将軍の首 (車善七と塩谷刑部) 2

 しかし、家康に付く大名衆としては加藤清正、福島正則ら武断は七将に加え、前田利長、伊達政宗ら蒼々たるメンバー。それに加えて三成派は、上杉景勝、宇喜多秀家、五奉行のうち四人とちょっと物足りなさを感じることを拭えない。

 「たとえ俺が入ったとて武力では家康にはかなうまい」

 なんと言っても石高 (家臣、兵力の動員数の指標)、人物の格がちがう。また、家臣の質も他の大名家とは比べようもないほど綺羅星のごとく揃っている。上杉も自分義宣も父親の後を継いだにすぎない二世大名で、苦労を知らないと言えばウソになるが、家康ほどの苦労はせず、戦上手でもないことは歴史を見れば明らかである (景勝は兄と家督を争っているが)。新羅三郎義光公以来の名家佐竹家を絶やさないためには、三成にも義理を通し、家康にも荷担しない。すなわち中立でいることがいい。減封こそあるものの、取りつぶしは無いであろうとふんでいた。佐竹氏はそれこそ源氏の嫡流で、甲斐武田家より筋はいい。新田源氏を称している怪しい徳川家なんか言うに及ばない。

 そこで義宣は一案を思いつく。積極的に三成を応援出来ないのなら、佐竹と言う名前を出さず戦えばよい。すなわち、この頃ちまたにあふれている浪人を利用すればよい。彼が考えた作戦は、当家の家臣を浪人させて三成に付くであろう上杉家に仕えさせる。上杉家は昨年越後より会津 120 万石に加増移封されたばかりで浪人を召し抱えるという口実は付くはず。当家を立ち退いた理由はなんとでもなると。そこで白羽の矢がたったのは、戦上手で知られる車丹波守善七であった。車丹波守善七は代々佐竹家の家臣で戦上手だった。火車を描いた旗指物で有名であり、火車とは地獄へ亡者を運ぶための車であると言われていた。その車と名字の車を掛け合わせたのだ。

 善七は上杉家に、前田慶次岡左内、上泉主水、山上同及、斎道二らとほぼ同時期に上杉家に召し抱えられることになり、佐竹も面目が立った。この策略を知っているものは、石田三成、上杉景勝、直江兼続と義宣のみでる。
 さて時は移り関ヶ原!佐竹氏は家康に脅威を与えつつもついに出陣することはなかった。関東に間者を放ち、
「佐竹が上杉協合して家康の背後を付く!」ということをしただけである。これだけで家康は佐竹に脅威を感じ、結城秀康ら二万の軍勢を宇都宮にとどめ、江戸城にも兵を留めなければならなかった。

 まだまだつづく  前に戻る