広瀬の礼の馬

(甲州武士の質の高さを証明した戦作法)

上田合戦と広瀬美濃

 上田合戦と言えば有名な戦いである。家康が苦汁をなめ、真田に対して苦手意識を持つことになる戦である。上田合戦の発端は有名であるから詳細は省くが、本能寺の変後の無人と化した上州の地を自力で勝ち得たのが真田昌幸であった。そのとき真田は徳川の傘下として対北条の為に戦っていた。碓氷峠を塞ぎ、北条氏を牽制した。そのどさくさに紛れて自力で沼田、名胡桃、小河、中条、岩櫃を切り取った。ところが、徳川-北条の間に和議が成立し、

 「家康が甲州都留郡を得る代わりに、北条は上州沼田を得る」

という約束をしてしまったのだ。しかし真田にしてみれば沼田は家康の領土ではなく、自ら切り取った土地であり、譲る理由がない。そこで家康に代替え地を申し込んだが、そんな土地があるわけもなく両者手切れとなった。家康は真田をかなり甘く見ていて、自分が出陣しないばかりか井伊家に対しても直政は行かなくても良い、木俣守勝を大将として遣わせと言うのである。徳川方の大将は大久保忠世、柴田七九郎、鳥居元忠らである。武田の遺臣も数多く参戦し、曽根下野守昌世、今福和泉、保科正光、跡部大炊助、もちろん井伊隊にも山県、土屋、原、一条衆が同行した。
 まず、徳川隊は真田家に対して使者を送り降伏を進めた。真田はこれに対し

 「家康に対して合戦に及ふへきにあらす、城を開相渡し可申然雖、今三日御待有り賜り候へ」(真田記)

と返答した。これが世に名高い真田の戦法の始まりであった。時間を稼ぎ軍備を充実させると共に、上杉からの援軍を待っていたのだ! 徳川はこれを許し、更に三日延ばした。真田の城中には信玄の宿将であった故板垣信方の庶子で軍法に明るい修理亮が居た。彼曰く、

「敵をたふたふと入たて宿城までつけ入にとらせて、宿城放火の火に突て出て、大返しを以てうたば、寄手大群なりとも寄合勢なれば下知一挙すべからず、然ば大勝利疑なし」(武家事記)

ということで軍議が一致し、昌幸も同意した。
 無駄に時間を費やしている徳川方の中で、何人かは真田の奇策に気づき出した者が居た。広瀬郷左衛門、三科伝右衛門の二人は大久保忠世らに、

 「真田昌幸は幼少より信玄公の側近くにあり、信玄の采配をつくさに見習った男であるから、常人ではない。その知謀は計りがたいモノがあり、油断しない方がいい」と注意したが、
 「またまた古信玄の威光を持ち出したるわ」

と一笑にしてしまった。そのとき真田の陣から下記のような手切れの文章がきた。

「最前城を相渡由申すといえども御察しなされても御覧候へ、先祖より持来たる城なれば今苟も安房守か代にいずくんぞ可相渡や、然るうえは随分御攻候へ随分防戦仕り此城を枕にして相果名を後代に可残にて候」(真田記)

 大久保等は初めて真田にだまされたことを知り、あわてた。攻撃しなければならないが、敵情が全く分からない。そこでやっぱり頼りになるのは老朽の甲州武士であり、宣告換言した広瀬・三科に白羽の矢がたった。多少身分の上下はあっても、昌幸の采配ぶりを伺うには甲州老朽の士を使うに限ると判断したのだ!ここで広瀬郷左衛門が選ばれるわけだが、著者は思うに曽根下野は昌幸の盟友であったのであるから、そっちの方が適任とも言えるが・・・
 広瀬が城近くに馬を寄せると、城内の真田方は名高い白幌、しかも武田時代に知っている顔をみて

「なつかしや、あれに見えるは山県衆の広瀬郷左衛門ではないか!」

と言うことになり、真田隊は矢留をした。これに対して広瀬は、

「礼の馬乗様口伝也」(真田記)

とあるように難しい作法を人馬一体となって舞のような振る舞いを送った。広瀬の見事な武者ぶり、馬乗りに城方から賞賛の声が挙がった。しかし、三河侍にはこの作法を知る人も少なく、結局広瀬の斥候も広瀬の名を高めただけで終わり、収集された情報を分析することもなく攻撃に移ってしまった。そのときの記録として「木俣記録」には、

「兵部少輔人数を遣わされ木俣御名代に立候・・・大手搦手二の手にわかち押し寄せる。当手は大手一向然処に先手五備かぬ川の河原江段々に寄候時兼て上田の町より人数可出と心得当手脇道に掛り横入に可掛べしと存候所に備を立候所に案のことく真田自身采を取りて川を越て先手五備えを追い立てる。既に追打ちに可討処に当手横切にきつく掛り川江追込るたるに依て崩れたる人数取て返し其夜は河原に陣を取る。」

 真田の奇襲により完全に突き崩されたが、井伊隊の横槍によって徳川隊は敗軍を免れたそうである。本記載は改正三河風土記によっても徳川隊の総崩れについては述べられているが、井伊隊の活躍に関しては述べられていない。
 しかし、徳川隊がすべての戦で負けたわけではなく、八月二十日の丸子表に出馬した昌幸、信之父子に対しては力戦し、岡部長盛隊で、後に井伊家に仕える所藤内具勝が感状を家康から貰っている。彦根では、
               所藤内槍所藤内、所藤内白袴
という武功をたたえる歌があったそうである。

 

参考 中村達夫著「井伊軍誌」、稲垣史典「戦国武家辞典」

広瀬郷左衛門景房

赤備え内の特殊な旗指物

三科伝右衛門形幸

小牧長久手の合戦

関ヶ原の合戦図屏風

広瀬家の系図

大坂冬の陣と広瀬左馬助