飯富虎昌 (???-1565, 兵部少輔)

 飯富氏は、甲斐源氏逸見光長の子が飯富源内長能と名乗ったことから始まると言われているが、諸説ある。少なくとも甲斐源氏の流れを汲み代々武田家の重臣であったこととは間違えない。

 虎昌は武田信虎に従い信州佐久に進出した際、同地方の守備隊長として内山城を預かった。1541 年信虎と晴信の確執の際、板垣、甘利らと共に信玄擁立派の中心的人物になり、クーデターを成功に導く。晴信の長子、義信誕生後はその守り役となり、晴信の信用が高いことがうかがい知れる。1548 年、村上義清を助けるべく上杉景虎が 8000 の兵を率いて内山城を包囲したが、虎昌率いる 800 の兵に翻弄され退散している。

 1565 年、今川から妻を迎えている義信が謀反を企てた。落ち目になって今川家を見限るべきではないという、当時の苦肉強食の世界では生きていけないようなことを言い出したのである。信玄への不満を守り役虎昌に相談するが、虎昌は武田家の行く末は義信では危ないと判断し、弟、飯富源四郎 (山県昌景) に話が漏れるように画策する。信義は幽閉され、罪を一身に負った虎昌は同年八月に自刃した。


山県昌景と飯富虎昌の墓 (山梨県敷島町天沢寺)。天沢寺は代々飯富家の菩提寺で、道悦公、虎昌公、昌景公が静かに眠る。虎昌のお墓は中富町飯富にもある。

飯富性の由来
飯富家の由来と虎昌の子孫について

武田の中枢
信玄擁立の立役者としての虎昌

甲山の猛虎
虎昌の対信濃戦

虎昌から見た義信謀反事件
太郎義信謀反事件の真相は?

太郎義信生存説
太郎義信は奥州に落ち延びた?

弟、山県昌景
弟も非常に優秀な武将であり、兄弟で武田を支えた!

虎昌のお墓
山梨県中富町飯富の飯富氏のお墓!