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ここがかの有名な織田徳川連合軍の馬防柵再現地!ここから見ますと倒れそうなぐらい貧弱ですが、ところがどっこい、非常に強固にできています。たとえ馬が
5 頭程度突っ込んでもびくともしなさそうです。動く城とは良くいたのもです。 |
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土屋右衛門尉昌次戦死の地です。昌次は信玄に将来を嘱望された青年将校でした。最後まで勝頼に従い天目山で「片手千人切り」の異名をとった土屋惣蔵昌恒の兄です。初戦は滝川軍を追い散らした土屋隊でありましたが、馬防柵を攻めあぐみ鉄砲にやられる味方を見て、自ら柵を倒そうとよじ登ったところを狙い打ちされたと伝わっています。昌次は勝頼にも非常に信頼されていた。信玄が没したとき、昌次は殉死を願い出たが高坂昌信に止められ、「今死ぬことは簡単である。しかし生きながらえて信玄公の遺志を守り、御曹司勝頼公のために尽くすのが武士の努め」と諭され、それ以来勝頼の良い相談相手になっている。子孫は家康公に引き取られ、大名となった。昌次、昌恒の武田家に対する忠誠が家康の心をとらえたともいわれる・・・ |
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丸山と大宮前激戦地。「このあたりは、設楽原決戦場のほぼ北端に位置し、大宮前激戦地と呼ばれている。ここ丸山は初め織田軍の佐久間信盛が陣を敷いたが、後武田軍の馬場美濃守信春がこれを攻め占領した」と書いてあります。佐久間は織田軍団の中でも「退き佐久間」と言われるくらい殿がうまかった。これを追い払った馬場はやはり格が違う!馬場は一国一城の太守になっても人後に落ちない真の名将と称された器量人です。 |
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武田信豊陣付近から見た、織田徳川連合軍の陣所 (左から鳥居元忠、滝川一益、羽柴秀吉が陣取っていた)。手前に見えるのが連吾川。調度堀のような役目をしていることがよく分かる。まさしく動く城!信長は地の利をよ〜く見聞し、武田軍は設楽原におびき出されてしまった。これは戦うべきではない!内藤隊は三番目の柵を越え、二十余人が徳川隊になだれ込んだが、本多忠勝の蜻蛉切りにやられてしまった! |