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| 早川幸豊 (三左衛門) | 信玄、勝頼に仕えた。勘介流(甲州流)の築城法を山県昌景より伝授された。天正十年(1582)家康に仕えて、井伊直政付きになった。その後、井伊家の家老となり、甲州流によって彦根城を築いた。関ヶ原の時、井伊隊は島津隊を追撃する必要はなかった。休憩中であった直政は隣にいた松倉重政に「我が隊の前を通っていく黒武者の一団は?」と問われたとき、「さて、分かり申さず」と答えた。もう一人隣にいた早川に「いかが?」と聞いたところ、「敵にござる!」と言ってしまった。この返答が直政が負傷する原因になってしまった。後で松倉に叱られたと言う話が残っている。この場合、勝者はあえて敗者を追う必要がなかったのである。のちに早川家 (150 石) は世継ぎが無く、幸豊の代で断絶。山県隊で幕末まで存続した家は 20 家程度である。 |
| 飯田某、西巻監物 | 永禄五年の武州松山城の攻撃では特に働いた。 |
| 古畑伯耆守 | 永禄五年の武州松山城の攻撃では特に目立った。 |
| ふたつぎ弥右衛門、猪子才蔵 | 尾張浪人で初めは板垣衆。同じく松山陣では槍下の功名をして剛の者ぶりを発揮した。 |
| 三科肥前守形幸 (伝右衛門) | 本の采配。右の松山陣でも働き、長篠では負傷。後に足軽大将に昇進。後に井伊家に仕え甲州侍の代表格。武田家の山県衆としてその名を知られる。広瀬美濃とともに家康にもその名を知られ、広瀬美濃、三科肥前の旗指物は敵にも知れ渡っているものであると評価される。武田家滅亡後、徳川家に仕え井伊直政付きになる。直政の一騎駆けをよくいさめ、甲州武士数人と換言書を提出したりしている。 石川数正が徳川家を出奔し、徳川家の戦略が筒抜けになることを恐れた家康は、直政に広瀬や三科より山県昌景の兵法戦術を学ばせたという。三科の甲冑 |
| 小菅五郎兵衛忠元(-1582) | 本の采配。昌景の従兄。長篠の合戦後、昌景の子、源四郎昌満の陣代を勤める。元亀二年、昌景とともに三河に入り、山県衆が家康方の酒井左衛門尉衆とせりあったとき、槍下の功名をし、のち足軽大将に昇進した。天正十年、小山田信茂に組みして、勝頼に背いた疑いから織田信忠に嫌われ殺された。 |
| 孕石源右衛門泰時 (-1615) | 後に備前守と改称する。駿河出身。永禄十三年 (1570) 駿河花沢城の合戦で一番槍、元亀二年 (1571) 三州吉田城攻めでも勇名を馳せる。泰時は梅毒を患い、歩行困難になっていたが、三方が原の合戦では家人に背負われて戦場に出て、這い出して行き一番槍を遂げた。このときの証人は昌景であった。信玄が "秘蔵の家人" として山県景に付けた。武田家滅亡後、井伊直政に仕えて千五百石。旗奉行。彦根城築城にも功有り。しかし大坂の陣で討ち死。井伊家における有数の軍法家であった。嫡家はその後二代続いて断絶。傍流が維新まで続く。彦根蓮華寺に墓有り。 |
| 広瀬郷左衛門 (生没不詳) |
甲斐石和広瀬の郷士。本の采配。初め板垣衆。天文十二年、信玄が佐久郡の尾台城を攻撃した際、城主の金の馬鎧をかけた馬を奪ってみせると豪語し、城に乗り込んでその言葉通りに奪って見せた。 元亀二年(1571)、信玄が家康を吉田城に追いつめたとき、郷左衛門は城門まで追って徳川方の剛の者を討ち取った。楼門の上から家康に名を問われて、「山県同心、広瀬郷左衛門でござる」と答えた。敵将に名を問われるとはかなりの名誉のことである。家康もそれを覚えていて、甲州入りをすると、直ちに郷左衛門を探し出して仕えさせた。「久しぶりだ、郷左衛門、武田への忠誠は尽くしすぎるほど尽くしたであろう。今度はわしに仕えてくれぬか」と誘った。このころは自分の力量を買ってくれる君主に仕えるのが当然とされていた時代であったのでためらうことなく家康に仕えることになった。井伊直政付きになり早川幸豊ら甲州武士とともに赤備えを作り、彦根城築城にも功があった。井伊家での逸話は、こちら。 |
| 曲淵正左衛門吉景 (1518-94) | 小左衛門、勝左衛門ともかく。信濃境の曲淵村の生まれ。もと板垣信方の草履取りで鳥若といい、出世して板垣同心となり、のち山県隊に入り百貫。面白いエピソードの持ち主!息子は江戸初代甲州勤番 227 石 (1596-1615)。北巨摩郡白州町に屋敷跡があり、清泰寺にお墓がある。 |
| ○ そのほか、ふたつき源三郎、三井某、渡部三左衛門 | |
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| 川手文左衛門良則 |
主水ともいう。三州武節及び河手両城の主、河手主水助景隆の嫡子で、初め武節、また設楽氏を唱え、又四郎と称した。武田家に帰順後は山県隊に属し、たびたび軍功を上げ、信玄から「若手ながら覚えの者」と賞された。永禄五年 (1562) 武州松山城主攻めで槍下の功名。元亀元年 (1570) 七月二十六日駿河国板妻において笠原能登守、芳賀伯耆守等と一戦の時、良則は長坂甚内左衛門とただ二騎で敵中に突っ込み、良き首を取って信玄に奉った。信玄はその功を賞し左門字の刀を与えた。 甲州崩れ後は、井伊家に仕え筆頭家老にまで成った (4000 石)。河手家は、養子の良行が大坂の陣で戦死。その後息子の代で断絶するが、良則の妻が井伊直政の姉と言うこともあり、再興されたがあまり栄えていない。 |
| 北地五郎左衛門 | 伊勢浪人。非常によく働いた。面白い逸話が伝わっている。 |
| 和田加助 | 元亀二年の吉田城攻めに功名があった。 |
| 石黒将監 | 武田家滅亡後井伊直政に仕え、侍大将。長久手の合戦で功があったが、その後の子孫については不明。 |
| 今福求馬介 | 天正十年家康に仕える。 |
| 長坂宮内左衛門 | 松山城攻めで功名。 |
| 川原伝兵衛 | 元亀元年伊豆韮山攻めの際、信玄自ら軍功をたたえた。エピソードがある。 |
| 志村宮内丞光家 (又右衛門) | 天正三年の長篠合戦で、戦死した主人山県昌景の首を甲州に持ち帰ったという。長篠合戦図屏風などにその姿をとどめる。 |
| 辻弥兵衛盛昌 (-1612) |
信州割ヶ嶽攻略の際、討ち死にした辻六郎兵衛の長男、母は小幡山城の娘。またこの年の九月十日の川中島で良い武者を討ち取った。 元亀三年の三方が原の合戦では、山県隊の二番槍をモノにした。長篠の役後は、軽大将。天目山では勝頼に背いたことになっているが、この甲陽軍艦の記載は間違っていると言われている。武田家滅亡後、四十騎の部下を引き連れて家康に出仕。慶長十七年七十五歳で没した。 |
| 鳶二位 鳶大弐の弟 | もと根来法師。永禄二年の秋の三増峠の合戦のおり、旗からの検使、武藤喜兵衛が馬場美濃の備えで一番槍をしたので、二番槍は嫌だとして槍をすて、刀を抜いて敵武者八人を倒した。臑を払い、あるいは首をたたいてその働きは抜群のものであった。 |
| 越石主水 | 詳細不明。井伊年譜に名前が見え、井伊家に仕えたことは確かである。慶長七年の分限帳に、100 石、輿石三右衛門、お供衆に 150 石、輿石瀬兵衛の名が見られる。 |
| ○ こち某 (古地、小知)、尾崎某、久保勘左衛門、小崎三四郎、ひげなし外記 (異名で本名は滝三郎左衛門) | |
| 長坂十左衛門 |
土屋衆とも言われるが、山県衆かと思われる。元亀二年 (1571) 三州吉田の城攻めで功を上げる。金の制札の指物で名高い豪の者。慶長七年の井伊家分限帳では、三百七十石の知行をとどめるのみで、他に確とした事跡は見あたらない。このような時代、武辺者によくある独身主義で、死後子もなく名跡を立てる縁者もいなかったようである。その金の指物には信玄公以来の「其徐如林、不動如山」という信玄の好んだ孫子の語句に「天下無双長坂十左衛門」と記してあったという。 関ヶ原では、甲州武士の小幡孫次郎が井伊家に仕えていたと言うこともあり、弟の勘兵衛景憲も陣借りしていた。十左衛門と勘兵衛は、お互い首証人に成ったとの話もある。 |
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