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大坂冬の陣の帰り道、徳川家康は彦根に一泊した。そのとき夜話に呼ばれた武将が居た。それこそ広瀬美濃守景房であった。年はすでに
80 歳はいっている (正確にはわからない)。かなりの長寿だった。陪臣である美濃守が呼ばれることは、非常に名誉である。しかし、以前より家康は、甲州系の武士を気軽に呼んで話しかけてくれる節があった。その夜は、昔の三方ヶ原、設楽原・長篠など、信玄公の頃の話で花が咲いたそうである。美濃守は、これが最後のご奉公になるといい、最後に家康にお願いをしたのであった。「どうかそれがしの息子を見ていただくわけにはいかないか?」と。あるいは家康の方から「子息はどうしている?」なんていうやりとりがあったのかも知れない。次の日、広瀬左馬助、河手主水則行、中野ら、二世武将と家康の対面がかなった。これで三武将は「家康お声掛かりの武士」ということで、大いに面目を施すことになった。このように、広瀬は陪臣でありながら、石高も千石
(左馬助の代で加増) でしかないのにも関わらず、家康と直接対面がかなう、当時著名な武将であった。
似たように、広瀬を武士として敬った話が彦根には伝わっている。彦根城を築城した奉行として名を連ねているのは、早川幸豊、孕石泰時ら甲州系武士の五人であるが、広瀬左馬助の名が連ねられている。これは広瀬美濃が山本勘助より甲州流の兵法の皆伝を受けたためとか、甲州武士の代表である美濃守に敬意を表してとも言われる。一つ言えるのは、実際の作業には従事していないことである。このとき美濃守は無役隠居として三百石を井伊家から与えられていた。
この左馬助は夏の陣で討ち死にしてしまう (木村重成隊との激戦。井伊家でもかなりの犠牲者を出している)。かなりの激戦であったらしく、首はすでに無く、甲冑の名前で左馬助を探したという。美濃守はこの養子である息子をかなり気に入っていたらしい。かれの悲しみはどのようなものであったであろうか?
今回は甲州遺臣、広瀬美濃守景房 (将房) にスポットを当てて紹介した。井伊家でどのような地位にあったのか、多少でもご理解いただけたら幸いである。広瀬についての論文は、高崎市在住の歴史研究家・水原徳言氏もすでに紹介している。こちらは広瀬家と上州についての考察であり、井伊家の広瀬とは少々異なる視点で執筆している。
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