飯富 (おぶ、いいとみ)

 「いいとみ」とも読み、清和源氏満快流の氏があり、源太宗季が所領の上総国望陀郡(もうだ)飯富荘に住して飯富を称した。「吾妻鏡」によれば、元暦二年六月五日の条に、「季貞の子源太宗季(のち逸見冠者光長の猶子となり宗長とあらたむ)とあり、宗季は矢作りが上手く、御家人に登用される。また頼朝の奥州藤原氏征伐のときに宗季が出陣している。
 「
甲斐国志」によれば、宗長が逸見冠者光長の猶子となったことから、巨摩郡飯富郷(現、山梨県中富町)を領したことに始まると考えられる。永正十二年、飯富道悦、源四が討ち死にしたと書かれている。

飯富氏のご子孫、古屋氏と日蓮宗本山久遠寺との関係。

古屋矢次郎昌光が身延山久遠寺に対して数々の功績を賞され享保四年 (1719 年) 十一月吉日、日宗上人より授けられた曼荼羅。飯富兵部少輔虎昌の遺児古屋弥右衛門昌時の四代目」と書かれている。

 また道悦の子が武田信虎、信玄に仕えた虎昌である。巨摩郡亀沢 (現敷島町亀沢) の天沢寺は飯富氏の歴代の菩提寺である。
 巨摩郡飯富村の江戸初期の浪人古屋昌光は虎昌五世の子孫で、虎昌自刃のとき四歳の遺子坊麻呂を知人がかくまい、京都三条家で養って古屋昌時と名のった。のち飯富村に土着して子孫は古屋性として続いた。中富町には兵部平など、飯富氏に関係した土地の名が現在でも残っている。現在も古屋氏として虎昌の血は受け継がれている・・・・
 


虎昌のお墓

武田の中枢

甲山の猛虎

虎昌から見た義信謀反事件

太郎義信生存説

弟、山県昌景

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