義信謀反事件の真相

 

 永禄八年(1565)十月、武田家中を震撼させる大事件が起こった。虎昌ら義信側近達が義信を新国主に擁立し信玄を謀殺しようと企てた陰謀が発覚、義信は東光寺に幽閉され、首謀者の虎昌ら主だったもの八十人が処刑、または追放された。義信追放事件は「山県」の項でも書いたが、これは「甲陽軍艦」以外はほとんど記載されていない。しかも、軍艦では永禄七年七月となっているが、御坂町美和神社の「甲州二ノ宮造立帳」に永禄八年六月の日付けで義信の寄進状が残っている。よって軍艦説は偽りである。甲斐国志では「永禄八年、陰謀の発覚があって幽閉される。十月十九日に剣を賜って自害」とある。


 
義信謀反事件の真相はいまだ闇の中であるが、信玄が西上野、小幡源五郎に送った手紙に、十月二十三日の日付けの書状に

「飯富兵部が信玄、義信の間を裂く陰謀が露見し、死罪にした。しかし、父子の間は本来何とも無かったのだがB」

とあり、陰謀の罪を虎昌のみに着させている。これは、信玄がわざと家臣に罪を着せることで、肉親の罪を救ったといえる。なぜなら、このあと弟三郎兵衛への扱いはなみなみならぬものがあるからである(その期待にこたえて昌景はすばらしい働きをし、信玄の期待を裏切らなかった。)。また、本来謀反人は斬首であるが虎昌の場合切腹である。これは今までの功に対する信玄の思いやりかもしれないが、著者は信玄と虎昌の暗黙の了解で罪を虎昌一人に着せ、武田家に傷が付かないようにしたのではと思う?信玄は虎昌が謀反を起こすような人間ではないことを十分承知していたものと思われる。虎昌は義信をかばい、死んでも武田家に忠誠を尽くしたのではなかろうか?

 甲陽軍艦の記載は江戸時代の武田旧臣達の話を集めた物であり、軍事外交の機密事項などについては真相を得た物は、非常に少ないというのが現在の研究家達の結論であります。二人の死は非常に重要であり、真相を知っている者は当時 (甲陽軍鑑成立時) いなかった。世間に流布されている噂話が軍艦に記載されているにすぎないというのです。二人の死は「泣いて馬謖を斬る」と同じく、駿河経営の犠牲になったと見るのが妥当であります。義信は幽閉の後切腹。飯富ら四人に切腹、義信衆といわれる 80 騎を追放等にしたとあります。



飯富性の由来

甲山の猛虎

弟、山県昌景

虎昌から見た義信謀反事件

武田の中枢

虎昌のお墓

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