甲山の猛虎

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 戦国の世に知られた「武田の赤備え騎馬軍団」の首領、兵部少輔虎昌は、「甲斐の猛虎」として恐れられ、豪勇、老練な荒武者であった。武田家譜代の重臣として板垣信方、甘利虎泰らとともに信虎、信玄の二代に渡って活躍し、数々の戦功をあげた宿将の一人である。

 武田家の信濃進出では、虎昌の活躍は「甲山の猛虎」と恐れられた。村上義清、小笠原長時らはだいぶ苦汁をなめさせられたようである。注目は上杉謙信率いる 8000 の兵をたった 800 にて打ち破っていることである。

 まさに「甲山の猛虎」と異名された虎昌の武勇を象徴している。信玄は虎昌に元服近い嫡男太郎義信の守役を命じた。つまり、後継者の教育係りに任じられたわけで、武門にとってこれ以上の名誉はない。それほどに信玄の信頼を得ていたわけである。しかし十年後、義信に謀反をそそのかした張本人としてのレッテルを貼られてしまうことになる。

小諸城あと (撮影-町殿)、虎昌は小諸城を北信進出の重要拠点と睨んでいた!

(本写真は町殿御協力で掲載しております。ありがとうございました。)

飯富の赤備え
 

 虎昌の赤備えは日本における元祖赤備えである。彼の戦ぶりは、「火の玉が飛んでくるようである」といわれた。武田家滅亡後、家康は信玄の戦陣に望む用兵などを遺臣達に言上させた。これが後井伊家に伝承され、「井伊家天正記」として伝えられた。虎昌の武勇は弟昌景、井伊直政を経て今日まで伝わることになる。真田幸村の赤備えも祖父、父が武田家の重臣であることから、赤備えのルーツは武田信玄、それも元祖飯富虎昌にあるようだ。


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飯富性の由来

武田の中枢

弟、山県昌景

虎昌から見た義信謀反事件

太郎義信生存説

虎昌のお墓

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