古典ギリシャ語(Classical Greek)は何千年も前のギリシャ語です。ほかの言語に比べて変化は少ないとはいえ、現代ギリシャ語とは発音も文法も異なり、そのまま通じるものではありません。
しかし実生活上で使われていないとはいえ、古典ギリシャ語は死んだ言葉ではありません。ギリシャ語やラテン語といった西洋古典語は西洋の諸言語に大きく影響しているからです。古典語に由来する言葉を使わなければ、日常会話レベル以上の複雑な内容を西洋の言葉で表現することはできなくなっています。
たとえば、history。これは(ヒストリアー: 研究、物語)というギリシャ語に由来します。historyのhisというのが女性差別的だ、別の言葉に変えろという議論があったそうですが、historyは英語の人称代名詞の男性形とは何の関わりも無いのですからおかしな話です。
rhetoric、これもギリシャ語の(レートリケー: 修辞)がもとになっています。rhetoricと妙なところにhが入るのはギリシャ語の綴りに由来します。
そのほか思いつくままに上げるとhydrogen(水素)と(ヒュドール: 水)、dialogue(対話)と(ディアロゴス: 対話)、metamorphosis(変身)と(メタモルフォーシス: 変形)などなど、和訳した時に漢語になるような言葉はギリシャ語と繋がっていることが少なくありません。西洋の諸言語にとって古典ギリシャ語は、日本語にとっての漢文・漢語に相当するものなのです。
ギリシャ語原典のデータベース(CD-ROM)。2001年現在、6625作品、1823人分のギリシャ語著作をカバーしており、今後も追加の予定。古典ギリシャ語には膨大な量の蓄積があります。
現在知られている最古のギリシャ語は線文字B(Minoan linear script B)、紀元前1400年頃のものと推定されています。
発見者はイギリス考古学者、アーサー・エヴァンズ卿(Sir Arthur Evans)。卿は1900年頃からクレタ島のクノッソス遺跡の発掘を進めていた人です。王宮跡から出土した文字の刻まれた粘土板を研究するうち、卿はその文字体系が二種類に分けられることに気付き、古いと思われるものを線文字A、それより新しいと考えられるものを線文字Bと名付けました。
どちらもギリシャ語とはまったく異なる文字で、卿は古代クレタ人の言葉(ミノス語)だろうと考えたのですが、結局解読できないまま1941年、90歳で亡くなります。
その11年後の1952年、ようやく線文字Bはマイケル・ヴェントリス(Michael Ventris)という建築家によって解読されるのですが、解読者本人も驚いたことに線文字Bはギリシャ語だったのです。これによってエヴァンズ卿の説は覆されることになりました。
【線文字B関連サイト】
Linear B : AncientScripts.com内。線文字Bの字母の画像を掲載。同サイト内には線文字AのページLinear Aもあります。
【マイケル・ヴェントリスについて】
早熟な人だったらしく、7歳の時に既にエジプトの象形文字に関する本をドイツ語で読んでいたそうです。線文字Bとの出会いは14歳の時。エヴァンズ卿の講演を聞いてクレタ島の粘土板文書のことを知り、いつかこの未解読の文字を読み解くのだと決心するのですが、長じても考古学者にはなりませんでした。建築家として活躍する傍ら余暇を利用して線文字Bの解読に取り組み、少年の日の夢を果たします。
線文字Bの解読の4年後、1956年に34歳の若さでヴェントリスは亡くなります。交通事故でした。ヴェントリスと線文字Bの話は、彼の友人の手による
で読むことができます(学芸書林版もあり)。
線文字Bはクレタ島のほかにギリシャ本土のピロスの王宮跡からも出土していますが、どちらも同じです。少なくとも書き言葉としては、線文字Bの時代のギリシャ語には方言はありません。
ところが紀元前8世紀から5世紀頃になると、書き言葉としても方言が見られるようになります。方言の多様さはギリシャ語の特徴の一つであり、町ごとに言葉が違うと言っても良いほどです。
そうした方言のうちでも特に重要なものとして以下の方言が揚げられます。
これらは文学語(literary dialect)として高いレベルにあり、単なる方言とはいえません。
イオニア地方は古くから文化の発達した地域であり、ギリシャ語の散文は従来イオニア方言で書かれてきました。ヘロドトスの『歴史』がイオニア方言の散文の代表的な著作です。
しかしアッティカ地方の都市アテナイが興隆するにつれて、紀元前5世紀頃からアッティカ方言が散文の標準語となりました。哲学者プラトンなどに見られるギリシャ語です。
文化・経済・政治の中心地となったアテナイには各地から人々が流れ込み、アッティカ地方の出身ではない人々がアッティカ方言を使うようになったことから、やがてアッティカ方言の純粋さが失われてゆくことになりました。この頃のギリシャ語の代表としてはアリストテレスの著作が挙げられますが、彼もアテナイ出身ではなく、エーゲ海の北、スタゲイラの生まれです。
このような状況から、アッティカ方言にイオニア方言やそのほかの方言が混じった言葉が生じました。これがコイネー(Koine)と呼ばれるギリシャ語です。
コイネーはマケドニア帝国の標準語として帝国各地に広まって行きました。マケドニアは現在のマルセイユからインダス河に至る広大な帝国です。この全域でコイネーが使われたわけですが、しかし文献、書き言葉として見る限り均質で方言はありません。コイネーはやがて現代ギリシャ語へと繋がっていきます。
紀元前二世紀以降、ギリシャは政治的にはローマの勢力下に入りました。しかし文化的な面ではローマをしのぐものがあり、ラテン語ではなくコイネー、ギリシャ語が東地中海の国際語となります。新約聖書がラテン語ではなくギリシャ語で書かれているのはこのためでした。大勢の人に読んで貰うためにはギリシャ語で書かなければならなかったのです。
新約聖書や教会教父文書といったキリスト教関係の著作のほかに、ポリュビオスの著作にもコイネーが用いられています。しかしコイネーの時代になってもアッティカ方言こそが正統なギリシャ語だとして、ルキアノスのようにアッティカ方言で擬古文をものする向きもありました。
コイネーはアッティカ方言から発達したものであり、アッティカの散文はイオニア方言の影響を受けています。アッティカ方言を学べばコイネーに進むこともでき、またイオニア方言に戻るのも容易であるためか、古典ギリシャ語文法の入門書の多くはアッティカ方言を中心にしています。
古典ギリシャ語の正しい発音を初めて問題にしたのは人文学者エラスムスでした。彼の問題提起により、いわゆるエラスムス式発音が整備されることになります。
ギリシャ語の発音は時代によって変化していますが、一般に古典ギリシャ語では紀元前5世紀から4世紀、ペリクレスの死(429 B.C.)からデモステネスの死(322 B.C.)までの期間に行われていたと推測される発音を標準としています。
手に入れやすいギリシャ語の辞書としては次のものがあります。