広瀬郷左衛門景房

小牧長久手の合戦  家康から「英雄の武士」と賞された郷左衛門の姿!

 小牧長久手の戦いの時では、徳川連合軍は数において秀吉軍にはるかに劣った。家康は直政の与力衆のうち主立った三人を呼び秀吉軍の大群を見せて感想を求めた。その三人とは、広瀬美濃、三科肥前、早川弥惣左衛門の甲州系侍であった。広瀬等三人は家康旗本らの前で言葉は違うが同じ事を言った。少数であると。井伊家年譜によると、

「上方の武士に勝負の道安く存候者これなく候らえば、頭数ばかり多く候え共少数勢同意に可被思召・・・」。

中村達夫氏によれば、広瀬等のいわんというところは、「われら甲州勢からすれば戦の道を知っている者がいないから軍勢がいかに多くても恐るるに足りない」というらしい。「尾州長久手戦記」によると、

「森武蔵長可は、当時京家に於いて、鬼武蔵と皆が呼び、甚だ武威に誇るものなり、後軍継がざる以前に早々と一戦をとげ忽ち之を追い払い、三遠両国の武勇をば上方勢に知らしめ、其志を奪わん」とあるが、それを観た酒井忠次からみれば

「敵は羽黒をかたとり、備えのふくらを見せずばむつかしかるべきに、備えを押し出したるは知謀なき也」と「改正三河後風土記」にあり、かなり幼稚であったと述べている。そのような観点から広瀬等の意見が出たものと考えられる。広瀬、三科、早川らの言葉は、秀吉軍を見た織田信雄軍の恐怖心を抑えるのに非常に効果があった。広瀬等は日本最高と言われた武田軍の生え抜きであり精鋭である。彼らの言葉は非常に重きを成した。中村氏はこれを、家康の演出であると述べている。そうかもしれない。広瀬等の言葉を聞いて、酒井忠次は彼らを直政隊から家康本体の旗本にしたらどうだと進言したが、「年譜」には家康が

「直政備に彼等を指置く事は、子細あることなり」とはねつけたという。

 長久手の戦では、井伊隊は左翼三千を受け持った。家康自ら右翼で三千、それに信雄が予備として三千で計九千である。対する豊臣中入り軍は、首狭間に池田恒興の二千、息子元助・輝政で四千 (田之尻)。左翼は森長可が岐阜嶽に三千。両者の兵力は拮抗しているが、奇襲による三好・堀隊と連絡を絶たれ、しかも地形効果に有利な徳川隊が優勢であった。このときの甲州武士の戦い方は面白い。敵味方の過多を比較してお茶を濁していた人間が多い。敵の旗色が悪くなってきたところで初めて稼ぎ始めたそうである。このような姿を「武功雑記」は皮肉を込めて

 「敗北以後漸罷出候故、其手合不申候」

と記している。これは戦が巧みであるが故に、危険なまねを避け、味方が優勢になって初めて本気を出し始めると言うようなことである。しかし、本気で戦ったものもかなりいる。直政に付属している三科伝右衛門は、この地形を有効に利用して大将である直政に花を添えようと考えた。かれらはかねがね直政が、突飛な一騎駆けをする事を気にしていた。そして、

「真っすぐ懸かるはよろしからず。地の利をはかり、仏ヶ根の山腰を見え隠れに南に進み、敵の背後を突くべきである」と進言したが直政は、

「じゃまだ!」と言って伝右衛門を退かせた。その後、広瀬郷左衛門が走りより、

「無理働きはおやめくだされ!」と自重を促したがこれも却下された (武備軍要)。結局直政の一騎駆けを諫めることは誰もできず井伊隊は全軍が動き出した。これは直政にも考えが合ってのことであった。

 このときの一番槍は平松金次郎であった。古老伝話に、平松と井伊隊の和田主計 (元一条衆) の一番槍競争の逸話がある。 平松は茜の羽織に十文字槍をとって真っ先に出た。和田も負けじと馬を走らせ二間先に出たが、不覚にも石につまずき二番槍になった。結局平松は一番槍となり其の名は天下に響いた。和田は二番槍になった。平松はその後一万石で豊臣秀次に使えることになる。

 戦の半ば、森隊の横合いを安藤直次が鉄砲隊を率いて攻撃し、森隊は浮き足たった。鬼武蔵の最後は明らかではなく、柏崎物語りによると水野太郎作隊の杉山孫六、で銃による即死とある。しかし、小牧陣始末記によると井伊隊の足軽・柏原与兵衛とある。また時代は下るが、松浦静山の甲子夜話によると、兜が井伊家に伝わっているとある。事実、井伊家の柏原家に森長可の兜が伝わっており、現在は利光さんが所有している。また、小牧陣始末記の記述にも誤りがあり、柏原与兵衛はれっきとした士分であり、甲州遺臣で原衆である。しかし、このときまだ井伊家には仕えていない・・・・

 井伊家で功あった者は、

山県衆 石黒将監、石原五郎左衛門
原衆 根津太左衛門、柏原与兵衛
一条衆 和田主計、深田源内
土屋衆 関主水、向山久兵衛

また、直政隊の別方面で三浦与三郎元貞が一番槍、兄の次郎兵衛と中村与兵衛が二番槍であった (武備軍要・年譜・三浦家譜)。

 ここでも広瀬郷左衛門は良き敵二騎を討ち取り、家康から

「英雄の武士」

との誉め言葉を受けた。これで広瀬の名は天下に鳴り響いたのだ!また、井伊の赤鬼と言う名が付いたのもこのころであった。

広瀬郷左衛門景房

赤備え内の特殊な旗指物

三科伝右衛門形幸

信州上田合戦

関ヶ原の合戦図屏風

大坂冬の陣と広瀬左馬助

広瀬家の系図