楽だってあいつに分からせてやったのによ」
「静かにしろ、スミッド。それが身のためだ。ぼうず、姉ちゃんが言うこときくようにしてやったら、あれを連れて行く気はあるか」

 ピラモンは一瞬躊躇った。
「僕が何をやってのけるかは、もうご存知でしょう。だけど暴力を使うのは無法でしょう、やっぱり」
「哲学者的な疑念は自分で片付けろ。こっちの提案は言ったぞ。正気の男でも答えは一つだろうが、まして狂った修道士だ」
「金のことを忘れてるぜ、大公」とスミッドは言ってにやりとした。
「忘れとらん。だがそんなことで躊躇うような悪い子だとは思わんぞ」
「だけど、よう知っといていいことだぜ。姉ちゃんのがらくたとかはアマールの贈物まで全部、姉ちゃんのとこに送ってやるよ、約束する。家にしたってペラギアに厄介かけて、俺たちが我慢できる以上に長いこと貸してもらう気は無いしな。すぐにもっと広い屋敷に移って、小商人の言い種で言や、もっと手広く商売をするつもりなんだ——な、大公」
「姉さんの金——あの金? 神よ、彼女をお許し下さい」とピラモンは答えた。「僕がそんなものに触れるような悪漢だと思うんですか。いや、決心しました。何をすればいいのか言って下さい、そのとおりにしますから」
「運河沿いの小路は知っとるな、あの家の左側の壁の下の」
「ええ」
「荷揚げ場の近くの、角の塔の扉も分かるな」
「分かります」
「明日、日没の一時間後に、十人ばかりがっちりした修道士を連れてそこに来い。それでわしらが渡すもんを受け取れ。その後はおまえの問題で、わしらには関係無い」
「修道士?」とピラモンは言った。「僕は公然と、教団全体と反目してるんですよ」
「だったら仲直りしろや」とスミッドは短く提案した。

 ピラモンは内心苦悶した。「僕が連れて行くのが誰でも、そちらには何も違わないのでは」
「手に入れた姉ちゃんを、おまえが運河に投げ込んで柵をようとしまいと変わらんのと同じことよ」とスミッドは答えた。「おまえの立場だったら、ゴート族ならそうするけどな」
「あわれなぼうずを困らせてやるな、おい。あの女を成敗するんでなく矯正してやれるとこいつが思っとるならやらせてみろ、フレイヤの名にかけて。じゃあ、おまえはあそこに来るんだな? いいか、わしはおまえが気に入っとるんだ。あのでっかい川の豚に向かっていくのを見て、いいと思った。今はあの時にもまして好きだ。何しろ今日のおまえはサガの男って語りぶりで、勇者みたいなことをやってのけたからな。だから気をつけろ。明日の晩は、いい護衛を連れて来んとおまえの命が危ない。町中が通りに出てくる。何が起こるか、四十八時間後に誰が生き残るか、ご存知なのはオージンだけだ。いいな!——暴徒はおかしなことをやるかもしれんし、やった以上におかしなことを目にするかもしれん。いったん無事に戻れたと分かったら、ここでじっとしとれよ。あの女や自分の命が大事ならな。で、だな——お利口なら、連れて来るのは修道士にしろ。お高くとまった腹の虫が引き換えだとしてもだ——」
「そいつはまずいぜ、大公。喋りすぎだ」とスミッドは遮ったが、ピラモンのほうは、お高くとまっていると言われた腹の虫をぐっとこらえて答えた。「そうします」
「賭けはわしの勝ちだ、スミッド」と言って老人は軽く笑い、二人はのしのしと通りに出て行ったが、近所中の者が驚き恐れ、子供たちは手を叩き、野良犬たちは、珍客の見慣れぬ姿に力一杯吠えかかるのが我が務めと心得た。
「賭け金無くして払い無しだな、ヴルフ。明日が見物だ」
「あいつが試練の場に立つのは分かっておった。性根の正しいやつなんだと」
「何にせよ、あいつがあのあわれなもんに辛く当たる気遣いは無えな。姉ちゃんのためなら不倶戴天の敵にも跪けるくらい大事に思っとるんならよ」
「どうだかな」とヴルフは首を振って答えた。「聞いた話じゃ、坊主どもってやつは、惨めであればあるほど神に嘉されると思っとるそうだ。となると、他のもんを惨めにしてやればやっただけ、そいつは神に嘉してもらえることになると思っとるかも知れん。まあ、わしらには関わりの無いことだ」
「今も今、やることでもう手一杯だしな。けど、いいか。賭け金無くして払い無しだ」
「当然だ。なんて混んだ通りだ。これ以上人ごみが増えたら今晩衛兵に会えんぞ」
「俺たちゃ、手前の身を守るくらいのことはできるだろうがな。そこであいつらがわあわあ言ってるのが聞こえるか。『異教徒どもはみんなやっちまえ』『蛮人どもをやっちまえ』って、いいか、あれは俺たちのことだぜ」
「おまえ以外には誰もギリシャ語が分からんなんぞと寝とぼけとるのか、あいつらにやらせりゃいい……そうすりゃわしらには口実ができるからな。……で、わしらは一週間はあの家に居られるんだ」
「けど、どうやって衛兵どもと話したもんかね」
「水路をすっと回って行こう。まあ結局は、言うよりやるが良しだ。やつらはわしらの側について戦わざるを得んようになろうし、きっとわしらの助けをありがたがるはめになる。何せ、暴徒が誰だか手出しするとしたら、都督が手初めだろうからな」
「ならよ——喧しいぜあいつら、呪われろ! 我らがアマールがかしらにいるのを戦士どもに見せてやれや、そうすりゃ奴らはアマールに従って一里も行く気になろうってもんさ、一間しか進まん気だったところをな」
「ゴート族ならそうだ。マルコマンニ族だの、あのダキア人だの、トラキア人だの、ローマ人がどう呼んどるにしてもだ。だがフン族は、わしは信用できんな」
「天に呪われろ、饅頭づらの豚まなこどもめ。俺たちの間にゃ、失せる愛も無かろうよ。けど、別隊に奴らが二十人散らばってるわけじゃねえ。俺たちは一人で三人片付けられるし、奴らは勝ってる側につくに決まってる。そんで掠奪、掠奪だよ、ご同輩。獣脂の山の匂いしかせんでもフン族がそっぽを向くなんて、あんたいつ知った」
「ガリア人とラティウム人のことなら」……とヴルフは考えに耽りながら続けた。「連中は金さえ払えば誰にでもつく」……
「俺たちは、自分のふところからは一銭、敵のふところからは九銭引き出せる。利口な大将ならみんなそうするな。で、アマールは大丈夫だろうな」
「あいつの猟犬同様にな。だが、ただちにやらにゃならんことがある。真のところは、あいつはまともな考えを持っとる。それはずっと分かっておった。だが、自分の人生の、自分の前にある二十四時間ってもんが、あいつは全然見えてなかった。今だって、例のペラギアがまた呪文をかけてあいつをとりこにしたら、剣を放り出して常の如くさっさとお寝んねだろうよ」
「心配すんな。そのことだったら、俺たちがあの女の行く先に方をつけてやったんだし、それがためってもんよ。見ろよ、入り口の人ごみ。裏門から入らんと」
「どぶから入れ、ネズミみたいに。わしは我が道を行くぞ。なじみの金槌とやっとこを引っぱり出せ、さもなきゃ逃げ出すんだな」
「時宜じゃねえがな」。剣を手にして二人が暴徒の真ん中に進み出ると、人垣は羊の群れのように道を開けた。
「こいつら、誰が飼い主になるのかもう分かってるな」とスミッドは言った。だがその瞬間、彼らが家に入ろうとしているのを見た暴徒は、『ゴート族だ! 異教徒め、蛮人!』と叫びをあげて背後から突進しはじめた。
「そっちがそういう気なら」とヴルフは言った。二ふりの煌めく長刃があたりをひらめき、上段を切るたびに朱に染まった。……老人は泰然たる歩みを止めもせず、門を敲いて入って行ったが、門前に残る命の失せた骸は一体どころではなかった。

「藁葺き屋根に石炭を押し込んでやったのさ、仕返しにな」と、中で剣を拭いながらスミッドは言った。
「ああそうだ。小舟と、手下を五、六人ほどくれ。ぐるっと運河づたいに官邸まで行って、わしとゴデリックで衛兵どもと一つ二つかたづけてくる」
「アマールが自分で出かけて、助けてやるって都督に言っちゃいかんのか」
「なんだと。その後でアマールを、猟犬に向き直らせる気か。誠実と名誉からして、あいつはその件に口出してはならん」
「黙ってることに異存は無かろう——それについちゃあいつを信じていい。けどサガの男『財布』の野郎を忘れるなよ、あらゆる弁士にまさる最高のやつを」とスミッドは笑って、漕ぎ手を呼びに行く後姿に言った。

最終更新日: 2009年2月23日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com