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辻弥兵衛と広瀬郷左衛門、三科伝右衛門の采配許可を巡っての公事裁判が、甲陽軍艦に記されている。山県隊の中では永禄十一年、小菅五郎兵衛がたった一人采配を許されていたが、その後しばらくして甲州軍中すでに名が響いていた広瀬、三科の二人にも許されることになった。采配を持つ武士は部隊の指揮者であり、"名誉の武士" であった。 まず、登場人物である辻、広瀬、三科の三人について少し解説したい。 |
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裁判官である奉行は、武藤喜兵衛 (真田昌幸)、曽根下野守昌世、三枝勘解由左衛門守友、今井新左衛門という若手中堅武将であるが、四人とも将来を期待されている武士である。形通りに裁判は進み、被告の広瀬、三科が代わる代わる言った。 「武士の公事裁判は相手に不足がないときにするモノである。今回の弥兵衛殿では、我々は不服である。弥兵衛殿は川中島の合戦以来、まだ十三年程度しか働いてござらぬ。それにまだ二十九歳である。感状も二・三通しかもってござらぬではないか!御奉行衆もよくお聞きくだされ。われら広瀬、三科の両人は、三科は十八歳、広瀬は十六歳で平沢合戦より戦い初め、当年まで三十一年間働いてきました。この間に三科は十六の首を取り、采配首は七である。感状は十五通いただいた。広瀬は首を取ること五十九、うち采配首は十一で感状は十五通所持していおりまする。」(郷左衛門) なるほど大変なものだという表情が奉行連の顔に浮かんだ。 「われらが討ち取りし首は、諏訪、村上、小笠原、上杉、北条衆の中でも、奉行、足軽大将、あるいは名のある者ばかりでござる。板垣信方様の下での軽井沢合戦の折りには、信方様は一の膳、二の膳、三の膳というように席をもうけたが、三科は諸岡隼人、広瀬は藤田丹後を討ち取り、一の膳の左右に座りました。いま山県隊では、上野豊後殿が二の膳、曲淵正左衛門殿が三の膳でござった。 奉行連は、無言のうちに二人の良い分を認めた。これだけの功名者にいんねんをつける理由が弥兵衛にはあるまいと思われた。しかし弥兵衛は平然と大きな声で反撃した。 「場数や首の数だけでは、実の伴わぬおおぼらでござる!」(弥兵衛)と、かれは決めつけた。それから 「我等が親の六郎兵衛は、感状は十七通までいただき、割ヶ嶽の戦いでは、原美濃守様と一緒に働き、討ち死に申し上げたのは信玄公が良くご存じのはず・・・・親のことを自慢するわけではないが、首や証文ではいっこうに驚き申さぬ!」(弥兵衛) と言って、二人の先輩の顔をゆっくり見て、次ぎのように言った。 「十三年この方、若くはあっても、それがしはおのおの方より勝った働きをしたつもりでござる。広瀬殿はたしかに多くの首を取られた。それがしは五つでござるが、それがしがとったのは鉄漿 (かね) を真黒に付けた首で、ぷんぷん鉄漿の匂いが致し申した。おのおのの取った采配首よりはるかにましでござろう」(弥兵衛) 「そんなことはない!采配を持っている武士より上の者はない!」(伝右衛門) と断言した。 「それなら、おのおのは三十一年も働いてきて、采配も許されぬのに、山県三郎兵衛内では広瀬・三科を越す者はいない、などと高言されたのはなぜでござる?」(弥兵衛) 「それは言うに及ばぬ、われらに手柄があったからじゃ」(伝右衛門) 「それがしはそうは思わぬ。手柄手柄と言われるが、近頃は他の人に越されっぱなしではござらぬか!」(弥兵衛) 「いや、越された覚えはない!」(伝右衛門) 「いや、有り申す」(弥兵衛) ここで、弥兵衛は自分の手柄が二人を超えたのを言いたかったが、控えた。三科も、このごろの若者達のめざましい働きと、自分たち五十歳に近い年齢を思ったようでちょっと黙った。三科に比べて広瀬は議論になってからもほとんど何も言わなかった。名馬もおいればただの馬、と言うことを思ったのかもしれない。 「采配を持っている者より上の武士はいないなどと言いながら、おのおの方は今采配を許されようとしているのだから、今までの三十年間は、覚えの者ではなかったわけでござるな?さてさて、二人は理屈に合わないことをお言いでござるな〜」(弥兵衛) 弥兵衛はそう言って笑った。三科・広瀬の二人は虚をつかれ、完全に黙ってしまった。かなりの屁理屈であるが、昔の手柄は今の時代には役に立たない、と言うことを言いたかったのだ。采配を許すなら、自分のように優れた若者を度外視すべきではない、というのが弥兵衛の理論であった。しかし、戦は経験も重要であり、三科・広瀬の采配については問題なく、弥兵衛の采配をどうするか?というのが問題だったと思われる。奉行衆がまだ若かった事は否めない。後に有名な武藤喜兵衛昌幸、曽根下野守昌世、三枝勘解由左衛門らでさえ弥兵衛に言いくるめられてしまったのである。弥兵衛の口舌がいかに功名であったかが伺い知れる。これでかなり弥兵衛が有利になった。 弥兵衛は、「御奉行衆、お聞きくだされ。源義経公の片腕・武蔵坊弁慶も堀川夜討ちのとき、棒を持って敵の多くを討ち取りましたが、首を一つ二つ取った、伊勢三郎義盛の方が誉めそやかされております。義経公が訳が分からなくて誉めたわけではござりません。三科・広瀬の両氏の」首級が多く、弥兵衛が少ないといえども、それによってこの弥兵衛の戦働きが劣ると言うわけでもござりますまい・・・」(弥兵衛) これを聞いた広瀬・三科は 「弥兵衛の口車に取り合っても、始まらぬ!」(三科・広瀬) と揃って言い、この公事裁判はひとまず閉廷した。奉行衆は最高責任者である御館信玄に報告しようとしたが、その必要は無かった。隣の部屋で、馬場美濃、内藤修理、高坂弾正等と共に、この公事の一部始終を聞いていたのだ!信玄公は、弥兵衛が弁舌も巧みであり、その器量が非常に優れているのを感じ取り、 「さすがは六郎兵衛 (弥兵衛の父) の倅、母が小幡山城の娘であるからあのような逸者が生まれたのであろう。良くできるやつだ。小菅・広瀬・三科が亡くなっても、山県隊の備えに穴が空くことはあるまい。わし一代にこのような優れた若者が日を追って多くなるのは、ひとえに八幡大菩薩のおかげであろう・・・」(信玄) と、美濃たちに感想をもらしたそうである。それから二・三日して、信玄は八幡宮に神楽を献じ、館内の毘沙門堂で、諸侍のために護摩行った。続いて弥兵衛に使いを立てて、 「広瀬・三科に采配を許さねば、山県隊は大部隊であるから命令が行き届かない。届きかねると先鋒が弱くなる。弱くなると合戦に遅れをとってしまう。遅れをとると世間では三郎兵衛の負けとは言わず、この信玄の負けというであろう。 と言い、弥兵衛に十五貫、弟甚内・弥惣にもそれぞれ五貫ずつの加増をした。一方の三科・広瀬は、信玄が重臣達と軍議をする部屋に呼んで、自ら采配を授けて、本の采配衆とした。 三科・広瀬は長篠合戦後、足軽大将に昇進した。しかし、まもなく武田家は滅びてしまった。両名の井伊家での活躍は、武田家の采配衆として恥じないものであり、若い直政を良く補佐し、家康にも陪臣という身分でありながら、非常に目をかけてもらった。武田家滅亡後も、甲州武士の質の高さを物語る話がいくつかあるので、また別の機会にこちらも述べていきたい。 長い文章をお読みいただき、有り難うございました。 |
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