飯富虎昌のお墓

 山梨県中富町飯富 (いいとみ) に、飯富虎昌のお墓があると聞いたのは、今年の二月 (2000 年 2 月) でした。大阪在住の T さんからの情報でした。今回 T さんが飯富虎昌のお墓に行ってきたとのことで、写真を頂きましたので掲載させていただきます。

 中富町飯富は、武田時代飯富氏の領地があったと言われている土地であり、また、この地を領して飯富と名乗ったとも言い伝えられています。現在も御子孫の古屋氏がお住まいであります。江戸時代の古屋氏に関してはこちらへどうぞ!

 飯富虎昌は、義信謀反事件に連座した関係上、守り役であることから切腹したとも、自害させられたとも言われています。しかし詳細なことは甲陽軍鑑と、上州小幡源五郎宛の書状に述べられているくらいで正確なことはわかりません。義信の側近達は処罰、義信衆は追放となり、とくに虎昌には重い刑が処されたようです。色々説はありますが、ここでは私見は述べません。

 こんな山道を通って行くそうです。分けがありまして、飯富公のお墓は土中に埋もれていたそうですが、ちゃんと掘り出して現在のようになっているそうです。

 人知れないようなところに、武田の宿将のお墓があります。謀反人として処罰されたための遠慮もあったようです。

 まわりに小さなお墓がありますが、墓碑も読むことが出来ない程に風化しています。
 一説によると (地元の方のお話では)、家臣達のお墓だとか・・・。

右・・・古屋弥右衛門昌時のお墓 (虎昌の子)

 虎昌のお墓はよくわからないと言われていますが、ここにあることは間違えなさそうです。あと天沢寺にもありますが、菩提寺であったためかと思われます。台風で倒壊してしまったため、このように不自然になっているそうです。とにかく風化が激しくて土地の人でもよくわからなくなってしまっているそうです。

 義信衆は全員処罰・追放と言うことになり、優秀な家臣を手放すことになしました。信玄公にもつらいことであり、家中に以後このようなことが二度と無いよう、生島・足島神社に起請文を奉納します。これは信玄公が家臣団から誓詞血判を持って忠誠誓わせた証拠であり、家中に動揺を招いた証拠でもあります。その時の奉行は浅利信種であります。

 義信衆で日の目を見たのは、たった一人しかいません。それも武田家に帰参がかなった珍しい例です。雨宮重兵衛家次です。

 義信謀反説は甲陽軍艦のみで記載されている事件でありまして、真相はよくわかっていないのが事実であります。甲陽軍艦の記載は江戸時代の武田旧臣達の話を集めた物であり、軍事外交の機密事項
などについては真相を得た物は、非常に少ないというのが現在の研究家達の結論であります。二人の死は非常に重要であり、真相を知っている者は当時 (甲陽軍鑑成立時) いなかった。世間に流布されている噂話が軍艦に記載されているにすぎないというのです。二人の死は「泣いて馬謖を斬る」と同じく、駿河経営の犠牲になったと見るのが妥当であります。義信は幽閉の後切腹。飯富ら四人に切腹、義信衆といわれる 80 騎を追放等にしたとあります。

 雨宮十兵衛家次という若い武士がいました。十兵衛は、信玄公の娘が後北条家輿入れしているのをたよって、後北条家に仕え、三年間に七回も手柄を立てました。そのうち四回は一番槍であったそうです。この噂は山を越えて甲州にも伝わりました。高坂弾正が信玄に

「呼び戻して我が家臣にしたいので、今までの罪を許してほしい」

とお願いして小田原に使いを出したところ、槍を担いで古巣に戻ってきたそうです。このように、義信衆で日の目を見たのは雨宮十兵衛家次ただ一人であったと伝わっております。

 しかし、この家次も、長篠・設楽原の合戦で戦死してしまいました。

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飯富性の由来

武田の中枢

甲山の猛虎

虎昌から見た義信謀反事件

太郎義信生存説

弟、山県昌景

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