関ヶ原の合戦

 関ヶ原の戦いでは広瀬美濃守景房は高崎留守居役であった。このとき関ヶ原に出馬したのは、養子の左馬助義房であった。左馬助は井伊家で直政の姉の家である中野助太夫三信の次男で、以後広瀬家は井伊家の親族とされた。この左馬助、広瀬家の養子に入る筆頭条件が面白い。本来なら部屋住みで終わってしまうかも知れなかったのにも関わらず、天下に鳴り響いた美濃守景房に注文を付けたのだ!養子にはいると同時に、養父の有名な白幌をもらい受けたいと。これは関ヶ原の前哨戦の岐阜城攻めで井伊家の一番槍を見事果たし、許されることになった。

 左馬助の姿を書いたのが、関ヶ原合戦図屏風である。この図には、「広瀬美濃」とあり、「広瀬左馬助」とはない。しっかり白幌も付けている。にもかかわらず、美濃守とある。井伊家で赤備えの旗指物の中に輝いている白幌は、美濃守であるという方程式がすでに江戸時代を通じてできあがっていたものと考えられる。それほどまでに美濃守景房は有名であったのだ。左馬助は暗愚ではない。しかし父が偉大でありすぎたせいか、自分の名を高める為なのか、大坂の役では討ち死にしてしまう。関ヶ原後、左馬助家は 1500 石中老格、美濃守は隠居無役 300 石を当てられた。

 

大坂冬の陣と広瀬左馬助

 大坂冬の陣の帰り道、徳川家康は彦根に一泊した。そのとき夜話に呼ばれた武将が居た。それこそ広瀬美濃守景房であった。年はすでに 80 歳はいっている (正確にはわからない)。かなりの長寿だった。陪臣である美濃守が呼ばれることは、非常に名誉である。しかし、以前より家康は、甲州系の武士を気軽に呼んで話しかけてくれる節があった。その夜は、昔の三方ヶ原、設楽原・長篠など、信玄公の頃の話で花が咲いたそうである。美濃守は、これが最後のご奉公になるといい、最後に家康にお願いをしたのであった。「どうかそれがしの息子を見ていただくわけにはいかないか?」と。あるいは家康の方から「子息はどうしている?」なんていうやりとりがあったのかも知れない。次の日、広瀬左馬助、河手主水則行、中野ら、二世武将と家康の対面がかなった。これで三武将は「家康お声掛かりの武士」ということで、大いに面目を施すことになった。このように、広瀬は陪臣でありながら、石高も千石 (左馬助の代で加増) でしかないのにも関わらず、家康と直接対面がかなう、当時著名な武将であった。

 似たように、広瀬を武士として敬った話が彦根には伝わっている。彦根城を築城した奉行として名を連ねているのは、早川幸豊、孕石泰時ら甲州系武士の五人であるが、広瀬左馬助の名が連ねられている。これは広瀬美濃が山本勘助より甲州流の兵法の皆伝を受けたためとか、甲州武士の代表である美濃守に敬意を表してとも言われる。一つ言えるのは、実際の作業には従事していないことである。このとき美濃守は無役隠居として三百石を井伊家から与えられていた。

 この左馬助は夏の陣で討ち死にしてしまう (木村重成隊との激戦。井伊家でもかなりの犠牲者を出している)。かなりの激戦であったらしく、首はすでに無く、甲冑の名前で左馬助を探したという。美濃守はこの養子である息子をかなり気に入っていたらしい。かれの悲しみはどのようなものであったであろうか?

 今回は甲州遺臣、広瀬美濃守景房 (将房) にスポットを当てて紹介した。井伊家でどのような地位にあったのか、多少でもご理解いただけたら幸いである。広瀬についての論文は、高崎市在住の歴史研究家・水原徳言氏もすでに紹介している。こちらは広瀬家と上州についての考察であり、井伊家の広瀬とは少々異なる視点で執筆している。

参考文献;

甲陽軍艦、井伊軍志、剣と鎧と歴史と (左二つ、中村達夫氏)、広瀬家と上州 (水原徳言氏)

広瀬郷左衛門景房

赤備え内の特殊な旗指物

三科伝右衛門形幸

小牧長久手の合戦

信州上田合戦

広瀬家の系図